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昔、桃井直常という暴れん坊がいた。

 どうもね、最近は、Googleマップが唯一の愉しみみたいな感じになっていて……。

 わが家からそう遠くない富山市布市にかつて布市城という城があったそうな。築いたのは桃井直常で……と言っても、ご存知の方はどれほどもいないでしょう。しかし、これがとんでもない暴れん坊で、越中守護でありながら何かといっては京に上って大暴れした。正平5年/観応元年(1350年)、いわゆる「観応の擾乱」が勃発すると桃井直常は2万余の兵を率いて足利直義の応援に駆け付け、翌年正月、打出浜の戦いで足利尊氏・高師直らを京から追い払った。また正平10年/文和4年(1355年)にも越中や越後の南朝勢力をまとめて京に上り、一時は洛中を占拠した。もっとも、すぐに足利義詮に追われ、越中守護の座も奪われたらしいのだけれど、正平17年/貞治元年(1361年)、信濃から越中に攻め込んで、今度は越中で大暴れ。この間、上野国でも戦っているし、駿河国でも戦っている。とにかく、あっちでも戦争、こっちでも戦争。よほど血の気が多かったんだろうなあ。でも、その結果、領地を広げられたかといえば、そうでもない。結局、越中守護止りだったわけだから、コスパはよくない。ただ、大暴れしただけあって、名前は残った。明暦2年刊行と伝わる『本朝百將傳』には日本武尊、坂上田村麻呂、平清盛、源頼朝、足利尊氏、楠木正成、織田信長、豊臣秀吉……という日本史上のスーパースターたちに伍して名を連ねている。いやー、スゴイ! たかが越中守護ごときでねえ……。

 で、そんな桃井直常が築いたとされるのが布市城なんだけれど、今はなーんにも残っていない。つーか、どこにあったのかさえもわかっていない。Googleマップには「布市城跡」というスポットも登録されていますが(ちなみに、登録したのはワタシではありません。前の2本の記事からの流れだとそういうことになりそうなんだけれど、このスポットに関しては既に登録してあった)、多分、ここじゃないと思うな。布市には興国寺という寺もあって(こちらは今でも残っている)、富山市が平成元年に設置した案内板によれば「当山は臨済宗国泰寺派で太平山と号し、戦国時代の武将桃井直常が興国六年(一三四五年)に創建し菩提寺とした禅宗道場で」云々。要するに、この寺も桃井直常が建てたということになるわけだけれど、一般的に城の近くに寺を配置する場合、鬼門とされる北東の方角。でも「布市城跡」としてマークされている場所からだと興国寺の位置は真南になる(ちなみに、Googleマップには「布市陣屋跡」というスポットも登録されていますが、こちらからだと北西になる)。しかも、布市に城が築かれたのは舟倉往来の通行を監視するのが目的だったと考えるなら(こちらは江戸時代末期の作とされる「御領分新川郡神通川ヨリ東ノ分村絵図」。村を南北に貫いて通っているのが舟倉往来。この舟倉往来が現在の県道65号線に当たる)、往来沿いにあったと見なすのが適当で、県道65号線に面してかつ興国寺が北東になるような場所に見当をつけるべきでしょう。



 でね、こんなことをあーでもない、こーでもないとやっていると、ふいに昔見た映画のナレーションが甦ってきて。それは、深作欣二の1977年の作品『北陸代理戦争』の最後で流れるこんなナレーションなんだけれど――

俗に北陸三県の気質を称して越中強盗、加賀乞食、越前詐欺師と言うが、この三者に共通しているのは、生きるためにはなりふり構わず、手段を選ばぬ北陸人特有のしぶとさである。

 このクリシェ、一体、いつ頃から言われているものかは不明ですが、なるほどなあ、と思う部分と、え、そう? と思う部分があって。なるほどなあ、と思うのは「加賀乞食」。実はかつて俗に「白山乞食」とも「牛首ホイト」とも呼ばれた流浪の民が実在した。ここは宮本常一の『山に生きる人びと』(河出文庫)より引くならば――「この山麓・山間の村々は焼畑をとくに盛んにおこなったことはさきにも書いたが、それだけでは生活がたたず、食料が不足してくると焼畑づくりの農民たちは親方の住む牛首の部落に出て物乞いをした。そうした人が道にあふれていたという。夕暮れのひとときなど、物乞う人の声で村は騒然としたほどであった。だが親方の方にも施す限界があるから、やがて仲間は谷を下って平野地方で出ていく。雪の来るころを橋の下や民家の軒下を宿としつつ時には近江・京都あたりまでもさまよい歩いて食うものをもとめた。野の人びとは白山乞食とか牛首ボイトとかいったものであった」。また五木寛之の小説『金沢望郷歌』(文春文庫)には「垢川破衣徒(あかがわほいと)」という流浪の民の話が出てきますが、これは「牛首ホイト」をアレンジしたもの。多分、牛首という実在の村の名前は使いにくかったんでしょう。その様態もいささか実態からかけ離れたもので、かつて白山の山中に垢川という三十戸ほどの小さな集落があり、冬になるとどこからともなく大量の乞食が集まってきて「あかたも一つの独立国家のような自治体が出現した」――といかにも五木寛之らしいロマンに飾り立てられていますが、実態はそれとはかけ離れたものだっと思われる。実際、こんなことも伝えられているわけだから――「この白峰は深雪と高冷から人口支持力低く、冬期は出かせぎに多く出るのでかつて「牛首乞食」といわれたこともあった。近親結婚の多かったところである」(『日本大観 第12号 富山・石川・福井』より)。最後の一言が、ちょっとゾクゾクとするというか……。ともあれ、「加賀乞食」については、十分に納得できる。で、この「加賀乞食」ほどではないけれど、「越前詐欺師」についても、ある程度は納得。というのも、越前は京都との関係が深い分だけどうしたって「いけず」にならざるを得ない地政学的な条件がある。ぼやぼやしていたら京都人に付け入れられるだけ。で、京都人と渡り合っている内に遂には京都人顔負けのタフさを身につけるに至った……。ちなみに、「鯖を読む」という慣用句がありますが、これも「越前詐欺師」というイメージの構築に一役買っているのでは? 「鯖を読む」の語源は諸説あって1つに特定できないようですが、ウィキペディアには鯖街道に由来する説が2つばかり紹介されています。越前商人が京都人とのつきあいの中でそういう含みのある商慣行を身につけるに至った、というのは大いにあり得る可能性かな、と。

 で、この2つに対して「越中強盗」なんだけれど、これがピンと来なくてねえ。だって、ワタシなんかのイメージだと、越中人は「勤勉」「実直」「地味」。とても「越中強盗」という感じではないんですよ。だから、どうなんだろうなあ、という気がしていたんだけれど……もしかしたら、桃井直常なのかなあ、と。桃井直常は今でこそさほど有名ではありませんが、『本朝百將傳』には載っているわけだから当時は有名だったんでしょう。で、桃井直常が越中守護だったことから、越中人は暴れん坊である、という印象を当時の人が持つに至ったとしても不思議ではない。そこから「越中強盗」というイメージができあがった……のかなあ、と。だとしたら、ここにはちょっとしたボタンの掛け違いみたいなものがあったと言わざるを得ず。実は桃井直常は越中の人ではないんですよ。生まれは上野国で、群馬郡桃井郷を発祥の地とする。興国5年/康永3年(1344年)、延元の乱の論功行賞で越中守護に補任され、以後、越中を活動の拠点とすることになるわけだけれど、ワレワレ地元民からすれば〝旅の人〟に過ぎない。それでいて「越中強盗」のロールモデルとなったとすれば、ありがたいやら迷惑やら……。

 と、こんなことも考えつつ、Googleマップの中をあっちへふらふらこっちへふらふら……。



追記 面白いもので、この記事を書いて以降、桃井直常への思いがグングン膨らんできている。所詮、ワレワレ越中人からすれば〝旅の人〟に過ぎないはずなのに。でも、桃井直常がなんであんなに大暴れできたかといえば、越中の国衆が彼を支えたからですよ。正平5年/観応元年(1350年)、いわゆる「観応の擾乱」が勃発すると桃井直常は2万余の兵を率いて足利直義の応援に駆け付けた、というのは本文にも書きましたが、その兵のほとんどは越中の国衆でしょう。越中の国衆が、守護の号令一下、万単位で動いた、ということであって、どんだけ桃井直常という〝知事〟が県民に支持されていたか、ということの端的な証左と言っていい。多分、出直し知事選となったら、間違いなく彼は再選されるでしょう(えーと、何の話をしているんだ?)。それほど桃井直常は越中人のハートに食い込んでいた。いや、彼自身がもうほとんど越中人だったのかも知れない。ウィキペディアの記事を読んでもらえばわかるように、桃井直常の最期についてはハッキリとしたことはわかっていない。建徳2年/応安4年(1371年)7月、飛騨国から越中に攻め入るも京から鎮圧に赴いた斯波義将(桃井直常の後任の越中守護に当たる)に敗れ、最後は五位荘で能登守護・吉見氏頼と一戦を交えて――それきり歴史から姿を消した。ウィキペディアには「五位荘(富山県高岡市)の戦いで敗北し、同年8月に同じく南朝方の飛騨国司姉小路尹綱を頼りに飛騨国へ撤兵、以後消息不明となった」とありますが、典拠が示されておらず、本当に飛騨国への撤兵を図ったのかどうかは判然としない。ただ、それもありうるかなと。そして、その途中で彼は腹を切ったのでは? その可能性を強く示唆するのが↓の「伝越中守護桃井直常墓」とされる五輪塔。あるのは富山市牧野の田んぼの中。その場所をGoogleマップで示すとこんな感じなんだけれど、なんでこんなところに? と思わざるを得ない。その一方で、ああ、なるほど、とも。というのは、地図の真ん中を斜めに横切る荒屋敷月岡町線(県道187号線)をずーっと辿って行くとあの楡原(何が「あの」かはこちらを読んでいただければ。今となっては、最も思い入れのある記事となりました。偶然にも桃井直常の弟・直信の名前が最初に出てきますが、よもやこういうかたちでつながるとは……)に出るのだ。そして、楡原で飛騨街道に合流している。要するに、この道をずーっと行くと飛騨に出るのだ。そう、桃井直常が撤兵を図ったとされる、飛騨。その道すがらに桃井直常の墓(とされるもの)がある、ということであって――きっと彼はここで腹を切ったのだ、最早此迄、と。飛騨国ではなく、越中国のここで。それほどまでに彼は越中人になりきっていた……。


伝越中守護桃井直常墓

付記 もしくは少し長めのキャプション ↑の写真だと五輪塔は1基のように見えますが、実は6基ある。ただし、2基は既に崩壊して、今や形を留めているのは4基だけ。周囲の田んぼも減反政策の影響か、稲刈りシーズンだというのに青々と草が生い茂っている。急速に劣化が進んでいる。もしかしたら、もう間に合わないのかも知れない……。(2024年9月26日撮影)



追々記 Googleマップに新たな場所が「布市城跡」として登録されました。従来の場所からは県道43号線を挟んだ真東方向で、田んぼの中にいくつかお墓が固まってあるあたりだそうです。最寄りの富山南高校の卒業生が高校当時に法務局の古地図、常福寺、興国寺の関係者へのヒアリングから特定したそうなので有力でしょう。ここだと興国寺は裏鬼門の方向になるんですね。なるほど。

 もっとも、この布市一帯はかつて暴れ川として知られた常願寺川からもごく近い。これは本文に埋め込んだGoogleマップをズームアウトしてもらえば一目瞭然のはずで、当然のことながら、ひとたび常願寺川が氾濫しようものなら布市村あたりだってひとたまりもなかっただろう。だから、本来、城を築くような立地条件ではなかったはずなんですよ。それでも城を築いた――というのは、やはり、本文でも記したように、舟倉往来の監視という具体的な目的があったからだと思うんだ。でね、布市からも遠くない富山市太田には「太田本郷城跡」があるんだけれど、こちらは城域がほぼ旧立山街道(現・県道174号線)に面するような立地となっている。その点で今回の比定地はやや疑問なしとはしない……ところではあるんだけれど、まあ、興国寺も引っくるめて城域と捉えるならばほぼほぼ舟倉往来に面しているとは言えるのかな。ここはそういうことにしておこう(笑)。でね、そのかつての舟倉往来であるところの県道65号線から興国寺に向う細道――おそらくはかつての参道――の入口に大小2基の石碑が置かれている。石碑だけに、当然、碑銘が刻まれているわけだけれど、大きい方は簡単に読める。それは「釋迦牟尼佛」。しかし、小さい方は……これがどうにも読みとれなくって。「桃井播磨守直常公□跡」――までは読めるんだけれど、残る1文字がどうしても読みとれない。実は、ちょうど字の真ん中が欠けているんだよ。ただ、だとしたって、前後の関係から推測できるだろう……と自分でも思うんだけれど、なかなか。いちばん可能性があるのは「桃井播磨守直常公旧跡」だと思いますが、いつ頃に置かれた石碑かは別にしても相当に古いものには違いないので、だったら旧字体の「舊」が使われているはずで……見えんよなあ、「舊」には。じゃあ、他になんと読めるかというと……。文字の輪郭的には「田」がいちばん近いようにも思う。ただ、「桃井播磨守直常公田跡」? それで意味が通ずる? まあ、これはどこで切るかで、「桃井播磨守直常・公田跡」と見なした場合、意味としては通じないことはないか。ただ、桃井播磨守直常は呼び捨てかよ、ということになって……結局、判断がつかず。ここはね、「桃井播磨守直常公□跡」はこう読め、という御託宣を賜りたいところで……。