それにしても、いろんなことが思い出されるなあ……。
昔、石金商店街に山崎文房具店というのがあって、文房具屋ではあるんだけれど、プラモなんかも売っていて、まだ小学校に上がる前だったと思うけれど、一人で買いに行ったことがある。長江から石金まで一人で行くってのは結構な冒険だったはずで、だから記憶に残っているんだろう。この際、石金の交叉点を渡ったわけだけれど、まだ小学校に上がる前だったおれは信号が何色なら渡っていいのかがわからなかった。で、とまどっていると、車が停まってくれた。信号を見ると、赤だった。で、赤なら渡っていいんだと思って渡ったんだが……家に帰って、この話をして、「赤なら渡っていいがだよね?」と母に確かめた。そのとき、母が見せた驚きの表情を今も覚えている。最初の子を交通事故で亡くしている母だ。危うく3番目の子も交通事故で亡くすところだった……、そんな血の気の引く思いだったんだろう。古人曰く「七つ前は神の内」。子どもが無事に成長する保証なんてなにもない。あのとき、おれはたまたま神に手招きされなかっただけで、敏夫の二の舞いになっていたとしてもなんの不思議もない。敏夫が神に手招きされたのがたまたまなら、おれがされなかったのもたまたま……。
さて、「小さな町みつけた①」ではあえて書かなかったんだけれど、おれが言う「長江・不二越・石金界隈」で圧倒的存在感を誇るのは何と言っても不二越ですよ。工作機械メーカーの不二越。ここで例の「富山市詳図」を見て欲しいんだけれど、直接、工場の敷地になっているところだけではなく、不二越第2アパートや不二越工業高校も不二越の関連施設だし、その周辺に広がる不二越町は一丁目から十二丁目まですべて不二越の社宅が建ち並んでいた。実は、わが一家もかつては不二越町で暮していて、最初は五丁目。その後、十二丁目に引っ越して、おれが生まれた年に長江に一戸建てを建てた。このとき、父は33歳で……33歳で一戸建てを建てられるなんて、高度成長期の麗しい話ですよ。ともあれ、不二越の社宅街があって、それが一丁目から十二丁目まであったってんだから、それだけでもどんだけなんだと(なお、現在は一丁目から四丁目までは中市、五丁目は東石金町、六丁目から八丁目までは秋吉新町、九丁目は西長江本町に編入され、十丁目から十二丁目までが不二越町として存続している。全くケッタイな話で、町としての成り立ちを消し去りたいのかね、行政は。確かに今は不二越の社宅ではないわけだから不二越町という町名にこだわる必要はない、とは言えるわけだけど、だったならなんで十丁目から十二丁目までは不二越町として残したのか? 恣意的な町名変更は歴史の軽視と言わざるを得んでしょう)。また、山崎文房具店があった石金商店街(も今は存続していない。「石金商店街振興組合」でググっても何も出てこない。かつては松井米穀店というのがあって、ここの店主が組合長を務めていたはずなんだけれど、その松井米穀店が既に営業していない……)には、かつて不二越百貨店があった。『山室郷土史』より引くなら――
駅前には一般に闇市と呼ばれていた自由市場ができて、魚や缶詰などの食料品や日用雑貨類が見事に並べられ、配給制の窮屈な市民生活を助けていた。家に気の張る客があるとこの闇市で新鮮な魚などを買ってきてもてなしたものである。またこれらの店の裏手を入るとカストリ屋と呼ばれた一杯飲屋があって、勤め帰りの人達の息抜きの場所でもあった。このころの市内は、まだ焼跡の整理すら手がかけられておらず一面の焼野原のままで、実に荒涼とした有様であった。市内から不二越方向に来て山室駅辺まで来ると何となくホッとしたものである。清水元町辺りから五百石通り沿いは石金にかけて空襲を免れ、そのうちに細々とながらも商店が店を開き始めた。そして戦後初めての商店街として発展し出した。その中心をなしたのは石金交差点の北西側にできた不二越百貨店だったと思われる。昭和二十一年ころにできたこの百貨店には、衣料品や日用品、学用品の外、不二越の農場で獲れた野菜類やさつまいもの苗なども販売し、広く市民にも利用されていた。店内は飾りつけもし、色とりどりの商品が並んでいて、華やいだ雰囲気に浸ったものである。――中川秀雄「戦後の不二越界隈」
この百貨店、『不二越五十年史』に掲載されている「終戦時における本社・富山工場配置図」には「百貨部」と記載されていて、どうやら不二越の社員向けの購買部のようなものだったらしい。それが、戦後、一般市民に開放されたということだろう。そう考えるならば、かつての不二越の購買部が発展して石金商店街になったとも言えるわけで、このエリアにおける不二越の存在感はいよいよ重みを増してくる(実は、西長江にある県立中央病院もかつては不二越病院だった。それが県に移管されたのは昭和26年。こんなことを考えるなら、なおさらね)。
で、そんな不二越の〝企業城下町〟で育ったおれは不二越に対して愛着人一倍かといえば……そうでもない。むしろ、かなり複雑な感情を抱いていて……ここで、もう一度、「富山市詳図」を見て欲しい。地図の右側、セピア色の部分を不二越鋼材富山工場を斜めに横切るような形で流れている広田用水。正確には広田用水補給水路(富山市広田地区を流れている広田用水に水を補給するための水路)であることは「小さな町みつけた①」にも書きましたが、この広田用水補給水路がもう汚くて汚くて。水面には油が浮いてるし、水底にはヘドロが溜まったみたいになってるし。おれが言う「長江・不二越・石金界隈」には他にも柳川とか宮路川とか、川という名の用水が何本も流れているのだけれど、いずれも魚採りができるようなきれいな用水。初夏には蛍だって飛んでいた。しかし、広田用水補給水路だけは違った。あれは、ハッキリ言ってドブ川だよ。これは、単なるおれの主観ではなく、市の行った水質調査によっても実証されている。昭和46年、富山市は東京農業大学の石丸圀雄教授に委嘱して広田用水補給水路の水質調査を行っている。以下、『富山市史』第5巻より紹介すると――
農業用水汚染による人体、食生活への影響など、公害防止のため、市は東京農業大学石丸教授に広田用水・同補給水路・広沢・奥田・針原用排水路の調査を依頼していたが、二日その結果がまとまった。それによると、広田用水補給水路は水中酸素が欠乏、高濃度の微生物を増殖させ、これがごみと一緒に水底に沈殿、メタンガス・硫化水素など有毒ガス発生の原因になっている。
奥田用水系下流部分は、合成洗剤残留成分などで汚染がひどく、農業に利用したら被害が出るという。
市農林部は九日、石丸教授を招き、水利体系の立直しなどについて指導を受けた。その中で「調査全地点で、水中窒素分が農林省基準をオーバー、汚濁がひどすぎる。特に汚濁度が極端な広田用水補給水路、奥田・広沢用水は将来下水路とする一方、新水利体系をたてねばならない」と警告した。
これが昭和46年だから、おれが中学校に入学した年。しかし、広田用水補給水路のドブ川化はもっと前から始っていて、あんま(本家の長男)の話だと昔は川遊びも出来たそうだが、その話を聞いた時点で(おれが頻繁に本家に遊びに行っていた頃だから、まだ小学校の低学年かな)とても川遊びができる水質ではなかった。で、一体誰が広田用水補給水路を汚したんだ? ということになるわけど……これ、考えるまでもないだろう、広田用水補給水路は不二越鋼材富山工場の構内を通っているわけだから。その不二越は工作機械メーカーであり、金属加工には加工液として油剤を大量に使用する。従って、その廃液処理が必要となる。もちろん、川や用水に流すなんてもってのほかで、専門的な処理が必要になるのだが……それは、今の話。まだ「公害」なんて概念もなかった時代には普通に川や用水に流していた。だから、水俣病やイタイイタイ病といった「公害病」が発生したのだ。そして、広沢用水補給水路になんであんなに油が浮いていたかといえば、不二越鋼材富山工場から出た工場廃水のため――と考えるしかないだろう。
で、そもそもなんで工作機械メーカーの工場がこんなところ(内陸部の水田地帯)にあるのか? ということについて、おれには疑問がある。これについては『不二越五十年史』を読んでも得心の行く説明がなされていない。とりあえず『不二越五十年史』が記すところを引くなら――「昭和2年、富山電気との合併も目途がつき自由の身となった井村は、自宅に近い富山市郊外の山室にささやかな試作工場を設け、人も2〜3名雇った」。調べたところ、井村荒喜が住んでいたのは清水町。だから、確かに「自宅に近い」。しかし、ただそれっぱかりの理由で大事な大事な工場の立地場所を決めるだろうか? やはり井村荒喜なりにそこ(石金二十番地)が工作機械メーカーの立地場所としてふさわしいと考えたからこそ決めたに違いない。では、井村荒喜がそう考えた理由は? 一つには富山地方鉄道立山線と主要地方道富山立山線が交差する「交通の要衝」ということがあっただろう。しかし、もう一つの、そして決定的な理由となったのは、すぐ近くを広田用水補給水路が流れていること――だったのでは? 要するに、井村荒喜は最初から広田用水補給水路に目を着けており、そこに工場廃水を流すつもりだった……。
おれの父は不二越で働いていた。暮していたのも、おれが生まれる前のことではあるけれど、不二越の社宅。不二越の社内運動会に家族全員で参加しておれが借り物競争の借り物として駆り出されてどこかの知らないオジサンと一緒に走ったり、不二越の創立ウン十周年を記念して富山市公会堂で開催された歌謡ショーで生まれて初めて芸能人(確か、メインはいしだあゆみで、他にジャッキー吉川とブルーコメッツとかナンセンストリオとか。例の「旗揚げコント」もハッキリと覚えている)というものを目の当たりにしていわゆる「スターのオーラ」をまざまざと感じたり――と、思い出も多い。そもそも「長江・不二越・石金界隈」というのは、毎日、夕方の4時半には不二越の終業サイレンが鳴り響く、そんな環境なんだ。そんな環境で暮しつつ、おれは不二越を憎んでいた。広田用水補給水路を――延いては、長江の美しい田園風景――たとえば、東長江村で生まれた田部重治は「生い立ちの記」でこんなふうに書いている――「三月の半ばごろから雪がとけて若菜がたべられるようになり、さらにすすんで菜の花が咲き、一面の水田がれんげに彩られて、それがはてしなくつづいているのを見ると、私はひばりの声をききながら、また、はるかの白い山を眺めながら、田圃道をひとりでさまようようになった」――を工場廃水で汚す忌まわしい存在として、憎んでいた。
ただ、そもそもおれが生まれ育った環境には浄水場があった。変電所もあった(これは、今もある。北陸電力送配電の東富山変電所)。さらに、日本海ガスの巨大なガスタンク(ガス供給ホルダー)もあった(場所は、今、山室地区センターがあるあたり)。「長江・不二越・石金界隈」というのは、そんな環境だったのだ。だから、ワンダーランドだった。これが、一面に田圃が広がる、当時の秋吉や経堂あたりのような環境だったらとてもワンダーランドという気分にはならなかっただろう。
「長江・不二越・石金界隈」は、広田用水補給水路を――長江の美しい田園風景を汚すヴィランがいたからこそ、おれの少年時代のワンダーランドになりえたのだ、と……。