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大日橋を渡る

 わが家から常願寺川までは、直線距離にすると3キロそこそこ。だから、大した距離ではない。しかし、子どもの足にとっては3キロはなかなかの距離で、よほどの冒険心に駆られたときじゃないと足を延ばすということはなかった。ましてや、常願寺川の向う側となるともうほとんど異界で、結局、小学生の間に大日橋を渡ったことはなかったんじゃないかなあ。まあ、少年時代のおれには「大日橋を渡る」勇気はなかったということだね。そういうこともあってか、「橋を渡る」ということに過剰に意味を見出しがちのところがあって、後年書いた映画のシナリオでも(誤解のないように書き添えておくなら、シナリオ作家協会主催の新人コンクールに何度か応募したことがあるというだけで、このシナリオはその一つ)橋のたもとで待ち合わせしながらいつまで経っても待ち人が現れないので出発できない(橋を渡れない)、という結末にしたことがある。待ち人が現れないのは家を出て行こうとする息子を母が止めるからだが(確か、殺したんだったかなあ、母が息子を。『青春の殺人者』の逆)、そのためいつまで経っても出発できない、という結末の話にあえて『出発』というタイトルを付けた。反語というやつですが、反語という語法を以て語るしかないアイロニカルな主題こそは「青春」である、という直観から来る確信がその根底にあった……と書けば、いささか当時の自分を過大評価しすぎか。

 さて、明治42年発行の『富山県写真帖』に大日橋がまだ私設の賃取橋だった頃の貴重な写真が載っている。いかにも弱々しい感じで、ちょっと大雨が降ればすぐに押し流されてしまいそうな。同じページに掲載されている常盤橋がかなりしっかりとした造りであるのとは対照的。


大日橋&常盤橋

 しかし、その弱々しい印象とは裏腹にこの橋は非常に力強い名前を持っている。それが大日橋。ただし、最初からそう呼ばれていたわけではなく、『富山県法規類聚』第1編に収録の「陸軍召集条例細務規定」によれば、この橋はかつては日置渡と呼ばれていたことがわかる。ちなみに、なぜ「陸軍召集条例細務規定」に日置渡が載っているかといえば、橋とはかつては(今も?)軍事上の「要地」で、同条例第29条で「条例第二十八條第三項ノ要地ハ左ノ如シ」として日置渡が他の橋とともに列挙されているという次第。で、この「陸軍召集条例細務規定」が発布されたのは明治21年11月5日ですが、これが同23年2月28日に改正された。どのように改正されたかというと――「日置渡ヲ大日橋ト改ム」。その理由は記されていないものの、これが陸軍主導の改正(改称)であったことを考えるなら、日置渡改め大日橋の軍事上の重要性をより重く見た結果では? 確かに大日橋は富山市と五百石町を結ぶ五百石街道(現・富山県道3号富山立山魚津線)の進路上にある。富山平野を東進するにしろ西進するにしろ、必ず渡らなければならない橋。その軍事上の重要性は明らかだった。

 ただ、なぜ陸軍は軍事上の重要性をより重く見た結果としてその橋に大日橋という名前を与えたのか? 大日橋。確かに、非常に力強い名前ではある。しかし、スピリチュアルでもある。その由って来たるユエンが大日如来であるのは明らかなので。しかも、奇妙なのは、大日本帝国陸軍というのは、天皇の軍隊であり、その天皇は天照大神の子孫とされていた。で、天照大神というのは一種の太陽神ですが、仏教でも太陽を根本仏として崇めており、それが大日如来ということになる。だから、天皇の軍隊である陸軍が軍事上の重要性をより重く見た結果として新たな名前を与えるとなったとき、大日如来に由来する大日橋という名前を選んだというのはちょっと奇妙な感じもしないではない。ただ、立山連峰には大日岳という山もあるしね。で、この大日岳というのは目立つんだよ。標高は2,501メートルしかないんだけど、富山平野から望んだ場合、遠近法の関係で実際よりも高く見える。しかも、見る位置によっては立山連峰の主峰である立山三山は大日岳の背後に隠れてしまう(常盤橋越しに写したこちらの写真が正にそう)。だから、これじゃあ立山連峰ではなく大日連峰じゃないか⁉ と(なお、大日連峰という連峰も存在する。立山連峰の主稜線上にある剱御前から西に分岐する山稜をそう呼ぶらしい。こちらは角川写真文庫版『立山・劒岳』に紹介されているその威容)。で、大日橋は、立地上、あたかもその大日連峰へのアプローチのようでもあり、そういう意味では「名は体を表している」んだよ。案外、陸軍もちゃんとその辺のことも踏まえた上で大日橋という名前を選んだのかも。そう言えば、陸軍には陸地測量部というのがあって、精密な測量に基づく日本地図を作成していた。あの柴崎芳太郎がその日本地図最後の空白地帯とされていた劒岳への登頂を果したのは明治39年のこと。もしかしたら陸軍てのは意外なくらいの山フェチだったのかも知れないなあ。大日橋という名前も、そういう彼らだったからこそ、なのかも知れない。まあ、全くの憶測だけどね。

 で、このところ暇つぶしがてらに構想を練っている「長江・不二越・石金界隈」をモチーフとする小説では、最後、主人公はバーテンダーの佐伯に手を引かれて大日橋を渡る、ということにしたいと思っているんだけれど、大日橋が大日如来に由来することに気がついて(今さらながら、そんなことに気がついた)、困ったなと。というのも、大日如来は仏教では根本仏とされているわけだけれど、とりわけ大日如来を重く見ているのが真言宗。何しろ、真言宗においては日本に真言宗を伝えた八祖(真言八祖)の第一を大日如来としている。現在は真言宗から独立した単立の寺院となっている大岩山日石寺も本尊としているのは大日如来の化身である不動明王。有り体に言えば大日如来というのは真言宗の本尊なのだ。これに対し、佐伯氏がその使徒を務めるところの立山信仰では立山三山を阿弥陀三尊に見立てていることからもわかるように阿弥陀如来を重く見ている(現在、雄山神社は伊邪那岐神を祭神としていますが、明治の神仏分離までは立山権現を祭神としており、その本地仏が阿弥陀如来とされていた)。要するに、両者は拝む仏様が異なるのだ。またこの両者には時系列をめぐるトリックもあって、立山縁起では立山開山を大宝元年(701年)としているのだけれど、これは作られたもので、実際に立山が開かれたのは9世紀中と考えられている(天台系の恵尋という僧が著した『師資相承次第』に滋賀県大津市園城寺町にある天台寺門宗の総本山・園城寺の四世・康済律師に関する記述として「越前国人、紀氏、越中立山建立」とあり、「越中立山建立」をどう読みとるかにもよるが、立山信仰に天台宗の影響が認められることからも康済律師が立山開山に何らかの形で関わっているのは間違いないだろう。とするなら、その時期は九世紀中ということになる、康済律師は昌泰2年(899年)に入滅したとされるので)。加えて立山縁起で立山を開いたとされている佐伯有頼(慈興上人)は佐伯有若の子とされているわけだけれど、佐伯有若が越中の国司を務めていたのは延喜年間(京都市山科区にある真言宗善通寺派の大本山・随心院が所蔵する文書の中に「越中守従五位下佐伯宿禰有若」と自署のある文書が存在し、延喜5年という年紀が記されている。西暦で言えば905年)。一方、大岩山日石寺は本尊である不動明王の摩崖仏が「神亀二年(七二五年)に奈良時代の高僧行基により一夜にして彫られた」としており、こちらも信憑性は?ではあるものの、8世紀中から修験道の行者が近在の山に入っていたことは間違いなく、柴崎芳太郎が劒岳に登頂した際、修験道の行者が手に持つ錫杖の頭が残されていたというのは有名な話。この錫杖の頭は学術的調査の結果として奈良時代末期から平安時代初期のものと鑑定されているそうだ。また大日岳の頂上でも同じように錫杖の頭が発見されており、こちらは平安時代初期のものと見られているという。いずれにしても、立山が開かれた9世紀よりも早いわけで……おれは『有合亭ストーリーズ』で佐伯氏について「越中で繰り広げられる歴史のすべてに超越的に関係する存在」としたわけだけれど、佐伯氏が関係しないこともあるのだ。佐伯氏は、立山が開かれる以前のことには関係しない。あるいは、今、立山連峰として知られている峰々が大日連峰と呼ばれていた時代(があったと仮定して)のことには関係しない。

 そんな佐伯氏に手を引かれて大日橋を渡る――というのは、果してドラマツルギー上、適当なのか? 今、この疑問を前に、とことんアタマを悩ませている……。



 以上、それなりの思いも込めて書き上げた記事ではありますが、推敲もし、プレビューもして、まあ、よかろう、となって、最後に念のためということでウィキペディアで「大日橋」をチェックすると……なんとなんと、思いもかけないことが書かれているではないか!

橋の名称は、両岸の地域名である「大島」と「日置」の各頭文字をとったのが由来である。

 え、大日如来が由来じゃないの? 単に「大島」と「日置」の各頭文字をとっただけ? だったらおれが縷々書きつづってきたことってなんだったんだ……。ということで、本稿は「一人の粗忽者の愚考の標本」としてウェブ上に晒すこととします。あー、ナサケナイ。



 少しばかり追記的に……大日橋を渡った東詰めのスロープの南側にちょっとした広場があって立山町が設置した「交通安全 涙で染めるな 生涯スポーツの町」と書かれた大きな看板が立っているほか、「祈交通安全」と刻まれた石碑と3体の石仏が立山連峰を背にする形で並んでいる。
 これらのモニュメントはこれまでこの橋で悲惨な事故が繰り返されてきたことを物語っていると言っていい。
石仏  そして、実はこの3体の石仏の中にはわが家とも浅からぬ因縁があるものがある。それは、いちばん右側の石仏で、裏面には7人の仏様の法名が記されている。
 この7人は、同じ事故で亡くなった。中新川郡雄山町(現・立山町)の栄組という土建会社が所有のトラックが人夫十数人を乗せて現場に向かう途中、「運転手が約一メートル右側の橋板二枚が折損しているのを発見、これを避けるためハンドルを左に切つたが左側欄干に接触しようとしたのでさらに右に急転回したところ切りすぎて右側(北側)木製欄干約七メートルを突き破り、高さ八メートル三〇の橋下の田圃に真逆さまに転落」(北日本新聞)。記事では死者5名、重傷4名、軽傷2名としているものの、石仏の裏面に刻まれた法名が7つあるところから推測するなら、その後、さらに2名が亡くなったということか?
 この事故が起きたのが、昭和26年9月25日。そして、同じ日、富山市石金でも交通死亡事故が起きていた。この事故については「小さい町みつけた①」に書いたのでここでは繰り返しませんが、奇しくも同日同時刻に交通死亡事故が2件も重なったということで、北日本新聞は2つの事故を1まとめにしてこう見出しを打った――「血に塗れた五百石街道 昨日、交通事故二つ」。
 大日橋の石仏は、その背中に不条理にも命を奪われた8人の悲しみを背負いながら今も東詰めの広場に静かに立っている……。

広場