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昔、池袋で

 もしがくは小劇場がブームとなっていた1980年代前半の渋谷が舞台で、三谷幸喜の「半半半自伝的」な作品とされている。で、三谷よりも三つ年上のおれはそれより少し前の1970年代後半を映画青年として過ごしており、あえてその舞台を特定するなら池袋だろうなあ。池袋には文芸坐があったし、当時、おれが住んでいたのは西武池袋線沿線ではあったし。実際、池袋ではいろんな出会いがあった。池袋駅東口から文芸坐までの道のりでおれは何人もの映画人に遭遇しているよ。それから『Making of オレンジロード急行』(ぴあbooks)所収の「大森一樹年表」によれば『暗くなるまで待てない!』は1977年4月に文芸坐地下で上映されているそうだけれど、おれの記憶に間違いなければ大森一樹の自主製作映画がまとめて上映されるというイベントがあって、おれはこのときに見ている。で、その場所というのが確か池袋にあった雑居ビルの一室で、観客は折り畳み式のパイプ椅子に座って鑑賞するというね。いかにも自主製作映画の上映イベントらしい。しかし、観客は結構いたな。ビルにはエレベーターがなかったのか、観客はビルの階段に行列をなして並んでいた。おれもその行列に加わって大人しく開場を待っていたんだけれど、ほどなく行列の横を談笑しながらすり抜けて行く二人組がいて、なんと大森一樹と大林宣彦だった。このとき見た中では『ヒロシマから遠く離れて』と『暗くなるまで待てない!』が印象に残っている。前者は1967年にジャン=リュック・ゴダールなどが参加して製作された『ベトナムから遠く離れて』の〝本歌取り〟。でも、そんなタイトルを冠するのがいささか分不相応というか。『Making of オレンジロード急行』ではこの映画(2分ばかりの超短編)について「ひとたばのちり紙とひとびんのインクで映画を作ろうという〝経済的試み〟」。これじゃあ何のことやらわからないでしょうが、確かちり紙の束にインクを垂らすんだったかな。で、めくってもめくっても染みがあるという。言うまでもなく(いや、言わないとわからないかな?)インクは「黒い雨」のメタファー……なんでしょうが、これだけのことで『ヒロシマから遠く離れて』はいかにも分不相応だろう――と、当時、そんな感想を抱いたものです。一方、『暗くなるまで待てない!』は普通によくできた映画。近い将来のメジャーデビューを予感させるような(これが微妙に皮肉を効かせた表現になっていることにアナタは気がついているかな? あの時代は、素直に褒めるってことはまずなかった。その流儀をここでも再現してみせたのは、おれなりの大森一樹への仁義の切り方だと受け取っていただければ)。あと『ない!』シリーズの残り2本も見たはずなんだけれど、全然、印象というものがナイ。そんな、印象に残らない作品じゃナイはずなんだけれど……。ただ、そうは言いつつもだ、あの日、あの場所にいた、ということは、あの頃のおれがいかに筋金入りの映画青年だったかということの証明にはなるはず。単に1970年代映画の傑作(たとえば『タクシードライバー』とか『ディア・ハンター』とか)をリアルタイムで見たという程度の映画ファンとは違うということ。

 でね、これは一つの証言という意味でもぜひ書いておきたいと思うんだけれど……『冒険者たち』という映画があった。ああ、知ってるよ、あのロベール・アンリコ監督の男の友情とロマンを描いた名作でしょ? と答えるのが普通の映画ファン。しかし、1970年代を生きた筋金入りの映画青年ならこう答える――もしかして、ロベール・アンリコ監督版へのオマージュも込めつつ1974年に日本で製作された映画のこと? そう、それ。監督は臼井高瀬で――と言っても、ほとんどの人はピンと来ないでしょう。実際、撮った映画はこれ1本きりだしね。1970年代を生きた筋金入りの映画青年でも、臼井高瀬に詳しい、なんてまずいないでしょう。なんでもお父さんは作家の臼井吉見とかで、臼井吉見というと「川端康成の自殺の真相」を描いたとされる『事故のてんまつ』で有名ですが、あの一件が文芸ジャーナリズムを騒がせたのは1977年なので、臼井高瀬版『冒険者たち』にまつわる不遇とは無関係……のはず。ともあれ、1974年に日本で製作された『冒険者たち』という映画があるんだよ。この映画についてウィキペディアではこう記している――「劇場での公開はされず、1975年4月14日から4月25日まで、東京半蔵門の東條會館ホールで上映された。以降は一度も上映されたことがないとされ、ビデオ、DVDも発売されたことはない。臼井高瀨監督は公開前の『シナリオ』で「東條會館ホールでの上映を皮切りに、全国上映ツアーに出る」と話しているが、詳細は不明」。この「されず」「された」「ないとされ」にはすべて典拠が示されており、信憑性は担保されている。だから、臼井高瀬版『冒険者たち』は「1975年4月14日から4月25日まで、東京半蔵門の東條會館ホールで上映された」以外はこれまでいかなる場所でも上映されたことがない――はずなんだよ。ところが、そんな映画をおれは見ている。あるいは、見た記憶がある。しかも、相当にハッキリした記憶で、場所は池袋の文芸坐地下。館内は満員で、立ち見もいた。おれもその中の一人で、オープニングでメインタイトルが表示された瞬間、そのあまりの重々しさに思わず吹き出してしまった。すると、前にいた奴がふり返っておれを睨みやがった。いや、おれはもっと軽い映画だと思っていたんだよ。なにしろ、主演があのねのねだからね。だから、ファルスだろうと。ところが、メインタイトルの表示のし方がやけに重厚で、いっそ滑稽に感じられた。で、思わず吹き出してしまったわけだけれど、むしろ映画はタイトルの重々しさに見合ったもので……。とにかく、そんなことまで記憶しているわけで、おれが臼井高瀬版『冒険者たち』を見たのは間違いないと思うんだよ。しかも、その場所は文芸坐地下で、時代は1970年代後半――おれが上京したのは1977年なので。しかし、ウィキペディア曰く「1975年4月14日から4月25日まで、東京半蔵門の東條會館ホールで上映された。以降は一度も上映されたことがないとされ」。よっぽど書き直してやろうかと思ったんだけど、おれとて自分の記憶以外に頼るべきものがない。さすがに「ソースはおれ」じゃあねえ。でも、現に臼井高瀬版『冒険者たち』を見た(と記憶している)人間がここにいるんだ。これはぜひ同時代人の証言として尊重して欲しいな。なお、映画の内容についてなんだけどね、ロベール・アンリコ監督版へのオマージュを込めつつも1970年に広島宇品港で発生した瀬戸内シージャック事件をプロットに加えており、そういう意味で1970年代に特有の反逆のエトスが漲る映画となっていた(と断言できるほど、映画の内容についてハッキリと記憶しているわけではないんだけれど。でも、瀬戸内シージャック事件をプロットに加えているんだから、自ずとそうなるよ)。そんなこともあってか、わが敬愛する夏文彦が『映画評論』の1974年の年間ベストテンで第5位、1975年の年間ベストテンで第6位に挙げている(東條會館ホールで上映されたのは1975年だが、既に映画は1974年には完成していて、夏文彦は同年中に見ていたらしい)。夏文彦が言うには「臼井高瀬の演出は、これが処女作なのか、と疑わせるほど重厚である。風格さえ感じられる描写力は、むしろ、その落着き方が不満だ、と言いたくなるほどに、あぶな気のない完成度を示している」。さらに、ラストシーン(少年院からの出所シーン。演じるのは小見山靖弘という無名の俳優)にまつわる描写があって「このシーンは衝撃的であった。そして俺は、ここに、現代日本の状況を正面から捉えたラジカルな青春映画は、不可避的、本質的に記録映画になるのだという、作家の思想が集約されているのだと思う」。まあ、夏文彦がそう思うのならば、そうなんだろう。で、そんな「ラジカルな青春映画」ならばおれが「何かやっていないとどうにかなってしまいそうだ。〜母恋いアナーキストのアナーキー日本映画選〜」のネタ本とした『映画秘宝EX 鮮烈!アナーキー日本映画史1959~1979』にリストアップされていてもよさそうなものなんだけれど……されていないということは、選者の中に見たものがいなかったのかな? なにしろ「1975年4月14日から4月25日まで、東京半蔵門の東條會館ホールで上映された。以降は一度も上映されたことがない」と一般的には信じられている映画なんだから。

 あとね、残念ながらどうしても見た場所を思い出せないので、「昔、池袋で」というタイトルを冠した記事で書くのはどうかという気もするのだけれど……おれは藤沢勇夫監督の『バイバイ・ラブ』も見ているんだよ。藤沢勇夫も臼井高瀬と同じくウィキペディアにもページがないようなマイナーな監督ではあるんだけれど『バイバイ・ラブ』は傑作とされていて、夏文彦などは1974年のベストワンに挙げている。そんな映画を、おれは、いつ、どこで見たのか。やっぱり文芸坐地下かなあ……。で、この映画、1本しかない上映用プリントが経年劣化のために上映できなくなっていたとかで、正に「幻の映画」になっていた(らしい)。それが天の配剤により(?)現像所が保管していた原版が発掘され、藤沢勇夫監督の意向により国立映画アーカイブの所蔵となった経緯については映画秘宝公式noteのこちらの記事に詳しい。しかし、藤沢勇夫監督が健在でよかったよなあ。もしくは、健在ではあっても、所在不明で連絡がつかない、というような状況でなくて。もしそんな状況だったら、原版はどうなっていたのか? 記事では、当時、東京国立近代美術館フィルムセンター(現・国立映画アーカイブ)に勤めていたとちぎあきら氏の「20年くらい前から、多くの現像所において、フィルムを管理する体力がなくなってきた」というコメントを紹介した上で「その頃から、現像所が預け主の製作者に対し、フィルムの引き取り願いをするようになってきたという。だが、預け主が不明な場合も多く、『バイバイ・ラブ』もイマジカ(現在はIMAGICA Lab.)がフィルムを保管していたが、預け主が分からず、苦慮していたそうだ。現像所はフィルムの中身を見ること自体も預け主に許可を得る必要があるため、登録者名(個人名ではなく、いまはもう存在しない会社名の場合もある)からは連絡先を見つけるのが困難な場合も多いという」。『バイバイ・ラブ』の場合は幸いにも連絡先が見つかったわけだけれど、見つからなかった場合は廃棄されていた可能性もあるのでは? そのぎりぎりの淵で『バイバイ・ラブ』は救い出されたのだ。だから、天の配剤であると。なお、せっかくだからこの映画についての夏文彦のコメントも引いておこうか。この映画、現在では「クィア・シネマ」(「クィア」はQueerでLGBTQのQに当たる)として海外での評価も高いそうだけれど、確かにギーコは性差を超越した存在で(「クィア」は一般的に「ヘテロセクシュアル(異性愛者)でない人々およびシスジェンダー(性同一性が一致している人)でない人々を指す総称」とされている。ただし、「クィア」を定義する必要はない、という意見もある)、女と思い込んでいたギーコが実は男だったと知って普通に戸惑い、「おまえが女だったらなあア」と率直な感想を漏らすウタマロを翻弄する。この(ウタマロからするならば)相当に空しい関係性を「一見、スラプスティック風に仕立てた物語の中で、二人が無限に言葉を投げあいながら、空しいなどという言葉を吐かせなかった作家の感性に支えられてシナリオが書きはじめられた時から、この作品は傑作であることを約束されていたのだと思う」。まあ、こんな設定を考えついただけで、藤沢勇夫という人はどうかしているよ(もちろん、良い意味)。

 ともあれ、そんな映画もおれは見ていた。おそらくは、池袋の文芸坐地下で。で、1980年代前半の小劇場ブームを背景とするドラマがあるんなら、1970年代後半の自主製作映画ブームを背景とするドラマがあってもいいのでは? その舞台は、池袋、というのが本稿でおれが言いたいことなんだけれど……まあ、ヒマ人のただの妄想だな。しかし、あの頃、文芸坐地下の硬い客席に日長一日身を屈めていたオマエは、今、どこでどうしているんだい? あの頃、オマエが抱えていた(であろう)ルサンチマンはオマエをどこへ連れていったのだろう……?


池袋
1975年当時の池袋の地図(読売新聞社刊『The東京』より)