伯父さんのことを書く。母の、兄。ただし、年は13も離れている。それだけに、母は可愛がられたし、その子であるおれも可愛がられた。人間的には典型的な日本の農家のおっちゃんと言えないこともないが、陰湿な部分は微塵もなかった。ただただ、酒が好きで、人間が好きで、そして軍隊が好きだった。なんと、自ら志願して四度も入隊している。しかも、二度目以降は「初年兵教育」を任されることが多かったようで、伯父さんはことのほか〝熱心に〟取り組んだそうだ。それほどおもしろかったらしい……〝新兵いじめ〟が。で、自ら志願して四度も入隊した。
ただ、当時は平時ではなく、戦時だったので、四度入隊した伯父さんは、三度戦争に行った。で、『有合亭ストーリーズ』では、第12話「虎よ、虎よ!」において岩佐虎一郎の二度に渡る従軍について詳細に綴った。富山市に本社を置く北陸日日新聞の記者が従軍するわけだから、当然、その対象は郷土部隊たる富山連隊で、一度目は歩兵第六十九連隊、二度目は歩兵第三十五連隊だった(元々の郷土部隊は歩兵第六十九連隊だったが、大正14年、いわゆる「宇垣軍縮」により廃止となり、代わって歩兵第三十五連隊が金沢から富山に移駐となった。しかし、昭和12年、日中戦争の勃発に伴って歩兵第六十九連隊が再編成され、中支派遣中の歩兵第三十五連隊に加え、郷土部隊が2つ存在する形となった。なお、昭和20年には歩兵第五百十四連隊も編成されている。いわゆる「本土決戦」に備えた部隊)。で、おれは『有合亭ストーリーズ』を書いた当時、伯父さんの詳しい軍歴を知らなかった。ただ、日中戦争当時は歩兵第三十五連隊に配属されていたのだろうと思っていた(歩兵第三十五連隊第三中隊戦友会編『あゝ思い出の中隊』にはそれをうかがわせる記載もあって――「昭和十四年一月十日、現役志願兵として歩兵三十五連隊補充隊第三中隊に入営、初年兵教育を受ける。班長が野口軍曹殿、助手が青島上等兵、朝日上等兵殿であった」。この最後に出てくる「朝日上等兵殿」が伯父さんである可能性もある。ただし、この後、出てくる「陸軍兵籍」によれば、その頃、伯父さんは山西省にいたはずなので、どうかなあ……)。で、もしそうならば伯父さんはあの南京攻略戦に参加していたことになる。これは相当に重い事実で、おれとしても気になるところではあったのだけれど……あえて『有合亭ストーリーズ』では、一切、伯父さんのことを書かなかった。伯父さんの存在によって物語の主題が拡散するのを怖れたというのもあるし、そもそも伯父さんの正確な軍歴をおれは知らなかった。軍歴資料を取得すればわかるのだが(おれは父が亡くなった年に父の軍歴資料を取得しており、それを元にこんな記事を書いた。元は兄に送ったメールですが、このブログを立ち上げた際、一部を手直しした上で記事化した)、直系ではないおれには伯父さんの軍歴資料は取得できないと思っていた。ところが、読売新聞オンラインの記事で、直系ではなくとも三親等以内なら取得できることがわかって、それならばということで取得したところ、意外な事実がわかった。富山県厚生部企画課恩給援護・保護係から送られてきた「陸軍兵籍」によれば、確かに伯父さんは昭和12年9月12日、補充召集に応召し、歩兵第三十五連隊に入営していた。ところが、すぐに歩兵第六十九連隊に転属となっているのだ。そして、10月2日、屯営を出発。10月29日、山西省賛皇で歩兵第六十九連隊に合流している。これについては富山聯隊史刊行会編『富山聯隊史』にも記載があって――「二十五日、支隊は唐山を出発し、二十九日元氏を経て昔陽に向かった。第一大隊が前衛となり、二十八日賛皇で数百の敵を急襲して、支隊門出の先陣を切った。聯隊は二十九日賛皇において、元氏から追及してきた准士官以下五七七名の補充員を迎え、聯隊に生気がみなぎった」。で、以後、伯父さんは昭和14年12月に復員するまで山西戦線をフィールドとしているのだ。てっきり歩兵第三十五連隊に従軍して南京攻略戦に参加したと思い込んでいたおれとしては相当に意外で、正直、戸惑いも覚えた。『有合亭ストーリーズ』では、一切、伯父さんのことを書かなかったとはいえ、その存在は念頭にはあったわけだから。たとえば、第11話「楽園」でいわゆる「南京大虐殺」について言及した際も、伯父さんの存在を念頭に置いていた。で、こう書いた――
しかも、日本軍はこの南京攻略戦において永遠に拭い去れない汚名を負う破目になった。いわゆる「南京大虐殺」。その真偽はおれにはわからない。ただ、南京攻略戦が事前に周到に準備されたものではなく、主力部隊として投入された歩兵第三十五連隊にしてもそもそもは第二次上海事変への対応として動員が下命されていた。その上海は十一月六日には平定に漕ぎ着けており(この日、「日軍百万上陸杭州北岸」というアドバルーンが上海の市街に上げられている)、動員された兵士らとしてはこれでミッションは完了のはずだった。ところが、上海攻略という戦果に高揚したか、現地指揮官は参謀本部の了解なしに撤退する中国軍の追撃を開始。やむなく参謀本部も追認し、撤退する中国軍の追撃が方針となった。その中国軍の撤退先こそは南京だった。しかし、歩兵第三十五連隊を始めとする各部隊はそこまでの準備をせずに日本を発っており、以後の追撃戦では食糧は現地調達となった。これが「掠奪」の原因を作った。さらに、上海攻略で役目は終ったと思っていた兵士らがさらなるミッションを課されたことにフラストレーションを覚えた。これが「暴行」の原因を作った、とする指摘もある。いずれにしても、南京攻略戦は事前に周到に準備された作戦ではなく、兵士に過重な負荷がかかっていたことだけは間違いない。そんな中では「掠奪」も「暴行」も起こりえた。
ここで「南京攻略戦は事前に周到に準備された作戦ではなく、兵士に過重な負荷がかかっていたことだけは間違いない」――と兵士らに同情的な見方を示しているのは、その兵士の一人にきっと伯父さんがいたに違いないと思えばこそ。だから、「掠奪」も「暴行」もあっただろうけれど(これについては、防衛庁防衛研修所戦史室編『支那事変陸軍作戦』でも「遺憾ながら同攻略戦において略奪、婦女暴行、放火等の事犯がひん発した」と認めている)、それで兵士らを責めるのは酷だと。
ただ、意外なことに、伯父さんはいなかった。じゃあ、どうするか、ということにはならない。おれは軍歴資料で伯父さんの詳しい軍歴が明らかになっても、それによって『有合亭ストーリーズ』を書き直すことはしないと決めていた。もう『有合亭ストーリーズ』はおれの手を離れているしね。とはいえ、いささかおっかなびっくりという部分もあった。ことによると、書き直しを迫られるような新事実が判明することだってないとは言えないわけだから。で、南京攻略戦に参加していなかったことについては、手直しの必要はない、と。伯父さんが参加していなくとも、その主力部隊が歩兵第三十五連隊である事実には何ら違いはないのだから。ただ、伯父さんが歩兵第六十九連隊に転属となっていたことは……正直、参ったなあ、とは思った。これはまったく想定していなかった事実なので。本当に手直しせずに済むのかどうか……。
ところが、よくよく検討すると、手直しする必要がない、ということがわかって、却ってオドロイタ。というのも、伯父さんは歩兵第六十九連隊に転属となって山西戦線に投入されたわけだけれど、その歩兵第六十九連隊は岩佐虎一郎が最初の従軍で行をともにした部隊。ところが、岩佐虎一郎が取材に訪れたときには伯父さんは山西省南部に転進しており、岩佐虎一郎が従軍した「小白村附近の戦闘」にも参加していなかったんだよ。「小白村附近の戦闘」が戦われたのは昭和13年3月22日から25日にかけてですが、「陸軍兵籍」のこの間を含む記載はというと――「○昭和十三年二月十一日ヨリ山西南部ヘノ転進ニ参加○二月十七日ヨリ間文水附近ノ警備○四月十六日ヨリ稲家溝ノ戦闘ニ参加」。で、「小白村附近の戦闘」からほどなく岩佐虎一郎は歩兵第六十九連隊に別れを次げ、居庸関を訪れたりしているわけで、結局、両者が出会う機会はなかったと考えていい。また岩佐虎一郎は二度目の従軍では歩兵第三十五連隊と行をともにする(正確には、その後を追う)。で、伯父さんは最初は歩兵第三十五連隊に編入されているわけだから、そのままだったら岩佐虎一郎とは接点が生じるはずだったのに、なぜか歩兵第六十九連隊に転属となった。これねえ、相当に不思議ですよ。伯父さんは『有合亭ストーリーズ』という物語のフレームからなぜかギリギリのところで外れているんだよ。しかも、歩兵第三十五連隊から歩兵第六十九連隊に転属となっただけではなく、岩佐虎一郎が従軍した間だけ、山西省南部に転進していたというおまけ付き。これは、不思議を通り越しているよ。まるで『有合亭ストーリーズ』という物語世界に影響を与えないよう、「歴史の改変」が行われたかのよう? そんなことも勘ぐりたくなる。でも、そんなこと、誰がやった? もしかしたら、「レ・ミゼラブル」のバーテンダー佐伯? 思いつくのは、あいつくらいしかいないんだけど……。
さて、伯父さんは三度、戦争に行っているわけだが、ここでは三度目についても書いておこう。実は、このときは大変だった。端的に言うならば、伯父さんは「九死に一生を得た」。
伯父さんが山西戦線での任務を終え、富山に復員したのは昭和14年12月26日。そして、即日、召集解除となっている。ただし、「陸軍兵籍」によれば「伝染病発生ニ付十二月二十六日召集解除」。伯父さんが伝染病に罹患したのか、それとも隊内に伝染病が発生したのかはこの文面からは判断がつきかねる。まあ、隊内に伝染病が発生したため、一斉に召集が解除されたということかねえ。で、昭和15年は何ごともなく、運命の昭和16年も12月までは何ごともなく過ぎたのだが、「十二月二十一日臨時召集ノ為歩兵第六十九連隊ヘ応召」。しかし、どういうわけかこのときは動員がかからず、翌17年7月16日に召集解除となっている。ちなみに、この召集期間中の昭和17年1月14日、伯父さんは結婚している(結婚式を挙げたのかどうかはわからない。しかし、婚姻届が出されている)。よくわからないけれど、召集期間中でも結婚はできたってことなんだろうなあ……。で、7月16日に召集解除となって、晴れて新婚生活が始ったわけだが、昭和18年には再びお呼びがかかる。今度は兵力補充のためで、「九月七日充員召集ノ為歩兵第六十九連隊ヘ応召」。そして、今度は動員がかかった。なんと、トラック島進出。『富山聯隊史』の「第五十二師団歩兵第六十九聯隊年表」を見ると、同年10月から慌ただしくトラック島進出の準備が続けられていることがわかる。第一次師団先遣隊がトラック島に向け出発したのは10月22日だが、伯父さんが編入された第六中隊が富山を出発したのは昭和19年1月26日。今度は富山港から海路での移動で、門司港を経由して、2月4日、横浜港からトラック島に向け出発している。で、「陸軍兵籍」では「○二月四日同港出発○二月十八日トラック島上陸」とすんなりトラック島上陸を果たしたかのような書き振りなのだけれど……とんでもない。歩兵第六十九連隊第六中隊がトラック島上陸を果たすにはとんでもない冒険が必要だった。以下、『富山聯隊史』の「第六中隊(「暁天丸」乗船)の遭難」の全文を書き出すなら――
「暁天丸」では船団のトラック到着は十七日夕刻と知らされ、厳重な警戒態勢の中で十六日から上陸準備を開始した。左舷側上甲板ハッチ蓋板上に二隻重ねに二列積んであった大発艇には、重、軽機、擲弾筒その他上陸直後に必要とする梱包が積み込まれた。
十六日夜の警戒は引き続き「総員監視」で航行し、北緯一〇度付近を東進した。エンダービ諸島沖北方海域にさしかかった十七日〇時過ぎ、海軍第四艦隊司令部からの連絡により、船団は一応安全地帯に入ったとして、暁天丸輸送指揮官長沢少佐は「総員監視解ケ」を発令し、第六中隊は竹山分隊、指揮班連絡要員を除き船艙内に降り、〇〇・五〇ころから休息の態勢に入った。
しかるに、〇一・一七ころ、敵潜水艦の放った魚雷が四番船艙中央部に命中した。魚雷は左舷から右舷を貫通し、両舷から激しく海水が流入した。四番船艙内に山と積まれた梱包は四散し、流れ込む海水に渦巻いた。船艙内の木製非常階段は吹き飛び、兵は船艙四隅の縄梯子をよじ登り、船上監視員がこれを引き上げた。
約五分後、第二弾の魚雷が左舷三番船艙後部に命中し、この時甲板上部の大発艇の舫い綱を切断していた吉田少尉と赤畠軍曹が海中に転落し、行方不明となった。
退船ラッパが吹奏され、将兵は舷側から海中に飛び込んだ。中には船艙内にいたが、流入する海水の流れに乗って、幸運にも船外に押し出された兵もあった。しかし多くの兵は休息に入った安心と、寝入りばなの時であったので、受けた衝撃は大きく、殆どが打撲を負い、傷ついた。
上甲板に脱出できた第六中隊将兵は、ハッチ上の大発艇二隻に乗り込んだが、この時船は既に左舷に傾きながら沈降を続けていたので、大発艇は押し出されるように海上に滑り出た。このため先に海上に漂っていた将兵は大発艇の舷側にすがりついた。
約五〇分が過ぎ、暁天丸は機関部を中心にV字状に折れ、船首と船尾を天空に突き立てて沈没した。
護衛艦及び「新京丸」は直ちに救助作業を実施し、この間護衛旗艦「藤波」は、「辰羽丸」と海軍船にトラック島への先行を命じた。しかし同船は一三・〇〇ころ、六機編隊三群のグラマン機に捕捉され遭難した。
「藤波」は急遽「辰羽丸」の救助に向かうこととなり「暁天丸」遭難者の救助を中止し、後事を護衛艦「天草」と輸送船「新京丸」に託した。事情のわからぬ暁天丸遭難者には非情な置き去りであり、辰羽丸遭難者には〝地獄に仏〟であったろう。
「藤波」は上甲板に溢れた暁天丸遭難者を船内に退避させ、応戦を準備しつつ辰羽丸に向かったが「辰羽丸」は被爆後一五分ほどで船橋に大火焔を吹き上げ、大爆音と共に沈没した。
「藤波」は「辰羽丸」の、「天草」「新京丸」は「暁天丸」の各遭難者の救助を続行したが、早くも薄暮となり、敵の二次攻撃のおそれもあったので、やむなく救助を打ち切り、「藤波」はトラック島へ、「天草」「新京丸」はサイパン島へ向かわざるを得なくなった。
このため救わるべくして救い得なかった人もあった。この戦場の非情は断腸の感があったが、それは後日「新京丸」自身が味わうことであった。
かくして第三二〇六船団は遭難し、七〇〇余の人命と、戦車、火砲、医薬品、戦闘資財のすべてを失った。第六中隊の戦死者は四八名、重傷者は一〇名(内松田軍曹は戦傷死)に及んだ。
最後の「それは後日「新京丸」自身が味わうことであった」は、新京丸も3月2日に暁天丸と同じ運命を辿ることになることを言っている。ともあれ、「陸軍兵籍」が記す「○二月四日同港出発○二月十八日トラック島上陸」の実態はこういうことだったのだ。暁天丸の総員が何名かは不明ですが、「七〇〇余の人命」が失われたっていうんだから、もう「九死に一生を得た」どころじゃないでしょう。しかも、これからも大変なんだよ。昭和17年以来、トラック島は連合艦隊の停泊地となっていたのだが、度重なる米軍の空襲によって機能を喪失、連合艦隊はトラック島を放棄するに至る。これにより、島外との交通手段を奪われた地上部隊は、以後、補給を受けられなくなり、自給自足を強いられることになる。そのためとして、農耕班や漁撈班が編成された。伯父さんなんかはさしずめ農耕班の班長かな? しかし、珊瑚礁でできたトラック諸島は農耕には適しておらず、兵員に必要なカロリーを満たすだけの食糧は得られなかった。これにより、栄養失調が多発した。さらに、感染症も蔓延した。今回、富山県厚生部企画課恩給援護・保護係から公布された伯父さんの軍歴資料一式には伯父さんが「アメーバ性赤痢」に罹患したことを証明する「事項証明書」も含まれている。どんだけ悲惨な状況だったか想像するに余りある。
ただ、幸いなことに、トラック島で地上戦が繰り広げられることはなかった。もしそうなっていたら、グァム島やサイパン島のように玉砕は避けられなかっただろう。だから、伯父さんは運が良かったんだ。そして、昭和20年の終戦を迎える。8月15日には玉音放送を拝聴(トラック島でも玉音放送は聴けたそうだ)、17日には第五十二師団師団長・麦倉俊三郎中将が戦闘停止を命令、18日には軍旗奉焼、23日には米軍上陸と続いて、10月3日、米巡洋艦コロンビア号上甲板において、第三十一軍司令官・麦倉中将(兼任)と東カロリン地区最高司令官ブレーク准将による降伏調印式が行われ、トラック島での戦いは終結した。「陸軍兵籍」によれば、伯父さんが帰還のためにトラック島を出発したのは12月18日。浦賀港に入港したのは29日。復員を完了したのは31日。
奇しくも大晦日だった。その夜は、どんだけ盛り上がっただろう。母なんて泣いたに違いない。
そして、その日から朝日家の「戦後」が始まった……。