伯父さんの軍歴が判明して、1つハッキリしたことがある。母が大谷高等女学校に入学した昭和16年、伯父さんは家にいた、ということ。いや、それよりも重要なのは、昭和15年に家にいた、ということか。女学校に進学することが決まったのは昭和15年中だったと考えるならば――。母の実家は農家で、昭和10年代の農家の娘の高等女学校進学率がどの程度だったかは知りませんが、そんなに高くはなかったでしょう。それでいて母は行かせてもらえたわけで……昭和15年、伯父さんが家にいたとすれば、他でもない、伯父さんこそはその決定権者だった可能性もある。母からは先生が家まで来て行かせてやって欲しいと説得してくれた、みたいな話は聞いたことがあるのだけれど、その相手が藤七(祖父)だったのか健二(伯父)だったのか。昭和15年当時、藤七は54歳、健二は25歳。もう朝日家の実権は伯父さんに移っていただろう。だから、伯父さんが出征中ならばともかく、家にいたのだから、母を女学校に行かせる、という決定をしたのは、伯父さんだった可能性が高い。自らは高等小学校しか出ていない伯父さんが13も年が離れた妹には女学校で学ばせてやりたいと、そう思ったんじゃないのかなあ……。さて、おそらくはそんな伯父さんの思いも背負って、母は昭和16年4月、大谷高等女学校に入学した。で、『有合亭ストーリーズ』という小説を書くに当たってはこの入学式を物語のゴールとすることは最初から決めていた。『有合亭ストーリーズ』とは、単純化するならば、「おれ」が母に会いに行く物語。大山村文殊寺に大道重次を訪ねたり両別院中通りの「乙女食堂」で岩佐虎一郎と一杯やったり島地林作を〝尾行〟したり――と「昭和初年」という時代を知るためのさまざまな〝取材〟を行いつつ、最終的には富山市磯部の磯部堤で(「レ・ミゼラブル」のバーテンダー佐伯と一緒に)大谷高等女学校の入学式を〝観覧〟し、そして……という物語。そんな建て付けからして相当にセンチメンタルな物語にあってとりわけセンチメンタルなチャプターがあって、それは第11話「楽園」。ここでは「おれ」は大谷高等女学校(この時点では大谷実科高等女学校)の生徒・神島スミ子と一緒に北陸日日新聞社屋上の望楼(北陸日日新聞社の屋上に望楼があったことは岩佐虎一郎が一度目の従軍から〝凱旋〟したことを報じる昭和13年5月22日付け記事に記載があって――「本社では午前十一時から鷹取社長はじめ全社員が楼上に参集、岩佐記者凱旋祝賀の宴を張った」)から富山市街を眺める。そして「風光明媚磯部の楽園。/ならば、北陸日日新聞社の屋上から母と並んで眺める富山市街も、おれにとっての「楽園」だ」(「母と並んで」とは「おれ」が神島スミ子に母を重ね合わせているということ)。設定では神島スミ子は大谷実科高等女学校の磯部校舎落成式を報ずる記事が掲載された12月6日号を貰うために総曲輪一五〇番地の北陸日日新聞社を訪れたことになっていて、それにはそれなりの理由がちゃんとある。ここは、その下りを読んでもらおう――
「あの」
制服姿の少女が恐る恐るという感じでおれに声をかけてきたのは十二月十一日のことだった。土曜日なので、本来ならば半ドンだが、新聞社は半ドンなんてあってなきがごときもの。また、例の「国民精神総動員」というやつで最近は返上という会社も多い。しかし、おれは断固、半ドンを決め込んで社を出てきたところだった。すると、その少女が声をかけてきたのだ。
「あの、北陸日日新聞の方でしょうか」
「ええ、そうですが」
「わたしは大谷実科高等女学校の生徒で神島スミ子と言います」
「はい」
「お願いがあるのですが」
「何でしょうか?」
「月曜日の新聞をお分けいただけないでしょうか」
「月曜日? ああ、落成式の記事が載っているやつですね」
「そうです」
「それは構いませんが……」
「家では北陸日日新聞を購読していないのです。ずっと富山日報を読んでいて」
「ええ」
「落成式の記事は富山日報にも載っていましたが、文字だけで。友だちから、北陸日日新聞には写真も載っていたと聞いて、ぜひ見たいと思って」
「なるほど。ちょっと待ってて下さい」
おれは社に戻ると、二階の編集局にストックしてある中から十二月六日号を一部抜き取り、玄関に戻った。
富山日報の記事は文字だけで、北陸日日新聞の記事には写真も載っている、というのは本当で、せっかくだから両紙の紙面を見てもらうことにしよう。どうですか? なかなかによくできたストーリーだとは思いませんか? 『有合亭ストーリーズ』では「おれ」は「母を亡くして、母を恋しく思うあまり、母が少女時代を過ごしたのがどんな時代だったのかがとても気になり出したのです。そして、その時代を知りたいと思うようになったのです」と言って昭和4年の富山に〝転生〟し、富山新報の社会部記者として働くことになるのだが、その富山新報改め北陸日日新聞が大谷実科高等女学校の磯部校舎落成式を最も詳細に報じていたのだ(ちなみに、当時、富山市内に本社のある新聞社は3社あって、残る北陸タイムスは磯部校舎落成式を報じていない。ただし、校舎落成を伝える告知広告は掲載されている)。これね、ちょっと普通じゃないというか。本当に「おれ」があの世界に〝転生〟してこの記事を書いたのでは……?
ただ、そんな記事ではあるんだけれど、見つけるのはとんでもなく大変だった。実は大谷実科高等女学校の磯部校舎がいつ完成し、いつお披露目されたのかを裏付ける文献は存在しないのだ。大谷高等女学校は昭和25年に当時の藤園高等女学校(現・龍谷富山高等学校)に吸収合併され、歴史を終えているので、自前の校史というものを持っていない。とはいえ、大谷高等女学校は高等女学校令に基づく正規の高等女学校なのでそれなりの記録は残っていて、昭和47年に富山県教育委員会が刊行した『富山県教育史』を見ればおおよその沿革は把握できる。ただ、磯部町に建てられた校舎の写真は載っていても、それがいつ建てられたものかについては記載がない。ならばと他の文献に当たってみると……昭和14年刊行の『富山県政史』第7巻にはこう記されていることがわかった――「同年十月富山市磯部町に新校舎を建築し、之に移轉した」。また平成31年刊行の『次代にのぞむ西田地方の歴史』には――「一九三七(昭和一二)一一月、大谷実科高等女学校は、大谷会館の借用校舎に別れを告げ、富山市磯部町二一七に独立校舎を新築した」。さらに、大谷高等女学校の設立者である長守覚音が住職を務める五服山長光寺の門徒会が編纂した『長光寺誌』という瀟洒なデザインの小冊子があって(ちなみに、令和元年に母を伴って訪れた際に副住職から頂きました。このときは、こんな記事を書きました。あれからもう7年かあ……)、こちらでは――「昭和十二年(一九三七)四月には、教職員十九名・生徒三一一名・卒業生三六〇余名という状況であった。富山市磯部町に新校舎を建築し、同年十一月に移転した」。要するに、新校舎落成を昭和12年10月としている文献と11月としている文献があるわけで……なんだろうなあ、このゆらぎは? しかも、いずれの文献も日付までは書いてくれていない。となれば、自力で探し出すしかあるまい……大谷実科高等女学校の新校舎落成を報じる新聞記事を。幸いなことにターゲットは昭和12年10月と11月に絞り込まれているわけだから、さほど手間をかけずとも見つけ出すことはできるだろう……と思っていた。
ところが。富山県立図書館の新聞雑誌閲覧室で(マイクロフィルムリーダーではなく、既に電子データ化されている紙面を閲覧できる)専用端末で、まずは昭和12年10月1日から見て行って、11月30日まで。最初は北陸日日新聞。次に富山日報。さらに、念のためということで、北陸タイムスの1面から最終面まで。しかも、朝夕刊。そのすべてを虱潰しに当たったのだが……見つからない。お・か・し・い。こんなはずないんだけど。『富山県政史』第7巻では「同年十月富山市磯部町に新校舎を建築し、之に移轉した」、他の文献でも「一九三七(昭和一二)一一月、大谷実科高等女学校は、大谷会館の借用校舎に別れを告げ、富山市磯部町二一七に独立校舎を新築した」、「富山市磯部町に新校舎を建築し、同年十一月に移転した」と書いているわけだから。ただの私塾とかならともかく、高等女学校令に基づく正規の高等女学校が自前の校舎を建築して移転したってんだ。それを地元紙が報じていないはずがないだろう。もしかしたら、おれの見落としかなあ……。でも、3紙もあるんだから。3紙とも見落とすなんて、ありえんだろう……。
で、その日は、一旦、調査を打ち切って(専用端末は2台しかないので利用時間が1時間程度に制限されている。1人が何時間も使いつづけるわけにはいかないのだ)、家に帰って風呂にも入って頭をリセットした上で、どういう可能性がありうるのかをじっくり検討した。まず思い浮かんだのは、移転したのは昭和12年ではなく、11年とか13年とかの間違いでは? 『富山県政史』第7巻では「同年十月富山市磯部町に新校舎を建築し、之に移轉した」と書いているわけだが、改めて文章の流れを確認すると――「昭和九年三月二十四日高等女学校令による修業年限四箇年の實科高等女學校を設置し、校名を大谷實科高等女学校と稱した。同十二年四月には職員十九名で、生徒三百十一名を収容し、卒業生も三百六十餘名に及んでいる。同年十月富山市磯部町に新校舎を建築し、之に移轉した」。うーん、やっぱり昭和12年で間違いないよなあ。そもそも『次代にのぞむ西田地方の歴史』では「一九三七(昭和一二)一一月、大谷実科高等女学校は、大谷会館の借用校舎に別れを告げ、富山市磯部町二一七に独立校舎を新築した」とハッキリ書いているわけだから。ただ、ここで10月→11月というゆらぎが生じているわけで……何かを勘ぐるとすれば、ここだよなあ。ただ、その11月分も調べたわけだから。それでも見つからなかった。ということで、何か他の可能性はないかと検討したわけだが……『長光寺誌』には何人かの大谷高等女学校のOGの回顧談が紹介されていて、その1人に「昭和十一年四月入学・石川スミ子・旧姓神島」と記載されたOGがいて(ちなみに、この「石川スミ子・旧姓神島」こそは第11話「楽園」に登場する神島スミ子その人であります)、その中のこんな一節が目に留まった――「校舎が十二年秋でしたか磯部に移りました。春になるとそれはそれは美しく、気持ちよく学校に通いました」。ここで神島スミ子が「校舎が十二年秋でしたか磯部に移りました」と述べているのが気になった。というのも、普通、秋と言えば、9月も含むので。つーか、9月の新学期スタートに合わせて移転となったのでは? という可能性が思い浮かんだのだ。で、翌日、再び富山県立図書館の新聞雑誌閲覧室に出向いて北陸日日新聞から見て行ったのだけれど……北陸日日新聞、富山日報、北陸タイムスのいずれにも載っていない。もちろん、1面から最終面まですべてを虱潰しに当たったのだが……見つからない。これで、北陸日日新聞、富山日報、北陸タイムスの昭和12年9月1日から11月30日までの丸3か月分の全紙面に当たったわけで……これで見つからないって、どういうこと? もうね、ほとほと困り果てたよ。物語上、「おれ」が大谷実科高等女学校の磯部校舎落成式を取材し、それを記事にする、というのは絶対に必要だと思っていて、記事も紹介するつもりでいた。その記事が見つからないのだ……。
かくなる上は、ということで富山県公文書館に出向いた。富山県公文書館は富山県立図書館と同じ富山市茶屋町にある。大谷実科高等女学校は高等女学校令に基づく正規の高等女学校だったのだから、移転するにしても勝手に移転していいわけがなく、県の許可が必要なはず。その関係の書類が公文書として残っているに違いない……と考えたのだが、館内に用意されている端末(同館所蔵の文書でデジタル化されたものを検索できるシステム)で「大谷女学校」「大谷実科高等女学校」「大谷高等女学校」など、さまざまな検索語で検索をかけたものの、いずれもヒットせず。ただし、同館の史料調査専門員の話では同館所蔵の文書のすべてがデジタル化されているわけではないそうで、デジタル化どころか未整理のままの文書もたくさんあるという。で、調査(レファレンス)を依頼してもらえればお調べしますよ、と仰っていただいたのだけれど、時間はかかるそうだ。そりゃあ、ねえ。ただ、こうなったらそうするしかないかなあ、とは思ったものの、とりあえずこの日はレファレンスについては保留し、もう一か所、可能性のある場所ということで、富山市千歳町にある富山県教育記念館に行くことにした。というのも、『次代にのぞむ西田地方の歴史』では明治8年に長守覚音が文部省に退出した高等女学校の設立理由書なるものを紹介しているのだが、その出典として記されているのが「私立藤園高等女学校・大谷実科高等女学校一件」(富山県教育記念館蔵)。もしかしたら、教育関係の公文書は富山県公文書館ではなく富山県教育記念館が管理しているのかも知れない――という考えが働いたのだ。で、富山県教育記念館なんて行ったこともなかったのだけれど、富山県公文書館で場所を教えてもらって、千歳町の入り組んだ一方通行の細い道を何度かぐるぐる回ってどうにか富山県教育記念館にたどりつき、受付で用件を話したところ、資料は見せてもらえると。ただし、今日は無理で(資料を探さなければならないという理由)、見つかり次第、連絡するので、それまで待って欲しいと。これぞ、お役所仕事……とは思わない。もうおれとしては、必死だから。とにかく、見せてもらえるわけだから。で、この日は大人しく引き下がって、連絡を待つことにした。すると、待つほどのことはなく、翌日には連絡があって、見つかったと。で、早速、富山県教育記念館まで出向いて、会議室みたいなところに案内され、「私立藤園高等女学校・大谷実科高等女学校一件」とのご対面となったのだが……会議室のテーブルに用意されていたのは結構な分量の文章の束で、なるほど、「私立藤園高等女学校・大谷実科高等女学校一件」と言うだけのことはあるわい、と。で、一瞥した瞬間、これでわかるに違いないと。つーか、わからないはずがない、と。というのも、ファイルされているのは学校設立に関わる各種関連書類の原本で、『次代にのぞむ西田地方の歴史』に紹介されている設立理由書はもとより、入学願書の下書きだとか校則の下書きだとか卒業証書の下書きだとか、そんなものまで含まれている。さらには、校舎の設計図も! これは、コピーして持って帰りたいくらいだなあ……。で、そんな感じなんだから、新校舎が竣工したのがいつかなんて、簡単にわかると思った。
ところが。ファイルはちゃんと時系列に沿って整理されていたのだけれど、昭和10年まで行ったところで、飛んでいるんだよ。で、いきなり14年になる。あれ? と思いながら、最後まで見て、もう一回、最初から見返して……ない。飛んでいる。大谷実科高等女学校が磯部に移転した昭和12年を含む前後4年分が、そっくり、脱けている……。これについては富山県教育記念館の人にも言ったんだけれど、「そうですね」と。資料に脱落があることは認めたものの、どうしてなのか。そして、その分はどこにあるのかは、わからないようで。いや、それじゃ、困るんだけど……。でも、ないものは、ないんだ。で、今日で決着がつくと信じて家を出たおれは、うーん、と唸って、再び富山県公文書館を訪れた。そして、あの親切な史料調査専門員に事情を説明した上で、かくなる上はレファレンスをお願いします――と、正式に文書を以て申し込んだ。
これで、とりあえず、この件はおれの手から放れた――と、そのときはそんな感じだったのだけれど……その夜、風呂に入って頭をリセットした上で、自分がいま直面している状況について再検討してみたところ、やはり納得できないんだよ。私塾でも何でもない、歴とした高等女学校令に基づく正規の高等女学校の新校舎が完成したのだ、それが記事になっていないはずがない。しかし、昭和12年9月1日から11月30日までの丸3か月分の全紙面に当たって載っていなかったとすれば……12月ということも考えられるのでは? たとえば、当初の完成予定は10月だったが、11月になり、さらには12月にずれ込んだ、とか。それならば、文献によって10月だったり11月だったりというゆらぎが認められることの説明にもなる。うん、これは有望だぞ。もちろん、載っている保証はなく、またも空振りに終わる可能性もあるのだが……ここは、当時のメモから引用すれば――「1紙ならまだしも県内発行の3紙が揃ってスルーということはありえない。必ずどこかは書いている。だから、9、10、11月に載っていないのなら12月分に当たる、というのは有望な一手という気はするんだよ。もちろん、載っている保証もないわけだが、ここはそれを承知の上で渾身の一手を打つかねえ……」。で、翌日、三度富山県立図書館に行った。そして、新聞雑誌閲覧室でまずは北陸日日新聞から見て行ったのだけれど……ビンゴ! 12月6日の3面に、遂に発見したのだ! しかも、写真入りだよ! その瞬間、涙が出てきたよ。67歳のおっさんが、図書館のパソコンの前で涙を流してんだ、一体ナニゴトかってんだ……(なお、富山県公文書館には、翌日、この急転直下の結果を報告するとともにレファレンスはキャンセルしました。史料調査専門員は驚いていたな。で、逆に教えてもらいたいと、何新聞の何月何日号に載っていたのかと。さらに、今後、レファレンス依頼があった場合はこの結果を教えてもいいかと。おれの方からは「ぜひ教えてあげて下さい」と。ともあれ、レファレンスはキャンセルしました。こんなふうにハッキリと書いておかないとおれが富山県公文書館に無駄働きさせていると一人合点して一方的に噴き上がるバカがいないとも限らないんでね)。
しかし、こうした苦労を経て発見したものだけに、その北陸日日新聞の昭和12年12月6日号3面に掲載された「風光明媚磯部の樂園/大谷實科高女校/きのふ盛大に落成披露」と見出しを打たれた記事はかけがえのないものとなった。そして、大谷高等女学校があった磯部=楽園という構図ができあがった。そればかりではなく、『有合亭ストーリーズ』という物語ができあがった。それは、「昭和初年の富山」という「楽園」で繰り広げられる物語……。