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早百合姫と大谷女学校

 母の関連でもう1本だけ書いておこう。書きたいときが書けるとき。そして、書けるときには書いておく。そうしないと、一生、書かないままで終わる……。「楡原慕情〜昭和20年のボーイ・ミーツ・ガール〜」にも書いた通り、ワタシの母は昭和20年3月、私立大谷高等女学校を卒業している。その名前からもわかるように浄土真宗系の学校で、創立者は富山市五福の長光寺の住職、長守覚音(ながもり・かくおん)。学校も最初は長光寺の本堂内にあった。それが高等女学校令に基づく4年制の大谷実科高等女学校となったのは昭和9年のこと。実にこれが富山県内では初の私立の高等女学校だった(『富山県教育史』によれば「本県で最初に私立高等女学校として設置された」)。その後、昭和14年には大谷高等女学校となり、修業年限2年の専攻科と女子職業学校も併置するなど、規模を拡大させるものの、戦争を挟んだ昭和25年にもう1つの浄土真宗系の女学校である藤園女子高等学校(現在の龍谷富山高等学校。昭和11年に富山実科女学校として開校)に「併合」され、その25年に及ぶ歴史に幕を下ろした――というのが、この地元でもあまり知られていない女学校のザックリとした沿革。で、この大谷高等女学校について――というか、むしろワタシが知りたかったのはその創設者である長守覚音について。これについては後ほど改めて記すことにはなるのだけれど、長守覚音が大谷女学校を立ち上げた経緯というか、そう決断するに至った背景には何か特別の理由があったのではないか? と考えたくなる事情がある。で、これについては本文では触れることができそうもないのでここで書いておくなら、長守覚音は国立公文書館に残された資料によって大正13年まで沖縄刑務所で教誨師をやっていたことが確認できる。教誨師というとワタシなんかは山田風太郎の『地の果ての獄』に出てくる原胤昭(元南町奉行所与力。幕府瓦解時は町奉行所の新政府への引き継ぎに立ち会い、「江戸町奉行所引継ノ顚末」という貴重な記録を残した。『地の果ての獄』では昔取った杵柄で華麗な捕り繩術も披露)を思い浮かべるんだけれど、こちらはキリスト教の教誨師。しかし、受刑者の心に寄り添うというその役割を考えるなら、当然、仏教系の教誨師だっていた(いる)わけだね。そして、長守覚音がそうだった――というのは、なかなかに興味をそそられる事実ですよ。しかも、長守覚音が長光寺の本堂を教室代りに女学校を始めたのは教誨師を辞めた翌年なのだ。この辺りの経緯も彼が女学校を始めたのには何か特別の理由があったのではないか? と考えたくなる理由。まあ、そういうことも含めて、この人物には興味をそそられる理由は十分。教誨師をやっていたこともそうだし、女学校を始めたこともそう。この人物からは、この国の近代人に特有の高い公徳性が感じられる、とでも言えばいいのか。しかもその人物はワタシの母の〝恩師〟なのだ。なんと、母は「長守先生」のことを覚えていた! 時々、今日、買い物に行ったかどうかも忘れているくらいなのに……。ともあれ、こうしたような理由で専ら長守覚音について調べていたとご理解いただいて――平成3年に刊行された『五福郷土史』(五福校下自治振興会)に次のようなことが記されている――

 長光寺は、富山市五福一区四九八番地に所在する。この寺はもと真言宗の寺院で呉服山安寧坊と称した。旧北陸街道の難所とされた安寧坂(現在の安養坊)にあり、その昔は松林の間に壮麗な伽藍を配する大寺院であったという。天正一三年(一五八五)佐々成政を攻略するため、豊臣秀吉が越中に出陣した際、前田利家の命により戦乱の難をのがれた。後に現在の地に移ってからは教如上人の教えを受け、浄土真宗に改宗した。
 富山藩二代藩主前田正甫は、長光寺に安置する不動明王像を特に尊信し、この寺に三首の和歌を与えるとともに、丁字梅鉢の紋(富山藩の家紋)の使用を許可したという。また貞享三年(一六八六)安養坊坂で富山藩の時鐘を鋳造した折には、正甫は本寺を休息所と定め、自らその指揮にあたったとも伝えられている。なお、本寺の境内には、佐々成政の愛妾早百合の墓が残されている。

 この最後の一文、すなわち「本寺の境内には、佐々成政の愛妾早百合姫の墓が残されている」――という記載に、思わず、へえ。佐々成政の愛妾早百合姫といえば、不義密通の濡れ衣を着せられて「磯部の一本榎」に逆さ吊りにされ「鮟鱇斬」にされたという、世にも恐ろしい話が伝えられていて、富山県民ならば知らぬものは1人もいない(というのは言いすぎか。ここは「知らぬものがいないくらい」にしておくか? しかし、この種の話でそこまで正確を期すのも野暮というか……)。で、この出来事(つーか、伝承)は読本の『絵本太閤記』や歌舞伎狂言の『富山城雪解清水』など、さまざまなかたちで物語化されており、あの泉鏡花も「蛇くひ」や「黒百合」など、この伝承をモチーフとする短編を都合3編著している(泉鏡花は16歳だった明治22年、富山を訪れ、「磯部の一本榎」があった場所からもほど近い旅籠町で3か月ばかり暮している。その際、一本榎の伝承を耳にしたらしい)。そんなこともあって、当地では知らぬものがいないくらいなのだけれど、ただ県外の人にとってはあまりなじみがないだろうと思われるので、ここは富山藩の藩校「広徳館」で学正などを務めた野崎雅明(はあの野崎伝助の孫に当たる人物であります)が『肯搆泉達録』に記すところを紹介するなら――

 右、富山城主佐々内蔵助成政は、元来強勇の人にて、父隼人佐々成親は足利義政公の旗下なり。その後、織田上総介信長公の旗下となり、忠勤に励みけり。成政の妾に早百合と云ふ美人あり。誠に類少なき国色なれば、成政の寵愛深く、暫時も傍を放さず、弥増しにも思召しありしが、女中、その早百合が寵愛の躰を見て嫉妬を起し、奥女中すべて一致し、早百合を無失の罪に落さんと色々工夫しけり。ここに成政の近臣に岡島金一郎と称する容顔美麗の士あり。女中一同申し談じ、密かに金一郎の紙入れを盗み取って、早百合の部屋の入口に落し置きしに、翌朝、御目付役人、紙入れを見付けて、何の遠慮もなく、成政へ差し上げる。女中衆、かねて目付役と申し合はせ、かく目付役に拾はせて、成政へ言上致させけりとなり。成政は、目付役より差し上げたる紙入れを取って披見し、その中を改むれば、成政より拝領の小柄出でたり。成政、大いに怒り、「この小柄所持せし者は岡島金一郎に相違なし」と云ひ、直ぐ岡島を召し出し、「汝は、身が妾早百合と密謀いたし、殊更、夜前、部屋へ忍び入り、この方が雑言悪言して楽しみ居り候ふ様子、さてさて悪き者なり。されど、主人の目を掠めたる天罰により、事、明白に顕れては自業自得なり。悪っくき不忠の奴かな」とて、太刀をスラリと抜き、金一郎の咽をイグリ、ズタズタに斬り殺し、目もあてられぬ有様なりし。さてまた早百合を呼び出し、「その方、言語同断なり。岡島金一郎と密通の事、明白に知れり」と、眉逆立て、大いに怒り、種々呵責すれど、早百合はもとより「少しもさる覚えなし」とてわび入れど、成政は小柄の證拠などを挙げ、なかなか聞き入れず、つひには早百合をはじめ親類十二人、神通川の辺へ召し出し、手討ちにし、早百合一人は無残にもツルシ切りにしけり。この時、早百合はいと恐ろしき面色にて、血涙を流し、歯を喰ひしばり、申しけるは、「何の科なき者を、奥女中の嫉妬にて、目付役と申し合はせ、無失の罪に落さる。五十四万石、落城さするも、この恨みをはらさで置くべきか」と云ひ捨てて冥目したり。

 なかなかですよ、ストーリーとしてはね。ただ、最後の台詞はちょっとなあ。というのも、結局、富山城は落城しないわけだから。豊臣秀吉に攻められたけど、佐々成政は頭を丸めて詫びを入れ、許される。で、肥後熊本に転封となる。佐々成政はその肥後熊本で領国経営に失敗して詰め腹を切らされるわけだけれど、「これまた早百合のたたりと云ひ伝ふ」というのではちょっと弱い、早百合は「五十四万石、落城さするも、この恨みをはらさで置くべきか」と言って死んだわけだから。これに対し『絵本太閤記』では「おのれ成政、此身は爰に斬罪せらる共、怨恨は惡鬼と成り、數年ならずして汝が子孫を殺し盡し、家名斷絕せしむべし」となっており、こっちの方が史実との整合性も取れている。ただ、富山では早百合伝説と言えば専ら野崎雅明バージョンで、というのもこっちには「ツルシ切り」というわパワーワードが含まれているから(ちなみに『絵本太閤記』だと「持ちたる髮を逆手に取り宙に引上げ、提斬(さげぎり)に切つて落し」云々)。このパワーがいかに強いかは明治42年に刊行された『富山市史』を読めば明らかで――「城西神通河畔磯部堤一本榎ノ下ニ於テ鮟鱇斬トナシ、親族十餘人ヲ殺ス」。「ツルシ切り」がさらにパワーアップして「鮟鱇斬」に。で、今では早百合伝説というと「磯部の一本榎」で「鮟鱇斬」にされたというのが定番になっていて……。ともあれ、この伝承ゆえに佐々成政は永らく極悪非道の人物と見なされてきたわけだけれど、一方で↑に記されたような話は相当に脚色されているであろうことは容易に想像がつく。いくらなんでも鮟鱇の吊るし切りはねえ。で、なぜそういうおどろおどろしい脚色がなされたかといえば、それはむしろ佐々成政は名君だったからで、そのため佐々成政の肥後転封後にその後釜として越中を治めることになった前田家は領民の信任を得ることに手こずった。そこで、前任者の評判を貶めるような作り話を作って広めた、つまりすべては佐々成政の評判を貶めるためのフェイクニュース――というような、それなりに説得力のある〝絵解き〟が示されてもきたものだ。もっとも富山市郷土博物館主任学芸員・萩原大輔氏によれば「意外かもしれないが、前田家が『早百合伝説』を広めようとした証しは、まだ見つかっていない。むしろ、好ましいエピソードを流していた面さえ浮かび上がる」(北日本新聞社刊『武者の覚え 戦国越中の覇者・佐々成政』)。この点についてはワタシも指摘できる事実がある。立山町泊新には「一夜泊稲荷神社」なるものが存在するのだけれど、その祭神は「成正大明神」で、これは成政の遺徳を慕う住民が前田家を憚り成政の字を「成正」と変え、密に信仰していたものとされる。しかし、その後、社は洪水で流失。それを再建したのは、誰あろう、第9代富山藩主・前田利幹だったというのだ(「佐々成政隊がゆく(2) 一夜泊稲荷神社」参照)。このエピソードの前半部分(前田家を憚り成政の字を「成正」と変え、密に信仰していた)だけを聞けば、前田家はさぞや前任者をディスりまくったに違いないと思えるのだけど、しかしその成政を祀る神社を再建したのは他ならぬ前田家だったというのだ。そんな前田家がはたして佐々成政の評判を貶めるためのフェイクニュースを拡散するなんてことがありうるものか……と、まあ、なかなか世の中というのは一刀両断とは行かないものです(ちなみに、先日、見るともなくBSを見ていたら某チャンネルで「櫻○よ○こが一刀両断!」と銘打った番組を放送しておりましたが、そんなことを言っている時点で詐欺師でせう)。ともあれ、こうなるともうなにがなにやら。佐々成政は名君だった? 暴君だった? また「鮟鱇斬」云々は後世の作り話であるにしても、早百合姫が不義密通の嫌疑をかけられてお手討ちになったというのも、もしかしたらフェイク? それとも、これはファクト……? と、疑い出すとキリがない。しかし、ただ1つだけ確かな事実がある。それは、早百合姫という女性が実在したという、このこと。でなければ、長光寺に墓が残されているということはありえないので。また早百合姫の出自をめぐってはさまざまな説があるそうなのだけれど、五福の豪農・奥野与衛門の娘だったというのが最も有力で、早百合姫の墓がその五福の長光寺にある――ということには高い必然性がある。そういうことを考えても、早百合姫は間違いなく実在した。そして、おそらくは不義密通の嫌疑をかけられて手討ちにされた――、それもまず間違いないのではないか? 当時の価値観に照せば、不義密通の噂が立っただけでお手討ちとなるのは致し方ないところ。そこは、佐々成政が名君か暴君かは関係ない。そういう時代だったのだから……。

 と、まあ、↑の「本寺の境内には、佐々成政の愛妾早百合姫の墓が残されている」――という一文からはざっと以上のような思考のそぞろ歩きを促されると言っていいと思うのだけれど――ただ、実際に現地に足を運んでみた結果、その結論部分については多少、修正を余儀なくされたというか。実は実際に長光寺にあるのは「早百合姫の墓」ではないのだ。早百合姫が生まれたとされる奥野家の墓(↓)。墓碑銘として記されているのも「南無阿弥陀仏」の六字の名号と「先祖代々之墓」だけで、どこにも「早百合姫」の名はない。で、どれだどれだとウロウロしていたワタシにお寺の副住職がこれですよと。なるほど、確かにこちらで紹介されているのもこの墓だ。ただ、これは奥野家の墓だからなねえ。この墓の存在を以て早百合姫実在の証左とするのはいささか弱いような……。確かに早百合姫が奥野家の生まれなら、その御魂が奥野家代々の墓に眠っているというのは、至極真っ当な見立てだし、たとえば現代に生きるわれわれが早百合姫の冥福を祈りたいと考えた時、このお墓にお参りするのが筋ということにはなるだろう。ただ、あくまでもこれは奥野家の墓だから。そして、そもそも早百合姫が奥野家の生まれだったというのは、その出自をめぐってさまざまに伝えられている説のうちの1つで、他にも紺屋の娘だとか、桜狩りの帰途、路傍で土下座している群衆の中にいたのを成政が見初めたとか。そうなると、この長光寺にある奥野家代々の墓を以て早百合姫の実在を裏付ける証左とするのは、いささか弱いかなあと。ただし、長光寺では平成19年に『長光寺誌』という瀟洒なデザインの小冊子を刊行しており(副住職からいただきました)、その「長光寺のおいたち」という頁にはこんなことが記されている――「(略)そこで、成政は呉羽山の中腹まで出掛け、剃髪して秀吉に降ったといわれている。というわけで、そこらあたりを道心山というようになったのである。この道心山一帯が安寧坊の領地であったのであろうか。このことを想像させるものとして、成政の愛妾早百合姫の墓らしいものが長光寺の境内に残存している」。どうやら長光寺ないしはその門徒の間ではこの奥野家代々の墓を「早百合姫の墓らしいもの」と見なしてきた、ということのようだ(もしかしたら、もともと「早百合姫の墓らしいもの」があったが、この奥野家代々の墓が建てられた際に合葬された、ということかもしれない。この奥野家代々の墓のような家族墓が一般化したのは明治時代以降とされ、それまではお墓といえば個人墓。大体は埋葬した土の上に野石を置いただけの簡素なものだったようですが、そういう野石の中に「早百合姫の墓らしいもの」があったのかもしれない。現在ではその伝承だけが残って、その野石は残っておらず、代ってこの奥野家代々の墓が「早百合姫の墓らしいもの」としての役目を果たしていると)。まあ、だったら、ワタシもその見立てを尊重することにしましょうか。この奥野家代々の墓こそは「早百合姫の墓」であり、越中の歴史を彩る悲劇のヒロイン・早百合姫はこの長光寺にある奥野家代々の墓に今も眠っている……。


早百合姫の墓

 ということで、ここからがいよいよ本論(え、だったらここまでは?)。早百合姫はこの長光寺の奥野家代々の墓に眠っているとして、その長光寺の本堂で大正14年、大谷女学校(ただし、設立当初の校名は大谷女学校ではなく報徳女学校。校名変更の経緯等については後述)は産声を上げた――ということになる。このことがなにやら頻りに語りかけてくるというか。ハッキリ言うならば、長守覚音は自らが住職を務める寺の境内に眠る早百合姫の御魂を慰めるために女学校を立ち上げたのではないか……?

 早百合姫がいずれにしても非常に不幸な死に方をしたのは間違いないだろう。その早百合姫の悲劇をどう捉えるかについては、これはもういろんな視点があるだろうとは思うのだけれど、ワタシとしてはこう捉えたいと思っている。まず、定説に従って早百合姫という女性を五福の豪農・奥野与衛門の娘で、佐々成政の越中入部の際に差し出された娘の1人と見なす。これを、いわゆる〝玉の輿〟と見なすことは、とてもじゃないけれどできない。なぜなら、こういう場合、女には否も応もないのだから。ただ周りの男たちが決めたことに従うだけ。これによく似たケースとして、暴れ川などを鎮めるための土木工事の際に人柱として若い娘が差し出された――というようなよく聞く話を挙げてもいいだろう。ちなみに、佐々成政は世評に反して名君だったとする立場からの反証として、現在も富山市中番の常願寺川左岸に残る「佐々堤」の工事に当って人柱を禁じたというエピソードが持ち出されることがある。しかし、だったら早百合姫はどうなのか? 早百合姫は越中国を治める新しい領主に側女として差し出され、理由はどうあれ、最終的にはお手討ちという悲劇的な最期を遂げた。言うならば早百合は佐々成政による越中統治の〝人柱〟にされたようなもの……。永年に渡ってこの国の女たちはこういう不条理な仕打ちをされてきた。飢饉の際などに口減らしとして女郎屋に売られる――なんてのは、それこそ時代劇では定番のエピソードだし、また女性は「血の穢れ」があるとして聖なる山への入山が禁じられていた――という事実を挙げておくのもいいかもしれない。あの超常的な思考を持った空海が開いた高野山でさえ女は立ち入ることが許されていなかった。そんな中、真言寺院としては例外的に女性の参詣を認めていた室生寺は「女人高野」と呼ばれて、いささか色物のような(?)扱いも受けていた。で、こうしたモロモロの事実を昇華して――仏教では「生老病死」を「四苦」と呼ぶ。しかし、その「四苦」以外に「女として生まれる」ことの苦があった――と、そうパラフレーズしても許されるのではないか? そして、早百合姫の非業の死とは、こうした「女として生まれる」ことの苦の究極のかたち。

 しかし、時代は変わったのだ。幕末には山本八重という自ら銃を取って戦う女性も現れたし、明治になると平塚らいてうのような女性解放運動に生きる女性や柳原白蓮のような恋に生きる女性も現れた。もう女が男の言いなりになる時代ではなくなったのだ。そんな中、女子教育も盛んになる。津田梅子や山川捨松らが官費留学生として海を渡ったのは早くも明治4年のこと。この際、留学生に女性を加えた黒田清隆というのは大した人物ですよ。もっとも、最初の妻の死をめぐっては佐々成政も眉を顰めるであろうような〝噂〟が伝えられていて、なかなか評価が難しいところではあるのだけれど……。ともあれ、その津田梅子が「女子英学塾」(現在の津田塾大学)を設立するのは明治33年のこと。ただし、これはその前年に公布された私立学校令に基づくもので、そうした正規の法規に拠らない非正規(?)の女学校はもっと早く生まれていた。その第1号は米国改革派教会の女性伝道師メアリー・エディー・キダーが明治3年に横浜・外国人居留地のヘボン施療所内で始めた私塾(この時点では名無し。その後、「フェリス・セミナリー」と名付けられ、現在の「フェリス女学院」へと至る)。その後もジュリア・カロザースが設立し、原胤昭に引き継がれた「原女学校」など、主にミッション系を中心とする女学校の設立が続いた。そんな中、明治20年代に入ると仏教系の女学校が相次いで設立されるようになる。これがいささか意外な様相を呈しておりまして。ここは斎藤昭俊著『近代仏教教育史』(国書刊行会)から引くことにしましょう。まずは明治12年に教育令、19年に帝国大学令、小学校令、師範学校令、23年に教育勅語令が発布されたことを記した上で――

……また画期的なことは政府の女子教育に先駆けて、この時期に仏教徒による女子教育学校がたてられたことである。政府が高等女学校令を出したのは明治三十二年になってからである。仏教による女子教育は明治二十一年綜芸種智院女学校、相愛女学校、六和女学校、女子文芸学舎(のち千代田女学校)、高陽女学校、二十五年淑徳女学校、二十六年女子裁縫学校、京華看護婦学校、二十九年愛敬女学校、三十年以降になると、三十一年仏教仁滋女学校、愛媛女学校、三十二年敬田院女学院、顕道女学校、真龍女学校、扇城女学校、仏教女学校(熊本)、三十三年大谷女学校、文中女学校、三十四年慈愛女学校、三十五年仏教敬愛女学校(播州)、三十八年東亜女学校、東洋女学校、三十九年相愛女子音楽学校、札幌大谷高等女学校、四十年筑紫女学校(福岡)、京都家政高等女学校、小樽実践女学校、菊花女学校(京都)、四十一年成田女学校、進徳女学校、四十三年京都女学校、東洋家政女学校(東京)、北海女学校(札幌)、四十四年華頂女学校、鶴城女学校(福岡)等の女学校がたてられている。これは明治初期と違って仏教が一般普通教育において、仏教主義を根底として、学校教育において仏教を教化の手段乃至は徳育の基礎として用いるに至ったことを示すものである。僧侶教育一辺倒であった仏教教育が女子教育に、更に一般男子教育においても、宗門学校を一般に開放する、または一般教育機関を、仏教主義を基本としてすすめる段階に至ったことが認められるのである。

 もう怒濤の勢いですよ。しかし、そんな仏教系女学校設立のトレンドはこの真宗王国・富山にまでは及んでこなかった。いかにこの地の風土が「保守的」にでき上がっているかということ……。そんな中、大正も最後の年になって遂にささやかな女学校が産声を上げた、それが大谷女学校(当時は報徳女学校)――ということになるわけだけれど、実はこの女学校の立ち上げをめぐっては1つ特記すべき事柄がある。それは、その事業が長光寺の住職である長守覚音の個人的なイニシアチブによって行われたものであると考えられること。ここで大谷高等女学校について『富山県教育史』が記すところを改めて引くなら――「本県で最初に私立高等女学校として設置されたのは、昭和九年設置の大谷実科高等女学校だった。創立者は富山市五福の長光寺の住職、長守覚音であった」。この文面からは、女学校の創設は長守覚音が個人で行ったというふうに読めるではないか。また『長光寺誌』でもその経緯について――「さらに覚音師は、女子の教育に情熱を傾けた。大正十四年(一九二五)四月十六日、実業補習学校として報徳女学校を本堂内に開設した。校長長守覚音外四名の職員と生徒七名での出発であった」。この記載からも同校の創設が長守覚音の個人としての取り組みだった消息が読み取れる。ただし、これも『長光寺誌』によれば、報徳女学校は昭和4年、富山市総曲輪の東本願寺富山別院境内大谷会館に移転している。校名を大谷女学校と改めたのもこの年で、この時点で大谷派が学校経営に参画したことがうかがえる。しかし、少なくともその立ち上げの時点では長守覚音の個人事業だった――、そう考えてまず間違いない。で、これは他の「大谷」の名前を冠する女学校創立の経緯と比較してみた場合、よりその意味合いは明らかとなる。↑の引用部分にも名前の見える「大谷女学校」とはどうやら後の私立姫路高等女学校のことらしく、明治20年、真宗大谷派姫路船場別院院主・大谷勝珍が創設した「崇徳学校」が起源で、それが28年に大谷高等小学校、33年に大谷女学校へと改められた――という経緯だったらしい(詳しくは播磨史談会編『姫路市史』参照)。また「札幌大谷高等女学校」は現在の札幌大谷中学校・高等学校のことで、こちらは同校HPの「沿革」では明治39年、「私立北海女学校創立。70名余入学」ということから記載が始まっており、その時点での大谷派との関りについてはうかがい知ることはできない。しかし、ウィキペディアの記事を見ると、それ以前の32年の出来事として「東本願寺彰如上人(真宗大谷派第23代)来札の際に,学校用地(現・中央区南6条西7丁目)を購入」とあり、その立ち上げに浄土真宗大谷派が関っていたことが裏付けられる。こうなるといずれの大谷女学校も当初から浄土真宗大谷派が経営に関っていたということになる。それに対しわが富山の大谷女学校の場合は、かつては「松林の間に壮麗な伽藍を配する大寺院であった」にしても、現在は櫛比する住宅に隠れるように存在している小さな寺(実際、ワタシが訪ねた時もなかなか場所を見つけられずに狭い道を行ったり来たり)の一住職のイニシアチブによる創設だったのだ。ちなみに『富山県教育史』によれば長守覚音は大谷実科高等女学校設立申請書の中で「経営に努力せるが、其の学科程度低き為め、現代文化的家庭の主婦として、基本教科に遜色あることを痛感致し」――と、なかなか学校経営に苦労していたらしいことをうかがわせている。そりゃあそうだよねえ。本来、学校経営なんて個人でやるものじゃないもの。しかし、彼はそれをやった。こうなると、そうした行動に突き進んだ長守覚音の心中には何か特別な思いが胚胎していたのではないか? と考えざるを得ないではないか。で、そういう思いを持って『五福郷土史』を読み、実際に長光寺にも足を運んだ結果、その境内には早百合姫が眠っていることが明らかになった――となれば、これはもうこういう可能性に思い至るというのは理の当然ですよ。すなわち、長守覚音は自らが住職を務める寺の境内に眠る早百合姫の御魂を慰めるために女学校を立ち上げたのではないか……? 長守覚音は、早百合姫の菩提を弔うべき長光寺住職という立場にあった。当然、誰よりもその無念の思いに耳を傾けたであろうし、誰よりもその無念の思いを体現もしたであろう。そんな人物が富山で最初の私立の高等女学校を立ち上げたとするならば、その心底には早百合姫という非業の死を遂げた1人の女性への思いが伏流していたとしてもなんら不思議はない。むしろここは長守覚音は早百合姫の思いを体して当地では初となる私立高等女学校の立ち上げに邁進した――と考えたい。そう考えていけない理由はなにもないとワタシには思えるのだ。

 実は、こうした仮説の傍証となりそうな事実もある。その事実とは――当初、長光寺の本堂内に設けられた女学校が初めて自前の校舎を持ったのは、『長光寺誌』によれば、それは昭和12年のこと。そして、その場所は――なんと磯部町だったというのだ。そう、あの早百合姫が吊るし切りにされたという「磯部の一本榎」がある、磯部町。これはちょっとした鳥肌ものですよ。しかも、母に聞いたところ、その場所は護国神社のすぐ近くで、校舎の裏手はもう磯部堤だったという。え、だったら、「磯部の一本榎」のすぐ近くじゃないか(土地勘のない県外の方はGoogle Mapでご確認いただければ。「富山縣護國神社」となぜか旧字体で記されている場所のすぐ西側を緩やかなカーブを描いて流れているのが松川で、磯部堤とはその松川沿い約1キロに渡って続く遊歩道のこと。市内屈指の桜の名所として知られる。そして「磯部の一本榎」は「安野屋一丁目公園」の手前、市街地と神通川の河川敷を結ぶ小さな橋がある辺りの下流側にあった。今、その場所には「磯部の一本榎」と記された案内板も設置されている→今年の6月に老朽化を理由に撤去されたらしい)。ね、もう鳥肌ものでしょ? どうやらその場所は今、磯部町公園がある辺りになるらしいのだけれど(国際日本文化研究センターの「所蔵地図データベース」で閲覧できる昭和25年出版の富山市街図でもこのことは確認できる。今、磯部町公園がある辺りに学校を表す地図記号が記載されている→昭和15年出版の「富山市略図」を入手しました。こちらにはハッキリと「大谷女学校」と記されている!)、とするなら磯部堤はそれこそ校舎のすぐ裏手で、そこからかれこれ100メートルばかり川下方面に下った辺りに早百合姫の一本榎は生えていた――この周辺一帯が「富山大空襲」で焼き尽くされる昭和20年8月2日までは――。これは、偶然だろうか? まあ、偶然でしょうねえ。たまたま磯部に適当な土地があった、と考えるのが穏当でしょう。しかし、長守覚音が「磯部の一本榎」に関る伝承を知らなかったはずはない。知っていて、磯部を校舎の建設場所とすることに同意した。ここならば、女学校を建てる場所にふさわしい――、そう判断して。どうもワタシにはそんなふうに思えてならないのだ。

 しかし、当の大谷高等女学校の生徒たちにとっては「磯部の一本榎」はどのような場所だったろう? 母に聞くと、近くにちょっと曰くのある場所があるということは生徒たちの間でも話題になっていたという。しかし、生徒たちにとってその場所は泉鏡花が「蛇くひ」で描いたようなおどろおどろしい場所ではなかったのではないか? 「傍に一本、榎を植ゆ、年經る大樹鬱蒼と繁茂りて、晝も梟の威を扶けて鴉に塒を貸さず、夜陰人靜まりて一陣の風枝を拂へば、愁然たる聲ありておうおうと唸くが如し」――というような場所では。え、なぜそう思うのかって? これこそは長守覚音が磯部を校舎の建設場所としてふさわしいと判断した(とワタシが思う)理由でもあるのだけれど――古来、日本には「御霊信仰」というものがある。恨みを呑んで死んだ人間は、まず怨霊となる。しかし、その怨霊は手厚く弔いさえすれば一転して守り神となるのだ。それが、「御霊」。早百合姫は間違いなく怨霊となった。そして、佐々成政を呪い殺した。しかし、その霊は永らく長光寺で手厚く弔われてきた。そのことを長光寺にある「早百合姫の墓」は教えてくれる。であるならば、必ずや早百合姫の怨霊は御霊に転じたはず。そして、大谷高等女学校の生徒たちを見守ってくれていた――。実際、大谷高等女学校があった一帯は「富山大空襲」で大変な被害を被ったにもかかわらず、生徒たちは被災を免れた。勤労動員で楡原の高田アルミニューム富山工場に行っていたので(ただし、『長光寺誌』によれば、全員が高田アルミニューム富山工場に動員されていたわけではなく、不二越や東亜麻工業富山工場に動員されていたものもいたらしい。この内、清水町にあった東亜麻工業富山工場は被災している。なんでも燃料タンクが爆発するなど、完全に焼失したらしい。しかし、これも『長光寺誌』に掲載されている同校卒業生・中坪民子さんの証言によれば、事前に長守覚音の指示で水橋三郷の農家へ避難していたので一命を拾ったという。米軍の事前予告を誰もがデマだと決めつける中、長守覚音だけは「これは真実だ。必ず来る」と言って生徒たちを避難させた――と、そう中坪民子さんは証言している)。きっと早百合姫が守ってくれたんだよ。そう考えるならば、むしろ「磯部の一本榎」は彼女たちが得も言われぬ暖かさに包まれる場所――なにかに見守られているような、ほっこりとする暖かさに……。


磯部の一本榎(絵葉書)

付記 もしくは少し長めのキャプション 「神通川堤上の一本榎」と印字された絵葉書。ヤクオクにて500円で入手。まだ植樹して間もない桜の苗木と思われるものが認められるので、おそらくは大正時代のものだろう(磯部堤の桜は大正天皇の御大典を記念して大正4年に植えられている)。「磯部の一本榎」をあしらった絵葉書は他にも2点ばかり確認されており、この場所が「早百合伝説」に起因する忌み嫌うべき場所ではなく、むしろ名所であったことがうかがえる。きっとこの木の下を大谷高等女学校の生徒たちが噂話に花を咲かせながら行き来したのだろう。もしかしたら、木陰に休んで将来の夢を語り合ったこともあったのかもしれない。そして、そんな少女たちを早百合姫は優しく見守っていた……。

 なお、松川沿いの磯部堤に生えているのに、なぜ「神通川堤上の一本榎」なのか? そう疑問に思われるであろう特に県外の方のために書いておくと、実はかつて神通川は現在の松川に沿って流れていた。それを明治時代に当時のお金で27万円という巨費を投じて現在の流れに変えた。つまり、現在の松川はかつての神通川の名残ということになる。「北日本新聞」の「ふるさと探訪 富山県の近代史19 松川の誕生」によれば、大正10年頃の新聞には「松川、別名總川(そうかわ)」という記述が見られるとかで、この時代に松川という名称が普及しはじめたことがうかがえる。↑の絵葉書が大正初めのものだと考えれば、「神通川堤上の一本榎」とキャプションを付されているのも不思議はない、ということになる。それにしても、凄いよね。神通川という一級河川の流路を変えてしまったのだ、明治の越中人は。ただただ頭が下がります。ただし、歴史を遡れば神通川は何度も流路を変えており、今の松川の流路に沿って大きく蛇行するという明治の改修工事前のかたちとなったのは佐々成政が越中の領主だった時代だという(「成政と神通川」参照)。そんなこともあって「成政が神通川を曲げた」という言い伝えまで残っているとか。実際には成政は神通川の流れを変える(曲げる)のではなく、固定するための工事を行なったらしいのだけれど、それが「成政が神通川を曲げた」というかたちで伝わっているあたり、まるで讃岐の満濃池をめぐって「弘法大師が地に釈杖をついて湧き出させた水が池となった」と言い伝えられているようなもので、領民の佐々成政への思慕の念はほとんど信仰に近かった、ということなのかもしれない。もっとも、佐々成政が行なった治水工事の痕跡は残っていないらしい。もしかしたら、明治の改修工事の際に破壊された? いや、わからんぞ。そのうちタモリがやってきて〝発見〟することになるかも……?


追記 昭和11年に刊行された古谷常蔵著『越乃中州研究資料 こまさらへ』によれば、早百合伝説と「磯部の一本榎」を結びつけるのは間違いだそうです。確かに早百合姫に縁の大榎はあったものの、その場所は磯部ではなく、婦負郡五福村だそうです。しかも、その場所は、なんと、現在、長光寺が建っているところだそうだ。曰く「従来富山ノ史家此榎ヲ不浄木トナス大ナル誤リナルヘシ蒐集シタル古記口碑等ヲ綜合スルニ(略)今ニ残ル五福長光寺本堂地下ニアル榎ノ樹根コレ早百合姫ニ縁スル榎ト推定ス」。なんでも長光寺は文政年間までは婦負郡熊野村大字下井沢村にあったとかで、それが現在地に移転する際に件の大榎を伐採し、その上に本堂を建てた、ということらしい。さらに「寺傳に云」として「元々小墓本堂ノ箇所ニアリテ傍ニ磯部榎二倍大ノ榎存セシガ本堂新築ニ際シ切伐ス」。この「小墓」が早百合姫の墓であった可能性もある。ただ、古谷常蔵が全くの在野の研究者ということもあって(古谷常蔵は薬業関係の家業に従事しながら越中に関する多種多様な史資料を収集した人で昭和7年に『富山郷土史研究資料 屑籠から』、同15年に『越乃中州研究資料 すゝはき』を刊行している)、この説が広く一般に受け容れられるには至らなかった、ということらしい。ワタシとしてもどこまで信用していいか迷うところで、一応、こういう説もある、ということで書いておくに止めます。しかし、「磯部の一本榎」は何の関係もないとなると、この記事で書いたことは……。