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再びぼっちは語る
〜もしも阿彦峅が布施阿弭古峅だったら〜

 TVerで「ヒロシのぼっちキャンプ」を見ていて思ったんだが……おれって、自宅でキャンプしているぼっちキャンパーなのではないかと。食っているのはキャンプ飯みたいなものだし。眠っているのは万年床という名のシュラフ(?)だし。だから、ほぼほぼぼっちキャンパーだろうと。で、そうであるならば、今、自分が置かれた境遇もそんなに悲観すべきものではないのかな、と。ここは、そう考えて、もう少し〝キャンプ飯〟に工夫を凝らすこととしようか。たとえば、インスタントラーメンを食うにしても、もやしをトッピングするとか、焼き海苔をトッピングするとか。ヒロシなんて、焼きベーコンまでトッピングしていたからなあ。あの姿勢は見習わなければ……。もっとも、「ヒロシのぼっちキャンプ」は、ぼっちキャンプとは言いながら、ぼっちじゃないけどね。少なくとも、カメラマンは同行しているわけだし。さらに、エンディングのクレジットを見ると、どんだけスタッフが関わってんだと。一方、YouTubeには本当にひとりでやっていると思われるキャンプ動画がたくさん上っていて、中にはなかなかのクオリティのものもある。こうなると、何も「ヒロシのぼっちキャンプ」をことさら持ち上げる理由はないような? ただ、多くのスタッフが関わっている「ヒロシのぼっちキャンプ」と本当にひとりでやっていると思われるキャンプ動画のどっちによりぼっちを感じるかというと……「ヒロシのぼっちキャンプ」なんだよ。その理由は、独り言。本当のぼっちは、滅茶苦茶、喋る。そうしないことには、淋しくてやりきれない。ところが、YouTubeに上っているキャンプ動画の中には無言を貫いているものが少なくない。それはそれで強いメッセージを放っているとは言えるけれど。でも、無言でいられるってのは、ぼっちじゃないからだよ。きっと普段は人に囲まれているんだろう。そして、会話に満たされている。そのインターミッションとしての無言劇。だから、あの無言に貫かれたキャンプ動画群におれはちっともぼっちを感じないんだよ。それが感じられるのは「ヒロシのぼっちキャンプ」。あのとりとめのない独り言こそはぼっちの習性だよ。多分、ヒロシはカメラが回っていなくても喋ってるよ。だって、それがぼっちだから。

 さて、「再びぼっちは語る」だ。今回も越中佐伯氏についてということになるんだけれど……古代の越中で繰り広げられたとされる「阿彦の乱」。この伝承について記した『喚起泉達録』では阿彦は阿彦峅という名前で記されている。ただ、阿彦が氏で峅が名、と決めつけることはできない。なぜなら、古代の日本には阿弭古なる姓があったとされるので。しかも、阿弭古は阿比古、我孫、吾孫など、さまざまに表記されていたとされており、そうであるならば阿彦もその一つ、と見なすことも可能。実際、直木孝次郎は「阿比古考」(『日本古代国家の構造』所収)で平安初期頃までの史料からピックアップしたという「阿比古姓者一覧」に阿彦を加えている(なお、その史料とは『喚起泉達録』ではなく、伊勢神宮外宮・豊受大神宮に伝わる「豊受大神宮禰宜補任次第」。阿彦が「越國荒振凶賊阿彦」として記載されている)。

 で、阿彦も阿弭古の異表記の一つと見なすならば、阿彦峅は筑紫君磐井や大墓公阿弖流為と同じように大和朝廷の支配体制に組み込まれた地方官吏だったという解釈が可能になる。そして、そんな阿彦峅が起こした阿彦の乱とは、磐井の乱やアテルイの乱と同じ地方官吏の反乱だった――という、少しばかり意外な結論となる。また、阿彦はあくまでも姓なので、仮に氏のように流布していたケースがあったとしても(そういうケースが見受けられることを直木孝次郎は指摘している。曰く「我孫公または我孫という氏姓があったことは姓氏録に見え、姓氏録以外でも、我孫君嶋道・吾孫人主・阿比古道成など、阿比古(我孫)をウヂのように用いた人名は少なからず存する」。ただし、「阿比古は公・造・連・直などに対応するもの、すなわちカバネの類とするのが自然である」「阿比古がカバネのように用いられ、実際にもカバネの一種とみなされていたことは、ほぼ誤りがない」というのが直木孝次郎の基本的な認識。その一方で「我孫公(君)・軽我孫公、あるいは阿比古、阿比古部などの例からするならば、ウヂのようにみなされていたことも否定できない」。で、この「二つの一見矛盾する如き性格が、どのような事情で生れたか」を解き明かすのが「阿比古考」の狙いなのだが……ともあれ、阿弭古は、基本的には公・造・連・直と同じ姓である。で、そうであるならば→)本来の氏は別にあったはずで、それはおそらくは布施だろう。というのも、『喚起泉達録』のブラッシュアップ版とも言うべき『肯搆泉達録』(『喚起泉達録』の撰述者である野崎伝助の孫・野崎雅明が文化12年に著した書)では、阿彦峅の出自についてこう説明しているのだ――「布勢の神、倉稲魂命の胤、布瀬比古の後、東條彦の孫なり」。この布勢(布瀬)を新川郡布施郷と見なすならば、阿彦峅とはその布施郷に根を張る豪族の末裔だったということになる。で、豪族の氏名は往々にして地名とイコールなので(筑紫君磐井もそうだし大墓公阿弖流為もそう。なお、大墓の比定地については岩手県奥州市水沢羽田町の田茂山とする説がある)阿彦峅の歴史的に正しい呼称は布施阿弭古峅(ふせのあびこたけし)だったという仮説が生み出される。で、以下はこの仮説を前提にして……

 越中佐伯氏について考える場合、謎なのは、なぜその発祥の地が新川郡布施郷だったのか? ということがある。いや、越中佐伯氏の発祥の地が新川郡布施郷だというのは必ずしも確定した事実とは言えないんだけれど、今に伝わる立山縁起の一つ「立山略縁起」では「人王四十二代文武天皇の御宇に、志賀の京ゟ佐伯有若ハ、越中の郡主をたまハり、布施院に居城す」。また「立山小縁起」でも「大宝元年春二月十六日、志賀都四条部主越中之守佐伯直朝臣有若卿始到越之中州、依居于布勢之保犬山府」。で、芦峅寺の宿坊・大仙坊の出身で、戦後、雄山神社の宮司も務めた佐伯幸長は昭和48年に著した『立山信仰の源流と変遷』で――「もし私の勝手な推論を許されるならば、有若公の越中守は遥任であって京師に居住され、その子何人かが父祖歴世治領の布施郷加積郷の一帯の地に来て住み、その中の一人である有頼公が当時の思潮に憧憬し仏門に帰入して修業し、父を主とする佐伯一族の政治的財政的力を背景として立山の開山建立に一生を捧げたのではあるまいか」。だから、新川郡布施郷こそは越中佐伯氏の発祥の地と見なしていいだろう。で、なんで佐伯氏はこの地に根を下ろしたかなんだけれど……そもそも、大伴家持(佐伯有若と祖を同じくする同族)がこの地を頻繁に訪れていたという事実がある。これは、かの有名な「立山の賦」に添えられた短歌から読みとれる事実で――「片貝の 川の瀬清く 行く水の 絶ゆることなく あり通ひ見む」。この最後の「あり通ひ見む」は「幾度も通って見続けたいものよ」と解釈するのが正しいようなので(出典はこちらです)、つまりは大伴家持としてはこの片貝川が流れる布施の地を今後も繰り返し訪れる意向であることを明しているのだ。

 なぜ越中国司である大伴家持がそんなに頻繁に新川郡布施郷を訪れるのか? それは、なぜ佐伯有若がこの地に居館を構えたのか、ということにも繋がるわけだけれど……古来、この地には布施氏が勢力を誇っていた。それを裏付けるのが『肯搆泉達録』の記載。そして、布施氏は、いつの時代かは不明だが、朝廷から阿弭古なる姓を賜った。で、ここで再び直木孝次郎の所論を引くこととなるのだが――『日本書紀』仁徳天皇43年9月条に「依網屯倉阿弭古」なる人物が出てくるそうだ。これを依網(=よさみ。摂津国住吉郡大羅郷、河内国丹比郡依羅郷など、いくつかの比定地が取り沙汰されている地名)の屯倉(=みやけ。朝廷の直轄領を意味する)の阿弭古と読むならば、この場合の阿弭古とは「ウヂでもなければカバネとも思われない。屯倉に関係した官職とみるのが、この場合一番適した解釈であろう」。要するに、屯倉の管理を担っていた地方官を阿弭古と称したのではないかと。それが、いつしか姓となり、さらには氏にもなった、というのが、直木孝次郎が「阿比古考」に書いていることの要旨ということになる。で、もしそうならば、昔、布施郷にも屯倉があったのでは? あるいは、ここはこういう考え方もできるかも知れない――布施氏が大和朝廷への臣従の証として領地を差し出し、朝廷は差し出された領地を屯倉とした上で布施氏に管理を任せた……。これに関して参考になるのは、筑紫君磐井の嫡男・葛子が死罪を免れるために朝廷に糟屋屯倉を献じたというエピソード。これについては『日本書紀』にそう記されているわけだが(「廿二年冬十一月甲寅朔甲子、大将軍物部大連麁鹿火親ら賊帥磐井と筑紫の御井郡に交戦ふ。旗皷相望み、埃塵相接げり。機を両陣の間に決めて、萬死の地を避けず。遂に磐井を斬りて、果して疆場を定む。十二月、筑紫君葛子、父に坐りて誅せられむことを恐れて、糟屋屯倉を献り、死罪を贖はむことを求む」)、ただ「糟屋屯倉を献り」というのはどうかな。そもそも屯倉とは朝廷の直轄領のことなんだから。それを「献る」というのはおかしい。むしろ、葛子が筑紫氏の領地を差し出し、それを朝廷が屯倉として定めた、ということだろう。で、これは戦争の賠償として領地が差し出され、屯倉になったというケースだけれど、地方豪族が自ら領地を差し出し、屯倉となった、というケースもあったのでは? この場合、形の上では地方豪族は領地を差し出したことになるわけだけれど、引き続きその管理を朝廷から任されたとするならば、実質的には所領安堵と変わりはない。大和朝廷は、そういう形で地方豪族の取り込みを図っていた、と考えることもできる。それが、この国の国情にも合っている、という気がするし……。ともあれ、新川郡布施郷を本拠地とする豪族がいて、彼らは朝廷から阿弭古なる姓を賜っていた――とするならば、同地には朝廷の直轄領である屯倉があった可能性が高い。なんでも屯倉は大化の改新により廃止となったそうだけれど、単に名目が変わっただけで引き続き朝廷の直轄領であったことには変わりはないのでは? で、そうであるならば、大伴家持が頻繁に訪れたのも腑に落ちるし、佐伯有若が居館を構えたのも納得が行く。国司である以上、むしろそれは当然の務めだったのだ。

 その上で、佐伯有頼はこの地から立山を目ざしたわけだけれど……その理由については、あの神々しい峰々を目の当たりにすれば、当然のこと、とは言えるだろう。ただ、ここはあえて阿彦伝説との関わりで考えたい。実は『喚起泉達録』では阿彦党のアジトは「岩峅之保」にあったとされているのだ。ここは、同書から最もキャッチーな一節を紹介しよう。有り体に言って、おれはこの一説を読んで阿彦峅の虜となった――「阿彦峅父ノ国主没タル後ハ岩峅ニ居住セシガ己ガ勇ニ誇人ヲ蔑大彦命帰洛ノ後ハ世ニ恐ル者ナシト身ヲ懶惰ニナシテ奢侈日夜ニ募朝暮荒酒色テ暫クモ農業ヲ不顧適モ是ヲ諌ントスル者アレハ眼ヲイカラシ艮時ニ打殺仮ニモ己ニ乖者ハ扯拆捨ユヘ人皆怖ハナヽキ欲心熾盛ノ凶賊較ルニ人ナク本ヨリ敵スルニ及バザレバ猛意ノ族ト云レシモカレガ強気ニ攔レ今ハ嗟ノ裡見テ侫媚ルヲ所全トセリ故ニ何㕝モ彼ガ云侭ナレバ世ニ我有テ人無ト擘ヲ張弥嗜酒只殺伐ヲ明暮ノ弄ビ物トナシケルハ身毛堅バカリ也」。

 この最後の「只殺伐ヲ明暮ノ弄ビ物トナシケル」というのが、もうね……。で、阿彦伝説というのは、あくまでも伝説であって、史実とは言えないわけだけれど、そういう伝説が存在した、というのは否定しようのない事実なんだよ。でなけりゃ、野崎伝助だって採録のしようがない。で、阿彦峅に関わる伝説は佐伯有頼の時代には既に存在していたとするならば……有頼もその伝説に触れただろう。そして、「岩峅之保」に興味をそそられた……。ここで、「立山略縁起」の一節を紹介しよう――「爰に大宝元辛丑年、立山大権現ハ熊と化し、刀尾天神ハ鷹と化し、則布施の城に入玉ふ時、城主の嫡男佐伯有頼公、此鷹を志し則出玉ふ時、其跡を志たひ、高山に登り、岩峅に向かひ玉ふに、熊鷹一度に彼の玉殿の窟に入、熊ハ生身乃阿弥陀如来と現し、鷹ハ大聖不動明王と現れ玉へハ、忽ちに窟之内外、如来の大光明ニ照され、則極楽浄土を、有頼ハ親に拝し奉り」云々。そう、佐伯有頼が目ざしたのは、他でもない、岩峅だったのだ。ここに、阿彦伝説との強いつながりを感ずるのは、いささか阿彦伝説に引き摺られすぎだろうか? いや、おれはそうは思わない。佐伯有頼は、阿彦伝説に魅せられ、その舞台である「岩峅之保」を目ざしたのだ。阿彦伝説には、それほどの魅力がある。現におれは夢中なんだから。おれはペーパーバック屋だったころにやっていたブログでも阿彦伝説について書いているし、このブログでも書いている。さらに「トラベルライターの甥とみゃあらくもんの叔父#3」でも書いている。おれがこんなに夢中なんだから、佐伯有頼が夢中にならないはずがない。

 以上、もしも阿彦峅が布施阿弭古峅だったら、という話……。



 せっかくだから、YouTubeで見つけたヒロシの動画を貼っておきます。提供元はネッツ熊本なので、トヨタの車のプロモーションのためのものでしょう。そう言えば、ヒロシは熊本県荒尾市の出身なんだね。この動画でもヒロシはずーっと喋っている。トヨタのプロモーションに起用されようが、彼はぼっちなんですよ。ここは、そう理解することにしよう。