われながら、すごいタイトルをつけたもんだ。でも、おれは紛れもなく「反日分子」だって。何を以てそう言うかというと……今、おれの手元には、1976年に「東アジア反日武装戦線」を救援する会(準)が発行した『「東アジア反日武装戦線」を救援する会通信 第2号』がある。この通信(パンフレット)には「アジア人民の歴史的な憎悪と怨念は、私たち日帝本国人に、まず天皇ヒロヒトをこそ死刑執行せよ、と要求している。」が掲載されていて、そんなものを得意満面で持ち出してくるんだから、おれが「反日分子」であるのは明かだろう。
そんな「反日分子」が、日本の古代史はおもしろい、と。で、しばらくこの方面で遊んでみようか……と、そんなことを考えているんだから、多分、アタマがどうかしちゃったんだろうな。
ということで、最初に佐伯男(さえきのおとこ)という男のことを書いておこう。漢字で、ただ一字、男。何とも男らしい。これぞmasculineというやつだな(ちなみに、masculineの反対語がfeminine)。では、この佐伯男、一体どんな「男」なのかというと、これが、案に相違して……。佐伯男は、かの壬申の乱の敗者である大友皇子の近臣で、大海人皇子の挙兵が伝えられるや、近江朝廷では各地に使者を派遣して参陣を促すこととなるのだが、この際、筑紫国に遣わされることになったのが佐伯男。どういうプロフィールの人物かというと、中大兄皇子が蘇我入鹿を討った乙巳の変で入鹿に止めを刺した佐伯子麻呂の又甥(子麻呂の兄・東人の孫)で、大友皇子は天智天皇(中大兄皇子)の第一皇子に当たるわけだから、中大兄皇子と佐伯子麻呂の関係がそのまま大友皇子と佐伯男の関係に引き継がれているように思える。いずれにしても、大友皇子にとっては頼りになる側近だったのだろう。で、このときも近江朝廷の存亡に関わる重大なミッションを託されることになったわけだが……さて、ミッションの結果や如何に? 『日本書紀』が記すところによれば――「男筑紫に至る。時に栗隈王、符を承けて対へて曰く、筑紫国は元より辺賊の難を戍(まも)る。其の城を峻(たか)くし湟(みぞ)を深くして、海に臨みて守らするは、豈に内賊の為めならん耶。今命(みこと)を畏みて軍を為さば、則ち国空しけむ。若し不意(おもひ)の外に、倉卒(にはか)なる事有らば、頓(ひたふる)に社稷(くに)傾きなむ。然る後に百たび臣を殺すと雖も、何の益かあらむ。豈に敢て徳(いきほひ)に背かむや。輙(たやす)く兵を動かさざることは、其れ是の縁(よし)なり。時に栗隈王の二子、三野王、武家王、剱を佩きて側に立ちて退くこと無し。是に、男剱を按(とりしば)りて進まむと欲(おも)ふも、還りて亡(うしな)はれむことを恐る。故れ事を成すこと能はずして、空しく還りむ」(岩波文庫版『訓読日本書紀』より)。要するに、すごすごと引き下がったと。その後、各地で繰り広げられることになる大海人皇子軍との合戦では近江朝廷軍は敗戦に次ぐ敗戦。遂に7月22日には瀬田川を突破され、もはやここまでと覚悟を決めた大友皇子は山前(現在の滋賀県大津市御陵町。宮内庁が治定した「長等山前陵」がある)で首を縊って果てた。で、この間、佐伯男がどうしていたのかは『日本書紀』からはうかがい知れない。ただ、ここに一つの異説があって、実は大友皇子は山前では死んでおらず、少数の側近とともに東国に落ち延びたというのだ。落ちた先は総州で、その望多郡小櫃領阿比留の庄小川村(出典は『総州久留里軍記』)に御所を構え、デ・ファクトの王朝を開くのだが、天武天皇が放った追討軍に攻められ、最後はさる川のほとりで自刃して果てたという。今、その川は「御腹川」と呼ばれているとかで、元よりこの故事に因んでそう呼ばれるようになったものである……。で、この大友皇子の「東下り」に扈従した近臣としては蘇我赤兄(そがのあかえ)や紀大人(きのうし)という名前が伝えられているものの、佐伯男という名前は伝えられていない。要するに、佐伯男の動向は正史からも稗史からもうかがい知れないわけだが、完全に歴史から姿を消してしまったかというか、そうではなく、和銅元年(708年)には大倭守に任じられていることが『続日本紀』で確認できる。となると、いずれかのタイミングで大海人皇子側に降った、ということだろう。そして、許されて、天武天皇の臣となった。そういうこと、なんだろう、おそらくは。なんとも世渡り上手というか。これは「布施に有縁の地あり〜おれはひとりぼっちじゃない、〈彼ら〉がいる限り〜」でも書いたんだが、おれの父方の祖父は佐伯という家の生まれで、佐伯氏とは多少(多生ではない、あくまでも多少です)の縁がある、ということになる。そんな立場で考えるなら、この男は、人生の黄昏に際して、己が生涯をふり返り、名前に恥じぬ生き方ができた、と思えたんだろうか? と、そんなことが妙に気になる……。
さて、ここで、佐伯男がかくも鮮やかな変わり身を演じて見せた壬申の乱という日本の古代史における最大の事件(スキャンダル?)に話を移したいんだが、一つキーとなる論点があって、上述のごとく大友皇子をめぐっては、山前では死んでおらず、少数の側近とともに東国に落ち延びた、という異説があるわけだが、実は大友皇子をめぐっては、もう一つ、しかも深刻さの度合いから言えば比較にならないくらいの異説があって、それは大友皇子は天智天皇の崩御の2日後(天智天皇10年12月5日)、近江で即位していた、というのだ。しかも、ウィキペディアの「大友皇子即位説」を読むと、かつては異説というよりも常識とされており、それを踏まえる形で、明治3年、国は弘文天皇という諡号を追奉している。しかし、その後、根拠とされる史料の信憑性などが問題視され、現在では支持する研究者はいないとされる。一方で松本清張は『壬申の乱』で「大友即位は当時の状況から客観的に帰納できる」とするなど、即位説が完全に否定されたわけではないようだ。で、おれはおれで「大友皇子即位説」――よりも「弘文天皇即位説」の方がしっくり来るな、かつて『「東武皇帝」即位説の真相 もしくはあてどないペーパー・ディテクティヴの軌跡』を書いた身としては――に信憑性を感じていて。というのも、いずれにしたって甥から権力を簒奪することになったことには違いない大海人皇子は都を近江から飛鳥に移し(戻し)、天武朝を開くこととなるのだが、その天武朝は代にするならば8代、年にするならば97年で潰えているのだ(宝亀元年に至って、皇位を継承するものがいなくなり、弘文天皇の甥の白壁王が第49代光仁天皇として即位した)。しかも、その間には女帝が4人も誕生しており、きわめて歪な皇位継承が行われたと言わざるを得ない。その揚げ句の皇統断絶。おれはね、こうした結果になったのは、怨霊の仕業だと思うんだよ。他ならぬ、弘文天皇の怨霊。わが国では無念の死を遂げたものは往々にして怨霊と化すが、一つの皇統を断絶に追い込むほどの恨みを持ち得るのは天皇の怨霊だけだろう。
ということを前提にして、こっからは(とりあえず壬申の乱とは何の関係もない)ある歴史小説について。その歴史小説とは、澤田ふじ子の『陸奥甲冑記』。→は1981年に出版された初版ですが、帯にはこう書かれている――「桓武天皇が策する中央集権化の怒濤に抗し部族連合国家の安寧を願う阿弖流為ら東国蝦夷たちの哀しくも凄絶な潰えの日々を描く」(なお、参考情報として書き添えておくなら、桓武天皇は光仁天皇の子に当たる)。おれが知る限り、大和朝廷による蝦夷征討を真っ正面から描いた小説はこれが初めて。で、おれはこの小説をちょっと前に読んでいたんだけれど(「布施に有縁の地あり〜おれはひとりぼっちじゃない、〈彼ら〉がいる限り〜」を書く前)、今日までこの小説について書くのは保留していた。というのも、どう解釈すればいいのか、判断に戸惑うパートがあるんだ。それは、第6章で、章題からしてスゴイ。それは「天皇弑逆」。最初に本を入手して、目次を見た時点で、はて、平安時代に「天皇弑逆」なんてタイトルで語られるような出来事があったかなあ、てな感じだったんだけれど、読んでど肝を抜かれた。なんと、この「天皇弑逆」とは、アテルイら蝦夷側が桓武天皇の暗殺を図って敢行した秘密作戦を指しているのだ。言うまでもなく、そんな史実は、ない。ただ、この小説ではそういう作戦が敢行されたことになっており、それを第6章を丸々使って描いているのだ。で、当然のことながら作戦は失敗に終わるわけだけれど(蝦夷サイドから内通者が出て作戦を知ることとなった坂上田村麻呂が急派した特殊部隊が近江国に先回りして蝦夷らを待ち受けて、一網打尽にする)、なんともぶっ飛んでいるというか。実は、この小説、多分にエンタメ要素がまぶされていて、主人公は坂上田村麻呂でもなければアテルイでもなく、耳無という盗賊だったりする。父の黒麻呂は大伴駿河麻呂に仕える下級兵士だったが、宝亀2年(771年)の征夷戦に従軍し、そのまま帰ることはなかった。一年後、留守宅を訪ねてきた黒麻呂の上役だったという男が語るところによれば、蝦夷を懐柔する「饗給の兵」として出かけたきり行方不明になったという。おそらくは、討たれたか……。そう言う男の声は沈痛だったが、なんとその男と黒麻呂の妻ができてしまった。純真無垢だった耳無はこの不貞行為を許せず、男を刺し殺すと(さすがに母は殺せない)家を出奔した。そして、盗賊となった。しかも、呪術をも操る、底知れぬ能力を備えた……。そんな耳無を「使える」と見込んだのが紀古佐美で、後に征東大将軍を務めることになる人物。今は藤原継縄の右腕として長岡京造営に力を注いでいた。そんな紀古佐美は陰陽師からの情報を元に耳無の存在を知り、討ち取ると見せかけて、その実、諜者として召し抱える。そして、征東大将軍となるや、耳無にあるミッションを課す。それは、アテルイの暗殺――「やってこい。奴を討ち取れば、褒美はおぬしの望む通り与えてやる」。蝦夷を父の仇と憎む耳無は得たりや応とアテルイの館に忍び込むのだが、そこで思いがけない人物と再会する。それが、黒麻呂。死んだと思っていた黒麻呂は生きており、しかもアテルイに保護されていたのだ。上役(耳無が殺した男)に欺かれ、谷底に落とされ、瀕死の身となっているところを救ってくれたのが先代の族長であり、今もアテルイの館の一室で盲目となった身を養っていた。この事実を知らされた耳無は、一転、アテルイに仕えることを決意する。これまで蝦夷に向けていた憎しみを大和に向けて滾らせながら……と、1980年代に一世を風靡した冒険小説もかくやというエンタメ要素が満載の歴史小説なので、史実にないエピソードが出てきてもそれ自体は驚くには当たらない。でも、天皇暗殺は、さすがに。おれが知る限り、わが国のエンタメ小説で天皇暗殺をモチーフとしたものはないよ。この『陸奥甲冑記』が、唯一。で、なんで澤田ふじ子はこんな(船戸与一も手を出さなかったような!)物騒なモチーフを歴史小説に持ち込んだんだろう……と、そのことが、不思議で不思議で。実は、おれはこの人が書いた「むなしく候――小倉宮挙兵」(『村雨の首』所収)を読んでいて、この人が(ここで「女だてらに」と言葉を挟めば典型的なジェンダーバイアスになるんでしょうが、本稿では最初に「男」に対するジェンダーバイアス的な言説を繰り出しているので、バランスをとる意味ではむしろ「女だてらに」と言葉を挟むべき?)相当にヤバいモチーフにも果敢に手を出す人だとは知っていた。でも、「天皇弑逆」は想像の範疇を超えているよ。あの柔らかな笑顔のどこにそんなパッションが?
――と、そんなこんなで、今日まで書くのは保留していたわけだけれど……壬申の乱について考えていたら、なんとなく見えてくるものがあった。もしかしたら、澤田ふじ子には歴史小説家ならではの歴史に対するパースペクティブがあって、天皇に対する反逆は決してタブーではない、という確信があったのでは? 現に大海人皇子が弘文天皇を倒して皇位に即いたという事実(「弘文天皇即位説」の信憑性は既におれが立証したつもり。また、現に弘文天皇は第39代天皇として今なお歴代天皇の聖壇に列せらている。それにしても、明治政府もよくやったもんだよ。甥と叔父と言ったら、明治天皇と輪王寺宮の関係と同じなんだから。下手をしたら、戊辰戦争中の輪王寺宮のふるまいにお墨付きを与えることにもなりかねない……つーか、輪王寺宮は自らを大海人皇子に準えればよかったわけか! そこを見落としていたなあ……)があるわけだから。天皇に対する反逆を「大逆」としてさも日本の国体に反する行為であるかのように言い立てるのは後代のフレームアップであり、歴史上、天皇に対する反逆は、あった。天皇を武力で倒して皇位に即いた天皇さえいた。であるならば、まだ大和朝廷の支配に服さない蝦夷が「天皇弑逆」を目論んで(そういうストーリーを構想して)何の問題がある……。
蛇足。純粋に小説として考えるならば、第6章はなくてもいい。それでも小説としては成立すると思う。つーか、むしろ、ない方がいいかな。だって、仮にも天皇暗殺を図ったとするならば、公卿らがアテルイとモレに極刑を下すのは当然の措置、ということになってしまうじゃないか。で、『日本紀略』によれば、この際、坂上田村麻呂は「此の度は願に任せて返入せしめ、其の賊類を招かむ」――と、アテルイを陸奥国へ送還するよう進言。当然、『陸奥甲冑記』でも――「阿弖流為に対し、それがしは、一命にかえても主上に助命を請うつもりだと申してまいった。それもご勘考ありたい。また、阿弖流為を無事胆沢に帰し、奥地の蝦夷を帰順させる役につけることこそ、肝要ではございますまいか。母礼など、もうただの好々爺になっておりまする。なにとぞ、二人の命をお助けくださいますよう、主上にお取りなし願わしゅう存じまする」。でもね、坂上田村麻呂はアテルイが天皇暗殺を目論んでいたことを知っているんだよ。それで、アテルイの助命を嘆願するということになりますかねえ。だから、坂上田村麻呂に「なにとぞ、二人の命をお助けくださいますよう、主上にお取りなし願わしゅう存じまする」と言わせたいのなら、第6章「天皇弑逆」はない方がいいって。
で、そんなことは澤田ふじ子もわかっていたんだけれど、それでも書かざるを得なかったんだと思う。
そもそも、そんなに物分かりがいいんなら、小説家になんかなっていないって……。