もし「自称・反日分子の「日本の古代史はおもしろい」②」に書いたように、継体天皇の正体が百済の大王・武寧王の弟だとしたら……当然のことながら、天皇の血は引いていないので、この時点で皇統は断絶した……かというと、そうはならない。だって、継体天皇の皇后とされる手白髪郎女は仁賢天皇の皇女なので。だから、皇統は維持されている、ということになる、女系ではあるけどね。で、おれが保守派の皆さんに勧めたいのは、女系を認めることですよ。なんで女系だとダメなんだろうなあ。保守派はいろいろ言っているけれど(外戚が力を持つことへの懸念とか)、要は、これまでがそうだったから、ということに尽きるんじゃないのかなあ。
でもね、仮に継体天皇の正体が百済の大王・武寧王の弟だというのが自称・反日分子の妄想だとしても、女系による皇位継承が疑われるケースは他にもあるんだから。それは、第9代開化天皇から第10代崇神天皇への皇位継承。『日本書紀』でも『古事記』でも崇神天皇は開化天皇の第二皇子とされているので、この皇位継承には何の問題もないように思われる。ところが……この皇位継承には相当の問題がある。まず、『日本書紀』では崇神天皇の皇后を御間城姫であるとしている。この御間城姫、どういうプロフィールの姫かというと、垂仁天皇紀に記載があって「大彦命の女なり」。大彦命というのは第8代孝元天皇の第一皇子に当たるので、つまりは孝元天皇の皇孫ということになる。ところが、『古事記』では崇神天皇(御真木入日子印恵命)の皇后は竹野比売であるとしている。この種のゆらぎは往々にしてあることではあるんだけれど、ただ、このケースの場合、厄介なのは、『古事記』では開化天皇(若倭根子日子大毘毘命)には御真津比売命という皇女がいたとしていること。御間城姫と御真津比売命――、実によく似ている。まあ、そんなこともなくはないのかも知れないけれど、でも『日本書紀』には開化天皇に御真津比売という姫がいたなんてことは一言も記されていない。だから、御間城姫と御真津比売命というよく似た名前の2人の姫がいた――ということではないんだよ、きっと。2人は、1人。そうなると、『日本書紀』か『古事記』のどっちかがウソを書いている、ということになるわけだけれど……しかし、ことは単に『日本書紀』か『古事記』のどっちかがウソを書いている、ということに止まらない。いや、仮にウソを書いていたのが『古事記』なら、話はそこまで、ということになるだろう。しかし、『日本書紀』がウソを書いていた、となった場合、ことはとんでもなく複雑になる。というのも、その場合、崇神天皇は開化天皇の第二皇子というのも、ウソ、ということになるわけだから。
なんで? だって、『古事記』が書いているように御真津比売命は開化天皇の皇女で、かつ崇神天皇は開化天皇の第二皇子だとしたら、2人は兄妹ということになるわけだから(なお、『古事記』では、2人の母は竹野比売ではなく、第一皇妃の伊賀迦色許売命であるとしている)。そんな2人が、結婚したわけ? この瞬間、おれのアタマの中には、山崎ハコが唄う「きょうだい心中」が流れてきて……。
だから、仮に『日本書紀』がウソを書いていた、となった場合、ことはとんでもなく複雑になる。だったら、ウソを書いているのは『古事記』の方……とはならない。何を隠そう、おれはウソを書いているのは『日本書紀』の方だと思っている。当然、おれがそう思う理由があるわけで……それは、他でもない、開化天皇の「開化」という不思議な――あるいは、いかにも物言いたげな――諡号ですよ。この諡号こそは、おれがかく考える決定的な理由。
おれはね、崇神天皇は一種の英雄だったと思ってるんだよ。いや、それどころか、神武天皇の事跡として語られているものは崇神天皇の事跡だったのではないかとさえ思っている。もっと踏み込んで言えば、いわゆる「神武東征」は本当は「崇神東征」であると。で、こういう可能性については、おれだけではなく、いろんな人が言っている。たとえば、高木彬光は『古代天皇の秘密』で「崇神東遷」という言い方でこの立場を打ち出している。ちなみに、この「崇神東遷説」はまた「邪馬台国東遷説」でもある。高木彬光は邪馬台国=宇佐説を(少なくともこの『古代天皇の秘密』までは)持論としていて、「崇神東遷」も「邪馬台国の副官の弥馬獲支が狗奴国の和平派である大伴氏と組んでやって来た」とされている。まあ、弥馬獲支(みまかき)と御真木(みまき)は音が通ずるのでそういう比定もありっちゃありだろうけれど……でも、今や邪馬台国=纒向説でほぼ決まりみたいになってるし……。ともあれ、おれは「神武東征」は本当は「崇神東征」だったと思ってるんだけど、ただ崇神天皇(その時点では御真木入日子印恵命)が武力を以て大和に押し入る、ということはなかったと思う。その理由こそが、御真木入日子印恵命に皇位を譲り渡すことになった天皇の漢風諡号が開化天皇であること。おれはね、開化天皇(その時点では若倭根子日子大毘毘命)は自ら国を開いたんだと思うんだよ。そして、御真木入日子印恵命を受け容れた――。あるいは、それは御真木入日子印恵命が武力を以て〝開国〟を迫った結果だったのかも知れない。それに屈しての、きわめて不本意な政治決断だった――のかも知れない。でも、国は開いたんだよ。それは、この国の歴史においてはきわめて大きな決断だった。だから、淡海三船が漢風諡号を撰進するに当たってはこの事跡を象徴する「開化」という二文字にしたんだと思う。まあ、こんなこと、いかなる文献にも書かれていないけどね。でも、開化天皇という漢風諡号はこうしたストーリーを想像させるものであることは、案外、同意してもらえるんじゃないかな?
で、そうなると、そもそも『日本書紀』や『古事記』が崇神天皇を開化天皇の第二皇子としていることが、ウソ、ということになるわけだけれど……さらにこうしたストーリーの先を考えることもできるわけで。すなわち、大和の〝開国〟で合意した御真木入日子印恵命と若倭根子日子大毘毘命との間では平和裏の権力委譲のための〝条約〟が結ばれた。そして、そのいの一番に挙げられていたのは、御真木入日子印恵命と若倭根子日子大毘毘命の皇女・御真津比売命の結婚だった――。
ね、十分に考えられるよね。こうなると、開化天皇から崇神天皇への皇位継承をめぐっては、『日本書紀』も『古事記』も史実をねじ曲げているという点では同じなんだけど、より大きくねじ曲げているのは『日本書紀』の方で、こと御真津比売命のアイデンティティをめぐっては『古事記』が書いていることが正しい――と、おれとしては判断しているというわけ。
で、こうしたモロモロの判断から最終的に導き出される結論としては、崇神天皇こと御真木入日子印恵命は(自らは天皇の血を引いておらず)若倭根子日子大毘毘命の皇女である御真津比売命と結ばれることによって皇位継承者となった、と。従って、開化天皇から崇神天皇への皇位継承も武烈天皇から継体天皇への皇位継承と同じく、女系による皇位継承だった、ということになるわけだけれど……
こんなこと、ネトウヨくんたちは到底受け容れんだろうなあ。彼らはこれからも日の本の皇統は「万世一系にしてかつ男系による皇位継承」によって2686年に渡って維持されてきた、と言い張りつづけるんだろう。でも、よしんば崇神天皇(と継体天皇)は天皇の血を引いていないとしても、皇后は皇女なんだから、皇統は維持されている、ということになる、女系ではあるけどね。で、それでも十分にスゴイと思うんだけど。なんでそんなに頑ななんだろう。認めてしまえばいいじゃないか。それによって、皇位継承の柔軟性も増すわけだから。この際、そこに足場を定めて、天皇家の弥栄を願う、ということにはならないのかねえ……?
ところで、おれは『古代天皇の秘密』で知ったんだけど、当時、大阪教育大学助教授だった鳥越憲三郎という人が1970年に上梓した『神々と天皇の間:大和朝廷成立の前夜』(朝日新聞社)という本がある。この本、一言で言うなら、いわゆる「欠史八代」と一括りにされている8人の天皇(+神武天皇)は実在したとした上で、その王朝を大和朝廷とは別の「葛城王朝」と呼ぶことを提唱していて、つまりは「王朝交替説」に立ったもの、と言うことができる。で、それはそれでなかなかにチャレンジングではあるんだけれど、「葛城王朝に代って、三輪山麓を中心に新しく大和朝廷が誕生する。その建国者である崇神天皇は、「御肇国天皇」と呼ばれた。しかし、新しく抬頭したこの大和朝廷が、どのような手段で前王朝と代ったか、その政権更迭の模様については知ることができない」(55p)。いや、そこがいちばん大事なところで。そこが「知ることができない」って言うんじゃ、そもそも論として成り立たないんじゃないの? だからね、ここでこの本を紹介して「葛城王朝」説を強力にプッシュしようという気は、おれにはない。ただ、「この新王朝が平和裡に前王朝の実権を授受したものでないことだけは明かである」として、二度に渡って企図された「大和朝廷転覆の謀反」について論じているのは興味深いなと。しかも、その二度の謀反というのは、いずれもウィキペディアにも記載があって、つとに知られたもの。ただ、ウィキペディアの記事ではそれら二度の謀反を「葛城王朝の血縁者の手で、皇位を奪還しようとする謀反」として捉える視点は示されていない。そりゃそうだよね、そもそも「葛城王朝」説は鳥越氏の独創なんだから。で、おれ的には、「葛城王朝の血縁者の手で」という部分については保留しつつ、それらが「皇位を奪還しようとする謀反」だったとする点にについては賛同できると。おれは、鳥越氏と違って、開化天皇から崇神天皇への皇位継承は平和裏になされたと思っているんだけれど、でも「江戸無血開城」に抵抗した幕臣たちだっていたわけだから。皇位継承が平和裏になされたとしたって、旧政権側からのリアクションが全くなかったというのは、却って考えにくい。だから、「皇位を奪還しようとする謀反」は、あった。
その第一回目の企てが、崇神天皇10年に起きた武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)の謀反。『日本書紀』によれば、武埴安彦命は孝元天皇と第二皇妃・埴安媛の間に生れた、第三皇子か第四皇子。だから、開化天皇の異母弟ということになる。さらに言えば、崇神天皇にとっては義理の叔父ということになる。そんな人物が妻の吾田媛(あがたひめ)と組んで謀反を起こした。しかし、武埴安彦命は大彦命に、吾田媛は五十狭芹彦命(第7代孝霊天皇の、えーと、第二皇子かな?)に討ち取られた。この際、武埴安彦命と大彦命に従った彦国葺命(ひこくにふくのみこと。第5代孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命の三世または四世孫とされる)との間で交される言葉の応酬(いわゆる「詞戦」というやつかな?)が印象的で――「埴安望(おせ)りて彦国葺に問ひて曰く、何に由りて、汝、師を興して来るや。対へて曰く、汝、天(あめ)に逆ひて無道(あぢきなし)。王室(みかど)を傾けまつらむと欲す。故れ義兵(ことわりのつはもの)を挙げて汝が逆(さかふる)を討(つみな)はむ。是れ天皇の命(おほせこと)なり」(岩波文庫版『訓読日本書紀』より)。まあ、天皇に逆らえば「逆賊」、それはこの時代から一貫しているということだね。また、第二回目の企ては、垂仁天皇5年に起きた狭穂彦王(さほひこのみこ)の謀反。『日本書紀』によれば、狭穂彦王は垂仁天皇の皇后・狭穂姫命(さほひめのみこと)の同母兄で、その狭穂姫命は開化天皇の第三皇子・彦坐王(ひこいますのみこ)の王女。だから、狭穂彦王は開化天皇の孫ということになる。さらに言えば、垂仁天皇にとっては、えーと、義理の再従兄弟(はとこ)ということになるのかな? そんな人物が狭穂姫命に垂仁天皇を暗殺するようそそのかしたのだ。その一部始終は『古事記』でメロドラマチックに綴られていて――「夫(を)と兄(いろせ)とは孰(いづれ)か愛(は)しきと問曰(と)へば、兄ぞ愛しきと答曰(こた)へたまひき。爾に沙本毘古王謀曰(はか)りけらく、汝寔(まこと)に我を愛しく思ほさば、吾と汝と天下(あめのした)を治(し)りてむとすといひて、即ち八鹽折之紐小刀(やしほをりのひもがたな)を作りて、其の妹に授けて、此の小刀以て、天皇の寝(みね)ませらむを刺し殺しまつれと曰く」。なんか、スゴイな。『独眼竜政宗』の原田芳雄と岩下志麻みたいだ……。ただ、岩下志麻とは違って、狭穂姫命には実行できない――「是を以て御頸(おほみくび)を刺しまつらむとして、三度まで挙(ふ)りしかども、哀情忽起(たちまちにかなしくなりて)、得刺頸(えさ)しまつらずて、泣きつる涙の落ちて、御面を洽(ぬら)しつる」(岩波文庫版『古事記』より)。で、この後の展開もなかなかなんだけれど、それは、まあ、いいでしょう。ともあれ、今回も謀反としては失敗に終わる。
で、鳥越氏は二度に渡って企てられた謀反を評して――「前王朝の最後の王、開化天皇の弟と孫とが、成立したばかりの大和朝廷の二代にわたって、天皇を殺して皇位を奪おうとしたことは注意してよかろう。それは明らかに、旧王朝の復活をもくろんでいたものであった。こうして二回におよぶ謀反がくりかえされたことからみても、葛城王朝はなんらかの反逆にあって倒れ、それに代って新しい実権者として崇神天皇が出現したことは、認めないわけにはいかないであろう」。うん、この主張には説得力があるね。ただ、それでもおれは開化天皇から崇神天皇への皇位継承は平和裏になされたという自説を変えるつもりはないけどね。例の後亀山天皇から後小松天皇への三種の神器の引き渡し――いわゆる「譲国の儀」だって平和裏に行われたわけだから。それでも、以後、約60年に渡る旧南朝勢力(いわゆる「後南朝」)による執拗な抵抗運動が繰り広げられた。武埴安彦命や狭穂彦王の謀反なんてのも、その類いかも知れないよ。
うん、そんなふうに捉えるならば、彼らに対するおれの関心も高まるってもんで。自称・反日分子のアイドルはアテルイだけじゃない? いやー、「日本の古代史はおもしろい」!