最近、料理(らしきこと)を始めたくらいで、一気にジビエにまで手を出そうってのは無茶ってもんで。それは当人としても重々承知で、自分でやろうという気はさらさらないんだけれど、でも視野には入ってくるんだよ。で、いろんな動画を見たりしているんだけれど。たとえば、こちらの動画とか。東出昌大が自らが獲った鹿肉でステーキを作ってふるまっているんだが、もう1回、人生をやり直すことができるなら、こんな至福に浸れる人生を生きてみたい、とは思うよ。あの(ほとんどレアと思える)鹿肉を頬張っている様子を見ると、もう「男の至福」ここにあり、だよ。あとね、「現在(いま)」という時代に対する問題提起、という意味でも、彼が公開している動画には意義がある、と思う。というのも、東出昌大は自らが仕留めた獲物(鹿とか猪とか鴨とか)の食肉処理をする様子も自らのYouTubeチャンネルで公開しているんだが(たとえば、こちら。一応、「視聴注意」としておきます)、野生動物であろうと飼育動物であろうと、人が他の動物の命を奪っておのれの命を永らえているというのは厳然たる事実ですよ。しかし、人はその事実におどろくほど無頓着だ。子どもたちも大好きなケンタッキーの「骨なしチキン」がどういう工程で作られているかを知ればそれを食べられる子どもなんて一人もいないだろう。すべての「骨なしチキン」は命を奪って作られたものなのだ。そんな何人も否定できない事実――否定できないけれど、認めたくもない、だから目を背けている事実をいささか露悪的な形で突きつけようとしているのがあの騒動を経た東出昌大の現在地、なんだろうなあ、とかね。まあ、そんなふうに思いながら見てはいるんだけれど、見ていて粛然とさせられる、というのはウソ偽りのないところで。ここは率直な印象として述べさせてもらうならば、おれは「納棺の儀」に通ずるものを感じたな。おれは生涯で3人の「納棺の儀」に立ち合っているんだが(順に父・従兄弟・母)、いずれも子として/人として見届けなければならないと思わされる厳粛なものだった。それに通ずるものを感じた――と言えば、さて、どこかに語弊がありますかねえ……?
ただ、そんな東出昌大ではあるんだけれど、今回、YouTubeで公開されている動画をいろいろ見ていて、その発言に若干の疑問を感じたのもウソ偽りのないところで。これについても隠さずに書いておこう。彼が、名の売れた俳優でありながら、狩猟免許を持つ猟師でもあり、関連する動画も多数公開している、となると、やはりこういう取材が舞い込むことになるのだろう、Yahoo!ニュースが関東近郊にある彼が暮す山小屋を訪れて近年の「熊問題」についての見解をじっくりと聞いている。そして、その様子をYahoo!ニュースドキュメンタリーチャンネルが「「僕は熊寄りで過激ですか?」――東出昌大と山で考える「容易に答えが出ない熊問題」」として公開しているんだが、その中で彼はこんなことを語っているのだ――
私が熊を追うときに私ばかりが安全ということはなくて、私が下手こいたら熊に反撃される、でもそれが自然との共生だと思うし、田舎に住むってそういうことだと思うし、だとしても田舎に住んでいる楽しさが私はあるから、熊を恐れるばかりではなく、田舎に住めてよかったなと思いながら、日々、熊を思いながら生活しているけど、何か田舎に住んでもいない、熊の肉も食わない、ただその恐怖に駆り立てられた都市部の人が「いや、殺すべきだ」、みんな「駆除駆除、絶滅させたっていいぜ」くらいのことを言っちゃうのは、何か、うーん、偏った情報に心を持ってかれ過ぎなんじゃないかなと思う。
このね、「何か田舎に住んでもいない、熊の肉も食わない、ただその恐怖に駆り立てられた都市部の人が「いや、殺すべきだ」、みんな「駆除駆除、絶滅させたっていいぜ」くらいのことを言っちゃうのは、何か偏った情報に心を持ってかれ過ぎなんじゃないかなと思う」というのは、この問題をめぐる世論を正しく反映していないと思う。むしろ、世論の趨勢は「熊を殺すな」「熊がかわいそう」じゃないの? で、この問題の処理に当たっている地方自治体に抗議の電話が殺到して、対応に当たる担当者が疲弊していると、そういう感じだと思う。だから、この認識は間違っていると思う。しかし、東出昌大はこんなことも語っていて――
いままでは、ここまで話題にならなかった時は、捕まえたやつをセンサーとかマイクロチップつけて、奥山に放獣するってこともやってたんです。奥山放獣。いまもう大衆がそうじゃなくて、「殺せ、殺せ」の声に押されて、奥山に持っていくとかじゃなくて、とりあえずもう全部捕殺で殺すっていう方向性に舵を切ってる自治体もたくさんあると思うので。だから危惧しているのは、局所的な絶滅。絶滅した種は増やせないから。
彼は「とりあえずもう全部捕殺で殺すっていう方向性に舵を切っている自治体もたくさんあると思うので」と言ってるんだが、ある自治体が行政区域内の熊を全部殺すという方針を打ち出した、なんて話は、おれは聞いたことがない。もし本当にそんなことがあったとしたら、それは確かに問題だと思う。それこそ、熊の「局所的な絶滅」も心配される状況ではあるだろう。でも、なにごとも中庸を以て尊しとする日本の行政が熊の「局所的な絶滅」も厭わない過激な方針を打ち出すとは信じられないし、実際、そんな方針を打ち出した自治体はないと思う。そんな「ないこと」を前提に話をされてもね……。
おれは、「熊問題」に東出昌大が果たせる役割があるとしたら、センチメンタリズムで「熊を殺すな」「熊がかわいそう」と噴き上がっている世論に対して、どうしたって熊は獲らざるを得ないんだという「現場」のリアリズムを提示することに尽きると思う。熊は、獲らざるを得ないんだよ、増えているんだから。よく言われる「人間と熊の共生」を図るためにも、熊は獲らざるを得ない。その「現実」を狩猟の「現場」から訴える、というのが、この問題において彼が果たすべき役割だと思うんだけれど。ところが、「何か田舎に住んでもいない、熊の肉も食わない、ただその恐怖に駆り立てられた都市部の人が「いや、殺すべきだ」、みんな「駆除駆除、絶滅させたっていいぜ」くらいのことを言っちゃうのは、何か偏った情報に心を持ってかれ過ぎなんじゃないかなと思う」とそもそもの前提を間違えてしまったがために、以後の行論が間違った方向に行ってしまったと、そんなふうに思わざるを得ないんだけどね。じゃあ、なんで彼は前提を間違えてしまったのか、なんだが……「(大衆の)「殺せ、殺せ」の声に押されて」というのは、もしかしたら、あの騒動を通じて彼自身が感じたもの、なのかも知れない。で、熊に感情移入する彼としては、熊にも同様の圧力がかかっている――と、勝手に思い描いてしまった。しかし、一連の「熊問題」で世論の攻撃が向かったのは緊急銃猟を決定する行政側。その決定を下す地方自治体の担当者に抗議という名の攻撃が集中する事態となった。だから、当時の彼に似た立場に置かれたのは地方自治体の担当者。しかし、彼は熊に自らを投影するあまり、世論は熊に対してこそ「殺せ、殺せ」と盛り上がっている、かのような仮想現実を生み出してしまった――と、そういうことなのかなあ、と思ってみるんだが……。
まあ、YouTubeで公開されている動画をいろいろ見ていて、こんなことも考えた、という話です。でも、これを以てどうこうということはありません。おれはこの人が中浜哲をやってくれたことに恩義を感じていて(東出昌大が中浜哲を演じた『菊とギロチン』についてはこちらで書いております。興味のある方はご一読を)、どんなことがあってもこの人の味方でいようと決めているんだよ。「熊問題」に対する発言が、若干、「自分寄り」(動画では彼は「僕は熊寄りで過激ですか?」と言ってるんだが、彼にとっての「熊寄り」は「自分寄り」だから)になっているからといって、その思いは変わらない。実際、このインタビューではいいことも言っているから。たとえば、インタビュアーから「何をもって「共生」と考えますか」と問われて――
(かなり考えて)相手の気持ちも慮ることじゃないかな。熊だって鹿だって猪だっていま食べ物がない、だったら下りてきたいよねっていう気持ちだったり(このあたりで、画面には映っていないが、赤ん坊の泣き声が聞こえる)、それの延長ではあるんですけど、あいつらだって死にたくない、だから猟師の俺を逆襲したとしてもそれは仕方ない。でも俺はあいつらを食うために獲りに行くっていう気持ち。全部同じ物差し上に僕はあると思ってて(このあたりでまた赤ん坊の泣き声)、でも僕は彼らを食べるために獲るけど、僕だけが安全圏にいようとは思わない。なんか人間ってその利便性を追求してって、安心安全な社会をつくり過ぎてる。そこに安住しているから、元々の自然界の表裏一体の残酷さとか、死の危険とかっていうのをすっかりなきものだと勘違いしてるけど、まあ、世界中に死の危険はあるし、人間社会でも。で、やっぱ自然界というのは食う食われるの「死」「生きる」ってことを繰り返していると思うので、「だからやつらだって食うものがなくて下りてくるよな」とかって慮って、まあ、そん時はうちの庭になってる柿の木、僕残してるんですけど、収穫しないで、「あれを食ってくれりゃいいな」とか、そういうこと考えながら、隣人だと思って、でも時には殺されるし獲るけど、っていうのが「共生」かな。
時には殺されるし獲るけど――。宮沢賢治の「なめとこ山の熊」では、淵沢小十郎は最後に熊に殺されるわけで、そこまでの覚悟を以て「共生」という言葉を使っているんだ――と、そうおれは理解する。
ここまでのことを言える俳優、いる? いないって! ここまでのことを言える俳優が、放送からパージされ、仕事の場を舞台や映画や動画配信の領域に絞らざるを得ないというのが今のニッポン社会が置かれた「時代閉塞の現状」と言わざるを得ず……。
ところで、西村寿行の1980年の作品『風は悽愴』に中戸源蔵という猟師が出てくる。この小説、「日本列島最後の狼」をめぐる歴史ロマンで、大正9年の長野県が舞台。源蔵は西筑摩郡南木曾村(ただし、歴史上、南木曾村という自治体が存在したことはない。昭和36年に同じ西筑摩郡内の3つの村――読書村・吾妻村・田立村――が合併して南木曽町というのができて現在も木曽郡南木曽町として存続しているものの、南木曾村という村が存在したことは、歴史上、ない。だから、単純な歴史考証のミス、ということになるんだが……まあ、西村寿行という人はこんな細かいことを気にする人ではないので。ここは軽くスルーすることにしましょう……)の狩猟小舎で一人で暮している。年齢は「四十代なかばになる」とされているのだが、実は『風は悽愴』には元となった小説があって、それは『小説現代』1976年5月号に掲載された「咆哮は消えた」。こちらでは「四十にまだ間がある」とされていて、西村寿行は改作に当たって10歳ばかり年をとらせたことになるわけだが……多分、その理由は、源蔵のキャラクター設定にあるのだろう。源蔵というのは「十五歳の年から父について山に入った」という生粋の猟師で、だから設定上はもう30年近くも猟をしていることになる。そのためか、いささか猟に倦んでいる、ということになっていて――
源蔵は野生獣を狩り尽くしてきた。いまは、殺すことに倦んでいる。憎いから殺してきたのではなかった。むしろ、その逆であった。源蔵は生きものが好きであった。人間以外の生きものなら、たいていは好きであった。好きだから、殺しに踏み込むことになった。生きものに関心があるから、人は銃をとる。無関心な者は、銃はとらない。
だが、源蔵は生きものを殺すことを職業に選んでしまった。気づいたときには、ほかに生きるすべを知らない人間になりきっていた。殺しに倦んでも、銃を離すことのできない立場に自分を位置づけてしまっていた。
いまの源蔵の脳裡には数知れない生きものの断末魔の表情がある。殺さなければ生きてゆけないおのれへのあわれみがある。
なかなか、深いよね。で、こんな心境に達するにはやっぱり「四十にまだ間がある」では早すぎるんだろう。そこで、「四十代なかばになる」に変更した――、そういうことなんだろうと思う。で、件の動画によれば、東出昌大の猟師デビューは平成30年11月15日だそうだ。だから、まだ猟を始めて10年にも満たない、ということになる。そんな彼が「殺すことに倦んでいる」という心境にはまずならないだろうけれど、でもこれから10年ばかり経って中戸源蔵と同じくらいの年になったときははたしてどうか? もしかしたら、中戸源蔵と同じような心境になるのだろうか?
実はね、おれなりに狩猟について思うことが1つあって、それは年を取って狩猟を始めた、という話をほとんど聞かないこと。年を取って農耕を始めた、という話はよく聞くけどね。ここに、狩猟と農耕の決定的な違いがあると思う。やっぱり、狩猟というのは「命を奪うこと」だから。年を取って、「もののあはれ」を知るようになったとき、狩猟というのは、できないんだよ。そんなことを考えても、いずれ東出昌大も中戸源蔵のような心境に達することになるのでは? という気がしているんだけれど……そんなことを考えながら東出昌大がYouTubeで公開している動画を見ているおれは、もしかしたら相当に底意地が悪いのかも知れないな。でも、本当にリスペクトしているんだけどね。おれは彼に続けられる限り狩猟を続けてもらいたいと思っている。そして、その成果の一端を動画としてお裾分けしてくれれば、おれとしては大満足だよ。そんなおれの本心がこの記事で巧く表現できていればいいのだけれど……。
さて、最後に動画を1本、埋め込んでおこう。最初に紹介した「視聴注意」の動画で食肉処理した鹿のレバーを……なんと、刺身で喰っている! え、大丈夫なの? 生肉にはいろんな寄生虫が付着していると聞くけれど……。でも、事前にシッカリと寄生虫チェック(? とカメラマンが聞いている)をやっていて、そういう面での手続きをちゃんと取った上で喰っているんだろう(多分。何分、この方面の知識が希薄なもので、おれとしても何とも言いがたいところではあるんだけれど)。でも、単純におれは感動したね。東出昌大が狩猟を始めてまだ10年にも満たないわけで、それで鹿のレバーを生で喰うところまで行っているのかと。生半可なことではないですよ。そういう意味で、今回、見た動画の中ではこれがいちばんココロに刺さりました(その後、見たこちらの動画では、猪のレバーについて「猪は雑食なので、寄生虫が怖いから、僕は生ではいかん」と語っています。また「そんなリスクは犯さない」とも。そういうことをシッカリと踏まえた上での判断であるとわかって、さらにリスペクトする気持ちが高まりました)。
しかも、サムネイル画像のふてぶてしいポーズはどうよ。今どきカメラの前でタバコ(しかも、彼の右手をよーく見て下さい。持っているのは、ピー缶ですよ!)を吸うことがどれほどの反発を買うかを重々承知した上でのこのポーズ。コンプライアンス? そんなのクソ喰らえ。おれは生きたいように生きてやるぜ! と、まるで中浜哲が乗り移ったかのように……?