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なめとこ山の熊のことならおもしろい

 YouTubeで考えさせられる動画を見た。飛騨を拠点とする若い猟師が自前のチャンネルを開設して猟の模様を紹介しているのだが、おれが見たのは「寝熊猟」についてのもので(あえてリンクは貼りません。興味のある方は自分で探して下さい。さして苦もなく見つかるはずなので)……

 「寝熊猟」、聞いたことがありますか? 一般的には「穴熊猟」とか「穴熊狩り」とか呼ばれているようで、ウィキペディアでも「マタギ」についての記事の中で「猟の実態」としてこう記されている――「また、クマの冬眠期である冬~初春にかけては「穴熊猟」と呼ばれる猟も行われた。これは雪が降る前にクマが越冬しそうな穴(越冬穴)を探しておき、いざ冬となったら中に眠るクマを強制的に追い出して仕留める猟である。この場合、クマは冬眠中であるために毛皮の状態が良く、また何よりも消化に必要な胆汁が使われておらず目方のある熊胆が獲れるため、第二次世界大戦前までは盛んに行われた」。件の動画でも「昨年見つけた熊穴に親父を引き連れて向かいました」と説明されており、この動画で言う「寝熊猟」が「穴熊猟」のことを指しているのは明か。だから、この動画で紹介されているのは「(冬眠中の熊を)強制的に追い出して仕留める猟」ということになるのだが……この猟法がはたしてフェアと言えるのだろうか? 何しろ、熊は冬眠中なのだ。そんな熊を「強制的に追い出して」寝ぼけ眼で出てきたところを猟銃で仕留めるというのは、およそフェアな猟法とはおれには思えない。この猟師親子が熊を仕留めるや合掌して「山の神」に感謝を捧げ、「腹を割って内臓も仕分けて全てを持ち帰ります」――と「命」に対する敬意を見せていることを了とするにしても(動画に寄せられたコメントでは、このことに触れたものが多い。でも、獲った熊の肉を「余すことなくいただく」のは、当然だから)、そのことが免罪符になり得るのだろうか? 実は動画の中ではこんな字幕も表示される――「生きています!いつ襲ってくるかわかりません」。これを見た瞬間、いやいや、襲っているのはキミの方だろう、と。熊は、襲われているんだよ……。

 この「穴熊猟」、かつては富山でも盛んに行われていたそうだ。そもそもこの猟は「(冬眠中の熊は)消化に必要な胆汁が使われておらず目方のある熊胆が獲れる」という理由で行われていたわけで、その熊胆は富山の伝統産業である配置薬業(いわゆる「売薬」)にあっては代表的な薬種だった。おれの記憶だと熊胆(ゆうたん)とは言わず、熊の胆(くまのい)と言っていたと思うんだけれど、子どものころのおれにとっては「良薬口に苦し」そのもので、ホント、いやでいやで。ちなみに、わが家には今でも置き薬の箱だけは残っている。それが、こちらです。今では「売薬さん」が訪れることはありませんが、玄関の上り框に腰かけた「売薬さん」と母が話に興じていた記憶はハッキリと残っている……。ともあれ、そういうわけだから、富山で「穴熊猟」が盛んに行われたのは当然とも言えた。で、いろいろ調べたところ、富山における「穴熊猟」の実態を調査した「富山県上新川郡大山町笠山山麓の穴熊狩り」(森俊。『とやま民俗』No.42所収)という論文も見つかった。ここは、その冒頭部分を紹介しよう。これにより、富山における「穴熊猟」の過去と現在が概ね把握できるはず。

 富山県を含む北陸を中心とした多雪地帯では、冬期、この時期にいちばん肥大化した胆嚢目当てに、冬眠穴居中の熊、すなわち穴熊に接近し、それを捕獲する、いわゆる穴熊狩りが盛んになされた。この猟法は、必ずしも銃を必要としないこと、少人数で実施可能なこと(最低一人で可能)等から、銃猟普及以前の、マキガリ等に比しても格段と古風な猟法と考えられている。さらに、マキガリに比して技術伝承における地方差も非常に大きいと考えられる。
 ところが近来この猟法も、狩猟の近代化、就中ライフル銃の普及に伴う遠距離射撃の可能化により廃絶しつつあり、それに伴い、熊の穴居する穴の発見法、穴居する熊の挑発・追い出し・捕獲法等の技術伝承も急速に消滅しつつあるのが現実である。反面、この種の猟法に関する精細な記述は、未だ十分蓄積されているとは言いがたい。
 このような状況下、筆者は当該猟法の少なくとも県内における事例の悉皆調査、収集、記録保存に尽力しているが、ここではこのような穴熊狩り伝承の一事例研究として、大山町の山間部、具体的には町の西南部にそびえる東西両笠山を水源とする小口川(常願寺川支流)、熊野川(神通川支流)両河川に挟まれた地域の穴熊狩りの実態を、主として同町上滝四六四在住の又江幸作氏(大正五、二、二〇生まれ)よりの聴取資料をもとに記述したい。

 調査の舞台となっている笠山一帯は今では(例の「平成の大合併」によって)富山市に編入されていますが、おれは足を踏入れたこともない。ただ、かつておれは大山地内を通っている県道43号線を車で走っていて熊に遭遇したことがある。突然、前方を熊が横切ったのだ。子熊だったと思うけれど、あやうく「ロードキル」を引き起こすところだった……。まあ、大山ってのはそういうところです。で、↑の文章のポイントは「近来この猟法も、狩猟の近代化、就中ライフル銃の普及に伴う遠距離射撃の可能化により廃絶しつつあり」ということかな。飛騨の若い猟師は父にも教わりながらそうした廃れつつある伝統的猟法の〝伝承〟に務めている、ということなのだろう。だから、それは十分に評価されるべき、とはおれも思う。また、これは動画を見てもらえばわかるのだけれど、いかに相手が冬眠中だったとはいえ、熊は熊だ。「穴熊猟」という猟法ではその熊と至近距離で対峙することになるわけで(ちなみに、件の動画でも熊との距離は「わずか2m」とされている)、それなりの緊張感は、ある。この点については森論文でも「熊から三尺の至近距離で、まさしく筒先を頭に付けんばかりに射つため、射ち手にはそれ相応の胆力が要求された」。だから、この若い猟師は、まさに体を張って(命を懸けて)「穴熊猟」に取り組んでいるわけで、それをろくに事情も知らない〝町の人間〟が批判するとはなにごとか――と、おれ自身が思うところ、ではあるのだ。

 しかし、それにもかかわらず(あるいは、そうであるならばなおさら)、無関心を決め込むことはできないな、と。で、おれなりに文献にも当たり、GoogleのAIモードも活用して「穴熊猟」をめぐる凡の現状については把握した(つもり)。その結果をかい摘んで説明するならば、熊胆を得るために「穴熊猟」を行う必然性は、現在ではほとんど失われていると言っていい(現在でも熊胆を配合した一般用医薬品を製造しているメーカーは三十数社あるものの、年間の総使用量は約30kgときわめてわずかで、その理由は熊胆の主成分である「ウルソデオキシコール酸(UDCA)」が人工的に安価で大量に化学合成できるようになっているから、と言う)。一方、近年の異常とも言える熊の出没は熊の個体数管理の必要性を強く訴えており、地方自治体にとって熊の「駆除」は避けては通れない課題。ここは、朝日新聞の記事をソースにAIが示してくれた回答をそのまま紹介するなら――「日本では1800年代後半以降、個体数減少の懸念から冬眠期〜春先の狩猟を原則禁止(春グマ駆除の廃止)としてきました。しかし、近年の熊の異常出没を受け、人里近くで冬眠している危険な個体をあらかじめ駆除する手法として、一部の自治体で技術の継承や特例的な捕獲が検討・実施されるようになっています」。その場合、猟師の安全を図る観点から、より安全に行える「穴熊猟」が奨励されている、ということのようだ。だから、飛騨の若い猟師が行っているのも、まさにその一環、ということになるのだろう。

 で、そういう現状を踏まえた上で――でも、それって人間の都合だよな、と。「猟師の安全を図る」ってのは、所詮は人間の都合(エゴ)でしかない。熊の個体数管理の必要性は認めるけれど(おれは、熊は獲るべき、という立場。これについては、こちらの記事で表明済みであります)、しかし、その方法として(冬眠中の熊を狙う)「穴熊猟」が奨励されている――というのは、これはもう人間のエゴ以外のなにものでもないだろう……。

 ということで、ここで宮沢賢治の「なめとこ山の熊」に話を移す(「なめとこ山の熊のことならおもしろい」)。実は、この名高い童話は元々は「なめとこ山の熊の胆」というタイトルだった。このことは、ちくま文庫版『宮沢賢治全集』第7巻の「後記」(天沢退二郎)に明記されている――「題名ははじめ「なめとこ山の熊の胆」だったのを、鉛筆で「の胆」を削っている」。

 そして、実はこの童話では「穴熊猟」が重要なモチーフとなっているのだ。もっとも、字面からはそのことはうかがえない。字面を追う限り、「穴熊猟」なんて言葉は一切出てこないのだから。しかし、「穴熊猟」が重要なモチーフとなっていることは、間違いない。しかも、それは結末部分であり、宮沢賢治がいちばん書きたかった部分。そんな言うならば物語の「胆」の部分で宮沢賢治が何を「書き」、何を「書かなかった」かをシッカリ読みとってもらいたいのだが――

 小十郎は白沢の岸を溯って行った。水はまっ青に淵になったり硝子板をしいたように凍ったりつららが何本も何本もじゅずのようになってかかったりそして両岸からは赤と黄いろのまゆみの実が花が咲いたようにのぞいたりした。小十郎は自分と犬との影法師がちらちら光り樺の幹の影といっしょに雪にかっきり藍いろの影になってうごくのを見ながら溯って行った。
 白沢から峯を一つ越えたとこに一疋の大きなやつが棲んでいたのを夏のうちにたずねておいたのだ。
 小十郎は谷に入って来る小さな支流を五つ越えて何べんも何べんも右から左左から右へ水をわたって溯って行った。そこに小さな滝があった。小十郎はその滝のすぐ下から長根の方へかけてのぼりはじめた。雪はあんまりまばゆくて燃えているくらい。小十郎は眼がすっかり紫の眼鏡をかけたような気がして登って行った。犬はやっぱりそんな崖でも負けないというようにたびたび滑りそうになりながら雪にかじりついて登ったのだ。やっと崖を登りきったらそこはまばらに栗の木の生えたごくゆるい斜面の平らで雪はまるで寒水石という風にギラギラ光っていたしまわりをずうっと高い雪のみねがにょきにょきつったっていた。小十郎がその頂上でやすんでいたときだ。いきなり犬が火のついたように咆え出した。小十郎がびっくりしてうしろを見たらあの夏に眼をつけておいた大きな熊が両足で立ってこっちへかかって来たのだ。
 小十郎は落ちついて足をふんばって鉄砲を構えた。熊は棒のような両手をびっこにあげてまっすぐに走って来た。さすがの小十郎もちょっと顔いろを変えた。
 ぴしゃというように鉄砲の音が小十郎に聞えた。ところが熊は少しも倒れないで嵐のように黒くゆらいでやって来たようだった。犬がその足もとに噛み付いた。と思うと小十郎はがあんと頭が鳴ってまわりがいちめんまっ青になった。それから遠くでこう言うことばを聞いた。
「おお小十郎おまえを殺すつもりはなかった」
 もうおれは死んだと小十郎は思った。そしてちらちらちらちら青い星のような光がそこらいちめんに見えた。
「これが死んだしるしだ。死ぬとき見る火だ。熊ども、ゆるせよ」と小十郎は思った。それからあとの小十郎の心持はもう私にはわからない。
 とにかくそれから三日目の晩だった。まるで氷の玉のような月がそらにかかっていた。雪は青白く明るく水は燐光をあげた。すばるや参の星が緑や橙にちらちらして呼吸をするように見えた。
 その栗の木と白い雪の峯々にかこまれた山の上の平らに黒い大きなものがたくさん環になって集って各々黒い影を置き回々教徒の祈るときのようにじっと雪にひれふしたままいつまでもいつまでも動かなかった。そしてその雪と月のあかりで見るといちばん高いとこに小十郎の死骸が半分座ったようになって置かれていた。
 思いなしかその死んで凍えてしまった小十郎の顔はまるで生きてるときのように冴え冴えして何か笑っているようにさえ見えたのだ。ほんとうにそれらの大きな黒いものは参の星が天のまん中に来てももっと西へ傾いてもじっと化石したようにうごかなかった。

 ね、「穴熊猟」なんて一言も出てこない、よね。でも、淵沢小十郎が、この日(「一月のある日」)、「穴熊猟」を目的になめとこ山に入ったのは間違いない。だって、「白沢から峯を一つ越えたとこに一疋の大きなやつが棲んでいたのを夏のうちにたずねておいたのだ」と言うんだから。それは、ウィキペディア等に記された「穴熊猟」の猟法そのもの。だから、淵沢小十郎が、この日、「穴熊猟」を目的になめとこ山に入ったのは間違いない。そして、もし淵沢小十郎が「穴熊猟」の最中に熊の反撃に遭い命を落としたのなら、それは「自業自得」というものだろう。そして、それでも「なめとこ山の熊」という童話は十分に成立したとおれは思う。しかし、宮沢賢治は、そうはしなかった。淵沢小十郎は、猟場に着いて「穴熊猟」を始める前、山の頂上で一休みしているところを背後から熊に襲われて、命を落とすのだ。

 なぜ、そうなっているのか? おれは、宮沢賢治は淵沢小十郎に「穴熊猟」をさせたくなかったのだと思う。この童話の元々のタイトルが「なめとこ山の熊の胆」であり、なめとこ山はその熊の胆で名高い(「鉛の湯の入口になめとこ山の熊の胆ありという昔からの看板もかかっている」)以上、淵沢小十郎が「穴熊猟」をやっていたことは間違いないだろう。そして、熊が冬眠中の「一月のある日」、淵沢小十郎がなめとこ山に入ったからには、その目的が「穴熊猟」であったことは疑いようがない。そして、その「穴熊猟」の最中に熊の反撃に遭って、哀れ淵沢小十郎は命を落とした――というストーリーもありえたにもかかわらず、宮沢賢治はあえてそうはせず、頂上で一休みしているところを熊に襲われて死んだ――ということにした理由は、もう明かではないか? 宮沢賢治は淵沢小十郎に「穴熊猟」をさせたくなかったのだ。大好きな大好きな淵沢小十郎(賢治は作中で「この豪儀な小十郎」「あんな立派な小十郎」と繰り返し淵沢小十郎を讃えている)に「穴熊猟」なんていうアンフェアな猟をさせたくなかったのだ。

 かくて、おれと宮沢賢治の意見が一致した……。