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来年、『逆賊の幕臣』を見るために②

 あんだけ『勝海舟』のことを書いておいてなんなんだが……おれは勝海舟が嫌いでね。来年、『逆賊の幕臣』を見るために、と言いながら、妙に気持ちが醒めているのは、これも関係している。というのも、『逆賊の幕臣』では勝海舟役として大沢たかおがキャスティングされているので。これがなんとも悩ましいところで……。

 おれは大沢たかおという俳優をリスペクトしている。『JIN-仁-』もさることながら、この人は『火怨・北の英雄 アテルイ伝』でアテルイをやってくれた人だから。リスペクトするのは当然。で、そんな大沢たかおが勝海舟を演じるわけだけど……大沢たかおが演じる以上、勝海舟が悪く描かれる可能性は、まあ、ないでしょう。実際、NHKの公式サイトでも「主人公・小栗と最も対極にいながら最も理解し合ったライバル」――と、その認識はどうかなあ……。おれは、勝海舟という男を「○○の風上にも置けない男」だと思っている。○○には「武士」を入れてくれてもいいし「人臣」を入れてくれてもいい。とにかく、「○○の風上にも置けない男」。それは、彼が単に幕臣から明治新政府の大臣――言うならば「朝臣」へと見事な変わり身を見せたことだけを理由としているわけではない。それだけならば、よしとしよう。そういう幕臣は他にもいるので。おれが勝という男を許せないのは、この男が幕臣から朝臣に立場を変えるに当たって、その「変節」を正当化するためか、やたらとかつての同僚の悪口を言っていることにある。いや、それどころか、この男は人に罪を着せるようなことをも平気で言っているのだ。しかも、それは、NHKが「最も理解し合ったライバル」としている小栗忠順にも向けられていて、ここは木屋隆安著『「日本史」異議あり!』(泰流社)より引くなら――

 慶応四年一月末、勝は西郷の片腕木梨清一郎および板垣退助に、要旨つぎのような情報を送った。
 「小栗上野介は過日の大評定で天朝に弓をひくことを将軍にせまったが、これは私どもがとめさせた。怒った上野介は公金約一千万両を着服、上州権田にいんとんした。彼を討つことは官軍の軍費を充実させ、かつ新政府の財源をうるおすことになる。ただし彼は新兵器を所有し私兵も相当数持っているから、その点十分ご留意あってしかるべし」。
 板垣も木梨もこの情報におどらされた。言うなれば火のような小栗憎しの感情に、黄金の油がそそがれたのである。しかし、実際には、上野介を殺してみたものの、勝の言う黄金一千万両はどこからもでてこなかった(上野介遺愛の文机からは大判二枚が発見されただけだった)。

 木屋隆安はこの情報の出所を明かしていない。だから、これを額面通り受けとることは禁物ではあるけれど(講談社版『勝海舟全集』第2巻「書簡と建言」には木梨清一郎宛ての書簡も板垣退助宛ての書簡も収録されていない)、ただいかにも勝がやりそうなことだなあ、と。というのも、勝は他の幕臣に対しても同じような濡れ衣を着せているので。しかも、こちらは典拠もある。それは『史談会速記録』第167輯(原書房刊『史談会速記録』合本24)に収録されている「慶應年間薩摩人士洋航談」で、この記事自体は、幕末、薩摩藩がイギリス人商人トーマス・グラバーの手引きで総勢16名もの藩士を留学目的で密出国させた、その経緯について当事者(松村淳蔵)が語ったものなのだけれど、その中にアメリカ・ニュージャージー州のラトガース大学に入学した松村淳蔵が同じ時期、幕府派遣の留学生として同校に在校していた勝海舟の子・小鹿が父から受け取った手紙というのが出て来て、その内容というのが、なかなかで。手紙は全部で3通あったとして(なお、『勝海舟全集』別巻「来簡と資料」には勝小鹿宛ての書簡が3通収められていますが、日付は明治元年8月以降のもの。しかし、松村淳蔵が読んだのは内容からそれ以前のものと思われる。いずれにしても、松村淳蔵の証言を裏付ける書簡が収録されていないことは明記しておく必要があるだろう。じゃないと、フェアではない)、第1信では薩長を槍玉に上げて「彼等の尊王心は全く虛僞にて表に正義を飾りて全く政權爭奪の野心に過きす實に言語道斷の事𛂁(な)り」。ところが、第2信ではガラリと主張を変えて――「時勢の切迫につき今日の場合に至り人物に乏しき事太しく旗本八萬騎の如き𛂞何の役にも立たゝす言語道斷なり小野友五郞の如きは金を掠めて脫走するの類殆と痛息に耐へ𛁏(す)之に反し薩州の西鄕大久保の如く長州の木戶、廣澤等の如く肥後の橫井其他西國諸藩には人物輩出し着后時運を制しつゝ來る到底如何共爲し難き現狀であると𛂜(の)趣𛂁(な)りき」。

 第1信ではあれだけ薩長を叩いておきながら、一転して「薩州の西鄕大久保の如く長州の木戶、廣澤等の如く肥後の橫井其他西國諸藩には人物輩出し」だもんね。この掌返し! おれはここに勝という男の本性を見る思いなのだが、それよりも注目は「小野友五郞の如きは金を掠めて脫走するの類殆と痛息に耐へ𛁏(す)」だよ。この小野友五郎とは、小栗忠順と同様、やはり勝とは浅からぬ因縁を持つ人物で、勝からすれば、かつて長崎の海軍伝習所でともに学んだ学友であり、かの咸臨丸を駆っての太平洋横断に当たっては艦長を務めた勝を補佐する測量方兼運用方として、事実上の航海長の役割を務めたという人物。で、小野はこのときの功績が認められて万延2年には軍艦頭取に取り立てられ、軍艦建造の責任者となった。さらに元治元年には勘定吟味役に昇進。元々が笠間藩の算学者・甲斐駒蔵に学んだマスマティシャンだったことを考えれば、この勘定吟味役は適材適所ということになるだろう。慶応3年、そんな小野に大役が回ってくる。渡米して軍艦を調達せよというのだ。この「調達」とは、新たな軍艦の建造ではなく、既に就航中の軍艦を買い付けてこいというのだ。このミッションのために、小野友五郎を正使、松本寿太夫を副使とする使節団が編成された。ちなみに、この際、翻訳方の1人して使節団に加わったのが福沢諭吉。ともあれ、使節団はワシントンでアンドリュー・ジョンソン大統領に謁見するとともに、案内されたワシントンの海軍工廠では、南北戦争終結以来、係留中だった装甲艦・ストーンウォール号に目を着け、これを40万ドルで購入することでアメリカ側と合意した。この際、小野らは50万ドルの手持ち資金を持っていたとされ、日本への廻航費用10万ドルを加えても十分に賄える金額。ただし、小野らには幕府の各部門から各種兵器類を買い付けてくるようにとの役目も托されていた。その購入資金を捻出する必要がある。ということで、小野は一計を案じた。彼はストーンウォール号の代金40万ドルの内、即金で支払うのは¾とし、残る¼は日本到着後に支払うということでアメリカ側と話をつけたのだ。これにより小野らの手元には約12万ドルの手持ち資金が残ったとされる。で、問題はこの12万ドルで……勝はこの12万ドルを小野が着服したと言っているのだ。しかし、これは全くの濡れ衣なんだよ。これについては、かつて書いたことがあるので(こちらです)、どうかご自身で読んで判断して下さい。いずれにしても、勝というのは人を悪し様に言うのがお好きなようで、それだけならば江戸っ子ならではの毒舌と許容できないこともないのだが、人を犯罪者呼ばわりすることはそれとは次元の違う話。そこから見えてくるのは、隙あらば人を貶めようとする狡猾な狐のような人間性。勝というのはそういう人物なので(と、この際、断言しておく)、木屋隆安が書いているようなことをやったとしても少しも不思議ではない。

 でね、実はおれは勝によーく似た人物がいるな、と思っていて。それは、細野豪志ですよ。今回の内閣改造でめでたく閣僚の座を射止めましたが、この人がかつて民主党にあって枢要な地位を占めていたことを忘れてはいませんよね。確か小沢幹事長の下で幹事長代理を務めたこともあったはず。しかし、民主党が下野するや、さっさと自民党に鞍替えし、今般の改造では閣僚の座を射止めただけではなく、閣内での序列ではナンバー3だそうですよ。大した処世術だわ。おれはね、細野豪志こそは現代の勝海舟だと思っている。もちろん、褒めているわけではない。この際だから、『「日本史」異議あり!』からこんな下りも引いておこうか――「自己の保身、栄達、名誉をうるために、勝はいかなる手段もえらばなかった。彼は上野介がはなやかな第一線政治家の道をあゆんでいるとき、岩倉兄弟、西郷、大村、板垣の倒幕派巨頭とよしみを通じるとともに、他方では〝孤独の人〟一ツ橋慶喜の歓心も抜け目なく買っていた。要するに時勢がどっちにころんでも決して損をしない〝逆櫓〟の態勢をととのえていたのである」。

 もうね、書かれていることは、そっくりそのまま細野豪志にも当てはまる。そんな細野豪志を――じゃなかった、勝海舟を大沢たかおが演じるということで……来年、『逆賊の幕臣』を見るために、と言いながら、妙に気持ちが醒めているのはいかんともしがたく……。


○

 ところで、おれが勝を嫌いになったそもそものきっかけは、輪王寺宮マターに深く関わっている。実はそれまでは世間一般の良識(?)に従って、勝をリスペクトしていた。これは、まあ、おれが初めて夢中になった大河が『勝海舟』だったということもあるのだが……『「東武皇帝」即位説の真相 もしくはあてどないペーパー・ディテクティヴの軌跡』を書く過程で勝には一般には知られていない別の一面があることがわかって、おれの中の勝海舟観が「380度変わった」(by ガッツ石松)。ここは、そうした激変へとおれを誘うことになった経緯を知っていただべく、第6章「不容易企」の冒頭部分を読んでもらうことにしよう。これを読めば、おれの中の勝海舟観がなぜ「380度変わった」のかもわかってもらえると思うので――

◉不容易企◉

 余乗馹而発。大総督府から慶喜寛典のための条件提示を受けた翌13日、覚王院義観はその事実を急報すべく早馬で府中を発った、そのことを伝える「上野輪王寺宮執當職大覺王院戊辰日記」の一節。簡潔な表現の中に大総督府が江戸総攻撃のXデーと定めた3月15日を目前とした緊張感が読みとれる。徳川家の処分をめぐるすべての政治交渉は3月15日をデッドラインとして行われており、覚王院義観が宮一行と別れ一足先に府中を発ったのも江戸市中が総攻撃の日限を目前とした極度の緊張状態にあることを慮ったからに違いない。実際に覚王院義観が江戸城に登って駿府での周旋結果を報告したのは16日だったのだが、「上野輪王寺宮執當職大覺王院戊辰日記」によれば15日に大磯で大目付・掘錠之助と落ち合い交渉結果のあらましを伝えていることがわかる。そしておそらくはその日のうちに掘錠之助から江戸城にも伝えられたものと思われる。46歳の武人でもない一僧侶が自ら早馬を駆って府中から大磯までの28里を駆け抜けたことはこの人物が体躯に孕むただならぬ生気を物語るエピソードとして特記していいと思うのだが、しかしそんな彼の懸命の努力を江戸は必ずしも礼をもって迎えなかった。勝海舟に至っては逆に容赦ないダメ出しをその日記に書きつらねているくらい。


 昨日  法親王之陪僧覚王院、駿河より帰府。其書付を見るに云、「先将軍、単騎にして軍門に到り降るにあらざれば、寛典之御処置に及ばず。然れども、将軍これを為す能はざる時は、田安殿名代にて可㆑然歟。これ  大総督之御内命」云々。
 我、是を聞て、且怒り、且怨む。『  法親王は、唯其御寛典を懇願あられて足りなむ。何ぞ我が主を辱する之挙を御内願あられしや。爰に人あり、一物を買はむとするに、一は百金を出さむと云、一は三百金を出さむといはゞ、其人三百金に与へて以て百金を以てする者に与へさざるべし。  法親王と  総督之御内談、爰に出でては、我輩之小臣切歯断腸すとも、彼決て用ひざるべし。今日之事、上下真に力を用ゆる者なし。止なむ歟』と云つて激論す。また、参謀𛀁書を送りて是を支ゆ。


 もっとも慶応4年当時の勝海舟の日記と称するものは2種類あって、一つは江戸東京博物館が所蔵する「海舟日記」全25冊のうちの第6冊と第7冊。同館刊行の『勝海舟関係資料 海舟日記3』がそれに当たる。もう一つは「慶応四戊辰日記」の名で知られているもので、原本は講談社が所蔵。講談社版『勝海舟全集』の第1巻に収録。通常、勝の慶応4年当時の日記と言えばこちらを指す。ただ実はこの「慶応四戊辰日記」、本来の意味の日記とはいささか性格を異にする。むしろ「いわゆる日録的な日記と別の性格を持つ手記的著作物と考えるべきである」――というのが江戸東京博物館学芸員・落合則子が「『海舟日記』の史料論的考察―慶応戊辰期を中心に」(『東京都江戸東京博物館研究報告』第9号)に記している見解。実際、「慶応四戊辰日記」の記載内容を「海舟日記」の記載内容と照合すると相当の異同が認められるのだ。たとえば土方歳三が近藤勇の助命嘆願のために決死の覚悟で江戸に潜入して勝を訪ねたという新選組ファンならば誰もが知っているエピソード。この事実が記されているのは「海舟日記」の方だけ。4月4日の条の「土方歳三来る、流山転末ヲ云」というのがそれだが、「慶応四戊辰日記」の4月4日の条にはこうした記載はない。また江戸東京博物館所蔵本を見ると、同じ頃、勝の元には会津藩士だとか仙台藩士だとかが頻繁に訪れていることがわかるのだが、そうした事実はすべて「慶応四戊辰日記」からはオミットされている。つまり新選組だの会津藩だの仙台藩だのといった「賊軍」とのつきあいはすべてなかったことになっているのだ。一方、江戸東京博物館所蔵本には記されていないのに「慶応四戊辰日記」には記されているというものもあって、今、紹介した一節なんかもそう。しかもこの一節、3月16日の条に記されているのだが、覚王院義観が駿府から帰府したのは当の3月16日。「昨日」ではない。「慶応四戊辰日記」にはこうした史実と齟齬を来す記載が随所にあって、そうしたことから慶応4年当時、実際に日記としてつけられていたものではないのでは? という疑念を生むことになる。一方、江戸東京博物館所蔵本については慶応4年当時、実際につけられていた日記であることを疑う理由はないものの、特に第6冊について言えば日記にしてはいささか簡潔過ぎる。たとえば件の3月16日の条の記載は――


品川にて相良已下先鋒隊長ニ引合


 これだけ。日記というよりもむしろメモに近い。慶応4年といえば日本近代史の大転換点。勝海舟としても多忙をきわめていた。おそらくは日記を書く時間も満足には取れなかったはず。せいぜいこんなメモ程度のことを書き記すのが精一杯。そう考えるなら「慶応四戊辰日記」とは、時期ははっきりしないものの、とりあえず世の中も治まって勝としても時間的余裕ができたいずれかのタイミングでメモ程度に止まっていた当時の日記を本来の日記らしい体裁に書き改めたもの――と考えることもできる。もっとも、その際、新選組だの会津藩だの仙台藩だのといった「賊軍」とのつきあいはすべてなかったことに〝編集〟していることを考えると、ただ単にメモ程度だったオリジナルを日記らしい体裁に改めることだけが目的だったかどうか。
 実はこんな疑念をさらに強くさせられる事実がある。それは「慶応四戊辰日記」が明治6年になって『復古記』編纂の史料とすべく太政官歴史課に貸し出されていること。このことは当の勝の日記の明治6年9月21日の条によって裏付けられる。明治新政府が『復古記』編纂を目的に太政官正院に歴史課を設けたのは明治5年。その際、太政官歴史課は旧大名家や華族に対し関係史料の提出を命じているのだが、それに応じ旧大名家では「家記」なるものを編んで提出していることが知られている。実際、『復古記』には「○○家記」とか「○○藩記」というような史料を典拠とした記載が随所に見受けられる。それらは太政官歴史課の求めに応じて旧大名家が提出したもの。それと同じようなかたちで勝海舟が提出したのが「慶応四戊辰日記」――、そう考えることができる。
 そうなると「慶応四戊辰日記」は太政官歴史課に提出することを目的に明治6年に作成されたもの――という仮説も成り立つのだが、ただ結論から言うとこの仮説は成り立たない。なぜか? その根拠は「慶応四戊辰日記」では料紙として「渋田蔵書」銘の無罫紙が使われていること。この「渋田蔵書」銘の無罫紙というのは若き日の勝のパトロンで箱館で廻船問屋を営んでいた渋田利右衛門という人物が勝にプレゼントしたもの。勝が『氷川清話』で語るところによれば、渋田はまだ貧乏書生だった勝に「これは僅かだが書物でも買つてくれ」と言って200両という奨学金を提供している。「渋田蔵書」銘の無罫紙もその際、一緒にプレゼントしたもの。「面白い蘭書があつたら飜譯して此紙へ書かせて下され筆耕料などは今の二百兩の内から拂つて下されと頼んだのだけれど、實際はおれが貧乏で紙にも乏しからうと思つて、それで呉れたのだ」――。勝は「慶応四戊辰日記」を書くにあたってその「渋田蔵書」銘の無罫紙を使った。
 勝が渋田利右衛門から罫紙をプレゼントされたのはまだ20代の頃。『氷川清話』によれば「その後も度々罫紙を送つてくれた」とはいうのだが、渋田利右衛門は安政5年に亡くなっているので、いずれにしても随分昔の話。従って「慶応四戊辰日記」を書くにあたって使った罫紙は長い間、勝の手元で保管されていたものということになる。
 勝は『氷川清話』でこんなことも述べている――「おれもこの男の知遇にはほと/\感激して、何時かはこれに報ゆるだけの事はせうと思つて居たのに、惜しいことには、澁田はおれが長崎に居る間に死んでしまつた」。
 もしかしたら勝が「慶応四戊辰日記」を書くにあたって渋田利右衛門からプレゼントされた罫紙を使ったのは勝なりの恩返しのつもりだったのかもしれない。慶応4年が勝の人生のハイライトであるのは誰もが認めるところ。中でも「慶応四戊辰日記」が対象とする期間には「江戸無血開城」という勝が歴史に名を残すことになった一大イベントが含まれている。そんな人生の晴れ舞台とも言うべき1年の記録をまとめるにあたって、それまで大切に取って置いた「渋田蔵書」銘の無罫紙を使った――、勝海舟嫌いの筆者でさえ思わずホロリとさせられる〝いい話〟。
 しかし、何で「渋田蔵書」銘の無罫紙が使われていると「慶応四戊辰日記」は太政官歴史課に提出することを目的に明治6年に作成されたものという仮説が成り立たないのか? 実は『氷川清話』の中で勝はこの話をこんなふうに始めているのだ――「これは維新前に書いたおれの日記帳だが、この罫紙に澁田藏書といふ書が入つとるのを見なさい。これはおれの大切な記念物で、話せば長いが……」。勝海舟の日記で「渋田蔵書」銘の無罫紙が使われているのは、「『海舟日記』の史料論的考察―慶応戊辰期を中心に」によれば、講談社所蔵の「慶応四戊辰日記」だけ。江戸東京博物館所蔵の「海舟日記」全25冊の中には1冊もない。従って勝が『氷川清話』で言っている「日記帳」とは「慶応四戊辰日記」を指していると考えるしかない。そして、それは「維新前に書いた」――。
 ちょっと説明が長くなってしまったが、丁寧に話を進めようと思えばこれくらいは仕方がない。いずれにしても「慶応四戊辰日記」は勝が慶応4年当時、実際に日記としてつけていたものではない。おそらくは政権移行にまつわるゴタゴタも一段落して勝にも時間的余裕が生じた慶応4年中のいずれかのタイミングでそれまでの出来事を振り返るかたちでまとめられたものだろう。そういう意味では確かに日記の体裁を取ってはいるが実態としては「手記的著作物」。しかも相当程度、史実に改変が加えられている。これは何人も否定できない事実。有り体に言えば自分に都合のいいことは膨らまして、都合の悪いことは消し去った――、そう言ったって決して言い過ぎではないはず。「慶応四戊辰日記」を読む時はこうしたことを十分、頭に入れておく必要があるのだが、それでは「慶応四戊辰日記」の3月16日の条で勝がぶちまけている怒りは至当なのか? それを判断するにあたっては比較対象のため山岡に対する対応を見ておくのが有効。勝は山岡の駿府での交渉をどう評価したか? 勝はこう記している――「嗚呼山岡氏沈勇にして、其識高く、能く  君上之英意を演説して残す所なし、尤以て敬服するに堪えたり」。もう手放しの褒めよう。では勝は山岡のどういう点をそこまで褒めそやしたのか? それを知るには改めて山岡の駿府での交渉の模様を見る必要がある。「西郷氏と応接の記」を読むと、交渉で最も問題となったのは提示された5条件の最後に挙げられている「徳川慶喜は備前へ預る事」とする一条。山岡はこの条件を「御請難致」として、その理由を「主人慶喜を独り備前へ預る事、決して相成らざる事なり」と記している。西郷から示された条件にはただ「徳川慶喜は備前へ預る事」とあるだけなのだが、山岡はそれを単身、備前藩へお預けになると受け取ったということ。その上でそれは「御請難致」というのが山岡の立場。これに対し西郷は「朝命なり」として押し通そうとするものの、山岡は「然らば先生と余と其位置を易へて、暫く之を論ぜん」と、今のディベートで用いられる方法論を駆使して西郷を追い込み、最終的には「然らば徳川慶喜殿の事に於ては、吉之助屹と引受取計ふ可し」との譲歩を勝ち取っている。勝が山岡に「尤以て敬服するに堪えたり」と手放しの賛辞を捧げるのを惜しまないのもまさにこの点に関してだろう。
 一方、輪王寺宮が駿府で有栖川宮から示された条件は「居城と軍艦とを献ずべき」。はて、条件的には輪王寺宮が示された条件の方が有利では? しかし実は「上野輪王寺宮執當職大覺王院戊辰日記」には覚王院義観が別途、大総督府下参謀・林玖十郎と行った交渉で「軍門謝罪。献江城及軍器戦艦。如此則生其死。継其絶」との回答が示されたことが記されていて、箇条書きとなっていないのでわかりにくいが、これも6日に定められた「別秘事」に沿ったものであるのは間違いない。そして覚王院義観が3月16日に江戸城に上って報告したのもこの回答。さらに勝が「先将軍、単騎にして軍門に到り降るにあらざれば、寛典之御処置に及ばず」云々と記しているのもこの「軍門謝罪」のことを言っているに違いない。覚王院義観の日記には「単騎」の文字はないものの、山岡も西郷との交渉の中で「徳川慶喜は備前へ預る事」とする一条を「御請難致」として、その理由を「主人慶喜を独り備前へ預る事、決して相成らざる事なり」としているので、武家にとって「軍門謝罪」とは単騎、軍門に下ることを意味していたということだろう。そしてそれは「御請難致」と。かくて勝の言葉を借りるならば「君上之英意を演説して残す所な」く、遂には西郷から譲歩を勝ち取ったと、そういうことになる。
 ただ譲歩を勝ち取ったといっても単にペンディングになっただけで提示された条件そのものは元のまま。実際、山岡から報告を受けた勝も慶喜の扱いについては「慶喜儀、謹慎恭順之廉を以て、備前藩江御預可被㆓ 仰付㆒事」だったことを記している。山岡の解釈に従うならば「主人慶喜を独り備前へ預る事」。こうなると覚王院義観が報告した「先将軍、単騎にして軍門に到り降るにあらざれば」云々と大して違いはないということになる。ちなみに江戸東京博物館所蔵の本当の日記ではこれに類したことは5月9日の条に記されているのだが、そちらでは「君上単騎軍門ニ降られなは、寛典之御処置にも可及抔御約もありしに」云々。同じことを言ってはいるのだが、こちらは単騎軍門に降れば寛典の処置に及ぶ――とポジティブな表現になっている。しかし「慶応四戊辰日記」では単騎軍門に降らなければ寛典の処置に及ばない――と、ネガティブな表現に書き変えている。実に芸が細かいと感ずるのは筆者だけ?
 ともあれ、覚王院義観が駿府から持ち帰った条件も山岡鉄太郎が駿府から持ち帰った条件と大して違いはない。にもかかわらず一方には手放しの賛辞を捧げもう一方には「且怒り、且怨む」。はたしてそれが至当と言えるのか。むしろその言葉はこの間、一品親王としてはありえないような苦難を強いられてきた輪王寺宮公現法親王の「陪僧」覚王院義観にこそふさわしいと言えるのでは? 有馬頼義も「北白川宮生涯」で徳川家側の対応については「しかしこの輪王寺宮の労苦に対し、徳川家からは、何の挨拶もなかった」と、その非を指摘している。そういうことを考えても、勝が「慶応四戊辰日記」に書き記していることはいささか当を失していると言わざるをえないのだが、しかしそうした的外れのダメ出しはさらにボルテージを上げて、遂にはこの駿府での〝失敗〟こそはのちの上野戦争の原因になったとまで口撃。それが先に示した部分につづく一節――


覚王院東帰後、其周旋之行届かざるを憤て、専ら一戦をすゝめて不㆑止、漫に有司に会して、戦を主とす。


 これに類した一節、江戸東京博物館所蔵の「海舟日記」では5月9日の条に記されているのだが、表現は微妙に異なる。


培僧覚王院其功の成らさるを憤り、東帰後専ら戦争を勧めしかとも御採用なし、是より愚輩を扇動して党を集め 法王を取立改復せんと云て小人輩を誘ふ、終ニ今日之事ニ到る也


 どこがどう違うかおわかりだろうか? いずれも元凶は覚王院義観としているのは同じだが、その理由について「慶応四戊辰日記」では「其周旋之行届かざるを憤て」としているのに対して、本当の日記の方では「其功の成らさるを憤り」。憤りの理由を周旋の失敗とはしていない。あくまでも「其功の成らさる」。功が成らない理由はいろいろある。単にミッションが不首尾に終わったので成らないということもあるだろうが、仕事はしっかりやったのに誰かに手柄を独り占めされて成らない、ということだって。そして筆者には駿府での周旋の実態を踏まえるなら後者と考えた方がよほど理に適っていると思えてならないのだ。実際、当の覚王院義観が駿府での周旋が失敗だったと受け止めていた節は見受けられない。「上野輪王寺宮執當職大覺王院戊辰日記」によれば覚王院義観は駿府で林玖十郎から「軍門謝罪。献江城及軍器戦艦。如此則生其死。継其絶」との回答が示された際も「曰。深荷厚意」。つまり深く恩に着ると。さらに興味深いのは、覚王院義観が江戸城に登って周旋結果を報告したその帰途の出来事。1人の会津藩士が覚王院義観に同道しているのだが、主君・松平容保の身を案じ悲嘆に暮れるこの人物に対し駿府での周旋結果を理由に励ましている様子が読みとれる。


会候の臣河原某、途に於て余に候ず。余また略説す。某大息して涙を下す。初め王の行くが決するや、候の臣梶原平馬・小室金吾・小野権之丞、河原氏等、侍老臣十余名その君容保の謝罪状の為に来る。併せて容保六年禁闕を守護す。先帝しばし之を賞し手詔を賜う。遂に参議宰相の書記に叙す。因りて余、王に奉る。王曰く。宗室の事済む。而して後之につづく。然れども駿城の訴え、宗室未だ済まず。故に未だ之を申すに及ばず。而して帰る。是に於て余、慰諭して曰く。本立つ、則ち末自ずと全うす。今本将に立たんとす。何ぞ深く憂うることを為さん。


 本立つ、則ち末自ずと全うす。今本将に立たんとす――。「本」が徳川宗家、「末」が会津松平家を指すのは言うまでもない。そして今、将にその「本」が立とうとしている――と覚王院義観は述べているわけだから、彼が徳川宗家の存続に手応えを感じていたことは間違いない。それは取りも直さず輪王寺宮公現法親王による駿府での周旋は成功だったと考えていたということ。こうなると「其周旋之行届かざるを憤て」という「慶応四戊辰日記」の言い草は全くの的外れとしか言いようがない。むしろ覚王院義観が駿府での周旋をめぐって何か含むものがあったとするなら、それは誰かさんに手柄を独り占めされて輪王寺宮の功績が全く顧みられることがなかった、そのことへの憤り。そしてその手柄を独り占めした人物とは……。

(以下、省略)