気がついたら、もう⑩だよ。始めたころは、3か月かけて10本書くつもりだったんだが、終わってみると、1か月そこそこで10本目を書くところまで来てしまったことになる。いくらなんでも、早すぎるって。老人よ、そんなに急いでどこへ行く……。
ということで、最後のネタだ。多分、『逆賊の幕臣』では採用されることはないだろうけれど、小栗忠順の人物像をめぐって根本的な再考を促すことになるかも知れないある仮説を披露することにしよう。既に「来年、『逆賊の幕臣』を見るために①」では小栗が上州権田村に退隠するに当たって「幕府歩兵隊」を引率しており、その心中には「一度相動き候わば、天下驚くべきの事をなし候わん」――と、西南戦争で天下を騒がすに至った西郷隆盛にも通ずる情念が横たわっていた可能性――あくまでも、可能性です――を指摘したわけだけれど、今度の仮説はもっと尖っている。なにしろ、小栗忠順がある暗殺事件に関係していた、という仮説なのだから。
その暗殺事件とは、文久3年4月13日に起きた清河八郎暗殺事件。清河八郎というのは、まあ、革命家には違いないんだが、むしろ陰謀家に近く、おれにはほとんど平岡正明(初期のね。『犯罪あるいは革命に関する諸章』とか『地獄系24』とかを書いていたころの)的世界の登場人物のように思えるんだが――幕府からすれば、とても野放しにしていることはできない人物ではあっただろう。で、事実、幕府は刺客を放って清河八郎を屠ったわけだが、その実行犯は小山松勝一郎著『清河八郎』(新人物往来社)によれば佐々木只三郎、速見又四郎、高久安次郎、広瀬六兵衛、永井寅之助、依田哲二郎、徳永昇の7名だった(子母沢寛は『新選組始末記』で佐々木只三郎、速見又四郎以下6名だったとしておりますが、『新選組始末記』は歴史考証の史料としてはやや問題がある。ここは清河八郎研究の第一人者とされる小山松勝一郎が書いていることの方を信じるべきだと思う)。また、小山松勝一郎によれば、全員、浪士組の取締役並出役であり、かつ幕府が安政3年に開設した武芸訓練機関である講武所の関係者(師範or修行者)だった。で、小栗は文久2年12年10日に講武所御用取扱となっているのだ。文久2年12年10日というのは山岡鉄太郎の献策となる浪士組の結成が正式採用となり、当時、講武所の師範だった松平忠敏(一般的には松平主税助として知られる人物)が浪士組取扱に任じられた翌日。これだけでも十分に匂うのだが、加うるに小栗が任じられた講武所御用取扱というのは幕府の正式の役職ではないのだ。『江戸旧事考』という文献に収録された武田信賢著「講武所沿革考」には「講武所に被置諸役名」として御奉行以下16の役名が列挙されているのだが(こちらが、デジコレで閲覧できる同書の当該ページ)、その中に講武所御用取扱はない。しかし、江戸幕府の諸役人の任免記録である『柳営補任』には小栗が文久2年12月1日付けで歩兵奉行に任じられたことを記しつつ「同月十日講武所御用取扱」と明記(こちらが、東京大学史料編纂所の所蔵史料目録データベースで閲覧できる同書の当該ページ)。だから、同日付で小栗が講武所御用取扱に任じられたのは紛れもない事実――幕府の正式の役職としては存在しない、言うならば文久年間の〝別班〟に(いささか、強引なこじつけです、ハイ)。これは、匂うって。
でね、そもそも清河八郎暗殺というのは幕府にとって数年来の宿題を片づけたという一面があるのだ。一体、どういうことか? ここは、当時、横浜に滞在してニューヨーク・トリビューンに寄稿するなどしていたフランシス・ホールの日記(Japan Through American Eyes: The Journal of Francis Hall, 1859-1866)の1863年6月13日の一節を読んでもらうことにしよう――
The day before General Pruyn left Yedo a man was assassinated near his residence who was said to have been killed by the ronins. From accounts now given General Pruyn by his interpreter Tommy and others, it would appear that this man was a distinguished ronin himself, "the chief of the Yedo ronins," "the very man who killed Heusken, and who had often openly boasted of the deed." He had been slain in feud with others of his clan.
ここは若干の補足情報も加えつつ内容を噛み砕いて説明するならば――プライン将軍(第2代駐日アメリカ公使ロバート・プラインのこと)が江戸を発つ前日、一人の男が将軍の宿舎の近くで殺された。通訳のトミー(というのは愛称で、万延元年遣米使節団に見習通詞として参加していた立石斧次郎のこと。滞米中、トミーという愛称で人気を博した。帰国後は母方の米田姓に改名し、米田桂次郎と名乗り、御雇通詞となった。ちなみに、現在、フリーアナウンサーとして活躍している長野智子は末裔とされる)やその他の情報源からもたらされた情報によれば、男は江戸の浪人の頭目で、(初代駐日アメリカ公使タウンゼント・ハリスの通訳兼書記で1861年1月16日に殺された)ヘンリー・ヒュースケンを殺した、まさにその男だという。男は、浪人の仲間割れで殺されたという……。まあ、ザッとこんな感じ。でね、男が浪人の仲間割れで殺されたというのは誤情報としても(あるいは、そんなふうに幕府がフレームアップしようとしていたのかも知れない。「暗殺」っていうのは、要するに、誰が何の目的でやったかもわからないよう迷彩を施して実行された殺害行為のことなのだから。ちなみに、昔読んだ埴谷雄高の『幻視のなかの政治』に忘れられない一節があってね――「目の前に現存しないのに必ずそこに動いている巨大なもの、それは権力である。闇のなかから鉤がでてきて一人の男をつりあげ消え去ったとすれば、それは権力が働いたのである」。このね、UFOキャッチャーの景品のように釣り上げられ闇の彼方へ連れ去られるという悪夢にどれだけうなされたことか……)、この殺された男というのが清河八郎であることは明らかで、彼は「ヘンリー・ヒュースケンを殺した、まさにその男」だったのだ。もっとも、清河八郎の役割は、実行犯ではなく、黒幕と見なすのが正しい。実行したのは益満休之助、伊牟田尚平ら「虎尾の会」のメンバーで、その「虎尾の会」を結成したのが清河八郎だった。この点については小山松勝一郎もこんなふうに書いて事件と清河の関わりを認めている――「この者たち(益満・伊牟田ら7名)は清河塾に逃げこみ、虎尾の会の意気が大いに揚がった。/幕府方では百方犯人を探したがわからず、ヒュースケンの老母へ手当てとして洋銀一万枚(一万ドル)を贈った」。で、小栗忠順はこのヘンリー・ヒュースケン殺害事件に強い思い入れがあった。というのも、当時、小栗は外国奉行を務めており、頻繁にアメリカ公使館にも出入りしていた。その姿はヘンリー・ヒュースケンが遺した日記にもデッサンされており、しかもそれは事件が起きるわずか11日前のことだった。ここは青木枝朗訳『ヒュースケン日本日記』(岩波書店)よりその全文を紹介――
一八六一年一月七日〔万延元年十一月二十七日〕
奉行小栗豊後守〔外国奉行〕がハリス氏を訪問。一般的情勢はいくぶん好転しており、政府は約六百人の陰謀者を発見し、二、三の者だけを逮捕した。残らず逮捕すると混乱が大きくなるからだという(臆病か、それとも陰謀家の身分が高くて影響力が強いからなのか?)。
彼らは大使の家にヤクニン〔役人〕を二、三名住みこませるよう許可を求めたが、それは拒否された。ハリス氏は、代表部の構内においては何人たりとも出入りの際には氏に対して当然の敬意を表し、頭をさげて礼をしてほしいが、こんどきた大名のヤクニンはこれを怠るようだと言った。
奉行が言うことに、政府の役人については責任を負うことができるが、大名の家臣にそれを強制するのはむずかしい。いずれはそうしよう! 彼が言うには、城の門の立ち番をする役人は、たとえ両親や友人を見かけても、けっして直立不動の姿勢を崩さないという規則があって、警備の見廻りにくるお目付にしか敬礼しない。彼自身が通っても、大名の役人たちは礼をしないと言った(私は奉行が辞去するとき一緒に行ってみたが、大名の役人たちはみな彼に礼をしており、例外は二人だけだった)。
奉行がまた言うことに、薩摩守がもう江戸にこないという噂は誤りである。彼はすでに江戸に向かっていたが、病気になったので自分の領地へ戻ったのである。来年は領地に在留しているだろう。なぜかというと、来年は彼が江戸に居るべき年でないからである。しかし明後年は出てくるだろう。
[奉行はまたこうも言った、]ある大名がこれから江戸に米を送らなくなるという噂は、これまた誤りである。米の輸送は大坂の商人の仲介によっておこなわれるので、大名自身が米を輸送することはない。仙台候のみは例外であるが、それも米を送ることをやめてはいない。
富裕な日本の商人が、価格を釣り上げるため多量の食品を買い占め、売ろうとしなかったので、政府によって逮捕され、全財産を没収され、本人は島に送られること[流刑]になるらしい。
政府が窮地に立つ、たとえば大君の倉庫が火災に遭ったりすると、役人は一種の賦課金を強制的に徴収する。彼らは金持ちの商人に向かって、「大君の御用で金子が入用である」という。商人たちは強制はされないけれども、後になってヤクニンが検問にくることをおそれ、みなそれぞれの資力に応じて金を差し出す。それはゴヨウキン〔御用金〕と呼ばれる。
前に述べた商人は六年前にコバン〔小判〕で六千の御用金を差し出した。シロキヤ〔白木屋〕はじっさいは京都に住んでいるのに、もし御用金を納めないと大君に江戸から追放されるかも知れないと心配したらしい。
一点だけ説明しておくと、文中で「大名自身が米を輸送することはない。仙台候のみは例外である」というのは、安政6年2月、仙台藩が自前で建造した日本初の本格的西洋帆船「開成丸」に学田米(藩校の学校田で収穫された米のこと)を満載して江戸湾に漕ぎ入れたことを指している。その造艦の棟梁を務めたのは三浦乾也という人物で、益井邦夫著『幕末の鬼才 三浦乾也』(里文出版)ではその時の模様をこうデッサンしている――「春まだ浅い季節に、無事に魔の海域の三角波を乗り切って浦賀水道から江戸湾に入り、江戸表にその雄姿を現したとき、それに気付いた江戸市民の驚き様は黒船来航に次ぐものであったといわれる」。実は、ちょっとばかり事情があって、おれは三浦乾也のことを調べたことがあるのだ。もうね、相当に調べた。あっちこっちの図書館にレファレンスも依頼したし。それでこの件を承知しているのだが、よもやヘンリー・ヒュースケンの日記を読んで当時のことをを思い起こすことになろうとは……。まあ、そんな日記ではあるんだが、内容的に最も重要なのは最初の「一般的情勢はいくぶん好転しており、政府は約六百人の陰謀者を発見し、二、三の者だけを逮捕した」という下りだろうね。これは1月1日付けで書かれている「五百ないし六百の浪人が、おそらく水戸家の浪人であろうが、輸出貿易のために主要食品の価格が絶えず騰貴していることから外国人に対して怒りを抱き、横浜を焼打ちしようとしている」という「風聞」を踏まえたもので、これも「急に閣老会議から派遣されてきた」外国奉行からもたらされたものとされていて、その外国奉行も小栗忠順には違いないだろう。ちなみに、このとき、伝えられた「風聞」も「虎尾の会」が関係したもので、横浜の外国人居留地を焼き打ちし、檄文を遠近に配付し、尊王攘夷の士を募る。で、「これに応ぜず敵対する者があったら、外夷と同罪にとり扱い、たとい将軍でも諸侯でもすべてこれを斬り、その後天子にこの事を奏上し、錦の御旗を奉じて天下に号令し、回天の大業をうち立てよう」(出典は小山松勝一郎著『清河八郎』)。こんな〝狂気〟に取り憑かれた人物を郷土の英雄と持ち上げる(曰く「幕末は、清河八郎が幕を開け、坂本龍馬が閉じた」!)庄内町観光協会の気が知れない……。ともあれ、こうして小栗忠順はヘンリー・ヒュースケン殺害事件のわずか11日前にヘンリー・ヒュースケンに会っていたわけで、それどころか『ヒュースケン日本日記』巻末の「英訳者の解説」によれば、事件翌日の朝7時には他の幕府要人2人とともにアメリカ公使館を訪れ、「外国事務相の弔辞」を伝えた上でこう述べたとされる――「政府は百方手をつくしてこの恐るべき犯罪をおこなった者を逮捕し、処罰するつもりだ」。なお、ここに出てくる「外国事務相」は原文では何と書かれているのかはわかりませんが、当時はまだ後に小笠原長行が就任することになる外国事務総裁という役職は設けられておらず(設置は慶応3年。この年5月、会計総裁・国内事務総裁・外国事務総裁が新設され、既存の陸軍総裁・海軍総裁と合せ「五局体制」が確立した)、老中の1人が外国事務を担任していた。万延元年当時は安藤信正がそれに当たる(東京大学史料編纂所の「維新史料綱要データベース」での検索結果。なお、安藤信正が外国事務を担任していたことを裏付ける史料としては『肥後藩国事史料』がある。こちらが、デジコレで閲覧できる同書の当該ページ)。ともあれ、この時点で小栗はタウンゼント・ハリスに対し「政府は百方手をつくしてこの恐るべき犯罪をおこなった者を逮捕し、処罰するつもりだ」と約束しているのだ。これは、事実として、重い。そして、それから2年5か月後の文久3年4月13日、清河八郎は遂に「処罰」されたわけだが、この件に小栗忠順が関わっていなかったとはおれにはとても思えない。で、ここは、当然、小栗は関わっていた、という前提で1つの仮説を披露することにしたいのだが、まずは小山松勝一郎著『清河八郎』よりこんな下りを読んでもらうことにしよう。なるほど、清河八郎暗殺の経緯はここまで明らかになっているのか、と感嘆させられるような内容で――
八郎が外出するたびに、壮漢四、五人常にかたわらを離れず護衛していた。八郎の攘夷が幕府の為すこととくい違っているので、幕府は八郎を暗殺しようとしている気配が感じられたからである。
幕府の命じた取締役並出役は、取締役と同等の権限を持つ臨時に命ぜられた者たちである。それは講武所非常召集槍術部第一班世話心得速見又四郎、槍術部師範佐々木只三郎、非常召集剣術部第三班世話心得高久安次郎、広瀬六兵衛・永井寅之助・依田哲二郎はすべて講武所修業人である。徳永昇も修業人かも知れない。この出役を命ぜられた時、彼らの胸の中に八郎を暗殺しなければならぬと以心伝心覚悟するところがあったと思われる。
三月十六日、浪士組東下の途中関ヶ原宿で速見又四郎が長州藩士某から八郎にあてた密書を手に入れた。内々披いて見ると国の大事にかかわることである。速見は急いで人を走らせ、上洛中の老中板倉周防守に提出した。
四月七日、京都より板倉閣老が速見ら出役の者に清河八郎暗殺せよとの密命が届いた。『官武通紀』には「清河八郎、切支丹にて身を隠し候由にて中々手取にては手に入り兼ね候間、だまし打に討ち取り候様」の内旨が載せてある。速見・佐々木らは早速八郎をつけ狙った。
ここに出てくる板倉周防守とは言わずと知れた(え、言われないとわからない? でも、幕末政局における徳川方の最大のキーパーソンなんですがね、一般に流布している「幕末」ではそう描かれていないだけで。この際だからぜひ知っておいて欲しい、幕末政局における徳川方の最大のキーパーソンは→)板倉勝静のことなんだが、ここでは板倉勝静が速見又四郎(文献によっては速水又四郎ともされており、ゆらぎが認められる。本稿では小山松勝一郎氏に敬意を表し、速見又四郎で統一します)に密命を下した、ということになっている。なお、『官武通紀』というのは仙台藩士・玉虫左太夫が編纂した幕末の史料集で『日本史籍協会叢書』などで読める。引用されている下りは『官武通紀』第七の「第十七、清川八郎逢切害候始末書寫」に認められる――「清川八郎切支丹にて身を隠し候由、中々手取にては手に入兼候間、だまし打に討取候様」。同書ではこれを板倉周防守殿よりの「御内書」としているのだが、ハテ、なんでそんなものがこうして後世に伝わっているのだろう……? ともあれ、これを読めば板倉勝静が幕末政局においていかに重要な存在だったかがわかってもらえるだろう(ちなみに、↑で紹介した「五局体制」を老中首座として統括していたのが板倉勝静で、ウィキペディアでは「老中首座の板倉勝静が五局を統括調整する首相役を務める事実上の内閣制度」と書いている。全面的に賛成です)。で、こんなふうに清河八郎暗殺の影の指揮者は板倉勝静だったと捉えた上で、さて小栗忠順だ。彼はヘンリー・ヒュースケン殺害事件に強い思い入れを持っていたわけだが、ここで注目はフランシス・ホールが清河八郎(と名指しはしていないけれど)を「ヘンリー・ヒュースケンを殺した、まさにその男」とした上でさらにこう書いていること――「そしてことあるごとにその行為を吹聴していた」。なんと、清河八郎は、革命家らしくもなく、と言うべきか、自らが影の指揮者となって行われた暗殺行為を、秘匿するのではなく、むしろ言い触らしてしていたというのだ。これは、革命家として底が浅いと言われても仕方がない……。ともあれ、米田桂次郎からもたらされた情報では清河八郎はそういう人物としてデッサンされていたということであり、である以上、その情報は小栗忠順の耳に届いていたとしても全然おかしくない。ちなみに、小栗は文久2年閏8月25日には南町奉行に任じられており、今で言う警視総監に当たる。そんな小栗の耳に米田桂次郎でさえ知っていた情報が届かないわけがない。そして、まさに小栗はその情報を得たんだよ、文久2年のある日。そして、清河八郎を追った。ところが、その年も押し迫った12月になって驚くべき情報がもたらされた。折しも講武所では山岡鉄太郎の献策によって浪士組の編成が進んでいたのだが、なんと、山岡鉄太郎の背後に清河八郎がいるというのだ。この情報に驚愕した小栗はただちに板倉勝静に報告、自らに清河の動向を探る特命を授けるよう嘆願した(小栗は12月1日付けで南町奉行から歩兵奉行に異動していたので捜査権限がなかった)。板倉勝静はただちに嘆願を受け容れ、小栗忠順を講武所御用取扱に任命した。特命を帯びた小栗は浪士の募兵事務所となっていた神田小川町の講武所で成り行きを見守った。すると、確かに山岡鉄太郎の背後には清河八郎がいた。しかし、浪士組は幕府肝煎で編成が進められており、その編成に携わっていた清河八郎は幕府の庇護下にあると言ってもよかった。ヒュースケン殺しの黒幕と自ら吹聴しているような男が幕府の庇護下にある……、これは真に憂うべき事態だった。しかし、小栗としても迂闊に手を出せないこともまた事実だった。そうこうしている内に、浪士組の上洛の日が迫ってきた。そこで小栗は取締役並出役として浪士組を引率して上洛することになった速見又四郎と佐々木只三郎に清河八郎の監視を命じた。そして、少しでもおかしな動きを見せれば自分か板倉閣老に報告するように言い含めた。はたして清河は上洛するや本性を剥き出しにして、浪士組を攘夷の先駆けにすると言い出した。そのための建白書も朝廷に提出した。建白書は受理され、鷹司関白からは生麦事件に端を発したイギリスとの戦争が予想されるとして「その方引き連れ候浪士ども、早々帰府いたし、江戸表において差図を受け、尽忠粉骨相勤め候よう、致さるべく候」との達文も下された(出典は小山松勝一郎著『清河八郎』)。もうあれよあれよという展開だよ。しかし、この急展開に幕府が振り回されていたわけでは決してない。むしろ、こうなることを予想しており、速見・佐々木から報告を受けた小栗は躊躇うことなく板倉に進言したはずだ、清河討つべし、と。それでも板倉は慎重だったかも知れない。なにしろ、清河らは天朝の意を受けて動こうとしていたのだから。かくなる上は、清河を討つための確たる材料が欲しい。そして、それは得られた。それが、小山松勝一郎が『清河八郎』に書いている「長州藩某から八郎にあてた密書」。上洛中の板倉はこの密書を受け取るや、ただちに速見・佐々木に命令を下した。そう、「清川八郎切支丹にて身を隠し候由、中々手取にては手に入兼候間、だまし打に討取候様」。
かくて、コトは決行された。時に、文久3年4月13日。その上で、ここにきわめて興味深い事実があるのだが、それからちょうど10日後の23日、小栗忠順は講武所御用取扱を免じられているのだ。そればかりか、兼帯していた勘定奉行と歩兵奉行も。これを、すべてを自らの責任としてコトを終わらせようとしたふるまい――と解釈するのは、いささか物事を決めつけ過ぎだろうか? しかし、文久2年12月10日(浪士組の編成が正式決定した翌日)に講武所御用取扱に任じられ、文久3年4月13日(清河八郎が暗殺された10日後)に講武所御用取扱を免じられた、というできすぎた経歴やヘンリー・ヒュースケン殺害事件との浅からぬ因縁を踏まえるならば、小栗が清河八郎暗殺事件と全く無関係だったと見なすのは却って不自然なような。とはいえ、小栗忠順がこんな荒事にも手を染められる男だった、というのは、世間一般に流布しているイメージからは相当に乖離しているはずで――しかし、おれが見たいのは、断然、こんな小栗忠順で。さて、来年、NHKはどんな小栗忠順をおれに見せてくれるのだろう……?