まずは今年の大河について一つだけ書いておこう。おれはね、史実を外しているとかどーとかというよりも、死をファンタジーとしてしか描けない時点でこの大河は見るに値しないと。それを特に強く感じたのは第23話の「さらば半兵衛」で、人が自らの死をあんなにコントロールできるものかってんだ。もしかしたら八津弘幸という人は身近な人の死に遭遇したことがないのでは? だから、死というものをリアリティを以て思い描くことができない。それが、お市が浅井長政を介錯した第17話「小谷落城」にも繋がったし、おれは見ていないんだが、柴田勝家とお市が手に手をとって投身自殺をした(らしい)第33話「北庄城の別れ」にも繋がったんだろう。これをね、バッサリと斬り捨てるための手立てとしてこんな言い方をしよう――かの山本周五郎は『赤ひげ診療譚』の第2話「駆込み訴え」で新出去定にこう言わしめた――「人間の一生で、臨終ほど荘厳なものはない、それをよく見ておけ」。八津弘幸という人は、『豊臣兄弟!』というドラマで、徹頭徹尾、「それ」から目を逸らし続けた……。まあ、これで、バッサリと行けたでしょう。ともあれ、死をファンタジーとしてしか描けない大河は見るに値しない。
で、おれの関心は早くも来年の『逆賊の幕臣』に向かっているんだが……実はおれには葛藤があってね。どうせ輪王寺宮は登場しないんだろう、という醒めた気持ちと、でも脚本が安達奈緒子だからなあ、という期待感と、この2つの感情のね。輪王寺宮が登場しないことは、ほぼ確定だと思う。先日、出演者発表の第7弾「朝廷の人々」として孝明天皇役に眞栄田郷敦、明治天皇役に奥野壮という発表がありましたが、輪王寺宮公現法親王は含まれず。また輪王寺宮を描くなら欠かすことのできない板倉勝静も(現時点では)発表されていない。本来ならば、第5弾「江戸城で出会う人々」に含まれていてもいいはずなんだが。というのも、この人、大政奉還当時の老中首座なんだから。時の駐日アメリカ公使ロバート・ブルース・ヴァン・ヴァルケンバーグが言うところの「大君の首相」ですよ。そして、後に「徳川氏全権」としてアメリカ公使館に極秘アプローチをかける人……。そんな重要人物がキャスティングされていない。だから、『「東武皇帝」即位説の真相 もしくはあてどないペーパー・ディテクティヴの軌跡』を書いた立場としては、相当に醒めているというか。一方で、安達奈緒子が書くドラマなら見て損はないなと。おれはこの人が書いた『お別れホスピタル』には深い感動を覚えた。オンエアされたのが母を見送った直後だったので、本当に心に沁み入った。あのホンを書いた脚本家ならそんなに大外しすることはないだろう、というのは確信としてある。ただし、輪王寺宮云々は別としても、「幕末」と安達奈緒子という組み合わせにはいささかの不安も覚える。キャリアを見る限り、ずーっと女性を描いてきた脚本家のようなので(たとえば『透明なゆりかご』とか『おかえりモネ』とか。まあ、『きのう何食べた?』というのもあるけどね)。だから、どうせなら、巴御前とか出雲阿国とか吉野太夫とか、まあ、誰でもいいんだけれど、女性が主人公の題材で勝負させたかったなあ、と。でも、もう撮影が始まっているわけだし、今さらグジグジ言ったってしょーがない。ここは安達奈緒子が「幕末」というマッチョな時代をどう女目線でドラマ化するのかに注目しよう。で、ここで問題となるのは『逆賊の幕臣』の放送が始まるまでの約3か月をどうすごすか? 3か月って、長いよ。3か月前、おれはブイヤベースを作ったりしていたんだけれ(こちらです)、なんでそんな気になったのかもう覚えてないよ。3か月ってのは、それほどの時間ですよ。この3か月という時間をどうすごすか? というのが、今のおれにとっての大きな問題となっている……と言えば、いささか大げさだけどね。でも、本当にそんな感じで。多分、3か月あれば小説の1本くらい書けると思うんだが、おれとしては『有合亭ストーリーズ』ですべて出し尽したと思っていて。この上、書けること/書きたいことなんて、ない。そもそも、それほどのエネルギーが、もう、ない。だから、「大きなこと」はできないんだよ。本を読むとか動画を見るとかの「小さなこと」をやりながら約3か月をすごすしかない、ということになる。で、それでいいという気もするんだが……その「小さなこと」を一まとめにすることによって疑似的に「大きなこと」にすることはできるんじゃないか、という気もしていて……それがこの「来年、『逆賊の幕臣』を見るために」シリーズであります。まあ、一種のイリュージョンというか。別に特別なことをするわけではない。これまで通りですよ。これまで通り、本を読んだり動画を見たり。しかし、それらを「来年、『逆賊の幕臣』を見るために」という枠で括ることで、何かそれなりのことをやっているような気持ちになれる。そして、その方がただ「小さなこと」をやっているよりよっぽど充実した時間をすごせるような気がするんだ。この「来年、『逆賊の幕臣』を見るために」シリーズはそのためのものです。
ということで、この際だから小栗忠順について少しばかり私見を披瀝しておこうと思うんだが……この人、無残な最期を遂げるわけだよね。「小栗日記」(『群馬県史料集』第7巻)によれば、小栗忠順は、慶応4年1月15日、江戸城芙蓉の間で御役御免と勤仕並(への配置転換)を仰付けられるのだが、源氏鶏太のサラリーマン小説に準えて言えばさしずめ調査室への配転であり、事実上の退職勧奨。で、小栗としても身の振り方を考える必要があるわけだが……「小栗日記」を読むと、15日以降、小栗の元にはさまざまな人物が訪れていることがわかる。その中には大鳥圭介や古屋作左衛門もいた。いずれも筋金入りの主戦論者。当然、主戦論者が手を携えてコトを為そうという話合いもなされたとは思うのだが、小栗の決断は意外なものだった。28日に至って「知行所上野州権田村江土着願書今朝肝煎相頼平岡丹波守方江進達致ス」。なんと、上州の権田村(現在の群馬県高崎市倉渕町権田)へ引っ込むというのだ。さしずめ、陶淵明の「帰去来辞」の心境? で、翌日にはこの願書は認められ、小栗は上州の僻村に退隠することになるのだが、そこでの暮らしぶりはというと……ここは、その上州権田村で小栗が仮住まいとした東善寺の現住職・村上泰賢師が運営する「小栗上野介の寺 東善寺(公式)」のこちらのページから引用させてもらうなら――「権田村に住んで若者に新しい教育を伝えることを目指した小栗忠順は、東善寺に仮住まいして近くの観音山に屋敷の建設を進め、水のない観音山に小至沢(こいたりざわ)の源流から水平に水の道を求めて測量し、尾根伝いにたちまち水を引いてしまった。この測量は忠順自身がしたというより、養子の又一あるいは家臣が横須賀造船所の建設工事を指導していたフランス人から教わったフランス式測量法、と思われる」。要するに、小栗は文字通り権田村に「土着」し、自らが軍艦奉行その他の要職を歴任する過程で身につけた最新の技術も用いて言うならば「新しき村」の建設に励んでいたと。それは「希望に燃えた権田村の日々」であったに違いない――と村上泰賢師は書かれているわけだけれど、そんな日々は、閏4月4日、突然、終わりを告げる。東山道総督府の意を受けた高崎藩・安中藩・吉井藩の藩兵らに捕縛され高崎城下へと連行されるのだ。そして、まともな取り調べを受けることもないまま同6日朝四ツ半(午前11時)、烏川の水沼河原(現在の群馬県高崎市倉渕町水沼1613-3番地先)で斬首となった……。
それにしても、ただ「新しき村」の建設に励んでいただけの小栗がなぜこのような仕打ちを受けることに? これについては「小倉日記」の閏4月1日の条にその「理由」が記されていて、東山道総督府から3藩に下された指示書(日記では「回文」と書いている)に曰く――「小栗上野介近日其領地上州権田村ニ於テ陣屋等厳重ニ相構候加之砲台ヲ築キ不容易企有之趣諸方之注進難聞捨探索ヲ加候処逆謀判然上は奉対(平出)天朝不埒至極下ハ主人慶喜恭順ノ意ニ相戻候ニ付」云々。要するに、小栗が権田村で行っている一連の「普請」は東征軍と一戦を構えるための陣地構築であり、それは上は天朝に対して不埒極まりなく下は徳川慶喜の恭順の意に悖るもの――ということになる。ただ、村上泰賢師曰く――「小栗一家は夫妻・母・幼女鉞子、用人塚本真彦家は、夫人や老母、幼児4人を連れて家族ぐるみで移住している。戦争準備のために江戸から植木まで運んで家族ぐるみで移住する武士がいようか」。まあ、ねえ。従って、通説では、この小栗に科せられた罪状は全くの濡れ衣だったとされている。従って「上野介罪なくして斬らる」(『倉淵村誌』)というのが小栗の最期をめぐる一般的なイメージとなっていると言っていいだろう。で、おそらくは『逆賊の幕臣』でも小栗の最期はそんなふうに描かれることになるんだろうと思うんだが(だから『逆賊の幕臣』というのは、反語ということになるんだろう)……実はね、おれはちょっと違った見方をしているんだよ。そもそもおれは武士の「帰農」というのを信じない性質でね。だって、西郷隆盛を見ればわかるだろう。西郷隆盛の生涯には「退農時代」と呼ばれる穏やかな季節があったとされている。鹿児島郡吉野村に失業した士族の授産のためとして「吉野開墾社」なるものも作った。おそらくはこの時代の西郷を評した言葉だろうけれど「犬ヲ愛シ、鹿兎ヲ狩リ、農耕ヲ好ミ、致仕帰県ノ後ハ田上村ニ在ル耕地ニ閉居シ、桑茶ヲ植ヘテ楽トセリ」(市来四郎「丁丑擾乱記」)。ただ、この時代の西郷は決して農耕に自足していたわけではないのだ。このことは、明治9年11月(日付不明)、滞在中の日当山温泉から霧島の桂四郎に宛てて送った書簡(『西郷隆盛全集』第3巻)によって裏付けられる。この中で西郷は前原一誠らの決起を伝える報せを「愉快の報」とした上で「此の報を得候え共、只今迄滞在仕り居り申し候。相急ぎ罷り帰り候ては、壮士輩騒ぎ立て候わんかと推慮いたし、決して此の方の挙動は人に見せ申さず、今日に至り候ては尚更の事に御座候。一度相動き候わば、天下驚くべきの事をなし候わんと、相含み罷り在り申し候。此の旨荒々御知らせのみ此の如くに御座候」。要するに、今すぐに呼応して起つことはないけれど、いずれは起つと。そして「一度相動き候わば、天下驚くべきの事をなし候わん」。それと同じような思いが小栗の心底にもきっとあったに違いないと思うんだよ。それを裏付ける証言もあって、これは早川珪村という群馬県出身の郷土史家が『上毛及上毛人』大正11年11月号に寄稿した「幕末の偉人小栗上野介忠順」に書いていることなんだけれど――
……或人上野介に對し、采邑に土着するなれば下野國足利郡高橋村は比較的交通も便利にして大村なるに、殊更に山間僻地交通不便且小邑なる權田村を選ばれたる所以を問ひたるに、上野介は徐に答て曰、前將軍に於て我々の主戰說は容れらるゝに於ては、策すべき途多々ありと雖も、不幸我々の主戰說は、前將軍の容るゝ所とならず、假令東北諸藩を糾合して戰ふとも、無名の師にして、勝算あるなし、只騷亂平定後に於て强藩間或は權力を爭ひ相軋轢し、群雄割據の狀を呈し、國家の統一を缺くに至るやも知るべからず、此の如き時に於て外國の其隙に乘するあらば實に由々敷大事なり、萬一然る事あらば我は直に前將軍を奉じ、天下に飛檄し國難を除くと同時に中興を策せんと欲す、幸いに天下泰平を謳歌するに至らば、我は山間の一頑民として終らんのみ、故に此の繁雜を避け殊更に僻邑權田村を撰みしのみ、他に何等の感思あるに在らざるなりと語られたりと云へるが、眞に然りしならん歟。
ここに出てくる「萬一然る事あらば我は直に前將軍を奉じ、天下に飛檄し國難を除くと同時に中興を策せんと欲す」というのが、はたして小栗の心中を正確に伝えるものかどうか。ただ、おれとしてはこの証言を信じたい。というのも、この当時の徳川武士としてはさほど突飛な考えだったとも思えないので。どんなもんでしょうか、御住職? ちなみに、冒頭の「或人」とは彰義隊の結成メンバーの一人である渋沢成一郎であるとされている(「幕末の偉人小栗上野介忠順」に先立って刊行された青木武助著『大日本歴史集成』には渋沢成一郎の名前がハッキリと記されている)。ただ、早川珪村が書いているのは、所詮、伝聞情報なので。そんなの、当てにならない、と言われればそれまでで。だから、ここは事実による立証が求められるわけだが……実は「小栗日記」を丹念に読むと小栗の権田村退隠が単に「新しき村」を建設するためだったとするには説明のつかない事実が含まれていることがわかる。それは、小栗が江戸を退去するに当たって相当数の「歩兵」を引率していたと思われること。小栗が江戸を退去するに当たっていわゆる「一族郎党」を引き連れていたことは村上泰賢師も書いておられるし、「小栗日記」からも裏付けられる――「朝五時前御母様於道於鉞出立為致引続自分并又一同道ニ而発足致ス」(於道は正室の道子、於鉞は養女の鉞子、又一は養嗣子の忠道のこと)。もちろん、この際、歩兵を引率していたことはこの記載からは読みとれない。しかし、小栗が権田村に腰を落ち着けて間もない3月4日、事件が起きた。小栗が多額の軍資金を持って権田村にやってきたと信じ込んだ(これが、いわゆる「徳川埋蔵金」伝説へと繋がるわけですね。いやー、おれも乗せられたよ、あのTBSの馬鹿騒ぎには……)博徒らが衆を頼んで権田村に押し寄せたのだ。その数、2000人。これに対し、さすがは元陸軍奉行と言うべきか、小栗は見事な采配でこれを撃退して見せるのだ。その采配ぶりを「小倉日記」より引くなら――
……自分義者(は)又一共〻家来并歩兵其他村内猟師并強壮之者百人余召連罷出右人数を五手に分弐手者(は)山手江相廻し自分義又一ともゝゝ歩兵弐拾人余を下手之方江出張致し外弐手者(は)川浦村之の方を相防せ候事ニ所分を定夫〻自分義双方指揮致居候処敵ハ三方より凡弐千人も押寄せ遂に上宿江放火致し又一方ハ下手鎮守前江放火致其上川浦村之方川向より発砲を始候ニ付速ニ歩兵共撤兵進之令を下し鎮守之森に屯集之賊を追討候処速ニ退去之様子ニ付尚追討致し遂ニ三人打留壱人槍ニ而村内之者(は)突留右ニ而此一方ハ鎮静ニ付引揚川浦村之方江可攻撃積り之処彼より之発砲盛ニ其上山手之方無心元ニ付長左衛門屋敷内より山手江出候処多人数屯集致し居候得共祐蔵并藤五郎之隊ニ而多分防戦も可出来様子ニ付直に又候上宿之江又一を遣し山上より彼を攻撃致し遂ニ烏川向川浦村江押入彼を追討致し此節池田伝大井磯十郎五人程打取其他歩兵之者とも拾人も所〻而打取右ニ付賊徒ハ散々ニ脱走致し……
注目は太字表記した「歩兵」の二文字ですよ。この「歩兵」ってナニモノ? これはね、小栗が元歩兵奉行であることから考えても、幕府歩兵隊のことと見るのが自然てもんですよ。では、幕府歩兵隊とはいかなる部隊なのか? これについては、野口武彦著『幕府歩兵隊』(中公新書)よりその思い入れたっぷりなイントロダクション(なにしろイントロダクションのタイトルは「幕府歩兵隊へのラブ・レター」なんだから!)を引いて説明に代えよう――「幕府歩兵隊は、幕末激動期を駆け抜けていった兵士集団である。/その運命は数奇をきわめた。幕末も押し迫った文久二年(一八六二)、徳川幕府の手で軍事改革の一部として創設され、間もなく内乱の戦線に投入されて諸方面で戦ったが、あまり戦果を挙げないうちに慶応四年(一八六八)幕府は瓦解し、正規の部隊としては消滅してしまう。ところが主力は江戸を脱走して官軍に対抗。東日本各地を転戦して勇名を馳せ、明治二年(一八六九)に箱館(函館)で降伏するまで戊辰戦争の影の花形になって活躍した」。ただし、この幕府歩兵隊、決して一致結束して行動したわけではなく、徳川幕府瓦解後は統制を失い、むしろてんでんばらばらに行動した。元々は市井の徒だったことを考えれば(中には博徒のような連中もいたとされる)それもやむをえないところではあった。で、その一部は古屋作左衛門の指揮下に入って衝鋒隊となり、別の一部は大鳥圭介の指揮下に入っていわゆる「徳川脱走陸軍」となった。それが、箱館まで行った連中だね。で、おれが思うに、彼らとは別行動をとって小栗忠順の指揮下に入った部隊もいたのでは? 当然のことながら、元歩兵奉行である小栗(ちなみに、小栗が歩兵奉行に任じられたのは歩兵隊創設と同じ文久2年12月。すなわち、小栗が初代歩兵奉行ということになる)を慕うものもいただろうし。小栗が江戸を引き払うと知って同道を求めた者たちがいたとしても不思議はないだろう。まあ、小栗に従っていれば、食い扶持に困ることもないだろうからね。ただ、同道を許した小栗の心中は? おれはね、小栗に↑で紹介したような底意がなければ歩兵の同道を認めるなんてことはありえないと思う。間違いなく、小栗にはその気があったんだよ。それこそ、「一度相動き候わば、天下驚くべきの事をなし候わん」というようなね。
さて、来年、松坂@忠順が江戸を引き払う際、同道する歩兵部隊はいるんだろうか? それは「小倉日記」の解釈次第、ということにはなるわけだが……。
ところで、おれが初めて夢中になった大河は『勝海舟』でね。テーマ的に『逆賊の幕臣』と重なる点もあるし、この際だからちょっとだけ書いておきたいと思うんだが……おれが『勝海舟』に夢中になった理由の第一がショーケンの岡田以蔵であるのは間違いない。でも、もう1つ大きかったのは、主演の渡哲也をはじめとして、かつて「日活ニューアクションの三銃士」と言われた郷鍈治、藤竜也、岡崎二朗が総出演していたり、宍戸錠が山岡鉄舟をやっていたり……と日活色が濃厚だったこと。それに伴って、大河ドラマにはあるまじきやくざっぽさが充ち満ちていた。NHK製作のドラマはどうしようもなく官僚臭みたいなものを漂わせるものなんだが、むしろ場末の映画館に淀む退廃臭……みたいなものさえ感じられた。で、これは渡哲也の降板を受けて後を松方弘樹が引き継いでからもそのまま残っていた。何しろ、こっちは東映だから。そういえば、出てきたのは1回だけだったと思うけれど、渡瀬恒彦がやった田中新兵衛がまたやくざでねえ……。しかし、「日活ニューアクションの三銃士」を総出演させるってどういう意図だったんだろう? 幕末という時代の物騒な空気感を醸し出すには彼らがうってつけということだったんだろうか? それとも、渡哲也が主役を引き受けるに当たってのバーターだったとか? いや、当時はそんな慣習はなかったと思うけどなあ。まあ、どういう事情があったにせよ、「日活ニューアクションの三銃士」総出演の大河は実にやくざっぽかった。特に藤竜也の土方歳三がね。これは前にも書いたことがあるんだけど(こちらです)、藤竜也の土方歳三というのは、なんというのか、「土方歳三」を着崩したような感じ、とでもいうのかな。少し猫背。声は張らない。いつも囁くような口調。見回り中に不審人物を詰問する際も、ややビブラートのかかった小声で「鬢ずれがありますね」とかね。出番は少なかったけれど、虜になったもんですよ。中でも第37話の「こぼれ花」は白眉。祭の雑踏の中で出会った勝海舟と土方歳三が酒を酌み交わしながら――「花ならさしずめこぼれ花でしょうかねえ」。もう「花一輪」の世界ですよ。後にも先にもあんなやくざな土方歳三は藤竜也の土方歳三だけ……。
で、そんな『勝海舟』だが、NHKオンデマンドで視聴できるのは総集編だけ。なんと、テープが残っていないってんだよね。これについて、脚本を担当した倉本聰(ただし、途中で降板……したのかさせられたのか、とにかく、途中で中沢昭二という人と交替した。交替した時期はハッキリしませんが、第37話を書いたのは倉本聰であることはわかっている。あんな台詞、倉本聰じゃなきゃとても書けるもんではありませんよ……)は「僕らの知的財産を奪った」。倉本聰が言うには「僕は『やすらぎの郷』の放送前年に、「終活」っていうのをやったんですね。不動産やら遺産やらわずかながらあるわけですが、その中でも最も大きな割合を占めているものは、知的財産権といっても過言ではありません。作品を創作した著者に帰属する著作権をはじめ、作品の再放送、付随する出版物に対する印税など、創作者の矜持として認められるべきものが、驚くことに、昭和48年以前の作品は映像が一切消えてしまっているわけです」(「倉本聰 ここだけの話51」より)。これは、当然の言い分だと思う。日本という国はソフトを軽視しすぎなんだよ。国立映画アーカイブなんて、クラウドファンディングで資金を調達しなければならないような有り様だよ(9月23日を以て終了したようです)。また、フィルムの原版は、多くの場合、IMAGICAに預けられていて、中には預けっぱなしということもあるらしい。ただ、そのIMAGICAも経営的に厳しく(なんでも2025年6月30日を以てTVポストプロダクション事業から撤退したそうです)、預け主に引き取ってもらおうと思っても古いものだと連絡がつかず、やむなく廃棄処分ということもあるらしい(このあたりについては映画秘宝公式noteのこちらの記事に詳しい。また、この記事を元に書いたこちらの記事も読んでいただければ)。もうね、クールジャパンとか言って540億円もの赤字を出しているくらいなら、国もこういうことに金を使えってんだよ。実際、ヨーロッパだと国が国家の財産として保存に努めていて、フィルムの修復なども国費を投入して行っている。ルキノ・ヴィスコンティ監督の『山猫』なんてイタリア政府が国家の威信を懸けて復元に取り組み、完成したものは『山猫 イタリア語・完全復元版』として日本を含む世界各国で公開された(ちなみに、おれは劇場では見ていないんだけれど、DVDを持っている。アメリカのCriterion Collectionから発売されたもので、イタリア語の台詞に英語の字幕が付いている。かの有名なドン・ファブリッツオの台詞は字幕だと――Something had to change ... for everything to stay as it was.)。一方、わが国ではCFで市民から浄財を募っている有り様で。なんでも高市内閣の令和9年度(2027年度)予算の一般会計概算要求の総額は143兆円に達するとか。今年度当初予算が約122兆円なので、どんだけ〝積極的〟なんだ。でも、国にはそれだけの財政力があるってことなんだよね? それでなんで国立映画アーカイブはCFに頼らなければならないんだ? エライ人、教えて下さい。
ともあれ、現状では「花ならさしずめこぼれ花でしょうかねえ」は見られないんだよ。ただし、意外な事実があって、第37話「こぼれ花」は現存するんだよ。『勝海舟』に坂本龍馬役で出演していた藤岡弘(読点省略)が個人的に録画したものがあって、数年前、NHKに寄贈した。これは、記事にもなっている(こちらです。なんと、藤竜也演じる土方歳三の画像も紹介されている。眼が、鋭い! これは、やくざの眼だ……)。ところが、今日時点でもNHKオンデマンドで視聴できるのは総集編だけ。どういうわけだ? せっかく寄贈された映像を死蔵しているなんて。一体、何のための「NHK番組発掘プロジェクト」なんだ(怒)。納得できないので、NHKオンデマンドの「配信ご希望番組」からリクエストしておいたんだが……本作はNHKには映像が残っていないと承知しています。しかし、本作に坂本龍馬役で出演されていた藤岡弘氏が個人的に録画したものがあり、数年前、NHKに寄贈された、ということも「NHK番組発掘プロジェクト」の記事で承知しています。そこで、藤岡弘氏から寄贈された第32回「池田屋」、第35回「孤独」、第37回「こぼれ花」、第44回「龍馬死す」をリクエスト致します。来年、放送予定の『逆賊の幕臣』とはテーマ的に重なる点があると思われますし、同作のプロモーションという意味でも有意義だと思うのですが、いかがでしょうか?……というメッセージを添えてね。さて、「皆様のNHK」はどう対応して下さいますやら……。
ところで、ウィキペディアの「勝海舟 (NHK大河ドラマ)」の「登場人物」を見ていたら、板倉勝静(板倉周防守)役として安部徹がキャスティングされていることがわかって、へえ。おれ的には、全然、記憶にないんだけれど、そうか、板倉勝静が出ていたのかあ……。ただ、安部徹? 違うよなあ。辻七郎左衛門(板倉家家臣。諱は忠貞)が書いたものを読む限り板倉勝静というのは相当に人間的なキャラクターだったようで、いささか情に流されるようなところもあったらしい。だから、安部徹じゃないんだよ。そもそもこの人は白河松平家から板倉家に養子に入った人で、英明だったことは間違いない。じゃなけりゃ養子には選ばれない。もちろん、英明であることと政治家としてすぐれていることは必ずしもイコールではないんだが。この際だ、辻七郎左衛門が「艱難実録」(『岡山県史』第26巻)に書いている板倉勝静の人物評を紹介しようか。これがなかなか率直というか。なにしろ、いきなりダメ出しで始まるわけだから――「我か君の事を世間にてハ高名に評すれとも、実は左程の事ハこれなし、正直固衷情に深き御性質にて、御誠意余りあつて、拭権果断の足さる御方なり、倹勤にして奢侈を嫌ふこと甚し、質朴簡便を好みて詐偽修飾を悪む事も亦甚し、よりて他人にも詐偽ハなきものと思し召、人を見損し、人に欺かれ給ふ事まゝ多し、されとも斯くと見込み立ち候節は決して不動なり、故に、故将軍(家茂公也)を上洛せしめ、太平久敷、人々因循怠惰の折柄、忽ちに廃れたる大典を起し給ハ我君の力なり、且家来への仕向ハ、威権余りありて恩恵足らざるなり、我々家来に依頼せず、他の家来に信依候事を行給ふことまゝ多し、是一失にて候、全体守成の方に用ひなは功ある御方なり、創業大権の節に用ひてハ、その功なきなり、予常にいふ、我が君をして天保・弘化・嘉永の間に徳川家の閣老たらしめハ、その功顕れて、徳川家の衰ハ今日に至るまし、惜かな大権の時に閣老となりて、その短なる処を用ひられ給ふこと、時運と雖も徳川家君臣の不幸といふべきや」。ちなみに、この中の「他の家来に信依候事を行給ふことまゝ多し」というのが、板倉勝静の意を受けて杤木大学が動いていたという『「東武皇帝」即位説の真相 もしくはあてどないペーパー・ディテクティヴの軌跡』で示した仮説の根拠にもなっているんだが……ともあれ、辻七郎左衛門が書いているように、板倉勝静という人は「創業大権の節に用ひてハ、その功なきなり」。つまり、乱世の雄たるにはやや欠けるところがあったのは間違いないだろう。一方で辻七郎左衛門は「斯くと見込み立ち候節は決して不動なり」とも書いているわけで、実際、輪王寺宮を奉じてコトを起こしたわけだから。
そんな人間ドラマを体現できる俳優という意味では……平幹二朗とか? まあ、平幹二朗をキャスティングするなら板倉勝静を準主役くらいにはしないことにはね。ただ、老中首座だったんだから、平幹二朗くらいの大物を配してもおかしくはないんだよ。まあ、今だったら、内野聖陽の一択なんだけどね。で、小笠原長行には山本耕史。これで、決まりだよ。しかも、2人は『きのう何食べた?』で安達奈緒子と仕事をしているわけだから。もしかしたら、何らかのオファーは行ってるんじゃないかなあ。ひょっとして、このあと、サプライズとして発表がある?
――と、まあ、こんなことも夢見ながら、来年の『逆賊の幕臣』を待とうかな、と……。