PW_PLUS


鐡張軍艦ストンワール③

 まあ、あまり人様の揚げ足取りのようなことをするのは趣味ではないのだけど、しかし短い文章の中にこうも事実誤認が詰まっているとねえ。ここは少しばかりツッコミを入れておかないといけないでしょう。ということで、まずはWikipedia日本語版の「東艦」についての記事からこんな下りを紹介――

そこで2艦は売りに出され、当時戦争中であったプロイセンとデンマークに渡った。デンマークに売却されたのが本艦で「ステークオザー(Staerkodder)」と命名されるも、デンマーク到着前に戦争が終結。受け取りを拒否された艦は「オリンダ」となりフランスへ戻された。だが、その途中の1865年1月24日にアメリカ南軍がこれを奪取。「ストーンウォール」となるもハバナ入港後北軍に包囲されたためキューバに売却されてしまった。戦後、アメリカはそれを買い戻すも、繋留状態に置かれていた。

 この短い文章の中に明確な事実誤認が4つあります(厳密に言うと5つ)。さて、アナタはいくつ指摘できますか?

 まず、簡単なやつから行こう。ワタシが指摘したい4つの事実誤認の中でも最も明確な事実誤認は「ハバナ入港後北軍に包囲されたためキューバに売却されてしまった」――という部分だろうね。一体何を典拠にそんなことを書いているのかは知らないけれど、そんな事実は、ない。ストーンウォール号のハバナへの回航について記した史料はいくつかあるのだけど、当事者が記したものという意味で特に重要なのがこのオペレーションにあたって回航艦長を務めたトーマス・ジェファーソン・ペイジ(Thomas Jefferson Page)の手記だろう。The career of the Confederate Cruiser “Stonewall”と題されたもので、Southern Historical Society Papers Vol.7に収録。なんでもこのSouthern Historical Society Papersとは元南軍の少将というダブニー・H・モーリー(Dabney H. Maury)が1869年に設立したSouthern Historical Societyが発行母体とかで、1876年から1959年まで全部で52巻刊行されている。その第7巻は1879年の刊行で、はっきり言ってこんなもの、かつてはアメリカのしかも南部の大学図書館にでも行かなければ閲覧は不可能だったろうけど、現在はインターネットで閲覧が可能。全くエライ時代になったものです。で、このThe career of the Confederate Cruiser “Stonewall”の中でT・J・ペイジはハバナに到着した際の模様をこう記しているのだ――

Arrived at Havana, the usual visits of ceremony made, the vessel was admitted to the customary hospitalities of the port, with no limitation as to the time she would be permitted to remain. Mark the difference of the Stonewall's reception here and that at Nassau! The sad intelligence here received, which I need not describe, was not to be questioned, and the feelings of both officers and men may be imagined, but not expressed.

The little craft that had so bravely breasted the storms of tempestuous seas, to do her duty in a holy cause, found herself a useless hulk, an incumbrance.

The political state of affairs in the Confederacy had not been as yet officially announced to the authorities of Cuba. When that shall have been done, the Stonewall would no longer be entitled to, the flag she so proudly bore off Ferrol.

Negotiations were entered into with the authorities of Havana, which resulted in the acceptance of the Stonewall as a present, subject to the decision of the Queen of Spain. By the terms of the agreement, there was advanced to the Stonewall the sum of $16,000 in order to pay the officers and crew what was due them, as set forth in the books of the paymaster. A much larger sum would have been advanced, and was suggested, but her commander was in honor bound to the crew for the payment of what was due them — the vessel being fully responsible — and he would receive nothing more.

 ストーンウォール号が「北軍に包囲された」なんてことはどこにも記されていない。ただ、彼等を待ち受けていたのは「悲しい情報(sad intelligence)」で、それについては記す必要がない(I need not describe)と。しかし、それで十分。かくてT・J・ペイジはストーンウォール号を当時、キューバを統治下においてたスペイン政府にわずか1万6000ドルで譲り渡すことにした――と、まあ、そういうこと。ちなみにT・J・ペイジの手記には記されていないのだけど、ジェームズ・D・ブロックのThe Secret Service of the Confederate States in Europeによれば、この際、T・J・ペイジは対応に当たったキューバ総督(Captain-General)から10万ドルを逆提案されている。しかし船員たちの給与分に相当する1万6000ドルで十分だとしてその提案を丁重に退けている。彼がいかに深い絶望に捕らわれていたかがこのエピソードからはうかがえる。またアメリカ政府は同年7月になって同艦をスペイン政府から譲り受けることになるわけだけど(ここは「買い戻す」というよりも「譲り受ける」と形容した方が正確。これも含めれば事実誤認は全部で5つということになる)、その際、スペイン政府が支払ったのと同額の1万6000ドルを「補償金(indemnity)」として支払っている。そしてそれを1867年には40万ドルで徳川幕府に売り付けることになるわけで、利ざやは実に38万4000ドル! というような話は、まあ、この際、措いておきましょうか(笑)。

 さて、次に指摘しておく必要があるのは、「その途中の1865年1月24日にアメリカ南軍がこれを奪取」――としている部分。あのねえ、決して南軍はストーンウォール号を「奪取」はしておりませんて。同艦は1864年12月16日に南軍の「シークレット・エージェント」たるジェームズ・D・ブロックとジャン=ルシアン・アルマンが代理人として派遣したアンリ・アルヌー・ド・リヴィエール(Henri Arnous de Riviere)の間で売買契約が成立しており、それに基づいて1865年1月28日(Wikipediaの記事が記している1865年1月24日とはストーンウォール号がキブロン湾に到着した日)、キブロン湾沖合で正当に南軍に引き渡された。決して南軍が「奪取」したわけではない。こうした一連の経緯についてもT・J・ペイジの手記には(若干ぼかしたかたちで)記されてはいるのだけど、もしアナタが冒険小説の愛好家ならぜひThe Secret Service of the Confederate States in Europeをお読みになられたい。とにかく面白いから。元ペーパーバック屋が言うんだから間違いない(?)。

 さて、次に指摘したいのは「デンマーク到着前に戦争が終結。受け取りを拒否された」――としている部分なんだけど、ただこれについては事実誤認と槍玉に上げるのはいささか酷かも。実際、そういうふうに言われているの確かなのだから。これについてはT・J・ペイジも――

Arrived in Copenhagen, the report as to her sea-worthiness was not favorable. Her good qualities were ignored, and her disposition to act the part of the leviathan exaggerated. Moreover, the war in which Denmark was engaged was speedily brought to a close and the services of such a vessel were no longer required. In a word, that Government wished to get rid of her; and after much discussion, deliberation, investigation, &c., as to compliance with contract, it was finally determined to return the little craft to the builders.

 「鐡張軍艦ストンワール①」で問題にしたシーワージネスの話まで出てくる。それはそれで興味を惹かれるところではあるんだけど――T・J・ペイジでさえこう書いているんだ、「デンマーク到着前に戦争が終結。受け取りを拒否された」という事実関係は揺るがないように思える。ところが――なんとこれが違うようなのだ。1968年に元デンマーク王立海軍の中佐というR. Steen Steensenという人物が刊行したVore Panserskibe 1863-1943(Vore Panserskibeは日本語だと「我が装甲艦」)という本がある。デンマークの国立公文書館に所蔵されている資料を元に記されたもので、資料的価値は極めて高い。このVore Panserskibe 1863-1943の中にストーンウォール号(同書ではStærkodderと呼ばれている。シャンティエ・ド・ロセアンで建造された装甲艦はデンマーク政府に売却されるにあたって北欧神話の英雄にちなんでそう命名された。ちなみにWikipediaの記事で使われているStaerkodderはこのStærkodderを英語ふうに表記したもの)について記した下りがあるのだけれど、これを読むと(といっても、ワタシがデンマーク語を読めるわけではありません。読んだのはDansk Militærhistorieというウェブサイトに掲げられている英訳。題してThe Armoured Ram Stærkodder。訳したのはデンマーク王立海軍博物館の主任学芸員というSøren Nørbyなる人物)、デンマーク政府は決してStærkodderの受け取りを拒んでいたわけではないことがわかる。そもそもジャン=ルシアン・アルマンがアメリカ連合国の発注で建造していた2隻の装甲艦をナポレオン3世の干渉によって1隻はプロイセン政府、もう1隻はデンマーク政府に売却することにしたのは1864年3月のこと。この際、デンマーク政府は装甲艦の性能や納期に厳しい条件を付けている。特に納期については6月14日と定められ、それから1日遅れるごとに1,000フランのペナルティを科すという厳格なものだったとされる。しかしジャン=ルシアン・アルマンはこの納期を守ることができなかった。しかも7月にはデンマーク政府が装甲艦を必要としたそもそもの理由であるシュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争が終結。これにより装甲艦を購入する必要がなくなったデンマーク政府がジャン=ルシアン・アルマンと結んだ契約を破棄――

 というのが一般的に信じられている定説なのだけど、実はそういう定説を覆す文書がデンマークの国立公文書館に残されていた。デンマーク海軍はシュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争の終結後も、条件付きではあるものの、依然として装甲艦の購入に前向きだった。そしてそのための交渉を10月以降に本格化させているのだ。The Armoured Ram Stærkodderによれば、デンマーク政府が海軍省の第3部長を交渉責任者としてパリに派遣したのは10月23日。その際、交渉責任者にはアルマンがこちらの要求する値段まで売却額の値引に応じるならば購入に応じるよう指示している。

23rd of October the Naval Ministry ordered the head of the Third department [in the Ministry of Naval Affairs] to travel to Bordeaux and decide the case in cooperation with Arman. He was given full authority and the following order: “The Naval Ministry is ready to accept the ship, if Arman will accept a 80.000 frcs. reduction of the price. However, the penalty for a late delivery (1000 frcs. a day) is still to be paid by Arman.

 デンマーク側がシュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争の終結後も装甲艦の購入に前向きだったことを裏付ける重要な情報。またそれを裏付ける傍証という意味でこういう事実を紹介しておくのもいいだろう。まずデンマーク国立公文書館に残された文書からはジャン=ルシアン・アルマンはまだパリでデンマーク政府との交渉が続いていた10月25日、Stærkodderをコペンハーゲンに向けて出航させていることがわかるのだけど、この際、フランス外務省は駐仏デンマーク公使であるモルトケ・ヒュイトフェルト伯爵(Count Moltke Hvitfeldt)に対して、本当にデンマーク政府との間でStærkodderの売買契約が存在するのか、確認したとされている。フランス政府がStærkodderの出航を認めたのは、その確認が取れたから――というのが当時のフランス外相であるドルアン・ド・リュイス(「よく熟慮された親切という奥ゆかしい行動」で紹介した池田長発を手玉に取った人物)の説明。これは当時、アメリカのパリ領事だったジョン・ビゲロウ(John Bigelow)が1888年に刊行したFrance and the Confederate Navy, 1862-1868; an International Episodeという手記に記している事実で、実はアルマンに対しては装甲艦をしかるべき外国政府に売却するようナポレオン3世から厳命されており、海外持ち出しはそれが証明されることが条件とされていた。これは装甲艦が密かにアメリカ連合国に引き渡されるのを阻止するための措置。だからStærkodderの出航が許可されたのもデンマーク公使館を通してStærkodderの売買契約について確認できたからで、デンマーク政府としては間違いなく装甲艦を購入するつもりでいたのだ。その上で、あとは最終的な価格交渉――、そういう状況だったと考えていい。

 もっとも国際政治とは奇々怪々なシロモノで、これもFrance and the Confederate Navy, 1862-1868; an International Episodeに記されている事実なのだけど、モルトケ・ヒュイトフェルト伯爵はアルマンに対しデンマーク政府はStærkodderの受け取りを拒否するであろうと伝えていたにもかかわらず、一方的に同艦をコペンハーゲンに回航してきた――と、そうジョン・ビゲロウに説明したとされる。つまりモルトケ・ヒュイトフェルト伯爵の言い分によればジャン=ルシアン・アルマンはそういうモルトケ・ヒュイトフェルト伯爵の忠告(?)を無視して勝手にStærkodderをコペンハーゲンに向けて出航させたということになるのだけど――それはいかにも苦しいのでは? だって、デンマーク政府が装甲艦の購入に前向きだったのはお国の公文書館に残されている文書からも明らか。それにドルアン・ド・リュイスはフランス外務省の照会に対し、デンマーク公使館はStærkodderの売買契約について認めたと、これはジョン・ビゲロウに対し文書で回答しているのだ。だからこそフランス外務省はStærkodderの出航を認めたわけで、どう考えたってモルトケ・ヒュイトフェルト伯爵の説明はつじつまが合わない。しかもT・J・ペイジの手記によればStærkodderはボルドーを出航する際、デンマーク海軍の士官によって操船されていたという。こうしたことどもを踏まえるならば、ここはやはりジャン=ルシアン・アルマンはモルトケ・ヒュイトフェルト伯爵の了解も得た上でStærkodderをボルドーから出航させたと解すべき。しかし、結果的にはこのことが発端となって装甲艦はアメリカ連合国に引き渡されることとなり、合衆国政府から抗議を受ける事態に。旗色が悪いと見たモルトケ・ヒュイトフェルト伯爵は頬被りを決め込んだ――というのが真相じゃあないのかなあ……? なお、ここで重要な証言を残してくれたジョン・ビゲロウについて一言しておくと、南北戦争中にヨーロッパで繰り広げられた一連のエスピオナージュの南軍側の司令塔がジェームズ・D・ブロックなら北軍側の司令塔がこのジョン・ビゲロウ。The Secret Service of the Confederate States in Europeをお読みになる場合はFrance and the Confederate Navy, 1862-1868; an International Episodeも併読されることをお薦めします。

 ――と、いささか事実関係には判然としない部分もあるのだけど、いずれにしてもデンマーク政府はシュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争の終結を受けても依然、装甲艦の購入に前向きだった。これは間違いない。ただ、結局、Stærkodderはデンマーク政府には売却されなかった。その経緯についても見ておきたいのだけど――まず、パリでアルマンとデンマーク海軍省の第3部長の間で続けられていた交渉は10月30日に一旦、決裂している。理由は値引き額。デンマーク側が30万フランを要求したのに対し、アルマンは20万フランを提案。結局、この差が埋まらなかった。この事態を受けアルマンはStærkodderにシェルブールで待機するよう命令。事態は完全にデッドロックに乗り上げたかに思えた。しかし、この情報がデンマークにテレグラムで速報されると事態は一変。なんとデンマーク海軍の海軍大臣はこの結果に不満を表明するテレグラム(Why? The offer from Arman was reasonable)をその日のうちに打ち返しているのだ。このことからもデンマーク側がいかにStærkodderの獲得に前向きだったかがわかるのだけど、ただデンマーク国立公文書館にはこれ以降の経過をうかがわせる文書は残されていないという。しかしそれを補う情報がBerlingske Tidendeという現地の新聞記事で確認できる。それによればシェルブールに待機を命じされていたStærkodderは11月10日にはコペンハーゲンに入港しているのだ。この事実から推測するなら、本国からパリの交渉担当者に対して交渉の続行が指示されたのではないか? そしてそれを受けアルマンが改めてStærkodderにコペンハーゲンに向けて出航を命じた――。そういう事実関係だったと見て間違いないと思われる。で、こうなったからにはもう交渉は成ったも同然――そう言ってもいいくらいの状況だったはずなんだけれど、ところがその一方でアルマンは不思議な動きをしていた。実はこの間、彼はアンリ・アルヌー・ド・リヴィエールを自身の名代としてリバプールに派遣、ジェームズ・D・ブロックに内々に装甲艦の売却を持ちかけているのだ。そもそも装甲艦はジェームズ・D・ブロックがアルマンに建造を依頼したものだったのだけど、ナポレオン3世の干渉によって無理矢理、プロイセンとデンマークに売却させられたという経緯があった。ジェームズ・D・ブロックからするならば、その時点で一旦、ミッションは頓挫したという受け止め。それが土壇場になってもう一回チャンスがめぐってきた――、そういうことにはなるのだろうけど、ただジェームズ・D・ブロックは当初、この提案を一蹴している。どうやらブロックは装甲艦をフランス国外に持ち出すことは不可能だろうと見ていたらしい。ところがStærkodderが無事、フランス国外に出たというニュースがもたらされた。この知らせにブロックは態度を一変させ、アンリ・アルヌー・ド・リヴィエールと本格的な売買交渉に入る。そして12月16日には両者の間で売買契約がまとまっているのだ。

 はたしてこうした一連の経緯をどう解釈すればいいのか? アルマンは一方ではデンマーク政府と売買交渉を進めており、そのために装甲艦をコペンハーゲンまで持ち込んだはず。ところがその一方でジェームズ・D・ブロックとも売買交渉を進めていたわけで、なんとも不可解という気がするのだけど……ただ、意外とこれは単純な話なのかもしれない。つまり、アルマンはデンマーク王国とアメリカ連合国を天秤にかけていた――。確かに事実として述べるならば、デンマーク側は納期の遅れに加え、何かと性能不足を指摘して大幅な値下げを求めていた(T・J・ペイジの手記によればデンマーク側はStærkodderのシーワージネスに疑念を持っていたらしい。のちに日本回航の大幅な遅延を引き起こすことになる欠陥にこの時点で着目していたとは、さすがはヴァイキングの末裔?)。しかしアルマンが経営するシャンティエ・ド・ロセアンは当時、経営不振に陥っていたとされており(また実際、シャンティエ・ド・ロセアンは1869年に倒産している)、少しでも有利な売買契約を結びたいという切迫した事情があったと考えられる。その場合、買い手有利で交渉に臨むデンマーク王国よりはアメリカ連合国の方が商売相手としては望ましかったであろうことは間違いない。そうした思惑から結局はアメリカ連合国への売却という〝元の鞘〟に収まった――と、そういうことでは? この場合、デンマーク政府との売買契約をキャンセルしたのはデンマーク側ではなく、アルマンの方、ということになるのだけど……まあ、さすがにこの辺になると裏付け史料があるわけではなく、全くの憶測の域を出ない。でも、一見、不可解に見えるアルマンの行動を合理的に解釈しようとすれば、結局はそういうことにはなる……。

 さて、最後にワタシが指摘したいのは(えーと、もしかしたら忘れてた? Wikipedia日本語版の「東艦」の記事に含まれる4つの事実誤認という話をやっていたんだけど。確かにあまりにも3つ目が長かったのでねえ……)、こうして一旦はデンマーク政府に売却された(かに見えた)装甲艦の表記を「ステークオザー(Staerkodder)」としている点。実はWikipedia日本語版はかつては「スタークデル(Staerkodder)」としていた。編集履歴を確認すると、この修正が施されたのは2016年5月5日。ということは、以来、2年以上もこの表記のままで通用しているということになるのだけど……Stærkodderあるいはその英語ふう表記であるStaerkodderを「スタークデル」と表記することも「ステークオザー」と表記することも、どちらも間違い。これは「ステアコーダ」ないしは「ステアコーダー」と表記するのが正解。

 え、オマエはデンマーク語を読めるわけではないと言っておきながら、なんでそんなことが断言できるのかって? ま、そこはいろいろ努力をいたしまして……。といっても、最初はこんなに苦労することになるとは考えてなくて、そもそもStærkodderというのは北欧神話に登場する英雄の名前なのだから(なんでもギリシャ神話でいえばヘラクレスにあたる存在とか)、それが日本語訳でどう表記されているのかを確認すればそれで事足りるではないか――と、そう高を括っていたのだけど……甘かった。というのも、北欧神話にはStærkodderはStærkodderという名前では登場しないのだ。登場するのはStarkaðrないしはStarcatherusとして。前者は「ヘルヴォルとヘイズレク王のサガ(Hervarar saga ok Heiðreks)」や「ガウトレクのサガ(Gautreks saga)」における表記で、これらは古ノルド語と呼ばれる言語で記されている。また後者は「ゲスタ・ダノールム(Gesta Danorum)」における表記で、これはラテン語で記されている。つまり、このオーディン(北欧神話の主神)によって3倍の寿命を授けられたとかいう英雄は出典となるサガが記された言語によって表記(名前)が異なるわけだけど、当然のことながら邦訳では原文の表記に従った訳語となり、前者の場合は「スタルカドル」、後者の場合は「スタルカテル」という訳語になる(また英語訳ではStarkadとなるようで、それをさらに日本語訳すると「スタルカド」)。で、表記は異なるものの、元は同じものなのだから、われわれ日本人がその英雄を「スタルカドル」と呼ぼうが「スタルカテル」と呼ぼうが(あるいは「スタルカド」と呼ぼうが)、どっちゃでもいい、というのが本当のところだとは思うのだけど、しかしここで問題としているのはあくまでも艦船の名前であって、しかもそれはデンマーク政府によって付けられたデンマーク語の名前なのだから、その読み(表記)もデンマーク語の発音に従った方がいいには違いない。ただ、繰り返しになるけれど、北欧神話にはStærkodderはStærkodderという名前では登場しない。またデンマーク語で書かれた北欧神話に関する文献で日本語訳されたものの中にもStærkodderが登場するものは、ワタシが確認した限りでは存在しない(一応、ヴィルヘルム・グレンベック著『北欧神話と伝説』とアクセル・オルリック著『北欧神話の世界』に当たりました)。従ってそれらの文献の日本語訳における表記を確認すればそれで事足りるではないか――というワタシの当初の読みは完全に当てが外れたわけなんだけど……

 さて、そういう状況で、デンマーク語なんてギリシャ語状態(うーん、なんか、スゴイ表現だ)のワタシがどうやってStærkodderの正しい発音を確認したのか? これが、知り合いのデンマーク美人にデンマーク語のABC(エ・ビ・スィ)から教わりまして――というんなら思いっきり胸を張ってもいいところなんだろうけど、さにあらず。答は――オーディオブック。実はStærkodderという単語が記載されたデンマーク語の文献でオーディオブックとして販売されているものがないか探したんだ。そしたら、あったんだよね。Josefine Ottesen(読みはヨセフィーネ・オッテセンかな?)というファンタジー作家が書いたVikingesagn: De 20 allerbedste fortællinger fra Danmarks oldtid(Google翻訳にかけるとViking story: The 20 best-known stories from Denmark's old ageと出ました)がそれで、同書に記された20の「有名な物語」の1つがStærkodderについてのもの。セクション丸ごとStærkodderについてなんだから、単にその中でStærkodderという単語が何回か使われているというレベルではなく、もう何回も出てくる。そして何回聞いたってネイティヴの女性朗読者は「ステアコーダ」ないしは「ステアコーダー」と言っているのだ。さすがにそれをここでお聞かせするわけにはいかないのだけど、ただ最近のブラウザにはテキスト読み上げ機能(Text to Speech、略してTTSと呼ばれるもの)が備わっているので、それでちょっと聞いてもらいましょうか。使用するテキストはStærkodderに関するセクションの2パラグラフ目。Stærkodderという単語が2度出てきます。

Men en anden gud, Thor, brød sig ikke om Stærkodder, så han lagde i stedet tre forbandelser over ham: at han i hvert liv, han levede, skulle gøre noget forfærdeligt og æreløst, at alle de vers, han skrev, ville blive glemt, og at han ikke fik lov til at beholde sine rigdomme. Stærkodder blev en berømt kriger, som mange konger of stormænd ønskede at have i sin hird. Derfor drog han fra land til land og kæmpede for dem, der ville give ham mest guld og ære.

 多分、ブラウザによって若干、精度に違いはあると思うのだけど、ただ現時点ではどのブラウザでもいかにも合成音声です、という感じでまだまだ実用にはほど遠いレベルには違いないはず。でも、それでも一応、Stærkodderについては「ステアコーダ」ないしは「ステアコーダー」と発音しているのがおわかりいただけるのでは? Vikingesagn: De 20 allerbedste fortællinger fra Danmarks oldtidのオーディオブック版の人間による朗読ともそう大きな違いはない。それでもお疑いという方はぜひaudibleでVikingesagn: De 20 allerbedste fortællinger fra Danmarks oldtidを買って自分の耳で確認して下さい(なお、Vikingesagn: De 20 allerbedste fortællinger fra Danmarks oldtidはaudible.co.jpには商品登録されていません。試すならaidble.com)。

 ――ということで、以上、指摘したような事実を踏まえ、ワタシなりにWikipedia日本語版の記事を修正するなら――そこで2艦は売りに出され、当時戦争中であったプロイセンとデンマークに渡った。デンマークに売却されたのが本艦で「ステアコーダ(Stærkodder)」と命名されるも、当時、経営する造船所の経営状態がよくなかったジャン=ルシアン・アルマンはアメリカ連合国と天秤にかけた上でデンマークへの売却をキャンセル。その後、表向きはフランスに戻されることになった「ステアコーダ」は「オリンダ」となってコペンハーゲンを出港、1865年1月28日にキブロン湾の沖合でアメリカ連合国に引き渡された。この際、「ストーンウォール」と命名された本艦は5月6日にハバナに入港するも、回航に携わったトーマス・ジェファーソン・ペイジ艦長以下のクルーはそこでロバート・E・リー将軍の降伏という衝撃的なニュースに接することになる。この一報に全ては終わったと悟ったペイジは「ストーンウォール」を当時、キューバを統治下に置いていたスペインに売却することを決意。その売却額は船員たちの給与分に相当する1万6000ドルだった。その後、スペイン政府は本艦をアメリカ政府に引き渡すこととし、7月17日にワシントンで駐米公使ガブリエル・ガルシア・タサーラ(Gabriel García Tassara)からウィリアム・スワードに正式に引き渡されている。この際、アメリカはスペインが本艦を入手する際に支払ったのと同額の1万6000ドルを「補償金」として支払っている。そして、以後、本艦はワシントンの海軍工廠で繋留状態に置かれていた……。