ジュゼッペ・ガリバルディというと真っ先に思い浮かぶのはルキノ・ヴィスコンティ監督の映画『山猫』。ジュゼッペ・ガリバルディ率いる「千人隊(赤シャツ隊)」のシチリア島上陸とその後の両シチリア王国のサルデーニャ王国への併合という、ジュゼッペ・ガリバルディにとっても、また近代イタリアにとってもハイライトとでも言うべき瞬間を時代背景とするこの映画にジュゼッペ・ガリバルディ本人は登場しない。しかし、その存在感は映画のそこかしこに遍在。ここは『ヴィスコンティ秀作集3 山猫』(新書館)よりシナリオ冒頭の一節を紹介するなら――
部屋の扉のひとつが半開きにあいて、飼い犬のベンディコが尾を振りながら入ってくる。同時に、ただごとならぬ興奮した声も聞こえてくる。公爵はうるさそうに厳しい顔で、何事があったのかと、声のほうに向く。公爵の家族と使用人たちはおたがいに気がかりそうなまなざしを交わすが、公爵が動くまではそのままの状態でいる。
居間に近接した庭や部屋部屋から、ますますとり乱した声が聞こえてくる。透きとおった目に激しい嫌悪の念を浮かべながら、公爵は床石をも軋ませるような巨軀を居間の出口のほうへと、ゆっくり運ぶ。だがそこに行き着く前に、半ズボンと膝までの靴下といういでたちの十八世紀ふうの服装をした召使が、銀の盆の上に一通の封書をのせて入ってくる。
公爵「(召使に厳しい口調で)いったい何があったんだ」
召使「失礼します御前さま。庭で怪我人が見つかりまして。第五騎兵隊の兵隊です。街やそのあたりで騒動が起きています」
召使、封書を指さしながら、
召使「マルヴィーカ公爵が人をおよこしになりまして……お急ぎの模様でした」
公爵はさほど急ぐ様子もなく封書を手にとり、彼のまわりに気がかりそうに寄ってきた家族を一瞥したのち、平静な口調で読み始める。
公爵「(読む)《親愛なるファブリツィオ。新聞に載っているひどいニュースを読みたまえ。ピエモンテ軍が上陸した。われわれは完敗だ。今夜にでも、家族ともどもイギリスの船で避難するつもり。君ももちろんそうするだろう。神のご加護がわが敬愛する王の上にいまだ及ばんことを。友情をこめて》(軽蔑して)憶病者め」
公爵はマルヴィーカ公爵が送ってきた、小さく折り畳んだ新聞を読む。
公爵「(読む)《五月十一日、武装した一隊がマルサーラ沿岸に上陸した。最新の報告によると、これは約八百人からなる分遣隊で、ガリバルディの指揮下にある。この賊軍は上陸すると、迎え撃つために派遣された王国軍との衝突を注意深く回避した。カスヴェトラーノでは、一般市民を脅かしながら強奪と破壊を行なっている》」
公爵夫人の声「ガリバルディ!」
この後、映画ではドン・ファブリツィオ(バート・ランカスター)の甥で当然、両シチリア王国の国王・フランチェスコ2世を支える立場にあるはずのタンクレディ・ファルコネーリ(アラン・ドロン)が訪ねてきて、なんとガリバルディ軍に参加すると。困惑する叔父に甥は――「今のような状態でいたければ全部が変わる必要があるんですよ。わかってもらえたかな?」。しかし、そんなことを言われてもわかるもんじゃありませんよねえ。そこでそんな時に有力者が威厳を保つ最も有効な方法、つまり無視を決め込んでいると、甥は「そのうちきっとおわかりになるでしょう」――と、そう言い残してさっさと出て行ってしまう。そして、物語が進むにつれ、本当に公爵はその言葉の意味を理解するようになるのだ(ただし、公爵の理解は甥が意図したこととは微妙に異なる。そこにこの映画の重要なテーマが隠されている)。物語中盤、公爵は教会のオルガン弾き(セルジュ・レジャーニ)と両シチリア王国のサルディーニャ王国への併合の是非を問う住民投票(この住民投票の結果、両シチリア王国はサルディーニャ王国に併合されることになり、ここにイタリア統一が成るという流れ)について語り合う中で――「少しは何かが変わらなければならなかったんですよ。(ためらって)……全部が元のままであるためには」。ちなみに、ウィキペディアの映画『山猫』の記事には補足としてこんなことが記されている――「小沢一郎はかつて民主党代表選挙に出馬した際の演説で、この作品を引き合いに出してタンクレディの台詞『変らずに生きてゆくためには、自分が変らねばならない』という言葉を引用、『自分は変る』とアピールし、剛腕・壊し屋というイメージを一新するスローガンとした逸話が知られる」。しかし、これは間違い。小沢一郎氏が引用したのは冒頭のタンクレディの台詞ではなく、中盤のドン・ファブリツィオの台詞の方。当時、64歳だった小沢一郎氏が自らの決意を托すという意味でも若いタンクレディの台詞ではなく、年老いたドン・ファブリツィオの台詞の方だと解釈しないとおかしい。ま、この件をめぐってはいささか曰くがありまして。詳しいことは、かつて書いたものがあるので、ソチラをお読みいただくことにして……。
――と、ともあれ、こうして、ワタシにとってジュゼッペ・ガリバルディといえば映画『山猫』。この映画のおかげでワタシはジュゼッペ・ガリバルディという今ではさほどネームヴァリューがあるとも思えない人物(多分、明治時代の人が現在の日本におけるジュゼッペ・ガリバルディの知名度を知ったら愕然とするのでは? 当時はかの与謝野鉄幹作の「人を戀ふる歌」でも「妻子をわすれ家をすて/義のため耻をしのぶとや/遠くのがれて腕を摩す/ガリバルヂイや今いかん」――と歌われるほどで、特に青年層では絶大な人気を誇っていた。それが今では違う意味で「ガリバルヂイや今いかん」ですよ……)に特別な関心を持つことができたと言っていいし、ひいては今日、こんな文書を書くことになったのも、今からかれこれ38年前に岩波ホールで見た映画『山猫』オリジナル完全版のおかげ。
ということで、ここからが本エントリの本題。実は「再考・明治元年の亡命者②」で典拠史料として挙げた「慶應年間薩摩人士洋航談」にこんなことが記されているのだ――
白川謙次郎の談に伊太利に赴き「ガルバルジー」に面せしに同人曰く若し幕府予に依頼あれは大名を打潰すに何かあらんと言ひたりしと物語りし𛀸とあり
冒頭の「白川謙次郎」というのは、またの名を斎藤健次郎とも言い、文久2年頃にフランス人貴族、モンブラン伯爵(シャルル・デカントン・ド・モンブラン)に伴われて渡仏。以来、幕府の使節団などがフランスを訪れると頼まれもしないのにやって来て一行のガイドをするなどしていた人物。元治元年に派遣された池田長発を正使とする使節団で副使を務めていた河津伊豆守の従者・岩松太郎の「航海日記」(『遣外使節日記纂輯』第3巻)より引けば――「本朝人壹人佛蘭西人に成り居たり是の者三日以前より當家へ使節來るを聞て來り僕面會致し種々噺すに本宅は江戸下谷邊と見たり(略)四ケ年〔ママ〕以前に當國の重官の者と共に當國へ來り候と申事なり」云々。現在、国立国会図書館には一行が当時、パリのカプシーヌ大通りにあった肖像写真家・ナダールのスタジオで撮影したとされる写真が所蔵されているのだけど、その中には斎藤健次郎のものもある(→コチラ)。襟元をクロスタイで飾ったそのスマートな出で立ちは滞仏生活2年の洗練が感じられて、同年代の使節団員の目にはさぞやまぶしく映ったのでは? しかし、そんな若者はこの写真撮影から4年ばかり経った1868年、非業の死を遂げることになる。実は斎藤健次郎は1867年になって薩摩藩から軍制改革の顧問として招聘されたモンブラン伯爵とともに帰国、以後は薩摩にあって何かしらの役割を果たしていたものと思われるのだけど、詳しいことは不明。しかし斎藤健次郎をめぐってはもともと「内情を探り幕人に内報せし」との嫌疑がかけられていたとかで、遂にはそれが理由で謀殺されることになったという。しかも、その方法が。なんと生きたまま海に投げ込まれたというのだ――
聞く處にて𛂞白川の嫌疑深く𛂂りて大島邊金鑛探索の爲めと稱して連出し海沒せしと云ふ一説には機密を漏せしとの嫌疑にて海中に投込まれ𛁠りとも云へり
なんと惨たらしい……。人を生きたまま海に投げ入れるなんて、ハッキリ言わせてもらうなら、いわゆる「反社会的勢力」が裏切り者を始末する時のやり口ですよ。とても〝志士〟と呼ばれる人間のやることではない。それにしても、松村淳蔵は一体どんな思惑からこんな事実を公表したのか? 「慶應年間薩摩人士洋航談」を読む限り、聞かれもしないのに、自分から言い出している。むしろ、どれだけしつこく問い質されようが、知らぬ存ぜぬを貫き通すところだと思うんだけど。まあ、おそらくこの件は、実行したものばかりではなく、そうした事実を聞き知っているだけのものにとっても重い〝十字架〟となって良心をさいなんでいたに違いない。あるいは彼は率先してその事実を口外することによって良心の呵責から逃れようとしたのだろうか? ただ、字面からはそういう〝贖罪〟に通じるような感情は読み取れないんだけどなあ……。
ともあれ、斎藤健次郎というのは、こんな明治維新という〝鴻業〟のウラに隠された闇の部分を今に伝える標本のような人物と言ってもいいのだけど、ここではこれ以上、この件について深入りすることはしません。つーか、よくわからないんでね、薩摩の内情とか。それよりも、彼が「ガルバルジー」に会ったと語ったという、このことについて。もしそれが本当なら、斎藤健次郎はジュゼッペ・ガリバルディに会った唯一の日本人ということになるはず。少なくともワタシが知る限りではそう。2016年という、ちょうど日伊修好通商条約が締結されて150周年に当る年に刊行された藤澤房俊著『ガリバルディ イタリア建国の英雄』(中公新書)には「ガリバルディと日本」という一節もあるのだけれど、そこにもガリバルディに会った日本人がいるということは記されていない。だから「慶應年間薩摩人士洋航談」の記載は相当なサプライズ。しかもガリバルディは「若し幕府予に依頼あれは大名を打潰すに何かあらん」と言ったというのだ。これって、どう思います? 普通の感覚だと、いかにも突拍子もない話ということになると思うのだけど、しかし多少なりともガリバルディのことを知っているものからするならば、むしろいかにも彼が言いそうなことだなあと。なにしろ彼はイタリア人でありながら、ブラジル南部リオ・グランデ・ド・スル州の独立戦争に義勇兵として参加。またウルグアイ内戦にもイタリア人部隊を組織して参戦。後にエルネスト・チェ・ゲバラが標榜することになる「国境を超える革命」はまずジュゼッペ・ガリバルディによって実践されたものだったと言っていい。そんな〝世界革命浪人〟の元には1861年夏頃から公式・非公式のルートで当時、内戦下にあったアメリカ合衆国政府への支援要請が寄せられており、それに対してガリバルディは即時の奴隷解放を条件に要請に応じると回答したということも公然の秘密として知られている。こうしたことを考えるなら、徳川幕府からの正式要請を条件に日本遠征を応諾した――なんてのは、いかにもガリバルディらしいと言えるのではないかと。ただ、実際にはありえない話だけどね。仮にこれをガリバルディ軍の日本遠征として考えるのではなく(それはいくら何でも荒唐無稽というものでしょう)、イタリア政府による軍事顧問団の派遣と置き換えて考えるとしても(兵制の近代化に取り組んでいた徳川幕府は外国政府に対し、軍事顧問団の派遣を要請していた)、そもそも松村淳蔵が斎藤健次郎からこの話を聞かされた1865年時点ではまだ日伊間には国交もなかったんだから(日伊修好通商条約調印は1866年8月)。そして、日伊修好通商条約が調印された時には、既にフランス政府による軍事顧問団の派遣が決定しており、シャルル・シャノワーヌ大尉以下、総勢15名が日本の土を踏んだのは慶応2年12月8日(1867年1月12日)のこと。この上、ジュゼッペ・ガリバルディ将軍にお出まし願っても話がややこしくなるだけ(ガリバルディはそれまでフランス軍と何度も戦っており、言うならば不倶戴天の敵だった)。ということで、考えれば考えるほどこの話はありえない話だったということがわかってくるのだけど――ただ、ここでちょっと視点を変えてみようじゃないか。一体ガリバルディはその頃、何をしていたのか? 実はガリバルディはその頃、ヒマを持て余していたのだ。1862年8月25日、アスプロモンテの戦い(ローマ教皇領の奪回をめざして進軍したガリバルディ軍とイタリア王国軍がカラーブリア州のアスプロモンテ山中で激突した事件。ちなみ映画『山猫』の最後のシーンで轟く銃声とはこのアスプロモンテの戦いを象徴したものだという)で負傷・拘束されたガリバルディは、ほどなく解放されたものの、以後、1866年までおよそ無為な日々を過ごすことになる――と、実はこれは彼自身が自伝で語っていることなんだけど――
Enough, that I was taken to Varignano, in the Gulf of Spezia, to Pisa, and at last to Caprera. My sufferings were great, and great also the kind care of my friends. It was the illustrious Professor Zannetti, the doyen of Italian surgeons, who successfully achieved the operation of extracting the ball.
At last, after thirteen months, the wound in my right foot healed, and from that time till 1866 I led an inactive and useless life.
ガリバルディの周辺で南北戦争への参戦が真剣に検討されたのはまさにこの間であり(ちなみに、この件に関連してウィキペディア日本語版が「開戦初期の時点では農業問題から北部もまた奴隷解放には慎重な姿勢を取っており、リンカーンはガリバルディへの司令官打診を断念した」としているのは正確ではない。リンカーンが奴隷解放を宣言したのは1862年9月22日だが、ガリバルディ側とアメリカ政府の交渉はそれ以降も続けられており、奴隷問題がネックとなって計画が実現しなかったというのは説明にならない。また新たに発見された史料を根拠に、従来は行われなかったとされてきたリンカーン大統領による正式オファーは実際には行われていたとする主張などもあって、なかなかこの問題は一筋縄では行かない。でも、もし本当にリンカーン大統領による正式オファーが行われていたのなら、なぜガリバルディは南北戦争に参戦することはなかったのか? 新史料を発見したとする人物はThe Gurdianの記事で「時既に遅く、彼の関心は他の事柄に移ってしまっていた(it was too late and he had gone on to do other things)」としているんだけど、でもその「他の事柄」って? ↑の記載を見る限り、リンカーン大統領からの正式オファーを袖にしなければならないほどの何か喫緊の課題があったとは思えないんだよなあ……。それにしても、ガリバルディは見事にこの件については何も記していないだよね。きっとアメリカ側との信義を守って沈黙を決め込んだんだろう。ガリバルディは「雄弁」で知られた人物だったのだけど、珍しく「沈黙」で男を上げたというかたちか?)、そして遠い極東の島国から1人の若者が訪ねてきたのもこの間。いささか自分の情熱を持て余していたガリバルディ将軍が、カプレーラ島(ガリバルディが1854年以来、生活の拠点としてきたサルディーニャ島近くの小島。亡くなったのもこの島で、現在、その家は「ガリバルディの家(la casa di Garibaldi)」として島の観光名所となっている)の浜辺で沈み行く太陽を見ながら、音に聞くサムライの国で獅子奮迅の働きを見せる自分自身を思い描いてみたこともあったのかも知れない――と、そんなふうに考えてみるのも悪くはない……。