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ニューヨーク西44丁目物語
〜小鷹信光とマリリン・モンローに愛された絵師〜

 小鷹信光さんから一度だけ、メールをいただいたことがある。小鷹さんが亡くなる前年のことで、そもそものきっかけはワタシが早川財団が運営している「小鷹信光文庫」の記載に関して誤記を指摘するメールを送ったこと。その誤記というのは、何点かのペーパーバックのカヴァーアーティストに関するもので、具体的に言うならば、Charles BingerとすべきところをMilton Charlesとしている、というもの。もっとも、これにはいささか事情があって、実はそれらのカヴァーアートは長らくMilton Charlesの手によるものと信じられてきたという経緯があるのだ。実際、この世界では最強のレファレンスとして知られるグレアム・ホルロイドのPaperback Prices and ChecklistでもそれらはすべてMilton Charlesの手によるものとされている。ところが、2011年になってとあるヴィンテージ・ペーパーバックのコレクターによって全くの事実誤認であることが突き止められたのだ。その詳し経緯については「ペーパーバックの倉庫から①」をお読みいただくこととして――

 2014年のとある日、「小鷹信光文庫」を閲覧していたワタシは、それら実際にはCharles Bingerの手によるものであったことが判明したカヴァーアートが未だにMilton Charlesの手によるものされていることを発見。確かにFlickrという日本ではあまりポピュラーとも思えない写真共有サイトの中のそれもヴィンテージ・ペーパーバックのコレクターという至って小さなコミュニティ内でのディスカッションの成果に過ぎないので、小鷹さん、ないしは早川財団の担当者が知らなかったとしても無理はない。しかし、そのディスカッションの結果、導き出された結論については、全く疑問を挟む余地がない――と、ワタシ自身の判断としても。で、ここはやはり指摘しておいた方がいいだろうと考え、こうした経緯を記したメールを、小鷹さん宛てではなく、早川財団宛てに送ったところ、思いがけず小鷹さん本人から返信が来て、小鷹さん自身が調査された結果として「しっかりしたデータが得られました」。そして「誤認をし、誤記までしていたのは私自身でした」として、次のような画像まで添付されていたのだ――

添付画像①
添付画像②

 これはうれしかったですねえ。「小鷹信光文庫」の誤記を指摘するということは、主観的には(あくまでも「主観的には」ですよ)、〝弟子〟が〝師匠〟の主張に異議を唱えるのも同然で、正直、躊躇もあったんだけれど、こんな積極的な反応がいただけたというのは、胸をなで下ろすというか。いや、それどころか、「山ねこ」からハガキを受け取った「かねた一郎」の心境だったかもしれないなあ。さすがに「うちじゅうとんだりはねたり」はしなかったけれど……。

 ところで、グレアム・ホルロイドや小鷹信光など、天下の目利きの目を誤らせる原因となったチャールズ・ビンガーのこのあまりにもドラスティックな画風の変貌。これについてワタシは当時やっていたブログでこう書いたのだけど――

……画風も違う、サインも違う。これじゃあ、ただCharlesとだけ記された作品の作者をCharles Bingerと“鑑定”するのはムリだった、とは言えるのかな(それにしても、単に“成長”とか“変化”という言葉では片づけられないような画風の違い。多分、Charles名義の作品が多く残された1950年代後半、Charles Bingerは新しいスタイルを模索していたんだろうな。それまでの職人気質の“表紙絵”から、洒脱でアーティスティックな“カヴァーアート”へと。それまで使っていたサインまで捨てて……⦅Jeff Canjaは“a style similar to that of Baryé Phillips”と書いているのだけれど、それもどうか。ワタシはむしろErnest Chiriackaに似ているという印象を受けるのだけれど⦆)。

 この最後に記した、チャールズ・ビンガーのCharles名義の作品とアーネスト・チリアカの作品との類似性というのは、たとえばコレコレなんかから強く感じられる。最初の#S-735がアーネスト・チリアカで後の#805がチャールズ・ビンガー。#S-735にはDarcyというサインが確認できるし、#805にはCharlesというサインの切れ端が認められるので(チャールズ・ビンガーのCharles名義のカヴァーにはなぜかこのパターンが多い)、それぞれがそれぞれの作品であることが判定できるのだけど、もしそういうものがなかったなら、多分、10人が10人、これらは同じカヴァーアーティストの作品と〝鑑定〟するのでは? それほどよく似ている。またこれほどではないにしろ、2人の画風の類似性を指摘できる表紙絵は他にもある。一体この類似性はなんなんだろう? と、当時から思っていて、しかしそうは思いつつも特に帽子から取り出せる鳩もないまま、一応、↑のような指摘だけはしておいたという次第。で、この件に関して、現在、ワタシは若干の仮説を持つに至っている。もしかしたらチャールズ・ビンガーはアーネスト・チリアカの画風に触発されてあの「洒脱でアーティスティック」な画風を生み出したのではないか? と。

 まず、話の前提として、チャールズ・ビンガーが1950年代半ば以降、一種のスランプに陥っていたと考えられることについて。↑の引用部分でワタシは「Charles名義の作品が多く残された1950年代後半」としたんだけど、実はPaperback Prices and Checklistを参考にチャールズ・ビンガーが手がけたカヴァーアートについて確認したところ(Paperback Prices and Checklistには巻末にArtists Indexが収録されており、特定のカヴァーアーティストの作品をチェックするのにさほど手間はかからない)、彼がCharles名義の作品を発表するようになったのは1958年であることがわかった。その第1号が、実はGoled Medal Book #805。これを皮切りにこの年、Gold Medal Booksで3点、翌1959年には2点のカヴァーアートを手がけている。またPaperback Prices and Checklistでは確認はできないのだけれど、1959年には他にもCardinal Editions(Pocket Booksが35セントに値上げする際にスペシャル感を出すために使ったインプリント)で3点、Crest Booksで3点のカヴァーアートを手がけていることがFlickrに集う猛者たちによって突き止められている(コチラだともっと多くの作品がチャールズ・ビンガーの作品と〝鑑定〟されているのだけど、サインが確認できるものに限定するとこういう数字になる)。一方、Binger名義の表紙絵(Charles名義の「カヴァーアート」と差別化する意味でこう表記することにしましょう)はといえば1954年をピークに減少の一途にあったことが確認できる。1954年にはBantam Booksだけでも18点も表紙絵を担当していたことが確認できるのだけれど、1955年には3点に激減。そして1956年にはついに0になってしまった。もちろん、チャールズ・ビンガーほどの人気絵師だからBantam Booksだけが仕事口だったわけではない。1956年にはGold Medal Booksで4点、Perma Booksで5点、Pocket Booksで2点の表紙絵を手がけていたことが確認できる。しかし、1954年にはBantam Booksだけで18点も担当していたことを考えるなら、彼のコマーシャル・アーティストとしてのキャリアが下り坂を下っていたのは否定すべくもない。特に1956年にはBantam Booksでの仕事が0になってしまったというのは衝撃的。ただ、これについてはある事情が関係していたものと考えられる。それは1955年にレオナード・レオーン(Leonard Leone)がBantam Booksのアートディレクターに就任していること。レオナード・レオーンというのはTrue(1937年創刊の男性誌で1950年代には全米最大の発行部数を誇った)やArgosy(言わずと知れたパルプマガジンの雄)でアートディレクターを務めた後、オスカー・ディステル(Oscar Dystel。1954年に倒産寸前だったBantam Booksの社長に就任し、わずか1年で業績をV字回復させた〝中興の祖〟。1963年にThe Catcher in the Ryeの再版権を獲得する際にはサリンジャーがカヴァーデザインに強いこだわりを持っていることを察知し、その要求を丸呑みすることを即決。その結果、誕生したのがこんな味も素っ気もないカヴァー)にスカウトされ、同社のアートディレクターに就任した人物で、表紙に従来より上質で光沢のある(slicker)紙を使用するなど、カヴァーデザインの刷新に取り組んだことで知られる。ここはピート・スフリューデルスのPaperbacks, U.S.A.より引くなら――

Pitkin was replaced by young and dynamic Oscar Dystel, who in 1955 brought young and dynamic Leonard Leone in as art director. Leone in turn brought decisive changes to Bantam and a new general design became apparent immediately. In fact, Leonard Leone was to Bantam what Walter Brooks had been to Dell and Roy Lagrone to Avon, the harbinger of a new and modern graphic approach.

The important art directors were all looking to move away from the dark Avati-style around this time; Leone also made that move, but he moved in a different direction than did his colleagues. Leone had previously worked as art director for two magazines, True and Argosy, and had been accustomed there to much better reproduction techniques than those commonly used for paperbacks. At Bantam, he began to use better, slicker paper for his covers; the slicker paper meant a finer screen could be used, and a finer screen meant more fidelity. Under Leone's close supervision, the printers were soon able to reproduce even a thin pencil line clearly, this made it possible to use pencil sketches as cover illustrations, providing exactly the light style Leone, Dystel and editor Saul David were after.

 おそらくレオナード・レオーンにはチャールズ・ビンガーの表紙絵がいかにも時代遅れの古くさいものに思われたのだろう。そしてリストラよろしく永年の功労者を切り捨てた。それが1956年の0という実績。以後、コマーシャル・アーティストとしてのチャールズ・ビンガーを待ち受けていたものは……。

 しかし、チャールズ・ビンガーは1958年にそれまでの画風を一新し、サインまで変えてペーパーバックのカヴァーデザインの第一線に返り咲いた。そして、そのカヴァーアートにはアーネスト・チリアカのそれと〝他人の空似〟とは思われない類似性が認められる――となれば、当然、こういう仮説が生み出されることになる――1950年代半ば、コマーシャル・アーティストとしての壁に突き当たっていたチャールズ・ビンガーは〝スリックの花形〟として鳴らしたアーネスト・チリアカのカヴァーアートを参考にあの「洒脱でアーティスティック」なものへと画風を一新し、ペーパーバックのカヴァーデザインの第一線に返り咲くことに成功した――。

 うん、ワレながら、これはなかなか有望な仮説ではないだろうか? これならば、あのとても〝他人の空似〟で片づけるわけにはいかない画風の類似性を過不足なく説明できる。ところが――だ、すっかりその気になっていたワタシのアタマを悩ます〝不都合な真実〟が。というのは、やはりPaperback Prices and Checklistを参考にアーネスト・チリアカが手がけたカヴァーアートについて確認したところ、この〝スリックの花形〟が本格的にペーパーバックのカヴァーアートを手がけるようになったのは1958年であることがわかったのだ。「ヤクザとピンナップガール」では1958年刊行のGold Medal Book #732に関連して「その時点でアーネスト・チリアカは既に何点かの表紙絵をGold Medal Booksに提供していた」としたのだけれど、調べたところ、確かにアーネスト・チリアカは1955年に3点のカヴァーアートをGold Medal Booksに提供している。しかし、Paperback Prices and Checklistで確認できるのはそれが全て。その後、2年間は1点のカヴァーアートも手がけていない。なんとも不思議で、もしかしたら1955年の3点もGold Medal Book #732と同じく、他の用途で描いたものの転用だったのかも知れない。いずれにしても、アーネスト・チリアカが本格的にペーパーバックのカヴァーアートを手がけるようになったのは1958年で、これはチャールズ・ビンガーがCharles名義のカヴァーアートを描くようになるのと同じ年。しかし、チャールズ・ビンガーがアーネスト・チリアカのカヴァーアートを参考に自らの画風を一新したという仮説が成立するためには、アーネスト・チリアカが本格的にペーパーバックのカヴァーアートを手がけるようになったのが、チャールズ・ビンガーがCharles名義の作品を発表するようになるのに一定程度、先行していなければならない。1人のアーティストが永年培ってきた画風を一新するのはそれほど容易なこととは思われない。しかし、チャールズ・ビンガーがCharles名義のカヴァーアートを手がけるようになるのもアーネスト・チリアカが本格的にカヴァーアートを手がけるようになるのもともに1958年……。

 これはちょっとしたアポリアですよ。まあ、アーネスト・チリアカは1955年には3点のカヴァーアートを手がけているんだから、それを以て「先行していた」と言えないこともないんだけど、ただ1955年の3点(たとえばコレ)とCharles名義のカヴァーアートはそんなに似ていないんだよね。だから、それらを参考に画風を一新したという仮説が成り立つのかどうか……。となると、「偶然」なのかなあ。Gold Medal Books #S-735と#805の類似性は「偶然」の賜物で、チャールズ・ビンガーがオノレの画風を新しい時代に適応させた結果、「偶然」、似ただけであると……。

 しかし、どうも納得が行かない。これで納得したら、この先、なんでもかんでも「偶然」で片づけてしまう、「深く考えない男」になってしまいそうで、コワイ。ということで、ここはチャールズ・ビンガーのプロフィールから何らかの手がかりを引き出せないかと彼の展示会について紹介したウェブサイトに掲載されたプロフィール(「ペーパーバックの倉庫から①」では2011年開催の展示会、Charles Binger: A Pulp Lifeの紹介ページに掲載されたプロフィールを引用しておりますが、このページは既に削除されています。しかし、展示会の開催元であるLa Luz De Jesus Galleryでは2015年にもチャールズ・ビンガーの展示会を開催していて、こちらの紹介ページは現在も残っており、ほぼ同様のプロフィールが掲載されているので、参照する場合はこちらをご覧下さい)を見つめ直したところ、こんなことが記されているのが目に留った――

As Marilyn Monroe’s favorite illustrator, he created three of her most memorable film posters, including Niagara and River of No Return.

 へえ、チャールズ・ビンガーってマリリン・モンローのお気に入りだったんだ。しかも『ナイアガラ』のポスターはチャールズ・ビンガーが描いたもの? 『ナイアガラ』のポスターというのは、マリリン・モンローがナイアガラ大瀑布の上に横たわっているという、なんともものすごい絵柄のやつで、当時は大変な評判を呼んだらしい。亀井俊介編『「セックス・シンボル」から「女神」へ――マリリン・モンローの世界――』によれば――「一九五三年、映画『ナイアガラ』が封切られた時のポスターを、いまでも心に焼きつけている人は少なくないと思う。ナイアガラ大瀑布の真上の、奔流がまさに垂直に落下しようというところに、マリリン・モンローが大きくねそべり、ほほ笑みながら、流し目をこちらに向けている。乳房は盛り上がり、下半身は人魚のように見える。(略)『すごい!』と感嘆しながらそれを見上げていた、大学生だった頃の自分の姿が思い浮かぶのだ」。そんな強烈な印象を残したポスターの作者がチャールズ・ビンガーだったんだ。これは驚きましたね。いや、驚いたは驚いたんだけど……ちょっと待てよ。チャールズ・ビンガーが『ナイアガラ』のポスターを担当していたということは……あ、そういう可能性があるということ? ということは、もしかして……いや、ありうる、大いにありうる……。こうしてワタシの妄想はどんどん膨らんで行くことになったわけだけど――さて、説明することにしましょうか。実はアーネスト・チリアカも映画のポスターを手がけたことがあるのだ。これはIllustration Magazine #8のThe Art of Ernest “Darcy” Chiriackaに記されている事実で、そこにはこうある――

Chiriacka’s agent showed his work to 20th Century Fox studio chief Spyros Skouras, who hired the artist to paint the movie poster for the first major CinemaScope film, The Robe.

 注目は20世紀フォックスの社長(studio chief)として名前の挙がるSpyros Skourasという人物。実はこの人物こそはマリリン・モンローを『ナイアガラ』の主役に抜擢した張本人なのだ。なんでもマリリン・モンローはSpyros Skourasを「パパ・スコーラス(Papa Skouras)」と呼んでいたとか。で、マリリン・モンローを抜擢したのがSpyros Skourasだったことからも容易に想像がつくように、チャールズ・ビンガーがポスターを担当した『ナイアガラ』や『帰らざる河』はいずれも20世紀フォックスの制作。そしてアーネスト・チリアカがポスターを担当した『聖衣』もやはり20世紀フォックスの制作。しかも『ナイアガラ』と『聖衣』は1953年、『帰らざる河』は1954年――と、制作時期も同じ。要するに、チャールズ・ビンガーとアーネスト・チリアカは同じ時期、同じ映画会社が制作する映画のポスターを担当していたということ。そんな2人が1958年以降は同じ出版社が刊行するペーパーバックのカヴァーアートを担当――。ここからはある可能性が見てとれる。それは、2人が同じエージェントのクライアントであったという可能性。残念ながらチャールズ・ビンガーのエージェントが誰だったかは突き止められなかったのだけれど、アーネスト・チリアカについてはニューヨーク・マンハッタン区の西44丁目に事務所を構えるCelia Mendelssohnという人物であったことがThe Art of Ernest “Darcy” Chiriackaに記されている。

 で、2人が同じエージェントのクライアントだったとするならば、アーネスト・チリアカが本格的にペーパーバックのカヴァーアートに進出することになったという情報が事前にチャールズ・ビンガーの耳に入るということは十分にありうるのでは? その上で、ここはチャールズ・ビンガーの立場に立ってそういう状況について思い描いてみるなら……あのアーネスト・チリアカが本格的にペーパーバックのカヴァーデザインに進出してくる――、これはチャールズ・ビンガーにとっては由々しき事態だったはず。既にその画風が時代に合わないものとなり、仕事の発注もめっきり減っていた。そこへさらに〝スリックの花形〟が参入してくるというニュースがもたらされのだ。そのニュースは最初、チャールズ・ビンガーを打ちのめしたに違いない。もうこれで自分の出る幕はない……。しかし、打ちのめされたボクサーがカウント9で立ち上がるように、彼は立ち上がった。そして一念発起してそれまでの自身の画風を一新するオーバーホールに取り掛かった。そして、奇しくも1958年、アーネスト・チリアカが本格的にペーパーバックのカヴァーアートの仕事を始めた年、チャールズ・ビンガーは全く新しいカヴァーアーティストとしてペーパーバックのカヴァーデザインの第一線に返り咲くことに成功した――。

 まあ、ストーリーとしては、一応、成立するよね。ただ、純然たるストーリー。今から60年前にニューヨーク西44丁目で1人の絵師と1人のアーティストの人生が鋭く交錯した――かもしれないという、ほとんどの人にとってはどうでもいい、しかしヴィンテージ・ペーパーバックのコレクターにとってはこの上もなく興趣をそそられる(であろう)、妄想で織り上げられたストーリー……。