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尻たれ坂とびや橋と
〜自宅から10分の古戦場と典拠の問題〜

 わが家からクルマだと10分かかるかどうかという近場に、ある一向一揆に関る古戦場跡とされる場所がある。その名を「尻垂坂古戦場」というのだけれど――実は「一向一揆と浄土真宗の戦争責任」ではこの「尻垂坂古戦場」についても触れるつもりだった。この場所が血で染まった(とされている)のは信長が伊勢長島で「大虐殺」を演じた天正2年よりも2年早い元亀3年。一向一揆という歴史的悲劇について語り起こすに当っては、時系列から言っても、また地理的近縁性から言っても、この「尻垂坂古戦場」で繰り広げられた(とされている)戦いこそは真っ先に取り上げるべきものであるはず。

 ところが、どうもおかしいんだ。かつてこの場所で上杉軍と越中の一向一揆軍が激しい戦いを繰り広げた――ということは、現地の案内板にも記されているし、さまざまな文献にも記されてはいるのだけれど、その典拠について書き記しているものが見当たらないのだ。ここはやや長めになるけれど、状況説明も含めて、という意味で、1989年に新人物往来社から刊行された『戦国合戦大事典』第3巻より「富山城の戦い(その四) 尻垂坂の合戦」の冒頭部分を紹介するなら――

『越中史料』に、「八月十八日、謙信越中に入り、加越の諸族及び一向宗徒を撃ち、遂に富山城を囲む」とあり、この戦いを伝えている。
 上杉謙信が、上洛を妨げる越中の一向一揆を討つために、常願寺川近くの新庄に陣を構えたのは、元亀三年(一五七二)の八月十八日だった。
 新庄城は表門に通ずる本道とその脇道のほかは、あたり一面が泥田でススキや葦などが群生した湿地帯の難所だった。そして水橋地域から富山城にかかる衝路に当たって、軍事上の要衝としての堅固な城だった。城郭は小山の上にあったが、今は平地化されて新庄小学校の運動場となっている。
 謙信の小荷駄隊を含めた約一万の軍勢は新庄に結集、富山城の一揆軍の討伐の作戦を練った。勇猛果敢な謙信勢と二度目の対戦を迎えた一向一揆軍の総指揮を担当する瑞泉寺の僧・杉浦壱岐玄任は、さっそく加賀の坪坂伯耆などに次のような手紙を送り、江沼、能美両郡からの援軍を求めた。
『寸金雑録』によると、「八月十八日、上杉謙信が越中の新庄に陣しました。一方、一揆勢は大半は富山に陣を張りました。そのあいだ一里ばかりになりました(中略)。一騎二騎なりとも、早く支援することが大事であるといって下さい。恐々謹言。
八月二十日
杉浦壱岐玄任(花押)
坪坂伯耆入道
川那辺左衛門次郎
岸田新右衛門
御宿所
 とある。
 新庄城の謙信軍の総力を内偵した一揆軍は、わずか四千の兵力とあって心細いため盛んに援軍を求めたのだった。
 一方、越中入りした謙信は、信州から春日山城を襲う気配をみせる信玄に対して神経を使い、本国の備えを怠らなかった。留守を命じられた直江景綱は春日山城をはじめ、信州からの入り口に当たる不動山城(糸魚川市大字越)、根小屋城(糸魚川仕大字根小屋)の警備を厳重に固めた。謙信は守るにつけ、攻めるにつけ、緻密な計画をたてて行動した。

 こうした状況のなかで、新庄城と富山城とのあいだで激しい攻防戦が展開された。特に西新庄の尻垂坂(現富山市)の合戦はすさまじかった。尻垂坂は西新庄の正願寺前辺りから田中町のあいだの、びや川の堤の登り口地域にあった。両軍が激突したところから秋霖がひどく降り、続出した戦死者の流血によって、びや川の流れが真赤に染まったといわれている。そして一揆は敗れた。今、この尻垂坂の古戦場には薄地蔵が建てられているが、この戦いのとき、謙信が首の実検をし、その首を穴に埋め、その首塚の上に石塔を建てたのが薄地蔵尊として残ったらしい。伝説によると、この地蔵尊を縛ればおこり(今日のマラリア)が治ったといわれ、野仏として路地にさらされていたが、現在は堂宇に納められている。

 まだまだ続くのだけれど、この辺にしておきましょう。で、なぜワタシがかくも長めの引用をあえてしたかというと、記事の「尻垂坂の合戦」に関る部分が執筆者の執筆スタイルからいささか乖離していることをご理解いただきたいため。この記事の執筆者は冒頭でいきなり『越中史料』を挙げるなど、典拠を頗る重視して記事の執筆に当たっていることがわかる。門徒側の動きをめぐって『寸金雑録』なるものから書簡の一節まで引用しているし、さらに記事を読み進むと『上杉文書』『上杉謙信公年表』『勝興寺文書』『歴代古案』『三州志』――と、次々と史料を繰り出してきて、読んでいる方としてはグーの音も出ない(別にグーの音を出したいわけじゃないけどね)。ところが、それほど典拠に忠実に記された記事でありながら、なぜか「尻垂坂の合戦」に関る部分には何の典拠も示されていない。「両軍が激突したところから秋霖がひどく降り、続出した戦死者の流血によって、びや川の流れが真赤に染まった」――と、至って具体的なことを書いておきながら、それに続けて「といわれている」。また「この戦いのとき、謙信が首の実検をし、その首を穴に埋め、その首塚の上に石塔を建てたのが薄地蔵尊として残ったらしい」。他はすべてしっかりとした一次史料に基づきながら、なぜか肝心要の部分に至って「といわれている」に「らしい」。これ、おかしいですよね。もともとそういうタッチで記された記事なら別に疑問にも思わないのだけれど、他は丁寧過ぎるくらい丁寧に典拠を示している。ところが、「尻垂坂の合戦」について書かれた記事でありながら、その肝心要の「尻垂坂の合戦」に関る部分だけ典拠が示されていない。ということは、もしかしたら、典拠はない?

 そういう疑いが生じてくる。その場合、かつてこの地で大規模な合戦があったということ自体がいささか怪しくなってくるのだけれど……。で、そういう疑問の下、他の文献やネット記事についても能う限り当たってみたのだけれど、案の定。東京大学史料編纂所の「大日本史料総合データベース」でヒットする関連史料(綱文名「上杉謙信、越中の一向一揆を平定せんとし、親ら兵を率ゐて、越中に入り、同国新庄城に到る、同国富山城を攻む」)には「尻垂坂の合戦」に言及したものは見当たらない。また富山県刊行の『富山県史 史料編』にも「尻垂坂の合戦」に関するものは見当たらない(念のため書き添えておくなら、『越中史料』所引の史料にも「尻垂坂の合戦」に言及しているものはない。↑の記事では冒頭で『越中史料』の一節を引いた上で「この戦いを伝えている」としているのだけど、『越中史料』所引の史料からわかるのは、元亀3年8月18日に上杉謙信が越中に入ったこと。その後、9月17日未明になって富山城の一揆勢が小旗を巻いて退却しはじめたこと――など。上杉謙信の越中布陣から一揆勢の退却までの出来事については――合戦があったのかどうかも含めて――読み取れない内容になっている。にもかかわらず記事では「この戦い(=「尻垂坂の合戦」)を伝えている」としているのは――さて、どうなんですかねえ)。どうやら本当に「尻垂坂の合戦」に関する一次史料は存在しないらしい。そんな中、おそらくは↑で記されていることの典拠となったものはこれだろう、という古文献は見つかった(あえて史料と言わず、古文献としておきます)。これを見つけるだけでも一苦労だったのだけれど……まあ、まずは読んでもらいましょうか――

新 庄 町  古 城
此城主は轡田備後守井上肥後守兩人盾籠る越後景虎と大なる合戰あり新庄より富山までの間に尻たれ坂にびや橋など云あり其節合戰の街なりとびや川とて昔は大河なりしとなり今も少しありさて此城は元龜三年に落城するなり其跡今東西七十五間南北六十八間なり或云佐々のため落城なるべし舊記に據ところあるなり然れども佐々は天正年中越中へ來る元龜三年は天正元年なり此說も是か追て可考及びや橋の道筋に石地藏あり此地藏を縛れば瘧疾落ると云此所淨出寺といふ伽藍あり經堂のありし處を今は經堂村と云是なり此石佛も淨出寺の地藏なりと云此淨出寺の本尊は富山淨誓寺の阿彌陀如來是也
此石地藏の瘧疾を落すは地藏にあらず至而古き石塔なり巾二尺斗長さ地の上に出る所二尺五六寸斗り凡六尺斗りもありて石塔と見へたり然共久しく成る事なれは土へ埋りしものならんと梵字少し見ゆ又或說に右尻垂坂合戰の刻越後景虎首實檢いたされ直に其所へ穴を掘首を埋め其處に石塔を建られし其石塔なりと云ふ

 ね、地蔵を縛れば瘧が治っただの、この地蔵は上杉謙信が首実検をした跡に建てられたものだの――という部分は完全に一致。そしてこの古文献には「尻垂坂合戰」という文言もしっかり記されている――となれば、ああ、やっぱり「尻垂坂の合戦」はあったんだ――という結論に達しそうなものなのだけど……実はそうは行かないのだ。なぜなら、↑に引いたのは『越中舊事記』なる古文献の一節であり、著者も成立年代も不明とされるものの、成立年代については天保年間とする説が有力(ということは、あの『喚起泉達録』よりも新しい)。いずれにしても、江戸中期以降であることは間違いない。――ということはだ、「尻垂坂の合戦」があったとされる元亀3年からは少なく見積もっても250年は経過している計算。そんな時点で「或說に右尻垂坂合戰の刻越後景虎首實檢いたされ直に其所へ穴を掘首を埋め其處に石塔を建られし其石塔なりと云ふ」――と、現地に伝わる伝承(?)を紹介したのがこの記事ということになる。そんなものが元亀3年当時の合戦の典拠史料となりうるはずがない。――ということなのだろう、『戦国合戦大事典』では「尻垂坂の合戦」について記すに当って『越中舊事記』を典拠史料として示すのを控えた……?

 ただ、天保年間のものとはいえ、「尻たれ坂」や「びや橋」という、今はもう残っていない地名・固有名詞を挙げた上で「其節合戰の街なり」として「尻垂坂合戰」という文言まで記している古文献が存在するというのは大きい。やっぱりあの場所で、昔、上杉軍と一向一揆軍の血みどろの戦いが繰り広げられたんだろうなあ、そしてそのことを今に伝えるのが正願寺前の薄地蔵尊――ということで、本当ならば手を打ちたいんだ。でも、そうできない理由があるんだ。というのも、その薄地蔵尊、『越中舊事記』が「或說に右尻垂坂合戰の刻越後景虎首實檢いたされ直に其所へ穴を掘首を埋め其處に石塔を建られし其石塔なりと云ふ」――と、あたかも〝歴史の生き証人〟であるかのごとく紹介して見せた、その肝心要の石塔が「尻垂坂の合戦」とは何の関係もないものであることが今や明らかになっているのだ……(注:この三点リーダーは「絶句」を表す)。このオドロキの事実は2007年に富山市埋蔵文化財センターが行なった調査の結果、判明したもので、実はこの年、薄地蔵尊は祠堂の新調のために古い祠堂が撤去されている。すると、それまで見ることのできなかった石塔に文字が刻印されていることがわかった(石塔に梵字が刻印されていることは『越中舊事記』にも記されている)。そこで地元関係者が富山市埋蔵文化財センターに調査を依頼した、というのがことの経緯。その調査結果については、調査を担当された富山市埋蔵文化財センターの古川知明氏が「富山市西新庄の薄地蔵―戦国末の板碑形三界万霊塔―」(富山考古学会刊『大境』第27号)としてまとめておられるので、以下、これを元に話を進めると――まず何よりも重要なのは、石塔には造立されたと思われる年紀が刻印されていたこと。その年紀とは「弘治四年四月十六日」。弘治4年は西暦に直すと1558年であり、「尻垂坂の合戦」があったとされる元亀3年(1572年)の14年前、ということになる。これだけでもこの石塔が「尻垂坂の合戦」とは無関係であると言っていい。また刻まれていた銘文からも同様のことが言える。一体どういう銘文が刻まれていたかは一々書き出しても意味がないと思うので控えますが、古川氏は銘文から石塔の造立目的について――「このような志趣からみて、本石塔は直接的には父母を主体とした先祖供養という目的で造立されたもので、正面の願文は、先祖霊ひいてはそれと同一に扱うべき法界霊祭祀を含めた供養を行うための銘文として掲げられたとみられる」。これもまたこの石塔が「尻垂坂の合戦」とは無関係であることを如実に物語っていると言っていい。また、当然のことながらこの石塔はいずれかの宗派・教団の教義を体現したものであるはずなのだけれど、これについては「決定的な要素は未だ指摘できない」としつつも「このような動向と検討した諸相から本石塔の内容を吟味すれば、禅宗系統の結衆による逆修板碑としての性格が推定できよう」。仮にこの石塔が「尻垂坂の合戦」で死んだ一向宗門徒の霊を慰めるためのものだとするなら、当然、浄土真宗の教義に則ったものでなければならない。しかし、調査の結果、導き出されたのは禅宗系統である可能性が高いという推定。

 ――と、何から何まで石塔が「尻垂坂の合戦」に由来するものである可能性を否定するわけで、こうなると↑の『越中舊事記』の記載の内、少なくとも「或說に」以降の部分は全くの誤伝だったということになる。で、そうなった場合、昔、尻垂坂で上杉軍と一向一揆軍の血みどろの戦いがあったという、これまで流布されてきた「定説」を裏付ける〝歴史の生き証人〟はいなくなってしまうわけだけれど……それでも「尻垂坂の合戦」なるものはあったと言えるのだろうか? 「両軍が激突したところから秋霖がひどく降り、続出した戦死者の流血によって、びや川の流れが真赤に染まった」――と、まるで見ていたかのような情景描写(ワタシにはこの描写にはかの「田原坂の合戦」への〝オマージュ〟が紛れこんでいるように思えてならない。そう、例の「雨は降る降る 人馬は濡れる 越すに越されぬ 田原坂」というやつ。穿ち過ぎ?)を以て語られている合戦がにわかに雨に煙って見えなくなってきたような……?


正願寺前を走る県道316号線(稲荷町新庄線)はかつての北国街道。薄地蔵はその北国街道に面して鎮座している。