PW_PLUS


奥山のアダージョ
〜旧東谷村を行く〜

 この季節の、午後3時を過ぎればもう陰ってくるような日脚の短い山の内懐に身を置くことになぜか心をそそられる。その日脚の短さの中で覚える焦燥感が――たまらなくいい。いつまでもここにいたい。でも、そうすることもできない――、そんな葛藤の中で見る山の光景がなぜかひどく尊いもののように思える。一種の、末期の眼、のようなものだろうか? いずれにしても、この季節の山里にはそそられるものがあって、毎年、この時期になると1、2回は奥山にクルマを走らせることになる。当地は山には事欠かないし、道も、何の必要があってこんなに整備されているのだろう? と疑問に駆られるくらいにはあっちこっち張りめぐらされている。しかも、その多くはGoogle Mapのストリートビューでバーチャル試走が可能。ことドライブに関してはワタシは慎重居士で、ストリートビューでバーチャル試走した結果、ま、ここはこれで行ったことにしておこうとか(笑)。だって、山道なんて、クルマ1台が通れるのがやっと、というのがざらで、ここで対向車に遭遇したら、どうすんのよ? と。うねうねとした山道を何十メートルも自動車バックしなければならないなんて、想像するだに冷や汗が出る……。

 ということで、ここはモロモロ検討した結果、今回は県道67号線で立山町の東谷地区(旧東谷村)に入り、最終的には座主坊という集落をめざすことにした。旧東谷村というのは明治22年の町村制施行に伴い、上白岩村、四谷尾村、谷口村、虫谷村、六郎谷村、目桑村、谷村、長倉村、城前村、小又村、松倉村、座主坊村の12か村が合併して誕生した村で、昭和29年、現在の立山町発足に伴い行政単位としては消滅したものの、東谷地区という呼称は今も残っている。これが、まあ、富山平野の外縁部から立山の奥山までをカバーするいささか広大な領域で、いわゆる「中山間地域」が日本の総面積の約7割を占めるとされることのよくできた模型のよう。現在、この日本の総面積の約7割を占める地域からは急速に人がいなくなっているわけだけれど、東谷地区もその例に漏れず。2004年に刊行された『村の記憶』(桂書房)という本によれば、旧東谷村を構成していた12か村の内、旧城前村は既に廃村になっているという。また、辛うじて廃村を免れている村々の中にも既に戸数が1桁という村も少なくない模様(立山町のHPで閲覧できる地域おこし協力隊員のコラム「立山の最も山奥の集落で思うこと」によれば、2010年の時点で小又に2世帯2名、松倉に2世帯3名、座主坊には2世帯2名の高齢者が暮しているだけという)。あるいはさらなる時間の洗礼に晒されていることを考えるならば、廃村の数はもっと増えている可能性も? 今回はそんな旧東谷村の中でも座主坊を目的地としたのにはいくつかの理由がある。1つには、その地名のユニークさがある。なにしろ読みは「ざっすんぼう」だというのだから(上記「立山の最も山奥の集落で思うこと」による。なお、『立山町史』では「ざしゅぼう」、『角川日本地名大辞典』では「ざすんぼう」。読みがばらばらというのもまた面白い)。おそらく元々は「ざす(しゅ)ぼう」だったのだろうけれど、人々の口の端に上るうちに「ざっすんぼう」に転訛したんだろう。また、この地名とも関係するのだけれど、その際立った歴史の古さも食指をそそられる理由。『角川日本地名大辞典』では「五百石地方郷土史要」なるものを引きつつ――「『大宝年中立山開祖の従者に座主の坊あり。この地に滞りて私邸内に社殿を造営し雄山神の分霊を祀る。後人家出来るにより座主坊』と名づけたという説がある」。大宝年中といったら、あーた、あの「大宝律令」が作られた時代ですよ。そんな時代から存続している村が立山の山中にあるというのだ。これは行ってみるしかないでしょう。もっとも、この『角川日本地名大辞典』の記載はいささか怪しいかも。というのも、いろいろ調べたところ、確かに「座主」という名の坊さんはいたらしい。芦峅寺に伝わる古文書にそういう名前が記されたものが存在するので。しかし、その古文書は近世のものなのだ。「旧記」(『越中立山古記録』第3巻所収)というのがそれで、「佐々奥州守殿峯御取立之節、先年ゟ有来ル坊者之覚」として18人の「坊者」を列記。その中に「座主坊」という名前があるのだ。おそらく「佐々奥州守」とは佐々成政のことではないかと思われるのだけど、『立山町史』によれば、佐々成政は「天正十一年(一五八三)、霜月、六拾六俵を女畾堂の燈明銭として寄進し、同二十年〔ママ〕には葦峅・本宮の寺領を安堵するとともに、守護不入の地とし、諸堂伽藍の造営や、大日如来の仏供燈明を油断なく、宝前の祈念を怠たらぬよう仲宮寺の衆徒・社人中に達示している」。「旧記」が記している「御取立」とはこのことを指しているのは明らかで、その時点で「先年ゟ有来ル」というのだから、どう考えても大宝年間の話ではない。ま、それならそれでいいんだけどね。ワタシがこの村に注目する理由はもう1つあるのだから……。これについては後述。

 さて、県道67号線だ。またの名を宇奈月大沢野線と言って、現在は黒部市の一部となっている旧宇奈月町と同じく富山市の一部となっている旧大沢野町を結ぶ全長62,023キロメートルにも及ぶ長大な路線で、ワタシが、何の必要があってこんなに整備されているのだろう? と疑問に駆られるきっかけとなった県道。で、その長大さをお伝えするためにこんな事実を明かすなら――実は県道67号線を座主坊方面ではなく、逆方向にクルマを走らせると、なんとめぐりめぐってあの稲村に行きつく――ということがGoogle Mapで確認できる。つまり、あの稲村と座主坊が1本の県道で繋がっているのだ。これは土地勘のある人間からするならばおよそありうべからざる事態で、だってそんな必要は全くないもの。はっきり言って、いませんよ、この道を通って稲村―座主坊間を行き来する人間なんて。ましてや、この路線を利用して宇奈月―大沢野間を移動するなんて、天地神明に誓って1人もいませんて。ところが、なぜかその2点を結ぶ県道という名の「線」が引かれているわけだけれど――実はウィキ先生によれば、この県道67号線、「富山県東南部の山麓沿いに点在する観光拠点を結ぶ重要な幹線道路という名目があるものの、実際には旧宇奈月町から旧大沢野町までの山間部にある狭隘路をつぎはぎ足しただけの形となっている。この他にも黒部市、上市町、立山町でそれぞれ県道指定されていない区間が存在するため、起点から終点まで通して通行することができない」。え、通して通行できないの? 宇奈月大沢野線という名前なのに? とんだ「点と線」もあったものだ……。

 ――と、そんなよくわからない県道67号線ではあるのだけれど、わが家からだと、どのルートで行くにしても、立山町谷口で乗り入れることになる。この谷口も旧東谷村を構成した村の1つ。そこから白岩川ダムを横目に山間部に分け入るかたちとなり、途中、やはり旧東谷村を構成した六郎谷や目桑(読みは「めっか」)、伊勢屋という集落を通過(伊勢屋は旧東谷村を構成した12の村には含まれていないのだけど、『角川日本地名大辞典』によれば「明治22年までは目桑村、以後は東谷村目桑の垣内であった」云々)。ちなみにこの伊勢屋には緊急時に備えたものと思われるヘリポートがある。なんでもかつての東峯小学校(旧・目桑小学校)の校庭跡とか。


ヘリポート(東峯小学校跡)①
ヘリポート(東峯小学校跡)②

 その後、道はほどなくして白岩川に行き合う。白岩川は大辻山を源に日本海に注ぐ延長24.6キロメートルの二級河川。しかし、この辺りになるともう相当に川幅は狭い。そんな白岩川源流部にかかる小又橋を渡って急坂を上ると、橋の名にもなっている小又という集落に出る。そして、その集落の外れで道は二股に別れている。右へ行くと座主坊、左へ行くと松倉。今回の目的地は座主坊なので、当然、右に――と思いきや、ここはあえて左に。これが、まあ、事前にGoogle Mapのストリートビューでバーチャル試走した成果というか。実は、ここで右に行こうが左に行こうが、行きつく先は同じなのだ。座主坊まで直行するなら右に折れるべきなんだけど、行きつく先が同じならば、この際だから松倉も見ておきたい。それには当然、理由があるわけだけれど、ま、これについても後述。

 で、松倉に着きました。しばらく集落を散策させていただきます(こういう時、不審者と思われないようにするためには、デジカメを肩から提げているのが望ましい。山村の鄙びた風景をカメラに収めようという写真愛好家の態を装えば、不審者と見られることはまずない。スマホだと、そこがちょっと難しい。なるべくデジカメ。しかも一眼レフ仕様のものがより写真愛好家らしくて望ましい)。しかし、これは……。中には相当、新しい家もあるのだけれど、一方で↓のような廃屋も。これが今の日本の山村の現実なんでしょうねえ。


松倉①
松倉②
松倉③

 それにしても、人を見かけなかったなあ。もしかしたら、2010年時点で「しんがり」よろしくこの地に残っていた2世帯3名の高齢者ももう山をお下りになったのだろうか……? そんなことを考えつつ、再びクルマを走らせると、もうホントにほどなくして十字路に行きあう。ここで交差しているのが小又の集落の外れで別れていたもう一方の道の方。で、この十字路を左に折れれば、ほどなく座主坊に行きつくことになる(ちなみに、直進した上で、その先の三差路で左折しても座主坊に行きつく。要するに、この十字路で別れたはずの道はまた再合流しているというわけ。さっき別れたと思っていた道に知らず知らず再合流していて、その交点でうっかり元の道を分岐点の方に向うと、あれ、この場所は……? こんな時、人は「狐狸に化かされた」と思うことになるのかな?)。

 さて、座主坊だ。クルマを降りた瞬間、森閑たる山の気が襲ってきて、ああ、はるばるとやって来たなあ、という感慨が身を包む。ま、はるばると言ったって、自宅から2時間程度なんですが。でも、時計の針は既に3時を指していて、散策するといっても、もうあまり時間の余裕はない。そんなワタシの目を真っ先に捕えたのは↓の刀尾宮――つーか、上述「立山の最も山奥の集落で思うこと」によれば、「この集落のお宮さんはもう維持することが難しくなり、数年前に祭られていた神様を立山雄山神社にお持ちした」とのことなので、正確に言うと刀尾宮跡――


刀尾宮①
刀尾宮②
刀尾宮③

 「刀尾」の読みは「たちお」。雄山神社の「御由緒」によれば、雄山神社の主祭神は「立山権現雄山神」と「太刀尾天神剱岳神」とのことなので、この刀尾宮は「太刀尾天神剱岳神」を祀る雄山神社の摂社と考えることができる。なお、「刀尾」の2文字を冠した神社は立山山麓のあちらこちらにあって、岩峅寺の前立社壇の境内にもあるのだけれど、社務所で配布されている「前立社壇略記」では御祭神を「伊佐布魂命(刀尾天神)」とした上で「集落の氏神として祀られてきた」と説明。しかし、これはちょっと不思議というか……。いや、刀尾天神が岩峅寺集落の氏神だったとするなら、岩峅寺からもさほど遠くない座主坊に刀尾宮があるのはさして不思議ではない、とは言える(やはり旧東谷村を構成していた長倉村にも「刀尾神社」がある)。ただ、「立山権現雄山神」と「太刀尾天神剱岳神」の両神が雄山神社の主祭神とされながら、岩峅寺ではその内の「太刀尾天神剱岳神」だけが氏神とされていたということは、かつてこの2つは別々に信仰されていたということ? また、『角川日本地名大辞典』では「座主の坊」が私邸内に「社殿」を造営し「雄山神の分霊」を祀っていたとしている。つまり、祀っていたのは「立山権現雄山神」。しかし、現在、残っているのは「太刀尾天神剱岳神」をお祀りする刀尾宮――ということは、いずれかの時点で座主坊の氏神が「立山権現雄山神」から「太刀尾天神剱岳神」に変わったということになる。これは、ちょっと不思議ですよね。どちらも雄山神社の主祭神とはいえ、それぞれ固有の由緒・本地仏を有する別個の神様。それが入れ替わるというのは、ただごとではない……。で、この件についてワタシの〝灰色の脳細胞〟はかつてこの地で〝宗教戦争〟があった可能性をしきりに囁きかけてくるのだけれど……もしかしたら、当らずといえども遠からず、かもよ。まず、現在、仲よく雄山神社の主祭神として並び立っている「立山権現雄山神」と「太刀尾天神剱岳神」ではあるけれど、かつてこの2つはそれぞれ独立して信仰されていたと考える。可能性としては、岩峅寺では「太刀尾天神剱岳神」が信仰され、芦峅寺では「立山権現雄山神」が信仰されていた……。その上で、福江充「立山信仰史における芦峅寺衆徒の廻檀配札活動と立山曼荼羅」(富山県博物館協会電子紀要)によれば、かつて岩峅寺と芦峅寺の衆徒の間では「勧進活動における職掌区分」をめぐって争いが繰り返されていたという。それに対し加賀藩では正徳元年(1711年)に「立山の山自体にかかわる宗教的諸権利」については岩峅寺の衆徒に与え、芦峅寺の衆徒には加賀藩領国内外での「廻檀配札活動」(各地の「檀那場」を回って布教活動する行為。ちなみに、そのためのツールとして発展したのがかの「立山曼荼羅」)の権利を与える――という裁定を下している。もっとも、裁定を拡大解釈したり、違法行為を行ったりと引き続き両衆徒間では争いが絶えず、遂には双方が寺社奉行に訴え出るという訴訟合戦に発展したという。もうね、血が流れないだけで、立派な〝宗教戦争〟ですよ。ただ、とりあえずここでの注目は、正徳元年の裁定で「立山の山自体にかかわる宗教的諸権利」については岩峅寺の衆徒に与えられたこと。実はその諸権利の1つに「立山山中諸堂舎の管理権」というものがあるのだ。早い話が、立山山中にある神社お堂はすべて岩峅寺のものになったということ。こうした宗教的ターフ・ウォーの結果、座主坊の氏神は「立山権現雄山神」から「太刀尾天神剱岳神」に変わった――というのが、現時点でワタシが提示しうる仮説(しかし、これだけのことを記すのに一体どれだけの時間を費やしてるんだ? この記事の趣旨からするならば、むしろこのパートはない方がいいくらいなのに……)。


座主坊①
座主坊②
座主坊③
座主坊④

 さて、今回、ワタシがこの座主坊を目的地としたのには、そのユニークな地名や歴史の古さに加えてもう1つ理由があったわけだけれど、ここで↑では保留にしておいたその理由を明かすことにすると――実はかつてこの座主坊から1人のディーバ(歌姫)が生まれているのだ。その名を佐藤千代というのだけれど――佐藤千夜子じゃないですよ、佐藤千代――と言っても、なんと佐藤千夜子の本名は佐藤千代らしい(!)。まあ、こっちの佐藤千代なら本当のディーバなんだけど、ワタシが言う佐藤千代とは「越中最後の瞽女」とされる人物。普通、瞽女と聞くと、思い浮かべるのは越後――ですよね? しかし、瞽女は全国にいた。当然、わが越中にもいた。上市町大岩にある真言密宗の大本山・大岩山日石寺などは目の病にご利益があるとされており(不動明王の厳石から湧き出る霊水が眼病平癒に霊験があるとされている他、祈祷日にはメグスリノキを煎じたお茶もふるまわれる)、そのご利益に与かろうと多くの瞽女が祈願に訪れていたとかで、日石寺に続く山道(まあ、現在の県道152号線のことかとは思うんだけど、実は67号線でも日石寺に行くことは行ける。だから67号線というのは本当にスゴイ道なんですよ。さて、どっちのことだろう……?)は「瞽女街道」とも言った――というようなことが、宮成照子編 『瞽女の記憶』(桂書房)に記されている。佐藤千代はそんな越中瞽女の「最後の一人」とされる人物で、『瞽女の記憶』の第1部は丸ごと佐藤千代の伝記。その記すところによれば、千代は明治17年にこの座主坊で宿坊を営む杉本留次郎の4女として生まれているのだ。それにしても、こんな山奥に、宿坊がねえ……。地元で暮すワレワレでも、立山登拝のための宿坊と聞いて思い浮かべるのは、県道6号線(観光バスも行き来する立山登拝のメインルート)沿いにある岩峅寺や芦峅寺と相場は決まっている。しかし、実は今日、走ってきた県道67号線(あくまでも、今日、走ってきた部分。決して全長62,023キロメートルにも及ぶ長大な路線のすべてがそうであるわけではない。ま、言わずもがなですが。しかし、つくづく県道67号線というのは不思議な道路だ。通して通行できるわけではないんだからさ、それに「県道67号線」などという名前を冠して1本の道として扱う必要があるのかねえ……?)もかつては「裏立山参詣道」と呼ばれていたとかで、事実、67号線をこの座主坊からさらにクルマを走らせればやがて芦峅寺に出ることはGoogle Mapでも確認できる。であるならば、その途中に宿坊があっても何の不思議もないということになる。

 千代は、そんな「裏立山参詣道」にある宿坊の4女として生まれたわけだけれど、しかし千代が生れた当時、宿坊の経営は決して安泰ではなかったようだ。明治初年のニッポンに吹き荒れた排仏毀釈の嵐が宿坊の経営に深刻な影響を及ぼしていた。曰く「立山信仰は明治維新のとき、排仏毀釈という国家命令による大きな打撃を受けている。神仏混交のあった立山信仰を神道だけに統一せよという県の命令で、岩峅寺・芦峅寺の宿坊は大混乱に陥り、一時は滅亡の危機に瀕したという」。そして、男児5人、女児4人という子だくさんの家の末娘として生まれた千代は隣村に養女に出されることになる。同書では「恐らく、口減らしであったろう」としている。で、実はその隣村というのが松倉村なのだ。「松倉村は座主坊よりやや小さいが、享禄四年(一五三一)銘の経筒が出土していて、中世から立山登拝道に沿っていた村であることを推測させる」。ああ、享禄年間の年号が記された経筒が出土しているのか。とするなら、天正年間より少しばかり古い。しかし、16世紀であることには変わりない。やはりこの辺りがこの近辺の村の起源なんだろう……。ともあれ、その松倉村の佐藤弥三郎に養女に出されることになったのだ。なんでも佐藤家は松倉村の「開村者の家柄」だそうで、村の地主であるばかりではなく、頼母子講をしたり博労(馬商い)をしたりと、経済的には裕福だったらしい。で、どうやら弥三郎は千代以外にも養子を取っていたようで、同書では弥三郎を評して――「養子を交えて七男九女、十六人も育てた篤志家であった」。仮に佐藤千代の生涯を朝ドラで描くとするなら、この佐藤弥三郎をどういう人物として造形するかは脚本家の腕の見せ所。いずれにしろこのパートでは視聴者を思いっきり泣かせないなければいけないのだけど、そんなドラマツルギーの中に弥三郎が「養子を交えて七男九女、十六人も育てた篤志家であった」という事実をどう落とし込むか……。

 えーと、オレはなんでこんなことを考えてるんだ? ともあれ、千代は松倉村の佐藤家に養女に出された。それは、千代が7歳の時。7歳の少女にとってはこれだけでも大変な試練。しかし、さらなる試練が少女を襲う。なんと養女に出されて1年も経たないその年の秋、疱瘡(天然痘)を発病してしまうのだ。そして、里から駆けつけた実の母の懸命の看病にもかかわらず、視力を失ってしまう……。ただ、幸いなことにと言うべきか、アバタ顔にはならなかった。それどころか、「色白で丸ぽちゃな顔、半眼に閉じてうつむきかげんにすると地蔵様のようだと人々は囁いたという」。同書には、後年、浅草で人気を博した頃の千代の写真も掲載されているのだけれど、確かに「色白で丸ぽちゃな顔」ではある。間違いなくその容貌は千代を助けた。盲(めしい)の少女が同情の対象となるか、嫌悪の対象となるかは、偏に容貌の良し悪しにかかっている――というのは、人間社会のリアリズムっちゅうもんでしょう。

 そして、もう1つ、この少女を助けたものがある。それが、歌声。幼くして養女に出された娘に与えられる仕事といえば、普通、子守(例の「赤とんぼ」で唄われているところの「ねえや」)ということになるのだけど、『瞽女の記憶』によれば、千代もそうだった。そして、彼女の唄う子守歌が、これがもう見事なものだったらしいのだ。曰く「失明したけれど、子守は続いた。千代の子守歌は透き通るように美しい声だったという。そして草笛の名手だった。山椿の葉をくるくると巻いた草笛で、ホトトギスの声を真似ると、本物のホトトギスが寄って来て鳴いたと言われるほど上手だった」。

 そんな天稟に恵まれた少女は、本人のたっての希望もあって、15歳の時に越後・高田の瞽女の座元に修行に出されることになる。そのための諸費用はすべて佐藤弥三郎が前払いで済ましたという(だから、佐藤弥三郎という人、「いい人」なんだよね。朝ドラにする際は、その辺を考慮した上でキャスティングする必要がある?)。そして、2年ばかりの修行を経て養家に戻った千代は各地の旦那衆に呼ばれて芸を披露するばかりではなく(ちなみに、瞽女と言えばイメージとして家々の門口に立って芸を披露する「門付け」を思い浮かべるのではないかと思うのだけど、『瞽女の記憶』によれば、あれは「歌比丘尼」と呼ばれるもので、多くの場合は売春婦も兼ねていたという。これに対し瞽女は「瞽女宿」と呼ばれる定宿を回って芸を披露するのが基本。また売春婦も兼ねていたという「歌比丘尼」との対比で言えば、言い寄る男から身を守るために畳針を懐中に忍ばせていた――という瞽女の証言も残っているという)、当時、上滝町(現・富山市上滝)や五百石町(現・立山町五百石)にあった劇場にも出た。さらにはバイ船(いわゆる「北前船」)に乗って北は津軽まで巡業に行ったし、大正の末頃からは民謡一座(小原万竜を座長とする「万竜美人団」。小原万竜が大変な美人だったことからプロモーターがこういうあざとい名前を付けたという。ちなみに明治末に「日本一の美人」と謳われた萬龍という芸妓がいたそうで、おそらく小原万竜という芸名はその萬龍にあやかって付けたものでは?)に加わって浅草の劇場にも出て、こちらでも大変な人気を博すのだけれど、この記事の趣旨からするならば、「それはまた別の話」。今はただこんな山里からそんなパーソナリティーが生れたという人事の妙を噛みしめて、早くも陰りはじめた秋の日に急かされながら、もう少し、あともう少し――と、いつまでも人気の絶えた山懐に止まっている……。


こんな山の中で3本の県道がもつれあっている。一部はリング状になっていて、ルング・ワンダルングの原因になりかねない?

付記 佐藤千代をめぐってはちょっとした奇縁がある。本文でも記したように、千代は大正の末頃からは「万竜美人団」に加わって浅草の劇場に出演する他、全国を巡業して回り、昭和10年代には朝鮮や満州にも「慰問」に訪れているという。しかし、昭和18年、その「万竜美人団」と別れて浅草に戻っている。おそらく、時局柄、興行が成り立たなくなったのだろう。そして、ハッキリとした時期まではわからないものの、富山に疎開している。その際、疎開先に選んだのが、なんと正願寺だというのだ。そう、あの亀谷凌雲が住職を務めていた――。正願寺が蓮如の4男・蓮誓を初代住職とする由緒ある寺で、元々は立山山麓の亀谷にあったということは「『なりしもの』と『ならざりしもの』〜基督信徒転向譚〜」にも記したのだけど、その後、現在地に移転するまでにはいろいろのいきさつがあったことが亀谷凌雲の著書『仏教からキリストへ あふるる恩寵の記』に記されている。ただ、詳しいことは記されておらず、不明だった。それが、『瞽女の記憶』を読んでわかった。実はそのいきさつの1つとして、一度、富山・岐阜県境の長棟(ながと)に移転しているのだ。この長棟というのは、かつて鉛鉱山があったところだとかで、最盛期には年6万貫(1貫は3.75㎏)ほどの鉛が採掘され、家数も300軒に上ったという。しかし、幕末には鉛の価格が大暴落、困窮した山師が一斉に下山して生産も激減。その後も細々と操業を続けたものの、昭和10年に廃村となったという(富山市埋蔵文化財センター「長棟鉛山遺跡 鉛を採掘した鉱山遺跡」より)。で、正願寺も山師が山を下りるのとともに富山市内に移転することになったらしい。そんな正願寺と千代がどうつながるのか? 実は千代の「手引き」(ウィキペディアによれば「晴眼者が肘を視覚障害者につかまらせて導くこと」。しかし、「手引き」の本来の意味がそういうものだとするならば、「内部に手引きしたものがいる」――というような用法って、もしかしたら誤用なの?)をしていたのが山口コト。『瞽女の記憶』の編著者である宮成照子の実母でもある。このコトが生まれたのが長棟村なのだ。なんでもコトの祖父は長棟村の鉛鉱山で坑夫をしていたとかで、そんな山口家にとって正願寺は旦那寺に当るのだという。そしてコトは正願寺が富山市内に移転してからも寺用で呼ばれたり寺納金を収めに行ったりとなにかと出入りしていたらしい。その誼で千代の疎開先に選ばれたものと思われる。また、そもそも千代が浅草の劇場に出演することになったのは高麗蔵(こまぞう)という男の口利きだったそうなのだけれど、この高麗蔵が暮していたのが、現在、正願寺がある新庄なのだという。つまり、千代と高麗蔵を結びつけたのも正願寺という可能性が大。それにしても、なんという奇縁であることよ。今回、ワタシは亀谷凌雲に続いて佐藤千代について書くことになったわけだけれど、この両者に接点があるなんて考えてもみなかったこと。何かが「手引き」しているのかねえ……。でも、何が⁉