PW_PLUS


雨降りだから神保氏でも勉強しよう②

 えーと、タイトルは「新型コロナウイルス感染症拡大防止のために不要不急の外出は控えるよう求められているから神保氏でも勉強しよう」に変えた方がいいかな? ただ、これだとオリジナルがなんだかわからなくなるからなあ……。

 ということで、今回も(雨降りでもないのに)このタイトルで行くことにして――「雨降りだから神保氏でも勉強しよう①」ではあえて詳しく記すことはしなかった、第10代室町将軍・足利義材が細川政元に将軍の座を追われ、越中に落ち延びて神保長誠の庇護の下、事実上の亡命政権を樹立した――という件について少しばかり書いてみることにしよう。多分、越中の歴史を彩った数多の(あるいは、数少ない?)出来事の中で最も特筆されるべきものと言っていいのでは? だって、この越中に〝もう1つの政府〟があったわけだから。もうね、「越中史上画期的なことであるといわねばならぬ」(『新湊市史』)――てなもんですよ。もっとも、この件を大事件と騒いでいるのは、地元くらいのものかな。BSの数ある歴史番組(コイツが問題でねえ……。言っちゃあなんだけど、あーゆーものを見るようになっちゃオトコもお終いですよ。この国では、若い時はそうでもなかったのに、トシをとるにつれて歴史に入れあげるようになるというのが国民病のように拡大していて、それは今や完全に「高齢者の楽園」と化した感のあるBSのプログラムに端的に表れている。各局が右に倣えでプログラムの柱にしているのが「懐メロ」と「旅」と「歴史」。もうね。どうせ歴史に入れあげるにしたって、もう少しスタイルってものがあるはずで……)の中で、この件を取り上げたものは、ワタシが知る限りでは、ない。まあ、「室町」ってだけで、人は敬遠するようで。でも、人間の「シン(業)」みたいなものを思い知らせてくれるのは断然、この時代ですよ。足利義材なんて、何度京都を追われようが、権力への飽くなき執念を燃やし続けた。「権力への執着」こそは人間の最大の「シン」と捉えるならば、足利義材という人物は日本史上、稀に見る「シン」の持ち主。さしずめ、「シン将軍」。うん、われながらいいフレーズだ。こりゃあ、小説のタイトルとしてもありだな……。

 ともあれ、まずはこの一般にはあまり知られることのない「シン将軍」こと足利義材(諱の読みは「よしき」。ま、YOSHIKIだね)、ないしは彼がこの越中で樹立した亡命政権について、事実関係をおさらいすることから始めよう。きっかけはなんといっても細川政元だ。といっても、ワタシはこんな人物がいたことを今回、初めて知った次第なんだけど。でも、これは強烈ですよ。足利義材も強烈だけれど、こちらも相当に強烈。なにしろ「京管領細川右京大夫政元ハ四十歲ノ比マテ女人禁制ニテ魔法飯繩ノ法アタコノ法ヲ行ヒサナカラ出家ノ如ク山伏ノ如シ或時ハ經ヲヨミ多羅尼ヲヘンシケレハ見ル人身ノ毛モヨタチケル」(『足利季世記』)――だからね。まるで『喚起泉達録』に描かれた凶賊・阿彦峅(あびこ・たけし)じゃないか(『喚起泉達録』も阿彦峅もご存知ないという方はぜひ「『喚起泉達録』はこう読め〜越中の伝承と「剣と魔法の物語」〜」をお読み下さい)。もうヴィランとしては申し分なしですよ。それにしても、なんでこんなエッヂの効いた人物描写がウィキペディアの記事には反映されていないんだろう? 出典となる文献が「作者,成立年代ともに不明」(コトバンク)ということで、真っ当な史書としては認められていないということ? だとしたらいよいよ阿彦峅だ……。

 話が逸れた。ともあれ、きっかけはその幕府管領・細川政元が主君であるはずの足利義材に背き、代って当時まだ12歳だったYOSHIKIの従兄弟、義遐(読みは「よしとお」。その後、義高→義澄と改名)を第11代将軍に据えたこと。これを「明応の政変」と呼ぶわけだけれど、本来ならばこの事件は細川政元ら反乱軍が兵を起こした4月22日の夜に始まり、足利義材ら政府軍が籠城した正覚寺城(現在の旭神社)が落城し、足利義材に従っていた幕府管領・畠山政長は自害、その子・尚順は逃走、河内国守護代・遊佐長直は討死、そして足利義材は投降――という結末を見た閏4月25日の朝を以て終りとなっていたはず。ところが、その後、さしもの細川政元も度を失ったであろう一大事が出来する。なんと足利義材が幽閉されていた細川家家臣・上原元秀の屋敷から姿を消したのだ。それは、6月28日の深夜、暴風雨の中の出来事だったという。ここは応仁の乱前後の根本史料とされている(とウィキペディアに記されております。ワタシ自身は、今回、初めて知った次第です)『大乗院寺社雑事記』より引くなら――

一後日聞之、今夜大雨下時分、公方自上原館出御、色々雜說有之間、遁出給、自江州御船云々、珍重事也、

 その後、足利義材の行方は「杳として知れず」という状態だったらしい。まるで上野戦争後の輪王寺宮のような状態? しかし、ようやくその行方をめぐって有力な情報がもたらされた。なんと前将軍は越中に下向したというのだ。しかも、それに追随するものも少なくないという噂。再び『大乗院寺社雑事記』より引くなら――

一公方ハ越中國エ御下向、大網必定旨聞之、和州牢人越中下向、罷上於路次參會間、則又御供申罷下了云々、

 この事態を受けての京都の町衆の反応として『新湊市史』がこんなことを記しているのだけれど――「この間、京都の噂も大変で、将軍の行方不明・京都脱出など、これまったく天魔の仕業であるといわれた」。ふふ、「魔法飯繩ノ法アタコノ法ヲ行ヒサナカラ出家ノ如ク山伏ノ如シ」――とその人物を形容された細川政元が、逆に「天魔の仕業」にきりきり舞いさせられている――というのだからオモシロイ。これはぜひ小説にしましょうヨ、夢枕漠先生⁉ ともあれ、こうして足利義材はここ越中へと落ち延びることとなったわけだけれど、でもなぜ越中に? これがねえ、よくわかんないんですよ。たとえば『新湊市史』では「この間に、越中神保の手配どもが密かに脱出行の活動をしていたものと思われる」。また『富山県史』でも「脱出は事前に綿密に計画されていたものと思われ、田村衆などの御伴衆が従い、越中神保氏配下の警護の武士や、大和の畠山尚順方牢人衆が従っていた」。さらに『新湊市史』にはこうした記載の裏付けとなる史料(『後法興院記』)も示されている。でも、脱出そのものを神保サイドが仕組んだというのはちょっとなあ。というのも、この明応2年6月という時点で神保長誠は京都にいなかったんだから。これについては「雨降りだから神保氏でも勉強しよう①」にもちょっと書いたんだけれど、明応2年正月の時点で神保長誠は中風を発症して地元で療養を余儀なくされていたことが史料で裏付けられる。それでいて、配下の者が脱出の手引きをした――というのは合理性のあるストーリーと言えるのだろうか? むしろ、脱出はあくまでも将軍直属の「御伴衆」が敢行したオペレーションで、神保サイドは越中下向の警護をしただけだったのでは? それとも、「御伴衆」の中に越中に走ったものがいて、その人物が神保長誠に救援を依頼し、それを受けてリーアム・デヴリン率いる特殊部隊(!)が派遣され、京都に〝鷲は舞い降りた〟のだろうか? いくらなんでも、それは……ありかな。ウン、ありだ(笑)。だからサ、やっぱりこれはぜひ小説にしましょうヨ、北方謙三先生⁉ ともあれ、明応2年7月某日、第10代室町将軍・足利義材はここ越中の放生津に入り、まずは「正光寺」なる寺を御座所と定めた(ただし、「正光寺」なる寺は放生津には存在しない。ウィキペディアでは「放生津城に隣接する石丸(高岡市石丸)にあった光正寺(現在は射水市本町へ移転)を指すと考えられている」としているものの、根拠は不明)。さらに神保長誠は足利義材の放生津滞在が長期化すると踏んだものか、翌年には新たな御所を築造している。三度『大乗院寺社雑事記』より引くなら――

一越中御所ハ如風聞九月廿一日神保館ニ御座、被上御幡了、無殊事、

 この「神保館」がどこにあったのかも特定はされていない。ただ、地元には「神保寺町」という地名が残っており、これはかつてこの地に神保長誠が建立した寺があったことに由来するとされていて、かつ明治時代にはその敷地内にあったと思われる個人宅から多くの五輪塔や板碑などが発掘されているという。こうしたことなどから、「ここに神保館があったこともあろうと考えられる」――と『新湊市史』ではしており、おそらくはそうしたことを踏まえてのことだろうと思うのだけど、そこからほど近い放生津橋(最近、とみに注目が高まっている「内川」にかかる橋。内川は、かつての「放生津潟」である富山新港と「奈呉の浦」である新湊漁港を結ぶ運河で、その沿岸の町並みが昔ながらの日本の港町の風情を残しているとして注目が高まっている)の東西の袂には「足利義材公座像」と「足利義材公騎馬像」という2つのブロンズ像が設置されている。多分、室町幕府の将軍でこんなふうにブロンズ像が作られているなんてほとんど例がないはず。しかも、騎馬像なんて。もしかしたら、これだけ? まあ、「越中史上画期的なことであるといわねばならぬ」――という地元の力の入れ様を考えたら、ブロンズ像の1つや2つ……。

 ともあれ、こうして亡命政権の政庁たるべき「越中御所」も築造された。また、『大乗院寺社雑事記』には、近国の諸将が相次いで参上していることも記されている。さらには京都からは70人とも言われる近習や奉公衆が随伴したり、後から駆けつけたりと、確かにここ越中に1つの亡命政権が樹立された――とは言えるだろう(もっとも「越中幕府」は言い過ぎだと思いますけどね。実は北日本新聞社編『富山県大百科事典』が足利義材のエイリアスとして知られる「越中公方」について解説する中で「越中幕府」という語を用いているのだ。曰く「さらに,西国の大内・大友・島津・相良・菊池,あるいは紀伊の尚順らと連携し,細川政元政権と対抗,越中幕府ともいうべき様相を呈した」。ウィキペディアだったら「独自研究?」とやられちゃうやつですよ。ここは『富山県史』が書いているように「小なりといえども、政権を形成していたといってよいだろう」――くらいに止めておくのが穏当じゃないですかねえ……)。で、実はこの亡命政権は5年の長きに渡って存続することになる。スゴイよね。榎本武揚らの「蝦夷共和国」がわずか半年ばかりで潰えたことを考えるなら、5年ももったということはもう素直に評価してもいいのでは? まあ、確かにそう言えないこともないんだけど、ただ亡命政権は5年ももったというよりも、5年も亡命政権という立場に甘んじざるを得なかった――と捉えた方がより実態に即しているのではないか? と、ワタシ自身の感触としては。というのも、史料からは足利義材は越中に落ち延びてきた当初から早急に兵を起こして京都に進軍することを望んでいたことが裏付けられるのだ。それは↑に引いた『大乗院寺社雑事記』の記載からも明らか。「九月廿一日神保館ニ御座、被上御幡了」――とは、要するに京都進軍に向けた「旗(幡)揚げ」を行ったという意味だろう。彼の望みは、速やかな挙兵、そして京都進軍にあったのだ。ま、それも当然。都の貴人が好き好んで放生津なんかに長逗留しようなどと思うわけがない。可及的速やかに兵を起こして中央政界に返り咲く――、それが彼の望みの全て。しかし、YOSHIKIが望んだ早期の挙兵・京都進軍は実現しなかった。そして、結果的に5年の長きに渡って放生津に留まり続けることになった――、そういうことになる。

 では、なぜ彼の望んだ早期の挙兵・京都進軍は実現しなかったのか? その理由としては、当時、神保長誠が中風を患っており、采配はおろか筆も満足に執れない身の上だった(そういうことを記した書状が残っている)ことが挙げられるだろう。で、多分、これはYOSHIKIとしては全くの想定外だったのではないか? 当然、彼は神保長誠が「御霊合戦」などで無双の働きを示したことを知っていたはず(もっとも、足利義材が生れたのは文正元年。一方、「御霊合戦」があったのは文正2年なので、仮に足利義材が神保長誠の勇名を聞き及んでいたとするなら、それは後に側近などから聞かされた評判だったかもしれない。しかし、えてして評判というものは実際以上に拡大して伝えられるもの。足利義材の中の神保長誠像は実際以上に大きく膨らんでいた可能性もある?)。しかし、遠路はるばるやって来た放生津の地で対面した神保長誠は中風病みの老人だった――とは、YOSHIKIとしては思いもしないことだったに違いない。はたしてその落胆ぶりは如何ばかりだったろう……。で、おそらくはそういう事情も関係しているのだろう、残された史料からは義材の側近グループが周防の大内氏の協力を取り付けることに躍起となっていたことが裏付けられるのだけれど――これが早期の挙兵・京都進軍が実現しなかった理由の2つめ。だって、遠いんだもの。YOSHIKIが発給した御内書が周防に届くのは3か月後とか4か月後という有り様だったようだ。まあ、そもそも放生津に身を置きながら本州の西の端にいる大内氏と交渉するというのが対応としては相当にイレギュラーで、そんなことをしなければならなかったというのは、つまりはそれほど神保長誠がアテにならなかったということだよね。もしかしたら足利義材は放生津入りしてほどなくこの地を亡命先に選んだことを後悔し始めていたのでは?

 実はそれを裏付ける事実がある。明応8年7月、足利義材は遂に京都に向けて進軍を開始するのだけれど、六角精児――じゃなかった、六角高頼に入京を阻まれてしまう。さらに細川政元の軍勢にも追い討ちをかけられて、這う這うの体で――周防に落ち延びているのだ。放生津ではなく、周防にね。しかし、それは当然てもんでしょう。だって、放生津に戻ったって、待っているのは「天下無双の知将」「日本一の勇将」(『新湊市史』)とは名ばかりの中風病みの老人なんだもの。きっとYOSHIKIのアタマには放生津に戻るなんて選択肢にもなかったに違いない。こんなことを考えるなら、放生津亡命政権は5年の長きに渡って存続した――とポジティヴに捉えられるのか? むしろYOSHIKIは越中の国衆の頼りなさに歯噛みしながら5年の長きに渡ってこの辺境の地で忍従の日々を過ごさなければならなかった――と捉えた方がいいのではないか? と。なお、富山市郷土博物館の主任学芸員・萩原大輔氏は2011年に発表した「足利義尹政権考」(大阪歴史学会『ヒストリア』第229号)でYOSHIKIと長誠の間には上洛方針をめぐる不和があったとし、さらに地元紙の取材に答えるかたちで「長誠が義材を越中から締め出せるほどの力を持っていた」と語っている(『北日本新聞』2012年5月20日付け「神保氏との不和原因 「流れ公方」足利義材の越中出国」参照)。氏が描き出すのは、いつまでも挙兵→京都進軍にこだわるYOSHIKIに業を煮やした長誠がYOSHIKIを「越中から閉め出した」――という構図なのだけれど、これはワタシの見方とは真逆ということになる。さて、どっちの見方が説得力があるとアナタには感じられますでしょうか……?

 ともあれ、頼みとした神保長誠が中風で身動きがとれず、ならばと期待をかけた周防の大内氏との連携は地理的条件に阻まれて思うように捗らない。加えてその大内氏もお家騒動やら隣国・筑前の少弐氏との紛争やらで国内が穏やかではなく、YOSHIKIの求めにおいそれと応じられる状況ではなかったとか。そうしたモロモロの悪条件が重なってYOSHIKIの放生津亡命は5年の長きに渡ることになった。しかし、↑でも触れたように、明応8年7月、遂に京都に向けて進軍を開始した――ものの、あえなく敗退して今度は周防に落ちることに。さすがにこれでYOSHIKIの政治生命は絶たれた――かと思いきや、それから7年後の永正4年になって思いもかけないチャンスがめぐってくる。なんと、細川政元が身内の反乱で命を落したのだ。「魔法飯繩ノ法ヲ行ヒ(略)見ル人身ノ毛モヨタチケル」――と畏れられた怪物が身内に寝首を掻かれるとは……。しかし、これは足利義材改め義尹(読みは「よしただ」。放生津亡命中の明応7年に東坊城和長に諮った上で改めている。さらに永正10年には義稙と3度めの改名。読みは「よしたね」。今日、この「シン将軍」の名前として最も一般的なのはこの諱)にとって千載一遇のチャンス。事実、彼はこの好機を逃すことなく、翌永正5年正月には船団を編成して周防の三田尻を出帆。そして6月には遂に京都復帰を果すことになるのだ。何度敗れても決して屈することのない「権力への意志」の体現者に天が微笑んだということだろうか? 一方、その時、われらが神保長誠はというと、既にこの世になく、神保家は嫡男の慶宗が継いでいた。『大乗院寺社雑事記』の明応8年9月1日の条には「神保今日下向河内、去月椎名・登井以下罷付了」とあって、神保勢も入京作戦に参加していたことが裏付けられるのだけれど、おそらく、この時、神保軍を率いていたのは慶宗だろう。また『富山県史』では慶宗が義尹の護衛として周防まで赴いていた可能性も指摘している。しかし、神保慶宗が足利義尹政権で重きをなしたということは伝えられていない。早期の挙兵・京都進軍という望みに応えられず、放生津亡命が徒に延びたことで「功なし」と判断されたか? そんな中、神保慶宗は永正17年(1520年)、越後の長尾為景(上杉謙信の実父)に攻められて自刃。また弟の慶明も史料からは消えた。ここに放生津神保氏は滅亡することとなる。また義尹にも苛烈な運命が待ち受けていた。というのも、大永元年(1521年)、今度は細川高国(細川政元の養子)との抗争に敗れて再びの都落ちを強いられことになったのだ。しかし、それでも屈せず、最初は和泉国堺、次いで淡路国志筑浦に逃れ、最終的には阿波国撫養で再起を図るものの、ここで寿命が尽きてしまった。詳しい死因は伝えられていないものの、山田康弘著『足利義稙 戦国に生きた不屈の大将軍』(戎光祥出版)では「そのようななかで義稙は病を得てしまった」としており、病死だったという見解が示されている。放生津に5年、周防に8年、そして最後の3年は和泉→淡路→阿波と各地を転々。それでも屈せず、権力への飽くなき執念を燃やし続けた「シン将軍」は、最後は病を得て客死。今、歴史ファンの注目を浴びることもほとんどない中、アナタのブロンズ像を作って顕彰しているのは、アナタの期待に応えられなかったここ越中の人々ですよ……。


放生津橋を中心に眺めた射水市のベイエリア。射水市立放生津小学校のグラウンド北側に「放生津城跡」の案内板がある。