図らずも『一夢庵風流記』のあとがきをめぐって記事を2本も書くことになってしまったのだけれど、元々書きたかったのはそういうことではない。元々書きたかったのは、前田慶次郎の終焉の地をめぐる謎にワタシなりの結論を下すこと――。
前田慶次郎の終焉の地をめぐる謎――。これについては「『一夢庵風流記』のあとがきを読む②」でも少しばかり書きましたが、全く異なる2つの説が伝わっている。1つは、慶長10年11月9日に大和国の刈布(読みは「カリメ」とも「カリフ」とも)というところで亡くなったとする説。もう1つは、慶長17年6月4日に米沢の堂森というところで亡くなったとする説。隆慶一郎は『一夢庵風流記』の最後で「やはり慶次郎は生涯の友だった直江兼続の住む米沢で死んだと考えたい」、つまり後者の説を支持しているのだけれど、前田慶次郎の研究書としてはファンの間でも評価の高い今福匡著『前田慶次 武家文人の謎と生涯』(新紀元社)では「筆者の考えでは、遺品など物証面で米沢かと考えられるが、文献的には大和説のほうにやや分があるのではないか、とみている」。また池田公一著『戦国の「いたずら者」前田慶次郎』(宮帯出版社)では「数少ない慶次郎に関する記録に留意すべき点が隠されているのではないかということから、改めて大和説を重視したい」――と、こちらも事実上の大和説推し。まあ、これは、同氏が北國総合研究所(加賀前田家のお膝元である石川県金沢市に本拠を置くシンクタンク)の研究員という事情も関係しているのかな? 大和説は加賀前田家サイドの史料を典拠としており、実態としては加賀説と言ってもいいものなので。ともあれ、ケイジアン(「慶次マニア」を指す造語のつもり。まあ、「シャーロキアン」とか「チャンドラリアン」とか、その類い。ちなみに、ワタシは「ケインジアン」ではありません……)の間でもこうして立場が分かれているわけだけれど、かくいうワタシはというと――どっちも違う(どっちも信じられない)。これが、このアポリアをめぐってこの1か月あまりに渡って繰り広げた試行錯誤(あるいは右往左往。あるいは七転八倒。あるいは……)の果てにワタシがたどりついた結論……。
ということで、いよいよ――というか、満を持して、というか、ようやく、というか、今頃、というか――この件について書いてみようと思うのだけれど、実はですね、当初はワタシも慶長10年11月9日を没年月日とする大和終焉説が有力だろうと考えていたんですよ。しかし、あることがきっかけで、ちょっとこれはどうなの? と。その「あること」とは――この大和終焉説の根拠とされている野崎八左衛門の「遺言」に見過ごしにできない問題点があることがわかったので。で、まずはこの野崎八左衛門の「遺言」なるものについて少しばかり説明したいと思うのだけれど――
まず、前田慶次郎という人は加賀前田家の創業者である前田利家の甥という身分でありながら、卒然として主家を出奔し、長槍1本を抱いて諸国を渡り歩いた戦国の滝伸次(?)みたいな人だったのだけれど(といっても、ワタシもよく知らないんですけどね、滝伸次なんて。でも、〝渡り鳥〟といえば、やっぱりこの人でしょう、と)、〝ギターを抱いた渡り鳥〟とは違って1人ではなかった。従者を伴っていた。それが、野崎八左衛門。しかも、野崎八左衛門によれば、従者は彼1人ではなかったらしい。他にも3人ばかりいた。ま、そのあたりは↓を読んでいただくことにして――その野崎八左衛門が77歳の喜寿を迎えた承応元年正月、「遺言」として語ったことが、今日、文書として伝わっていて(『戦国の「いたずら者」前田慶次郎』によれば、現在は「前田育徳会」が所蔵という)、これが前田慶次郎は慶長10年11月9日に大和国の刈布で亡くなったとする説の唯一の(ここはやはり太字で強調しておきましょう)根拠となっている。この「遺言」、全文は「前田慶次殿伝」として石川県立図書館所蔵『秘笈叢書19』に収載。また金沢市立玉川図書館近世史料館所蔵『考拠摘録』にも抜粋が収載されており、こちらは『加賀藩史料』でも読むことができる。ここでは『加賀藩史料』をテキストとすることにして――では、野崎八左衛門(諱は「知通」。↓の引用文中にも「知通」として登場)は一体どういうことを語っているのか? まずその全半部分を紹介すると――
利卓公は實は瀧川左近將監一益の弟なり。利久公養子としたまふ。利卓公心たくましく猛將たり。謂あつて浪人となりたまへり。故に一つの望みあり。意趣は祕
爰に不語然れども世も末となり次第おとろふの理によりて秀るの日なし。若は利長卿にも背き給はすば可然けれども、只望をとげんと夫にも隨ひたまはず。剩戰を好て、後々は景勝などの陣中に至り、上杉と心を共にし、望も後は恨に變じ、種々の業を盡したまへり。仍利長卿より詈度々なり。利卓公年歷て痞病發せり。時に病を保育すと號し、大和に越し、洛に至り、種々の犯惑を振舞たまふ故、世人皆惡んで加州に告たり。利長卿より罵つよきによつて、洛の居不叶、大和の刈布𛀁蟄したまへり。利卓公年歷て病甚し。故に入道してみづから龍碎軒不便齋と號したまへり。不便齋此時に至り、淺野・多羅尾・森此三人加州𛀁戾したまへり。知通は利長卿より添へたまへば、謂あるべければ我が死後を見屆べしと留たまひて、知通と纔に下部二人と給仕して月日を經たり。不便齋病次第に盛にして不治、慶長十年十一月九日巳ノ半刻、享年七十三にて卒したまへり。則刈布安樂寺に葬る。其の林中に一廟を築き、方四尺餘、髙五尺之石碑を建、銘に龍碎軒不便齋一夢庵主と記せり。俗の姓名並落命之年月は謂あつて不記。利卓公の死する所を知る者なしと云はんか。大和國刈布村と云所は、同國の舊跡當麻寺の山を、左りに西へ二里を行て里あり、茂林と云。夫より南𛀁一里あり。
ね、ハッキリと「慶長十年十一月九日巳ノ半刻、享年七十三にて卒したまへり」と。ここまでハッキリとその没年月日、さらには埋葬した場所まで記されていて、しかもそれを述べている(「遺言」は野崎八左衛門が述べたことを書き留めた口述筆記であるとされている)のが前田慶次郎の従者だったというのならば、もうそれを疑う理由なんてないんじゃないの? 確かにそれはそうで、だからこそ今福匡も「文献的には大和説のほうにやや分があるのではないか」と書いているわけですね。ただ、それでいながら「やや分がある」と、そのアドバンテージが限られたものである理由は――それは、↑の記載には多々、得心の行かない点があるため。たとえば、文中で「利卓公」とされているのが慶次郎のことなんだけれど、前田慶次郎の諱については利益、利貞、利太、利大、利興など、さまざまに伝えられているものの、「利卓」とするのはこの「遺言」以外には見当たらない。あるいは、管見の限りでは慶次郎の諱については利貞とされることが最も多いのではないかという印象を持つのだけれど、↑も「利貞」とすべきところを書き違えた(あるいは、翻刻に当たって読み違えた)? しかし、前田慶次郎に関る最も基礎的データですからねえ……。また慶次郎を「瀧川左近將監一益の弟なり」としていることについても疑問がある。慶次郎が滝川一族の出身であることは間違いないものの、誰とどういう関係にあるかについては諸説紛々というのが実態で、実父についてだけでも一益の従兄弟、あるいは甥とされる滝川益氏、滝川益重、一益の兄である高安範勝――と、さまざまに言われている。そんな中、『戦国の「いたずら者」前田慶次郎』では典拠となる文献(『村井重頼覚書』)の信憑性の高さを理由に滝川一益の甥であるという説をちょい推しといったところかな? まあ、これは何か新しい史料が出てこないことには解決のしようのない問題ではあるのだろうけれど、しかしウィキペディアの「滝川一益」の記事を見ても前田利益は家臣(一門)という位置付けとなっており、慶次郎を「瀧川左近將監一益の弟なり」とする↑の記載はほとんど史家からは無視されていると言っていいのでは? さらに付け加えるなら、『加賀藩史料』では割愛されている部分(「遺言」全体としては冒頭部分に当たる)では関ヶ原の戦いの直後、前田利長が「尾洲宮海を渡らせ勢洲桑名へ越させたまへり」(引用は今福匡著『前田慶次 武家文人の謎と生涯』の巻末資料「前田慶次伝(野崎知通筆記)」より)ということが記されているのだけれど、「前田利長が慶長五年、関ヶ原合戦直後に尾張から伊勢へ渡った記録はない」(同)。もう1つ。隆慶一郎は『一夢庵風流記』の最後で「慶次郎の性格から考えて、到底おとなしく蟄居していた筈もないし、前田利長にしても慶次郎を抑えておく理由がないのである」――と、いたずら(犯惑)が祟って大和国刈布に蟄居されられた――という、「遺言」が描き出す基本的なストーリーラインそのものに異議を呈する有り様……。
――と、野崎八左衛門の「遺言」をめぐってはこうしてさまざまな疑問点・問題点が指摘されており、それがゆえにこれほどハッキリと没年月日と埋葬場所を記しておりながら、大和終焉説に若干のアドバンテージを与えるだけに止まっているわけですが――ただ、↑にも書いたように、当初、ワタシは、この「遺言」の内容には、こうしたさまざまな疑問点・問題点があることは承知の上で、そこに記されていることの大筋については疑う理由はないのでは? と考えていた。だって、これは「遺言」なんだから。1人の人間が、人生の最晩年に至って、「遺言」として語ったことを、あーだこーだ理由をつけて否定することの方がよほど説得力を欠く行為と言わざるをえませんよ。ここはぜがひでも↑に引いた部分の続きを読んでもらいたいのだけれど――
右に遺言する事、利卓公に添へられて、一生の有僧をしり、卒したまへるの儀も知れり。他に知る人なし。戸田氏すでに我か主となれり。正に彌五兵衞殿の外祖たり。巡忌及び舊忌此家にてかふむらずばあらじ。我死してなんぢ不知といはゞ、知通何を勤めたりと云ん。爰に久しき苦心の勤を空しくして、剩他の嘲を需ん。又利卓公之骸にも異笑をつけん事甚口借。仍て十分一と云とも只其まま尸を葬るの地落命の月日を一息一言して殘す。舊忌追善之種と思ふのみ。利家卿・利長卿に命を奉りてより、右皆祕すへき謂あれば、汝能く思ふべし。今の遺言の耳に口をあてゝ必傳べし。彼地に至るの事あらば、誤て乘打すべからずと、後より後𛀁祕して傳べし、以上。
「今の遺言の耳に口をあてゝ必傳べし」「後より後𛀁秘て傳べし」――と、八左衛門は今際の際で語ったのだ。そうまでして子孫(↑の引用文中に見える「なんぢ(汝)」について池田公一氏は慶次郎の義理の息子に当たる戸田弥五兵衛であるとしているのだけれど、この時点で八左衛門は戸田家に仕えていたとされるわけだから、戸田弥五兵衛は主人に当たる。はたして主人を「汝」と言いますかねえ。ここは『スーパー大辞林』の語釈を紹介するなら――「多く対等の人,またはそれ以下の人に対して用いられ,中世以降は目下の人や親しい人を呼ぶのに用いられるようになった」。やっぱり「汝」とは自分の身内の指すのでは……?)に伝えようとしたことの信憑性に疑義を挟むことがはたして至当な行為と言えるのか? これは、描かれたようなシチュエーション(たとえば、隆慶一郎が指摘している、「前田利長にしても慶次郎を抑えておく理由がない」というようなこと)が説得力があるかないか、ということとは関係がない。1人の人間が、人生の最晩年に当たって、「遺言」として語ったことを、あれこれ理由をつけて否定することの方がよほど説得力を欠いた行為。↑に引いたようなことには、細かな思い違いや辻褄の合わないことが認められたとしても、語られていることの大筋は真実(SQLの条件判定ならばTRUE)であると、そう受け取るべき――。
これが、当初、ワタシがこの問題に手を付けた時点での基本的なスタンスだった。で、この線に沿ってこの問題に決着をつけるというのがワタシの方針でもあったのだけれど――あることがきっかとなってこの方針が大幅修正を迫られることになった。その「あること」とは――それは「承応元年正月」という「遺言」に記された作成日時(タイムスタンプ)。実はですね、承応元年には正月はなかったんですよ。承応の前の元号は慶安。その慶安が承応と改められたのは慶安5年9月18日のこと。つまり、承応元年は9月18日から始まっているわけで、「承応元年正月」という日付は存在しない。「承応元年正月」に相当する日付は、「慶安五年正月」。だから、本来ならばこの「遺言」にも「慶安五年正月」と記されていなければならないわけだけれど――どういうわけか記されているのは「承応元年正月」……。
この事実についてワタシが知ったのは、ここまで何度も引用した池田公一著『戦国の「いたずら者」前田慶次郎』によってなんだけれど、それでは池田氏はこの問題についてどう述べているかというと――「同記録の奥書の年次は承応元年(一六五二)正月となっているが、承応改元は同年九月である点で問題がないわけではない。もっとも、当初は『正月』と記され、後に『承応元年』が書き加えられたか、『考拠摘録』という一書にまとめられる時期、ないしはそれ以前に年次を含む奥書が書き加えられた可能性もあるのだが」。ま、「可能性」ならばなんだってありますよ。それこそ、「慶長十年十一月九日巳ノ半刻、享年七十三にて卒したまへり」という下りだって、後から「書き加えられた可能性もある」。でも、そんなことを言い出したら切りがないわけで、ここは現在、ワレワレが目にしうるものを前提にしてやるしかないじゃないか。そうすると、野崎八左衛門の「遺言」とされるものには「承応元年正月」という実際には存在しないタイムスタンプが捺されているという事実が厳然と存在するわけで……はたしてこの「遺言」に書かれていることはどこまで信用していいのだろう? ということになりますよね。で、そうなるとだ、↑の方で列挙したこの「遺言」が孕むあれやこれやの疑問点・問題点が一斉に自己主張を始めるというか。前田慶次郎の諱を「利卓」としているものは、この「遺言」以外には存在しない。また、前田慶次郎を「瀧川左近將監一益の弟なり」としていることにも大いなる疑問がある。さらに関ヶ原の戦い直後に前田利長が尾張から伊勢へ渡ったという記録もない……。えーい、この際だ、もう1つ付け加えようか。「慶長十年十一月九日巳ノ半刻、享年七十三にて卒したまへり」――という記載を信じるなら、前田慶次郎は関ヶ原の戦いがあった慶長5年当時、68歳だったということになるわけだけれど、これは「長谷堂城の戦い」における慶次郎の働きを考えた時、はたしてどうなのか? それはリアリティのある〝人物設定〟と言えるのだろうか? ここは『上杉将士書上』が描くその日(慶長5年9月29日)の男・慶次郎の〝晴れ姿〟を紹介するなら――
山城守宅にて、最上へ出陣の節、慶次郞は、黑具足に、猩々緋の陣羽織、金のひら高の珠數を首に懸けて、珠數の房、金の瓢箪、背へ下るやうに懸けて、河原毛の野髮大したの馬、金の兜布を冠らせて打乘り、三寸計りの黑馬に、緞子の〔二字
缺〕にて、味噌・乾糟を入れ、鞍坪に置き、種子島二挺付けて、乘替に付けさせる。最上陣の退口に鎗を合せ、髙名誠に目を驚かす。異形の風情なるも、□て敵味方感じけり。此時の姓名は、一番ひつと齋・水野藤兵衞・藤田森右衞門・韮塚理右衞門・宇佐美彌五右衞門、以上五人、一所に合する。此時に、最上義光、伊達政宗を一手に合せ、上杉勢の退を附慕ふに付、中々大事の退口にて、杉原常陸・溝口左馬助、種子嶋八百挺にて、防ぎ戰ふと雖も、最上勢、强く突立つる故、直江怒りて、味方押立てられ、足を亂し、追討に逢はん事、唯今の事なり。扨も口惜し。腹を切らんといひけるを、慶次郞押留め、言語道斷、左程の心弱くて、大將のなす事にてなし。心せはしき人かな。少し侍〔二字
缺〕我等に御任せ候へとて、返し合せて、右の通り五人にて鎗を合せ、最上勢を突返し、能く引拂ひ申候。
ま、本当にたった5人で最上勢を追い払ったのかについては疑問もありますけどね。でも、この『上杉将士書上』というのは、寛文9年、『続本朝通鑑』編纂のための参考資料として上杉家が幕府に提出したものとされる(古典遺産の会編『戦国軍記事典』参照)。だから、そんじょそこらの軍記物とはわけが違う。その信憑性は相当に高いと考えていいでしょう。で、↑に記されていることも限りなくファクトに近いと考えることとして――こんな勇猛な武者ぶりを披露した人物が御歳68歳の老人だった? ま、そういうことが絶対にないとは言い切れないよね。『独眼竜政宗』でいかりや長介が演じた鬼庭左月は御歳74歳で「人取橋の戦い」に参戦し、討ち死にしている。だから、68歳で奮戦し、居並ぶ上杉武士の「目を驚かす」ということもありえないことではないと思う。ただ、もしそうならば、そのこと自体が特記事項で、『上杉将士書上』の著者(清野助次郎&井上隼人正)も一言ならず言及していたはず。でも、そんなことは一言も記されていない。ワタシには、どうしても↑に描かれた人物が68歳の老人だとは思えないんですよねえ……。
――と、こうしたモロモロの疑問点・問題点が「承応元年正月」という実際には存在しないタイムスタンプが引き金になって一斉に自己主張を始めた。こうなると、いろいろ考えちゃいますよ。たとえば、この「遺言」は文書としての真贋についてはちゃんとクリアされているんだろうか? とかね。実際、世に偽書とされるものはどれだけでもある。また偽文書と呼ばれるものもあって、これは家系の由緒の装飾などを目的に特に江戸時代に盛んに作成されたとされる。この偽文書に関してウィキペディアにはこんなエピソードも紹介されていて――「偽文書と指摘されながら、正当な中世史料として世に出回った例として「椿井文書(つばいもんじょ)」と通称される文書群がある。この文書群は、江戸後期に興福寺出入りの家を出自とする椿井政隆によって、近畿一円の顧客の求めに応じて作成された。中世より椿井家に伝わっている文書を政隆が写した、という体裁で作成されており、虚実が入り混じった寺社縁起・系図・絵図などを、他の文書と複雑かつ巧妙に関係させることで信憑性を持たせている」。こんなことも考えるなら、野崎八左衛門の「遺言」とされるものがはたして本物なのかどうかということについてはよくよく慎重に構えてかかるべきでは? たとえば、ワタシはこういうことも考えてみるのだけれど――池田公一氏は『戦国の「いたずら者」前田慶次郎』でこの「遺言」は前田慶次郎の娘婿・戸田弥五左衛門の次女(従って、前田慶次郎からすれば孫ということになる)で前田家奥女中となった今井の手を経て加賀前田家5代当主・綱紀に伝えられたとしている。もしこれが事実なら、それは正保2年(1645年)から享保9年(1724年)の間ということになる。一方、延宝8年(1680年)には前田慶次郎の主要な逸話が網羅された『武辺咄聞書』が世に出ている。そして、以後、同書に記された逸話は湯浅常山著『常山紀談』や神沢杜口著『翁草』などに次々と〝コピペ〟されていくことになる。それは、つまり、よほど『武辺咄聞書』に記された逸話群が人々の好奇心を捕えたということであり――早い話がウケたのだ。そして、「天下御免の傾奇者・前田慶次」は時代の寵児となった……。こうした当時の前田慶次郎を取り巻く状況を考えるなら、野崎家なり戸田家なりがその人気にあやかって自家の由緒を装飾しようと考える動機は十分過ぎるくらいにあったということになるのでは? ちなみに、いささか余談気味の話にはなるのだけれど――戸田家というのは富山藩士だった(加賀前田家3代当主・利常が隠居する際、次男の利次に10万石を与え、富山藩として分封した。この際、戸田家は利次に従って富山藩に移ったという)。その富山藩で「御前物書役」などを務めた野崎伝助という人物がいる。これが、まあ、当地の言葉で言う「みゃあらくもん」の代表のような人物で、後世、「荒唐無稽の伝説の集積」「物好きの架空創作」「史書としても無価値であり、民俗学的にも無益である」(富山県郷土史会校注『肯搆泉達録』解題)――と、ボロクソに言われることになる『喚起泉達録』なる書を著した。ワタシは、大好きなんですけどねえ(笑)。ま、『喚起泉達録』についてお知りになりたい方はぜひ「『喚起泉達録』はこう読め〜越中の伝承と「剣と魔法の物語」〜」をお読みいただくこととして――この野崎伝助と野崎八左衛門の関係は――わからない。いろいろ調べたんだけれど、わからない。野崎八左衛門が富山藩士となった戸田家に仕え、その富山藩で「御前物書役」などを務めたのが野崎伝助――というわけだから、何らかの関係はあっただろうと推測はできるのだけれど――ウラが取れない。だから、「可能性」だね。↑の方で、「可能性」ならばなんだってある――とダメ出しをした、「可能性」。その「可能性」で言うならば――『武辺咄聞書』が世に出た延宝9年から加賀前田家5代当主・綱紀が亡くなる享保9年までのいずれかのタイミングで前田慶次郎が世間で人気を博しているのを聞きつけた野崎家が同族である野崎伝助に頼んで「遺言」を作ってもらった……。
ま、後半はこれ自体が「物好きの架空創作」ではないかと言われかねない内容となってしまったかとは思うのだけれど……でも、野崎八左衛門の「遺言」とされている文書が偽文書である「可能性」については真剣に検討されるべきであるとワタシは考えます。そう疑わざるをえない数多くの疑問点・問題点が「遺言」にはある……。
さて、こういう理由で大和終焉説を退けた場合、前田慶次郎の終焉の地は必然的に米沢ということになるわけだけれど……ただ、実は米沢終焉説にも問題があって。というのも、米沢終焉説と言ったって1種類ではないんだよね。まずはそのざっくりとしたあらましを説明すると――まず↑でも紹介した『上杉将士書上』が慶次郎の最期に関してこんなことを書いている――「妻子も持たず、寺住持の如く、在鄕へ引込み、彈正大弼定勝の代に病死仕候」。ここに出てくる「彈正大弼定勝」というのは上杉家18代当主・上杉定勝のことで、「彈正大弼」は官名。慶次郎はその「彈正大弼定勝」が上杉家当主だった時代に病死した――というわけだから、それは元和9年(1623年)から正保2年(1645年)の間ということになる。で、『上杉将士書上』が上杉家としての公式文書であると考えるなら、この信憑性はすこぶる高いと感じられるのだけれど、ところがこれと反する説も伝えられていて、今日、一般に米沢終焉説として知られているのはこちらの方。つまり、前田慶次郎は慶長17年6月4日に米沢城外の堂森で亡くなった――という、この記事の最初でも紹介したストーリー。慶長17年は西暦に直すと1612年なので、言うまでもなく「彈正大弼定勝の代」には当てはまらない。つまり、こちらの説は上杉家としての公式文書である『上杉将士書上』が書いていることと真っ向から反する説――ということにもなるわけだけれど、なぜか人はこの点に無頓着で。隆慶一郎も『一夢庵風流記』で「景勝の次代忠勝の時まで生き、米沢で死んだ。没年は慶長十七年六月四日とあるから、関ヶ原以後十二年も生きたことになる」。まるでそこになんの不都合もないかのような書き振り。でも「景勝の次代忠勝の時まで生き」というのと「没年は慶長十七年六月四日」というのは、絶対に両立しえないのだから。仮に米沢終焉説で行くにしたって、この交通整理はしなければいけない。その場合、一方は上杉家としての公式文書の記載――ということを考えるなら、そちらの方を重視せざるをえないのではないか? とワタシは思うのだけれど、なぜか慶長17年6月4日という日付に人々はご執心のようで。なにしろ、米沢では毎年6月4日には供養祭も営まれているというのだから。はたしてそれでいいんですかねえ……。
しかし、とにもかくにも米沢では単に米沢終焉説が支持されているというだけではなく、慶長17年6月4日が前田慶次郎の没年月日と半ば断定されているようなので、とりあえずはこの説の信憑性を検討することから始めようと思うのだけれど、まずは慶長17年6月4日が前田慶次郎の没年月日とする説の出所から。これについて、最初に挙げるべきは、『米澤里人談』だろう。享和元年(1801年)、国分威胤なる米沢藩士が著した、まあ、米沢の地理や故事・旧跡を紹介した「地誌」ということになるのかな。ちなみに、当時はこの種の本が全国で盛んに出版されたとかで、そのきっかけになったのは貞享4年に刊行された『江戸鹿子』だという。これが人気を博したことがきっかけとなって日本各地で『○○鹿子』という本が編まれるようになったとかで、『米澤鹿子』という本もあった。こちらは、この後、紹介することになる『米澤事跡考』や『米澤地名選』と一緒に『米澤古誌類纂』という本に収められている。ともあれ、この『米澤里人談』、古文献の習いでさまざまな写本が残されており、写本によって一部表記が異なることが想像されるのだけれど、本稿では昭和41年に刊行された中村忠雄校註『米澤里人談 上巻』(置賜郷土史研究会)をテキストにすることとします。で、まずは「山川」の部で――
一、慶次清水 は堂森山の北にあり。是則前田利太此地に住居して常に用る處の水也。慶長十八年六月、利太死す、卽ち前田大納言利家の従父昆弟なり。
今では前田慶次郎ゆかりの場所として米沢の観光コースにも入っている「慶次清水」について記しつつ、「慶長十八年六月、利太死す」。また前田慶次郎に関る記載は他にもある。「仏寺」の部では、前田慶次郎が隠棲したとされる米沢城外・堂森の堂森如来堂についての紹介記事で――
一、堂森如来堂 屋代郷堂森村にあり。本尊阿弥陀仏、韓仏、見返の弥陀といふ。松心山善光寺大同三戊子年堂建立、飛騨工匠作、中比益王姫建立、或説に伊達左京太夫藤原の晴宗女屋代郷高畑の城主小簗川泥藩妻女、亦云東の山上戸の内山鷺舘も小簗川の塁也、天正六年の春父の為に修造す。此地は上古の梵城なり。平維盛一門悉く滅亡の時、死を遁れ、紀州郡那智浦に至り、松樹を削り、偽り維盛入水すと書記し、浄髪して、熊野に隠れるといへども、捜求の恐れ身を辺土に潜す、時に此所に来て偶居すといふ。当郡は実に遁潜大利の地といふべし、池の大納言を始め。盛俊景清が来るも亦宜也。亦宮内村の照野は即維盛紀州より奉持する処といふ。又加賀亜相利家従父昆弟前田慶次藤原利太の屋敷あり、木主は善光寺にあり。
ここに、木主=位牌は善光寺にあり――ということが、初めて出てきた。さらに「墳墓」の部でも前田慶次郎の墓を取り上げていて――
一、前田慶次郎 菅原利太か塚は北寺町万松山一花院にあり慶長十八年六月四日病死、又其居村堂森の善光寺にも有と云但一花院の石塔も後年大火の時焼亡す
ここでは、前田慶次郎の没年月日は「慶長十八年六月四日」であると。今日、米沢で前田慶次郎の没年月日とされている日付とは1年違いとはいえ、ここに「六月四日」という日付が初めて出てきた。従って、今日、慶長17年6月4日が前田慶次郎の没年月日とされていることの、その典拠史料の1つがこの『米澤里人談』である――ということにはなる。ちなみに、これ以前に前田慶次郎の没年月日に関連して「六月四日」という日付を記している文献は、管見の限りでは見当たらない。
さて、この『米澤里人談』が世に現れた7年後の文化5年(1808年)、今度は小幡喜兵衛忠明という米沢藩士が『鶴城地名選』という書を著した。↑で『米澤鹿子』や『米澤事跡考』と一緒に『米澤古誌類纂』に収められているとした『米澤地名選』は、多分、この『鶴城地名選』が改題されたもの。ただ、国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能な『米澤古誌類纂』所収の『米澤地名選』と国立公文書館所蔵の『鶴城地名選』では相当、記載内容が異なっている。写本によって一定の異同があるのは理解できるのだけれど、ちょっとこれはそういうレベルではないような……。ま、そういうようなこともあるのだけれど、本稿では『米澤古誌類纂』所収の『米澤地名選』をテキストにすることとして――その「廟墓」の部にこうある――
前田慶次郎利貞(一本利太)墓 (慶長中千石)堂森善光寺にあり北寺町一華庵に葬とも未た詳ならす
慶長十七年六月四日堂森に死す
ここでついに(?)「慶長十七年六月四日」という、今日、米沢で前田慶次郎の没年月日とされている日付が出てきた(なお、「一本利太」とは、慶次郎の諱を「利太」とする異本もあるということ。また国立公文書館所蔵の『鶴城地名選』にはこうした記載自体がない。だからねえ……)。さらに、慶次郎の米沢での暮らしぶり――というか、上杉家における扱いについて記しつつ、その最期をめぐっても――
……又組外扶持方は甚豪放なる者共にて頭も扱余したる故組外へ反出されたる者共なり慶次も似寄りたる者なれば五百石にて此者共の組頭を勤るなり慶次元より家宅なく善光寺に借宅せり中此善光寺の前の土藏に住めり後には村の肝煎太郞兵衞と云者の家に住て遂に爰に果たり此太郞兵衞が家に慶次か陣皷とて振皷今に殘れり
慶次郎が上杉家の外人部隊である「組外衆」の筆頭として記された史料(「慶長五年直江山城支配長井郡分限帳」)が存在することは今福匡著『前田慶次 武家文人の謎と生涯』にも記されている。ただ、石高については最初に示した部分でも千石とされているし、こちらの史料でも千石とされていて、五百石とする↑の記載とは齟齬があるのだけれど、ま、大きな矛盾とまでは言えないよね。そういう十分に信憑性もありそうな史料において――「後には村の肝煎太郞兵衞と云者の家に住て遂に爰に果たり」。そして、その日付は慶長17年6月4日だった――というのが、『米澤地名選』が伝える前田慶次郎晩年の物語ということになる。
さて、こうして、今日、米沢などでは前田慶次郎の〝命日〟とされている「慶長十七年六月四日」という日付が初めて出てきたわけだけれど、じゃあ、今日、「慶長十七年六月四日」という日付が前田慶次の没年月日とされているのはこの『米澤地名選』の記載が根拠? どうもそうではないらしい。実は、これ以外にもう1つ「慶長十七年六月四日」という日付を前田慶次郎の没年月日として記している文献があって、今日、「慶長十七年六月四日」という日付が米沢などで前田慶次郎の没年月日とされているのは、その文献の記載を根拠としている――らしい。この「らしい」を付け加えなければならないことがなんとも苦しいところなんだけれど……。実は市立米沢図書館に「今井史料雑纂」と題された史料が所蔵されている。昭和19年に刊行された『米澤市史』の編輯委員を務めた今井清見という人物が残したノートを複写したもので、今福匡氏が『前田慶次 武家文人の謎と生涯』巻末の「主要参考文献・参考資料解題」で「旧米沢市史編纂担当だった今井清見が史料探訪した際の記録や所蔵者への問合せ、書簡などを綴じ込んだもの。現在行方不明とされる前田慶次の書状や自画像、逸話、史跡などに言及しており、興味深い記事が多い」と紹介している、誠に食欲をそそられる〝逸品〟。ケイジアンとしては、これはもう目を通さざるをえんでしょう(笑)。で、いささかコストはかかるものの図書館間相互貸借というサービスを利用して借り受けることとしたのだけれど――これはテマとカネをかける価値はあった。期待していた「自画像」(慶次郎が描いたとされる自画像を神保蘭室という人物が模写したもの。なんでも神保蘭室という人は米沢藩の藩校である興譲館で学長を務めた人物だという。ちなみに、一般に「無苦庵記」として知られている前田慶次郎作とされる文章はこの「自画像」に付した賛――いわゆる「自画賛」と呼ばれるものなんだそうだ。なお、今福匡によれば、この「自画像」は現在、所在不明という)はいささか力が抜けちゃったんだけど(神保蘭室の画力はもしかしたら田辺誠一画伯級かも……?)、それを補って余りある貴重な情報のてんこ盛りで、中でもワタシの目を引いたのは――
慶長十七年六月四日卒北寺町一華院𛂌葬る(朝陽私史)堂森善光寺に墓あり、〔鶴城地名選〕慶長十七年六月四日堂森に死す、
国分が米沢地名考(清見曰く米沢里人談なり)ニ慶長十八年六月四日卒葬善光寺トアリ
前田慶次郎の没年月日に関するメモ書きで、『鶴城地名選』や『米澤里人談』という本稿でも紹介した史料名も挙げつつ、それらを差し置くかたちで典拠史料のいの一番で挙げられているのが『朝陽私史』。上述「主要参考文献・参考資料解題」にも記載がなく、ワタシは全く初めて見る史料名。早速、国立国会図書館サーチで検索してみたものの、「一致するデータは見つかりませんでした」。さらに東京大学史料編纂所の所蔵史料目録データベースでも市立米沢図書館の蔵書検索でも……。しかし、市立米沢図書館に問い合わせたところ、確かにそういう史料は存在するそうで、原本は米沢市上杉博物館が所蔵。また、市立米沢図書館にも写本が所蔵されているとか(ただし、同図書館の蔵書検索ではヒットしない。市立米沢図書館は、一般には公開していない史料を持っている――らしい)。さらにこの『朝陽私史』を含む上杉家旧蔵の古文書は一括して『上杉文書』として管理されており(こちらも現在は米沢市上杉博物館が所蔵。天下御免の「国宝」です)、1969年にはマイクロフィルム化されて市立米沢図書館や国立国会図書館、さらには全国の複数の大学図書館に所蔵されている――とのことなのだけれど、残念ながらわが富山には所蔵図書館はなし(富山県立図書館に『上杉文書目録』のみ所蔵されている)。ということで、ここは市立米沢図書館にお願いして記載箇所を特定し、そのページのみ紙焼きしてもらうことにしたのだけれど――なんと依頼してから2日ほどして連絡があって、今井清見が書いているような記載は見当たらないと(正確には「管見の限り探せませんでした」)。これは、え⤴ ですよ。ただ、市立米沢図書館の回答によると、市立米沢図書館所蔵の「石丸家寄託文書35」に「朝陽私史目録」というものがあり、その項目に「前田慶次利安」とあるとかで、「もしかすると上杉文書以外に『朝陽私史』があるのかとも推察まではできましたが、その本文は見つかりませんでした」。うーん、「消えた『朝陽私史』」か。松本清張だったら、これで1冊、本を書くだろうなあ……。
しかし、見当たらないものはどうしようもない。ここはとりあえず「上杉文書以外に『朝陽私史』がある」という「可能性」のみを指摘して……ただ、今井清見が個人ノートにウソを書き連ねる理由はないと思われるので、『朝陽私史』には間違いなく↑に引いたようなことが書かれていたと考えることにして――今日、米沢で慶長17年6月4日が前田慶次郎の没年月日とされているのは、煎じ詰めるならば、この『朝陽私史』の記載を根拠にして――ということになるようだ。「今井史料雑纂」を読む限り、今井清見は『朝陽私史』の記載を根拠に前田慶次郎の没年月日を慶長17年6月4日と断定した消息が見て取れるので。というのも、↑に引いた記載には「十七年正カ」と頭注が付され、圏点まで振られているのだ。これは想像するに『米澤里人談』が「慶長十八年六月四日」、『鶴城地名選』が「慶長十七年六月四日」としていることを踏まえつつ、『朝陽私史』が「慶長十七年六月四日」としていることを根拠に「十七年正カ」と判断したということでしょう。これは、『朝陽私史』が『米澤里人談』や『米澤地名選』のような地誌ではなく、歴とした史書である(と思われる)こと。そして、より重要なのは、執筆したのが片桐忠成という人物で「右筆となり御記録方を勤め、多くの記録を編纂した」(市立米沢図書館のデジタルライブラリーで閲覧可能な片桐忠成著『新撰月表』の「著者紹介」より)という経歴の持ち主であることを最大限、尊重した結果では? そうした判断の下、彼が編輯委員を務めた『米澤市史』(昭和19年刊)でも『朝陽私史』の記載に沿うかたちで――「慶長十七年六月四日歿す、北寺町一華院に葬る」。これが、今日、米沢で広く信じられている米沢終焉説の礎石。
ただ、ねえ。じゃあ『上杉将士書上』の記載はどうなるの? 上杉家が『続本朝通鑑』編纂のための参考資料として徳川家に提出した上杉家としての公式文書にはハッキリと「弾正大弼定勝の代に病死仕候」と書かれてるんだよ。慶長17年6月4日を慶次郎の没年月日としたのでは、「弾正大弼定勝の代に病死仕候」とする『上杉将士書上』の記載と明白な齟齬が生じることになる。そこは、どう考えているわけ? 残念ながら、このあたりのことは、今井ノートからは読み取れない。まあ、その辺は目を瞑ったということですかねえ。あるいは、これも片桐忠成が藩の御記録方だったことを最大限、尊重した結果? でも、『上杉将士書上』にも清野助次郎と井上隼人正という起草者の名前が明記されており、この内、清野助次郎はまたの名を清野長範と言い、「御側勤として景勝に近侍していた」(ウィキペディア)とかで、上杉家の宿老の1人だったという。そういう人物の名前が執筆者の筆頭で記された文書の信憑性をそう簡単に否定していいの? ワタシには、それはいささかご都合主義に思えるのだけれど……。
ここでハッキリ言いましょう、慶長17年6月4日に前田慶次郎が亡くなったというのは、所詮はただの〝伝承〟に過ぎないのではないか? だって、『米澤里人談』にしたって『米澤地名選』にしたって『朝陽私史』にしたって、書かれたのは1800年代になってからで(『朝陽私史』の成立年代は不明ではあるものの、片桐忠成は文化6年に家督を相続したとされるので、いずれにしても1800年代にはなる)、それらの書で前田慶次郎の没年とされている慶長17年ないしは18年からはざっと200年は経過している計算。そんな〝後世〟に書かれたものが典拠だというんだから。しかも、これらの書が前田慶次郎が葬られたとか、前田慶次郎の位牌があるとか言っている堂森善光寺なり一花院なりはいずれもその時点では焼失して墓も位牌も過去帳もすべて失われているのだ。これについては「今井史料雑纂」にも記載があって、「善光寺世代記」なるものの一節として――「往古住寺〔ママ〕世代宝暦十三年諸什物書物焼失ニ付元文年中以前記録無之」。また一花院については『米澤里人談』に「後年大火の時焼亡す」と記されている(ちなみに、この一花院にあったとされる墓をめぐってはおもしろいことが書かれている。昭和7年に米沢市桂町の陶器商・竹田久三郎なる人物が北寺町西蓮寺の庭に倒れていた自然石の墓石を起こしたところ、「前田の戒名を刻し置けり、そのまゝ伏せ置き貰ふ約束をなしたると」。これ、え? と思いますよね。しかも、一花院は西蓮寺に隣接していたことが米沢市上杉博物館HPで公開されていて「明和六年米沢城下絵図」で裏付けられる。ということは……? しかし、残念ながら、この記載には大きくバッテンが付けられている。というのも、どうやらその後、今井清見が自ら現地の「実地踏査」に赴いたようで、その結果、「前田の戒名」とされたものには「誉」の一字が含まれていることがわかったとかで、これは浄土宗の特徴なのだという。しかし、「一華院ハ禅宗故誉つかず」。かくて結論として「前田慶次ノ墓ニ非ズ」。これは墨で大書されている。それだけ期待が大きかったということでしょうねえ……)。こうなると、やれ「慶長十七年六月四日堂森に死す」だの「慶長十七年六月四日卒北寺町一華院𛂌葬る」だのといったところで、そんなのただの伝承でしょ? と。それを裏付ける何かがあるわけじゃないんでしょう? と。だからこそ、没年が慶長17年とされたり18年とされたり。埋葬された寺についても堂森善光寺だったり北寺町一花院だったり(はたまは北寺町一華院だったり)。そして、オマケというか、トドメというか、こうした情報の錯綜を一掃してくれるものと今井清見が見なした『朝陽私史』には(市立米沢図書館のレファレンス担当者の言を信じるなら)伝えられているような記載が見当たらないという……。
こんな状況で、慶長17年6月4日を前田慶次郎の没年月日とアナタは信じられますか? ワタシには、ムリです。かくて慶長10年11月9日を前田慶次郎の没年月日とする大和終焉説につづいて慶長17年6月4日を前田慶次郎の没年月日とする米沢終焉説も信用するに当たらないという記事冒頭に記したような事態に……。
ただ――前田慶次郎は一体どこで亡くなったのか? ということに限っていえば、それは米沢である、ということは言えるのではないか? その根拠の1つが『上杉将士書上』の記載――ということにはなるのだけれど、実はもう1つ典拠となりうる文献がある。それは『米澤事跡考』。そう、『米澤鹿子』や『米澤地名選』と一緒に『米澤古誌類纂』に収められているとした――。その「佛寺」の部にこんな下りがあるのだ――
○堂森如來堂 屋代鄕堂森村に有り本尊阿彌陀如來韓佛見返りの彌陀と云別當松心山善光寺相傳ふ大同三戊子年堂建立飛騨工匠作之中比益王姬建立或說に伊達左京太夫藤原淸宗の女屋代鄕髙畑城主小梁川泥蟠室或云東山上村戸の内山鷺舘は小梁川の壘也天正六年の春父の爲めに修造を加ふと云此所に前田大納言利家の從弟同慶次菅原利貞の屋敷有り牌は善光寺にあり
一読、『米澤里人談』の記載と非常によく似ていることがおわかりのはず。おそらく『米澤里人談』の記載はこの『米澤事跡考』の記載をパクった参考にしたものだろう。ただ、ワタシがなぜあえてここでこの一節を紹介したかというと――『米澤事跡考』が書かれたのは元文元年(1736年)なのだ。堂森善光寺が焼失したのは宝暦13年(1763年)なので――そう、それより前ということになる。そういう時点で世に現れた書に「牌は善光寺にあり」と書かれているのだ(なお、『米澤事跡考』は市立米沢図書館のデジタルライブラリーでも閲覧可能で、こちらの写本だとこの部分は「位牌は善光寺にあり」となっている)。その信憑性はすこぶる高いと言っていい。間違いなく堂森善光寺に前田慶次郎の位牌はあった。そして、堂森善光寺に位牌があったということは、堂森善光寺こそは前田慶次郎の菩提寺だったということでしょう。『上杉将士書上』という上杉家が幕府に提出した〝公式文書〟の記載。そして、この『米澤事跡考』の記載。この2つによって、前田慶次郎の米沢終焉説は十分に裏付けられるはず。ただ、没年月日はわからない。『上杉将士書上』も『米澤事跡考』もこれについては何も書いてくれていないので(『米澤事跡考』にも『米澤里人談』同様、「墳墓」の部はあるものの、前田慶次郎の墓はリストアップされていない)。その一方で「慶長十年十一月九日」という日付を記した野崎八左衛門の「遺言」や「慶長十七年六月四日」という日付を記した『米澤地名選』(や『朝陽私史』)という古文献が存在している。こうなると、どうしたって人々の関心はそちらの方に流れるのも避けられないことだろうけれど――でも、傾奇者・前田慶次の終焉の地をめぐる謎に傾かない(信頼できる)情報を提供してくれるのは『上杉将士書上』と『米澤事跡考』である――と、これがこの1か月あまりに渡って繰り広げた試行錯誤(あるいは右往左往。あるいは七転八倒。あるいは……)の果てにワタシがたどりついた結論……。
追記 今福匡が『前田慶次 武家文人の謎と生涯』(新紀元社)で紹介している阪谷素「前田慶次郎自賛」(『洋々社談』第18号)のコピーを入手。国立国会図書館の遠隔複写サービスに申し込んだのが7月9日。発送通知を受け取ったのが7月28日なので、実に19日間を要したことになる。しかし、これは事前にわかっていたことで、国立国会図書館でも6月25日付けでその旨、告知していて――「現在多数の申込みをいただいており、遠隔複写製品の発送が大幅に遅れています。/順次作業を行っておりますが、現在、お申込み受付から発送までに3週間程度かかっております」。なんでこんなことになったのか? 言うまでもなく、新型コロナウイルスの影響である。国立国会図書館は、新型コロナウイルスの感染拡大のため、一時、サービスを停止していたため、サービス再開後に大量の申し込みが殺到することになり、その処理に大苦戦中――ということのよう。従って、ここは断じて苦情めいたことは書き記すべきではないでしょう。むしろ、貴重な資料(『洋々社談』は明治初期の刊行物)の複写をたった19日間で入手できた――と、ここはココロからの感謝を申し述べるべき。いや、皮肉でもなんでもなくね。
さて、その「前田慶次郎自賛」なんだけどね。ページ数にしてわずか2ページ。ごくごく短いものなので、ここに全文を書き出すことにしましょう。本稿をお読みいただいたケイジアンの皆々様にとってもさぞや興味をそそられるものではありましょうから。
ソモ/\此無苦菴ハ孝ヲ勤ムベキ親モナケレハ憐ムヘキ子モナシ心ハ墨ニ染マネトモ髮結フカムツカシサニ頭リヲソリ手ノツカヒ不奉公モセス足ノカコカキ小揚ヲヤトワス七年ノ病ナケレハ三年ノ艾モ用ヒス雲無心ニシテ岫ヲ出ルモ亦オカシ詩歌ニ心ナクレハ月花モ苦ニナラス寢タケレハ晝モイネ起タケレハ夜モオキル九品蓮臺ニ至ラント思フ欲心ナケレハ八萬地獄ニ落ル罪モナシイキルマテ生タラ死スルデ有フト思フ
前田慶次郞ハ慶長年閒有名ノ勇士ニシテ戲謔ヲ好ミ大祿ヲ唾棄シテ上杉景勝ノ家ヲ出テス身ヲ米澤ニ終リシ事ハ諸書ニ審ニシテ世人ノ知ル所ナリ余ノ淺學ナル此自贊ニ至リテハ未見ルコトヲ得サリシカ頃者舊友元米澤藩士ナリシ淸水彥介子ヲ訪ヒテ壁上ニカケシ掛物ヲ見レハ一豪老僧ノ簷端ニ坐シテ側ラニ酒壺ヲ置キ杯ヲ把リテ空ヲナガメシ圖ヲ描キ上ニ此自贊ヲ題セリ余大ニ奇トシ之ヲ問フ彥介子曰是前田慶次郞ノ自畫贊ヲ模寫スル者ナリ原圖ハ今猶置賜縣某氏ニ存スト余謂フ此贊語々修飾ナク眞氣落々人ニ逼ル其老懐宕逸一點ノ芥帶ナキ想見スベシ今人ヤヽモスレハ戰國壯士ヲ罵リ野蠻習トナシ不開化人トナス而シテ其喜フ所ハ西洋厮養ノ陋習上等社會ニ列ス可ラサル者ノミ是何ソ開明眞理豪傑精神ヲ談スルニ足ラン此自贊ノ如キ一讀ノ下人ノ胸宇ヲ爽快ニシ頑夫モ廉惰夫モ立ツ其自主自由ノ氣象以テ西洋諸豪傑ト並ヒ馳セテ愧ル所ナシト謂フ可キナリ因リテ寫シテ之ヲ同志ニ示ス
ふふ、「因リテ寫シテ之ヲ同志ニ示ス」――か。人は同じようなことを考えるってことだねえ……。ちなみに、阪谷素(読みは「さかたに・しろし」)という人は幕末から明治にかけて活躍した儒学者だとかで、そうとわかれば↑の記載も納得。というのも、「頑夫モ廉惰夫モ立ツ」――とか、最初は意味不明だったのだけれど、どうやら『孟子』の一節らしい――ということがわかって、なるほどなあ、と。しかし、「頑夫廉懦夫有立志(頑夫も廉に、懦夫も志を立つる有り)」(『孟子』に記された原文はこういうものだそうです)――ですか。「無苦庵頌」を読んで、そんな文言が出て来るというのがねえ。だって、当の慶次郎はこう書いてるんだよ――「寢タケレハ晝モイネ起タケレハ夜モオキル」。むしろ、「懦夫(惰夫)」でいいじゃん、と言っているんじゃないかとワタシには思えるのだけれど……?