まずは本稿を執筆するに至った経緯から――。
富山市水橋辻ヶ堂の常願寺川河口付近に高麗(こうら)神社という神社がある。また常願寺川対岸の高来(こうらい)地区にはこの社の分社とされる高来(こうらい)社という神社もある。これは、かつてこの地に朝鮮半島出身の人たちが住んでいた(あるいは、現在も住んでいる)ことを物語っていると言っていい。それは一体どういう人たちなのだろう? ということをめぐって縷々愚考をめぐらしたのはもう1年以上も前のこと。しかし、最終的には漂着民かなあ、ということになって(渤海使がどうとか言われているものの、そこまで遡るのは難しいだろうという判断)、その時点で気分がしぼんでしまって。今でも韓国・朝鮮の漁船が漂着することがある。その中には「工作船」と見られるものも。そんな現代社会の〈リアル〉と結びついてしまって……まあ、面倒臭くなっちゃったんだね。で、高麗神社にカカワルことは何も書かないままでいたのだけれど、どうもスッキリしない。かつては朝鮮民謡のレコード(『アリランの世界』というやつ。帯に曰く「海鳴りの済州島から、新羅の古都慶州へ、マイクは玄界灘を越えてアリランの心を追う!」。今時、こんな惹句に心を動かされる若者なんていないだろうけれど、当時はいたんだ。そして、学生の身でありながら9,000円という大金をはたいて……。ちなみに、故・中村とうようが収集したレコードや音楽関係書籍は武蔵野美術大学に寄贈され「中村とうようポピュラー音楽コレクション」として一般公開もされているそうですが、その中にこの『アリランの世界』もある。だったら、ワタシがこのレコードのことを知ったのも『ニューミュージック・マガジン』だったのかなあ……?)を聴いたりもした身としては、この件をスルーしたままにしておいていいのかと。むしろ無理矢理にでもカカワルべきではないのかと。別にどうとでも書きようがあるのだから(え?)。ここはオマエの大好きな野崎伝助を見習うんだ(なるほど……。ちなみに、野崎伝助の『喚起泉達録』では垂仁天皇の御代、岩瀬水門には鄭令と徐範という渤海人がいたとされている。垂仁天皇の御代だから4世紀かな?)。で、いささか「重い腰を上げる」という感じではあったのだけれど、まずは当時のメモを読み返してみることにした。ただ、ワタシのメモはただのメモではない。テキストファイルにゴマ粒みたいな文字でみっしりと(ちなみにフォント指定は10pt)。ファイルサイズもハンパない。中には1MBを超えるものもある。もし何かの理由で第三者がワタシの残した(遺した?)メモを分析することになったら大変だろうなあ。いや、大変なのは第三者に限ったことではない。当事者にとっても大変。というのも、いきなりワタシの寝ぼけ眼がやらかしてしまって。なんと「高麗神社」が「高瀬神社」に見えてしまったというね。で、ハア? すぐにそれは目の錯覚だとは気付いたのだけれど、それにしたって間違えるにもほどがある。高瀬神社は越中一宮の格式を誇る当地では最も由緒のある神社の1つ。だから、現地の案内板で「年代不詳であるが元禄期以前の創建であり、当地の産土神である」とされている高麗神社とは格式面では天と地ほどの違いがある。縁起的にも何の共通点もない……はず。ただ、そうは言いつつも、ワタシは高瀬神社の縁起なんて何も知らないんだよね。で、この際だからと高瀬神社のHPにアクセスしてみたところ、本稿執筆に至る意外な事実に遭遇することになったのだ。というのも、越中一宮高瀬神社のHPでは「高瀬神社のご案内」として主神を「大国主命(大己貴命)」とした上で、さらに「配祀」として2柱の神名を挙げているのだけれど、その1つが「五十猛命」なのだ。これには、ええ⤴ というのも、高麗神社は案内板で祭神を「五十猛命他四社合祀」としているので。つまり、どちらも「五十猛命」を祀っているということ……。

そもそもだ、ワタシにとっては高瀬神社が主祭神を「大国主命(大己貴命)」としていることも相当の驚きで。だって、大国主命と言えば出雲大社の祭神で出雲の国――あるいは「出雲王朝」――を作ったとされているわけだけれど、その「出雲王朝」は今やその実在は疑いのないものとされている(んだよね? 門外漢が無責任なことは言うべきではないとは思うけれど、この件についてはそういう認識で間違いないはず)。越中一宮高瀬神社が大国主命をお祀りしているということは、越中もかつてはその「出雲王朝」の一部であったことを明確に裏付けていると言ってもいいのではないか? 実際、当地には「出雲王朝」の実在を裏付ける考古学的資料とされる四隅突出型墳丘墓が相当数見つかっている(富山県埋蔵文化センターの「杉谷古墳群・杉谷A遺跡」によれば「県内では呉羽山丘陵に4基、婦中町に6基の計10基が確認されています」)。その上で越中一宮高瀬神社がお祀りするのが「大国主命(大己貴命)」だというのだから、これはもう越中がかつては「出雲王朝」の一部であったことを疑う理由はないでしょう。そうかあ、『喚起泉達録』が越中を「大己貴命ノ作リ玉フ国」としていることは正しかったんだ……。
しかし、こうなると、俄然、「出雲王朝」に興味が湧いてくるってもんで。これまでもそれなりに興味は持ってはいたのだけれど、もう興味の持ち方が全然違ってくる。なにしろ「大国主命(大己貴命)」は「我が神」であり「出雲王朝」は「我が国」である――ということになるわけだから。しかもワタシの興味の矛先はただ一点に向けられていると言っていい。「出雲王朝」の実在が疑いのないものであるならば、その痕跡は必ずや「正史」の中にも残されているはず。「正史」なるものがいかに歴史の勝者によって都合よく〝編集〟されたものであろうともあったものはあった、なかったものにはできないのだ。これは「東武皇帝」即位説をめぐって〝あてどないペーパー・ディテクティヴ〟を繰り広げたモノとしての実体験に基づく確信。だから、何かしらの痕跡は必ずや残されているはず。それを見つけ出すことができたなら「出雲王朝」はその意外な姿をワレワレの寝ぼけ眼に突きつけてくることになる……かも?
で、この件に関する「正史」といえば当然のことながら『日本書紀』ということになるわけだけれど、この際、大国主命に関る説話も多数記されている神代巻は対象外。対象となるのは、曲がりなりにも歴史時代に入ったと見なし得る崇神天皇紀以降の記載。そして、それを匂わせる記載は確かにあるのだ。垂仁天皇2年の条として「任那の人蘇那曷𠮟智」について記しつつ――
一に云ふ。御間城天皇の世(みよ)に、額に角有(おひた)る人、一の船に乗りて越國の笥飯浦に泊れり。故れ其處を號けて角鹿(つぬか)と曰ふ。問ひて曰く、何れの國の人ぞ。對へて曰く、意富加羅(おほから)國王の子、名は都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)、亦の名は于斯岐阿利叱智于岐(うしきありしちかんき)と曰ふ。傳(つて)に日本(やまとの)國に聖皇(ひじりのきみ)有すと聞(うけたまは)りて以て歸化(まゐおもむ)く。穴門(あなと)に到る時に、其の國に人有り、名は伊都都比古(いつつひこ)、臣に謂(かた)りて曰く、吾れは則ち是の國の王なり。吾を除(お)きて復た二(ふたり)の王(きみ)あらむ。故れ他處(あたしところ)にな往きそ。然るに臣究(つらつら)其の人と爲りを見るに、必ず王に非じということを知りぬ。既ち更(ま)た還(まか)りぬ。道路を知らずして島浦(しましまうらうら)に留連(つたよ)ひつつ、北の海より廻りて、出雲國を経て此間(ここ)に至れり。
崇神天皇の御代、「意富加羅國王の子」を名乗る都怒我阿羅斯等なる人物が日本国に「聖皇」がいると聞いて荒波叫ぶ玄界灘を渡り、最初に穴門(長門)に上陸した。すると、そこには伊都都比古なる人物がいて「吾れは則ち是の國の王なり。吾を除きて復た二の王あらむ」と言った。しかし、都怒我阿羅斯等はとっくりとその人物の人と為を観察したところ、「必ず王に非じといふことを知りぬ」。そして、再び大和の地をめざして航海に出たものの、瀬戸内海へのルートがわからず(?)、日本海側を島伝いに航行し、出雲の国を経て笥飯浦に至った――と、粗々こんな感じ。で、『日本書紀』の垂仁天皇紀にこんな記載があることはかねてから知ってはいたのだけれど、その当時の関心事はもっぱら都怒我阿羅斯等について。『日本書紀』によれば都怒我阿羅斯等は崇神、垂仁の2代の天皇に仕え、垂仁天皇3年に国に還ったとされている。その一方で福井県敦賀市にある角鹿神社の社伝では都怒我阿羅斯等は「氣比大神宮の司祭と当国の政治を任せられる」とされており、つまり敦賀はかつては「意富加羅國王の子」が治めていたということになる。その場合、後にその敦賀を含む越前国を治めていた男大迹王(ヲホドノオオキミ)なる不思議な名前(だよね。ハッキリ言って「ヲホド」なんて日本語の音韻ではない……)の大王が有力豪族に推戴されて「継体天皇」になったというほとんど伝奇小説マターと言ってもいいような奇怪(ビザール)な話と結びつけて考えたくもなるのだけれど……ただ、今、ここで注目したいのは、その都怒我阿羅斯等が「出雲國を経て」笥飯浦に至ったとされていること。これってちょっと変じゃない? だって、都怒我阿羅斯等は日本国に「聖皇」がいると聞いてわざわざ玄界灘を渡って会いに来たわけですよね。で、瀬戸内海へのルートがわからなかったのかどうかは知らないけれど、中国地方の日本海側を島伝いに航海したわけですよ。で、再度の上陸地として笥飯浦を選んだわけだけれど、なんで出雲を素通り? それはやっぱりこの当時の出雲が独立した王朝として屹立しており、日本国との誼を求めてやってきた人物としては上陸地としては避けなければならない土地だったからだろう。こうなると気になるのは伊都都比古だよね。この人物は自ら「是の國」(の「國」とは穴門? 日本国?)の王と名乗っているわけだけれど、その穴門と出雲は隣接しているわけで。である以上、伊都都比古が何らかのかたちで出雲とも関わりを持っていた可能性を排除しきれない、よね? で、実はここにかなり刺激的な学説が存在する。なんと伊都都比古は「下関を中心に北九州から出雲までを制圧していたと思われる」というのだ。提唱しているのは国際日本文化研究センター教授などを歴任した比較文化学者(ということは歴史の専門家ではないということ)の上垣外憲一氏で、1986年に上梓した『天孫降臨の道』(筑摩書房)でそういうことを書いている。ハッキリ言って、繰り出されるボールの中にはなかなかのクセ球もあるのだけれど、歴史の専門家が著した良くも悪くも予定調和に終始する著作からはついぞ得られない刺激が得られることは間違いない。
ということで、伊都都比古とは何者なのか? 上垣外氏によれば、そのヒントを与えてくれる記載が『日本書紀』の仲哀天皇紀にある。仲哀天皇8年の条として「筑紫行幸」について記しつつ――
又筑紫の伊覩縣主の祖五十迹手(いとて)、天皇の行(いで)ますと聞(うけたまは)りて、五百枝の賢木を拔取(こじと)りて、船の舳艫(ともへ)に立て、上枝には八尺瓊を掛け、中枝には白銅鏡を掛け、下枝には十握剱を掛けて、穴門の引島(ひけしま)に參迎(まうむか)へて獻る。因りて以て奏して言さく、臣(やっこ)敢て是の物を獻る所以は、天皇、八尺瓊の勾(まが)れるが如くに、曲妙(たへ)に御宇(みよしろしめ)せ。且(ま)た白銅鏡の如くに、分明(あきらか)に山川海原(やまかわうなはら)を看行(みそなは)せ。乃ち是の十握剱を提(とりひさ)げて天下を平(む)けたまへとまうす。天皇卽ち五十迹手を美(ほ)めたまひて、伊蘇志(いそし)と曰ふ。故れ時の人五十迹手が本土(もとつくに)を號けて伊蘇(いその)國と曰ふ。今伊覩と謂ふは訛れるなり。
仲哀天皇が穴門の引島(彦島)までやって来た時、筑紫の伊覩(伊都)の県主という五十迹手なるものが出迎えて「八尺瓊」「白銅鏡」「十握剱」の〝三種の神器〟を献上したというのだ。まるで南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇に三種の神器が引き渡された「譲国の儀」。いや、確かにこれは五十迹手から仲哀天皇に伊都の国の施政権が引き渡された「譲国の儀」なのだろう……。とまれ、ここでの注目はその五十迹手なる人物。で、実はですね、上垣外氏はここでいきなり魔球(?)を投げ込んでくるのだ。曰く「イツツヒコとイトテは音がよく通ずる」。え、そう? 「イツツヒコ」と「イトテ」ですよ。ワタシにはそれほど「音がよく通ずる」ようには思えないのだけれど……。ただ、上垣外氏によれば、イツツヒコの「ヒコ」は尊称で「ツ」は「の」に当るので煎じ詰めれば「イツ」と「イト(テ)」の比較対照ということになって、うん、それだったら確かに「音がよく通ずる」。しかし、そんなことをやりだしたら他にもいろんな人名と「音がよく通ずる」はずで、たとえば崇神天皇の和名(和風諡号)は御間城入彦五十瓊殖天皇(ミマキイリビコイニエノスメラミコト)。ならば「イニエとイトテは音がよく通ずる」と言ってもいいわけで。しかも「五十瓊殖」と「五十迹手」は字面までよく似ている……。しかし、とにもかくにも上垣外氏は「場所が同一であり、イツツヒコとイトテは音がよく通ずる。イトテはイツツヒコの子孫で、下関を中心に勢力を張り、この時、天皇家に降伏したのではないか」としている。いや、それどころか、「下関のイツツヒコの勢力が出雲を征服した、つまり、大和勢力の出雲征服として解されてきた大国主の国譲りの物語は、じつはその大部分がイツツヒコ一族の事業の伝承であったのではないか」とも書いており、これはなかなかにチャレンジング……。ただ、これ(イツツヒコとイトテは音がよく通ずる)だけならワタシも上垣外説に乗っかろうという気にはならなかっただろう。しかし上垣外憲一はこの神号(?)における音の近似というお題をめぐってもう1枚、強力なカードを切ってくるのだ。それは五十猛命との音の近似。そう、高瀬神社や高麗神社が祭神とする、あの五十猛命――。
「五十猛」は一般的には「イソタケル」と読むとされている。実際、ワタシがテキストとした『訓讀日本書紀』(岩波文庫)でも「五十猛神」として「いそたけるのかみ」とルビが振られている。しかし、五十猛命を主祭神とする和歌山県和歌山市にある伊太祁曽(いたきそ)神社では五十猛命の読みについて「当社では御祭神の五十猛命は「イタケルノミコト」とお呼びしています。書物によっては「イソタケルノミコト」と表記されているものがありますがこれは誤りです」。つまり「五十猛」は「イタケル」と読むのが正しいというわけだけれど、さらに上垣外憲一は「五十猛は、出雲では一時かなりの勢力を持っていたらしい」として『延喜式』神名帳から五十猛命を祀ったと思われる神社を列挙(全部で6社)。その神社の名前は全て「韓国伊太氐(からくにいたて)神社」というのだ(一応、ここは典拠という意味で『延喜式』の当該ページにリンクを張っておきます)。その上で「伊太氐(イタテ)と五十猛(イタケル)は同音異写と考えられる」。さあ、そうなると伊太氐/五十猛と五十迹手にも音の近似が認められるわけで、伊太氐/五十猛とは五十迹手が神格化したもの――という可能性が見えてくることになる。それを裏づけるデータもある。『筑前国風土記』逸文(『筑前国風土記』の原本は残っておらず、鎌倉時代末期に編まれた『日本書紀』の注釈書『釈日本紀』に一部が引用されているのみ。それが逸文として岩波版『日本古典文学大系 2 風土記』に収録されている)には五十迹手が彦島に仲哀天皇を迎えた時の様子が綴られており、内容は概ね『日本書紀』の記載に沿ったものではあるのだけれど、『日本書紀』には記されていない五十迹手の素性をめぐる質疑応答が含まれている。仲哀天皇が「誰か(阿誰人)」と問うたところ、五十迹手は――
高麗国の意呂山(おろやま)に、天より下り来し日桙(ひぼこ)の苗裔(すえ)、五十迹手是なり
多分、これは周知の事実だろうと思うのだけれど、五十猛は渡来神である。五十猛の来歴について『日本書紀』では「是の時に素戔鳴尊其の子五十猛神を師ひて、新羅國に降到りまして、曾尸茂梨の處に居します、乃ち興言して曰く、此の地は吾れ居らまくほりせじとのたまひて、遂に埴土を以て舟を作り、乘りて東に渡り、出雲國の簸の川上に在る鳥上の峯に到ります」。だからこそ五十猛は高麗神社の祭神とされているわけで、五十迹手がその五十猛と呼び名ばかりではなく来歴まで酷似している……となると、伊太氐/五十猛とは歴史的存在としての五十迹手が神格化したものである――という見立てはいよいよ有力になってくるのではないか? で、上垣外憲一は五十迹手は「下関を中心に北九州から出雲までを制圧していたと思われる」としているわけだけれど、ここで重要な事実を指摘しよう。そう、重要な事実。なんでこれほど重要な事実がやり過ごされているのか不思議なくらいに……。出雲大社の祭神である大国主命。その大国主命は『日本書紀』では素戔鳴尊の「六世の孫」とされている。曰く「是の後に稻田宮主簀狹之八箇耳が生める兒、眞髮觸奇稻田媛を以て、出雲國の簸の川上に遷し置ゑて長養す。然して後に素戔鳴尊妃としたまひて、生ませたまへる兒の六世の孫、是を大己貴命とまうす」。その素戔鳴尊は五十猛神とともに新羅国の「曽尸茂梨」から出雲国の「鳥上の峯」に到った渡来神なのだから、その「六世の孫」が築いた「出雲王朝」とは高麗系の王朝だったということになるわけで(!)、ここに五十迹手(あるいは上垣外憲一氏が記すところを正確に引くならば「イツツヒコ、イタケル、イタテ、イトテはもともと同音と考えられ、この名前(神か、あるいは王号か)によって代表される勢力」)が「下関を中心に北九州から出雲までを制圧していたと思われる」とする上垣外説が一定の説得力を持ち得る条件が整ったような? とはいえ、おいそれと受け入れられるものではないよね。まず「出雲王朝」とは高麗系の王朝だったというのが、もうね。さらに「下関のイツツヒコの勢力が出雲を征服した、つまり、大和勢力の出雲征服として解されてきた大国主の国譲りの物語は、じつはその大部分がイツツヒコ一族の事業の伝承であったのではないか」という主張に至っては、「何をか言わんや」の類い、かもね(ただし、ここはあえて上垣外説に乗っかった上でワタシなりの修正案を提示するならば、↑にも記したように彦島での五十迹手から仲哀天皇への〝三種の神器〟の献上は「譲国の儀」そのものなんだから、こちらを大国主命の「国譲り」神話の祖型と見ることもできるのでは? その場合、五十迹手=大国主命ということになるわけだけれど……)。しかし、「出雲王朝」は今やその実在は疑いのないものであるという前提で『日本書紀』を読み、その『日本書紀』が大国主命は素戔鳴尊の「六世の孫」と書いているとなれば「出雲王朝」とは高麗系の王朝だったというのはもう論理的な帰結ということになるわけで。「国譲り」神話の解釈はともかく、この点だけは何人も否定しようがないでしょう。実際、大国主命を祭神とする越中一宮高瀬神社のHPでは『越之下草』なる書(なんでも江戸時代中期の越中の篤農家・宮永正運が著した地誌とか)を引用するかたちで――「此御神は住昔高麗より御渡り、此地へ御着」云々。こうなると、当地に「高麗」の2文字を冠する神社があるのも至って当然ということにはなるのかな? しかも、その由緒は1年前にワタシが想定したよりもずっと古いのかも知れないなあ。だって「当地の産土神」だっていうんだから(『世界大百科事典』によれば「産土」とは「先祖伝来もしくは自分の生地を出自意識をもって表現する言葉」。よしんば創建が「元禄期以前」だとしても、かくなる神社が創建に至ったということは、その地には五十猛命が「土地の産土神」とされるくらいには十分に長い時間の堆積があるということ)。それは、当地が「大己貴命ノ作リ玉フ国」であることを伝える古社――と、一体いつ以来か思い出せないくらい久しぶりに針を落した『アリランの世界』に酔い痴れながら……。
追記 要するに、越の国は「出雲王朝」のテリトリーであり、その「出雲王朝」は高麗系の王朝だった、というのが本稿の主旨なんだけれど、どうやら越の国と「出雲王朝」にはその前史というか、逆に出雲が越の国のテリトリーだった時代があったようなんだ。そういう妄想がね、ここへきてムラムラと湧き上がってきて……富山県高岡市二上山の山中に「悪王子社」という小さな社がある。「悪王子」なる名を冠した神社については前にも書いたことがあって(こちらです)、その際はこちらの悪王子社についても一応は言及しております。ただ、当時はさほどこちらの悪王子社については重視しておらず、深堀りすることもなかった。ところが……。件の記事にも書いた通り、この悪王子社をめぐってはある伝説が伝えられている。そのあらましは射水神社HPの「射水神社の神々-摂末社-」で読むことができますが、読んでもらえばわかる通り、悪神を退治した人物が異なるだけで、スサノオによるヤマタノオロチ退治と同工異曲と言っていい内容。従って、この「悪王子伝説」なるものはスサノオによるヤマタノオロチ退治が越中を舞台にローカライズされたもの、と見ることもできる(で、当時の記事にもそう書いた)。もっとも、『古事記』ではそのヤマタノオロチについてどう記しているかというと、「是高志之八俣遠呂智。毎年來喫(是ニ高志ノ八俣遠呂智、年毎ニ來テ喫フナル)」。つまり、ヤマタノオロチは高志=越の国からやって来るとされているのだ。だったら、こっちが本家本元である可能性も? ということで、こっからはほとんど妄想の領域に入ることをお断りした上で……
ヤマタノオロチの正体を大和王朝に帰化しない製鉄集団の一族とする説がある。「魔物の正体は、二上山を七巻き半もする大蛇で、その傷口から吹きこぼれた血が草木を燃やして麓へと流れ落ち、現在の山道となりました」という「射水神社の神々-摂末社-」の記載は「たたら製鉄」で炉から流れ出した銑鉄を連想させる。二上山の近くを流れる小矢部川では砂鉄が採れることも知られており(ソースはこちらです。お書きになっているのはどなたか存じ上げませんが、立派な記事だと思います)、それを原料に二上山で「たたら製鉄」が行なわれていた可能性もなくはない。ということで、「高志之八俣遠呂智」の正体はもしかしたら……という妄想がまずは紡がれることになる。で、ここまで来たら、これをさらに深堀りしない手はないわけで……では、「高志之八俣遠呂智」の正体が二上山で「たたら製鉄」に当たっていた一族だとして(仮にこれを「二上族」と呼ぶことにしましょう。ふたがみぞく。ここはぜひ皆さんにもそう呼んでいただきたく……)、それはどのような一族だったのか? 遠く出雲まで出張って現地勢力(こちらは「出雲族」ですね)と合戦に及んだというその行動範囲の広さを考えるならば、陸の民というよりも海の民という印象で、つまりは海賊のような存在だったとも考えられる。これは『古事記』が「高志之八俣遠呂智」について記すに当たって「かれ避追(やらは)えて、出雲ノ国の肥ノ河上なる鳥髪の地に降りましき。この時(をり)しも、箸その河より流れ下りき。ここに須佐之男ノ命、その河上に人ありけりとおもほして」(岩波文庫版『古事記』より)と書き起こしていることとも整合性が取れる。彼らは自在に水路を移動して出雲の内陸部まで入り込んでいた……。いずれにしても彼らは海の民だった。で、そういう一族が古代の越中にいた可能性はあるのだ。それをうかがわせるのが1998年に発見された氷見の柳田布尾山古墳。発見された時は地元紙の一面トップを飾るほどの大ニュースでしたが、どうも最近は話を聞かないような……? ともあれ、この柳田布尾山古墳の被葬者について氷見市教育委員会『史跡柳田布尾山古墳整備事業報告書』ではどう書いているかというと――「古墳が築かれた場所は、真下に布勢水海の入り江があり、遠く富山湾を望む丘陵の上である。また、越中の広い範囲から見通すことのできる二上山丘陵を意識した立地でもある。その被葬者は、古墳時代前期前半に富山湾を中心とした海上交通を掌握した人物であったと考えられよう」。ここでわざわざ「越中の広い範囲から見通すことのできる二上山丘陵を意識した立地でもある」と書いているところがなんとも含蓄があるというか……。ともあれ、古代の越中にはこれほどの規模の古墳の被葬者となるような実力者がいたわけで、かつそれは海の民である、というのもほぼ確実で、それが二上山で「たたら製鉄」に当たりつつ、それによって作られた鉄器で武装した事実上の水軍として日本海沿岸の諸国を荒らし回っていた、という想定はあながち荒唐無稽とは言えないのでは? では、そんな二上族のそもそもの出自は? 彼らが海の民である以上、越中生え抜きである可能性は却って考えにくい。そうなると、大陸ないしは朝鮮半島から渡ってきた、ということも考えられる。当時、朝鮮半島には新羅という国があったし、伽耶という国もあった。で、これらの国があった地域からは日本産のヒスイ製勾玉が大量に出土しているという事実がある(ウィキペディア情報)。朝鮮半島にはヒスイの原産地がなく、東アジア地域においても日本とミャンマーに限られるという。しかも、日本のどこかというと、それは新潟県糸魚川市の姫川流域なのだ。これまたウィキペディア情報ながら、朝鮮半島で発見されているヒスイ製勾玉は化学組成により糸魚川周辺遺跡のものと同じであることが判明している。このことは、当時、越の国と朝鮮半島を行き来する民がいたことを端的に証明していると言っていい。やはり二上族は朝鮮半島からやって来た民と考えるのが適当なようだ。それを退治したのが出雲族であり、以来、越の国は出雲の勢力下に入った。そして、出雲神話には「高志之八俣遠呂智」の挿話が残された……。注記:本稿の執筆に当たっては梅原猛著『葬られた王朝:古代出雲の謎を解く』(新潮文庫)より多大なインスピレーションを頂戴しました。同書では越の国がヒスイの産地を抱えていることに着目した上で「日本海に臨む当時の国々の中で、ヒスイを生産した越の国が最も豊かで強い国であったに違いない。そしてこの越の国からやって来た豪族が出雲の山々を支配し、海や川を支配し、そこに住む人々を苦しめていたのではなかろうか」(56p)として、越の国からやって来た侵略者こそ「高志ノ八俣遠呂智」の正体ではないかとしています。ただし、同書では「高志ノ八俣遠呂智」と悪王子社との関係には触れられておらず、「高志ノ八俣遠呂智」が二上山で「たたら製鉄」に当たりつつ、それによって作られた鉄器で武装した事実上の水軍だったという見立ても示されていません。こうした点や朝鮮半島との関わりについては筆者の独創に基づくものであることを明記しておきます。