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鎌倉殿ノート④
〜一味神水と三谷幸喜的「鎌倉」について〜

 いやー、まさか神水を吐き出すとはなあ……。いや、ね、山本耕史は10月23日付けで公開された「かまコメ」で「こんな時代だからなってしまった時の土壇場の覚悟は絶対に持っている」「ピンチになったとしても道筋をどんな手を使っても探し出す、そういう生きる力を持っている気がしますね」――と語っていたので、なにか相当なことをやってくるんだろうとは思っていたんだけれど、なるほど、「どんな手を使っても」か。以後、番組関連で発信される情報やコメントはこれまで以上に慎重に吟味する必要がある……。

 しかし、なかなか三浦義村はイアーゴーにならないな。ま、史実の縛りもあるので、三谷幸喜としても難しいところではあるんだろうけど、そろそろねえ……。実は、ワタシとしましては「三浦義村は『オセロー』に出てくるイアーゴー」との発言には相当触発されるものがありまして、まずは「鎌倉殿ノート①〜三谷幸喜が三浦義村に割り振った「役割」について〜」という記事を書き、さらには追記としてこんなことを書いたりしていたのけれど――「和田義盛の乱における義村の行動について再検討。もしかしたら義村は和田義盛を裏切ってはいなかったのでは? 第40話の予告を見る限り、とてもそんな展開になるとは思えない。第39話の時点で、義村はもう義時への敵愾心を隠さなくなっている。だから、あの「北条を倒そうぞ!」という檄もガチだろう。では、一体どんな展開がありうるのか? ここはね、第40話のタイトルが「罠と罠」であることに注目。これはね、意味深ですよ。義時側の「罠」というのは、まあ、わかる。多分、「泉親衡の乱」でしょう。間違いなく、これは北条義時が仕掛けた。それに対し、逆に「罠」を仕掛けたものがいる、というのが三谷の繰り出してきたテ……ということで、当日、義村は、義盛挙兵を義時に通報した上で御所の警固を買って出る。これが義村お得意の裏切りとされているわけだけれど、実はこれがポーズで、彼の本当の狙いは将軍実朝に近づくことだった……。史実では、乱の帰趨を決したのは実朝の御教書だったとされている。大江広元が実朝名義の御教書を書いて御家人たちに示し、これによって様子見を決め込んでいた御家人たちが雪崩を打って義時側に付いたとされている。義村は、事を制するのは武力ではなく、どっちに正統性があるかである、との見通しの下、いわばダブルスパイとなって実朝への接近を図った。そして、実朝と義盛のそれまでの関係から見ても、実朝が義盛の行動にお墨付きを与えるような御教書を書く可能性はあった。しかし、その危険を察知した広元が自らの手で御教書を偽造して御家人たちに示すことで、辛うじて義村の機先を制することに成功した……。これならば、「罠と罠」というタイトルにも適うし、希望から言っても、こんなスパイ小説もどきの回を見てみたい……」。ま、こっからわかるのは、ワタシがどんな本を読んで今日に至っているか、ということですかね(苦笑)。なお、この追記は既に削除済みです。こうまで見事に外れるとね。それに、このストーリーだと、行く行く物語が立ち往生することになりかねない――ということに気がついたんだよね。で、気がついてみると、なんでこんなことに気がつかなかったのかと。浅いよなあ。それに引き換え、三谷脚本のなんと見事なこと……。

 ということで、まずは恥を忍んでわが愚案を晒した上で、10月30日放送の第41話「義盛、お前に罪はない」を見終わったこの時点で断言できる三谷脚本の見事さについて語ろう。実に実に『鎌倉殿の13人』というドラマはある1つの明確な世界観によって貫かれている。それは見事と言うしかなく、プロの研究者たちも参考にすべきでは? とね。いや、ホント(これに関しては自信がある)。で、まずはなぜわが愚案だと行く行く物語が立ち往生することになりかねないのか? それはだね、わが愚案に描かれたように三浦義村が「事を制するのは武力ではなく、どっちに正統性があるかである、との見通し」を持っていたとしたら、彼が承久3年5月19日、『吾妻鏡』に描かれたような行動を取るはずがないので。『吾妻鏡』にはどう描かれているか? ここは五味文彦・本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡』(吉川弘文館)より引こう――

また同じ時に廷尉(三浦)胤義(義村の弟)の私的な書状が駿河前司義村のもとに到着した。これには「『勅命に応じて右京兆(義時)を誅殺せよ。勲功の恩賞は申請通りにする。』と命じられました。」と記されていた。義村は返事をせずにその使者を追い返すと、その書状を持って義時のもとに赴いて言った。「義村は弟の叛逆には同心せず、(義時の)味方として並びない忠節を尽くします」。

 また『承久記』慈光寺本によれば、三浦義村には後鳥羽上皇からの院宣も下されていたという――

平判官モ宿所ニ歸リ、以前ノ詞少モ違ハズ文委ク書テ、同戌刻兄ノ駿河守ノ許ヘゾ下シケル。又十善ノ君ノ宣旨ノ成樣ハ、秀康是ヲ承レ、武田・小笠原・小山左衞門・宇都宮入道・中閒五郞・武藏前司義氏・相模守時房・駿河守義村、此等兩三人ガ許ヘハ賺遣ベシトゾ仰下サル。

 もっとも、この院宣を託された使者(『承久記』には「院御下部押松」と記されているものの、どのような素性の人物かは不明。そもそも、読みは? おしまつ? 『おそ松くん』じゃあるまいし……)は既に伊賀光季(のえの兄。「悪妻」の兄でありながら、意外にも北条氏への忠節を貫き通した。お家の大事にさっさと実家に帰った妹とは大違い……)の密告によって京方の動きを察知していた鎌倉方の網にかかり、義村ら御家人たちに届けられることはなかったとされる。でも、弟の胤義が遣わした使者(こちらは「下人」とだけ記されている)は『吾妻鏡』に記されたように、無事、義村のもとに到着。義村に対して「院ノ御下部押松、権大夫殿打ンズル宣旨持テ下リ候ツルガ鎌倉ヘ入候トテ放チ候トゾ申ケル」。だから、義村は自身に宛てて院宣が発せられていたことは承知していたことになる。ところが、『吾妻鏡』に曰く――「義村不同心弟之叛逆。於御方。可無二之由云々」。これがねえ、『鎌倉殿の13人』というドラマの最大のドラマツルギー的急所(そうした行動に至る心理を視聴者が十全に汲み取れるかどうかを問われる山場)ではないかとワタシは思っているんだけど――ともあれ、三浦義村は後鳥羽上皇から下された院宣を蹴ったわけですよ。そして、北条義時に「並びない忠節」を誓った――。この動かしようもない史実がある以上、三浦義村という人物のキャラクターデザインには自ずと縛りがかかるわけで、わが愚案に描かれたような「事を制するのは武力ではなく、どっちに正統性があるかである、との見通し」を持つような人物ではいけないわけですよ。もしそういう見通しを持つような人物だったら、院宣を蹴とばす、などということは、選択肢としてもない、ということにはなるだろうから。そこんところに、なぜ気がつかなかったんだろうなあ、オレ……。

 でね、こんなことも踏まえながら、今回、描かれた「セルフ嘔吐」(とネット記事では書かれていた)について考えていたら、ハタと気がついたんだ。思えば第38話「時を継ぐ者」では時政から出家して平賀朝雅に鎌倉殿の座を譲る旨の起請文を書くよう迫られて対応に窮していた実朝に三谷言うところのフォルスタッフである義盛は「書いちゃいなさい。起請文なんて、あとで破いちまえばいいんですから」。それに対しハル王子であるところの実朝は「起請文を破いたら体中から血を流して死んでしまう」といかにも清和源氏の嫡流らしい神話的な教訓で応ずるのだけれど、それに対しても義盛は「そんな死に方をした奴、聞いたことない」。

 起請文は「破けばいい」。
 神水は「吐き出せばいい」。
 院宣は「蹴とばせばいい」。

 それは、見事に一貫した1つの世界観であり、これこそが『鎌倉殿の13人』の世界――いや、「鎌倉」という世界なんだ――と、そう三谷幸喜に教えられた……。



 第41話「義盛、お前に罪はない」を見た感想ということで、もう1コ。今度は巴御前の「男運」についてね。ま、これについては演者である秋元才加が「二人の男性を愛した巴ですけど、すごく見る目があったんじゃないかなって。二人ともすごくまっすぐに自分の中のプライドなど、そういうものをなるべく曲げずに素直に正直に生きてきたかっこいい男性二人だったと思うし」と語っているので(ソース)、傍がそれにどうこう言う筋合いのものでもないんだけれど……でも、なんかムリしてるようで。まあ、あれですよ、中島みゆきの「涙」。「男運は 悪くなかった/あんないい人 いやしないもの」てやつね。ほとんどこの歌の世界という気がしてねえ……。

 で、願わくば、巴には3人目の男がいて、その男の元で幸せな余生を過ごした――そんなストーリーはありえないものか? と。この3人目については、庇護者というのでもいいんだ。巴の境遇を知った上で、安寧な生活を送れるよう庇護してくれる存在……、人生の最後にそんな存在に恵まれたって罰は当たらんでしょう。実は、これは前々から考えていたことで、去年書いた「去る剛の者なれば〜元祖「霊長類最強女子」秘伝〜」では神奈川県横須賀市には巴御前の墓と伝わる五輪塔(同市岩戸)と塚(同市森崎)があるという事実――つーか、ただの「口碑」なんだけどね――を紹介した上で、巴御前は晩年を三浦義村の庇護の下、大矢部で暮していた、的なことを書いたりしていたわけだけれど、巴があんなヒレツな男の庇護を受けるわけがない! と、第41話「義盛、お前に罪はない」を見た今となってはね(ちなみに、公式サイトで10月30日付けで公開された秋元才加のインタビューによれば、巴は最初に信濃で義時と義村に会った時から「コイツら怪しい」と思っていたそうです)。だから、この案は撤回。それよりも、石黒氏はどうよ? と。石黒氏というのは『源平盛衰記』に出てくる名前で――「和田合戰の時朝比奈討たれて後、巴は泣く泣く越中に越え、石黑は親しかりければ、此にて出家して巴尼とて、佛に花香を奉り、主親朝比奈が後生弔ひけるが、九十一まで持(たも)ちて臨終目出たくして終りにけるとぞ」。この石黒氏、越中の砺波地方で勢力を誇った氏族で、後醍醐天皇の第4皇子(あるいは第8皇子。当地では「後醍醐天皇八ノ宮宗良親王」として知られる)である宗良親王が興国3年(1342年)から2年ばかり当地に滞在した際、手厚く庇護をした木船城主の石黒重之などが代表格。また、かの加賀一向一揆の引き金となった「田屋川原の戦い」において一揆軍に大敗を喫した福光城主・石黒光義もよく知られている(「田屋川原の戦い」ならびに石黒氏については「越中真宗史異聞②〜文明13年砺波郡一揆をめぐるネトウヨ的思考法による考察〜」というケッタイなタイトルの記事で少しばかり踏み込んで書いておりますので興味のある方はご一読を)。要するに石黒氏というのはそんななかなかの氏族なんですよ、越中の歴史においてはね。で、『源平盛衰記』では、巴は、その石黒氏(の誰か。地元では石黒光弘とされているようですが、さて……)と「親しかりければ」というんだから、やはりそういう関係にあったんですよ。「そういう関係」――とは、巴の境遇を知った上で、安寧な生活を送れるよう庇護し、巴の方も安心してその庇護を受け入れる関係――。それは男女の関係ではなかったかもしれない。しかし、心で結ばれた関係ではあっただろう。そして、巴はそんな「第三の男」の元で安寧な日々を送り、91歳で大往生を遂げた……と、そんなストーリーなんだけれど、どんなもんでしょう? なお、このストーリーをサポートする事実ということで紹介するならば、かつて石黒氏が治めた南砺市福光には、今、「巴塚公園」と名付けられた小さな公園がある。巴の墓と伝わる塚があることからこう呼ばれているわけだけれど、実際、この公園では毎年10月22日には「巴忌」なるものが営まれており、今年も県内外から50人ばかりの参列者を集めてしめやかに営まれたことが北日本新聞10月23日付け16面(地域ニュース)で報じられている。巴の墓とされるものは各地にあるのだけれど、多分、こんなことをやっているのは福光だけじゃないかなあ。それはかつてこの地を治めた男の「思い」であり、この地に受け継がれた「生きた伝承」――。だからさ、巴には「第三の男」がいたんですよ、この越中にね。巴の境遇を知った上で、全てを受け入れ、ただ彼女が安寧な生活を送れるよう庇護してくれる、そんな男が――。そうとでも思わないことには、今後、巴御前のことを思うたびにあの中島みゆきのデモーニッシュな歌声が聞えてきそうで、コワイ……。



 しかし、書きたいことが次々と湧いてくるなあ。それだけ『鎌倉殿の13人』が見るものの知的昂奮をかき立てる良質なコンテンツであるということ……。ということで、もう1コだけ。今度は和田義盛と西郷隆盛の非類似点について(え?)。多分、お読みになっている人もいるだろうと思うのだけれど、ネット上には和田義盛と西郷隆盛の類似性を指摘する記事がチラホラ。そういう記事が書かれるのは当然で、確かにこの2人はよく似ている。まず、名前が似ている。義盛と隆盛。また、和田義盛が侍所別当なら西郷隆盛は陸軍大将。どちらも時の政権の軍事部門のトップということになる。さらに、そのいかにも豪傑然とした風貌ね。ま、これについてはワレワレは残された絵によって判断するしかないわけだけれど、和田義盛がこちら、西郷隆盛がこちら。うーん、よく似ている……。で、おそらくはこういったことを踏まえてだろう、今年、ワレワレが日曜夜8時に相見えてきた和田義盛の造物主(?)である三谷幸喜は和田義盛という人物像について――「気は優しくて力持ち、みんなから愛される西郷隆盛さんみたいな真っすぐな男。でも抜けているところがあるイジられキャラ」(ソース)。ま、後半部分は三谷幸喜オリジナル、ということにはなるのかな? しかし、前半部分は、ほぼほぼ和田義盛という人物に対する世間の最大公約数的イメージと言っていいでしょう。だから、そんな和田義盛が政権に反旗を翻した和田合戦は西南戦争、ということになる。また、第40話「罠と罠」で義時が言った「(本人に謀叛の意志はなくとも)まわりが担ぎ上げる」という一言は西南戦争勃発に至った経緯にもそっくりそのまま当てはまるわけで、この辺り、和田義盛≒西郷隆盛という人物比定が和田合戦の解釈にまで影響を及ぼしている、と言っていいかもしれないなあ。

 で、こうしたあれやこれやのことどもについてはワタシも賛意を示した上で――ただ、ワタシが見るところでは、和田義盛と西郷隆盛にはある決定的な非類似点があるんですよ。それはね、和田合戦と西南戦争、この2つの大きな内戦を経て、それぞれが仕えた主人――和田義盛の場合は源実朝、西郷隆盛の場合は明治天皇――の権威は強まったか弱まったか? 明治天皇の場合は、強まった。これについては、この後、説明します。一方、源実朝の場合は? これはねえ、なかなか微妙なところではあるんだけれど……。そもそも源実朝といえば、北条氏によって将軍としての実権を掣肘され、和歌だとか、10月12日放送の『歴史探偵』でも紹介された「幻の巨大船建造プロジェクト」(どうやら次回「夢のゆくえ」で描かれることになるらしい)だとかに現実をうっちゃって、言うならば夢の世界に逃避していた――というのが一般的なイメージ。その一方で、実朝暗殺事件の絵解きの一環として、実朝は決して北条氏の傀儡などではなく、むしろ将軍親裁を進めつつあった、という見立てなどもあって(五味文彦説)、実朝像というのは揺れていると言っていい。ただ、和田合戦を経て実朝の権威が強まった、ということを示唆する事実があるかとなると、そういうものはないんですよ。だから、そもそもの実朝像のゆらぎとは別に、和田合戦を経ての実朝の権威の有り様――ということで言えば、それが強まることはなかった、ということは言えると思うんだ。で、これが多くの点で類似性が認められる和田義盛と西郷隆盛という2人の豪傑の決定的な違いであると。そして、それは、和田義盛と西郷隆盛という2人の豪傑のもう1つの決定的な違いをも指し示すものである――とね。

 ということで、ここからは、西南戦争を経て明治天皇の権威が大きく強化されることになったことを具体的に示そう。そもそも明治政府というのは天皇の権威を最大限利用することによって誕生した政府。戊辰戦争では天皇の義理の叔父に当たる(熾仁親王は明治天皇の祖父である仁孝天皇の猶子なので、明治天皇からすれば義理の叔父となる)有栖川宮熾仁親王を東征大総督に立て、征討軍が官軍――天皇の軍隊であることを強調してみせた。そんな天皇の軍隊が「賊軍」と戦って、勝って誕生したのが明治政府なのだから、その政権は「天皇の政権」であると言ってもいい。で、そんな「天皇の政権」であるところの明治政府は西南戦争でも有栖川宮熾仁親王を鹿児島県逆徒征討総督として立てた。今度もまた戊辰戦争で立証済みの〝必勝パターン〟で行こう、ということだったんでしょう。ただ、相手は西郷である、ということなのか、明治政府はより踏み込んだ手を打ってきた。というのも、天皇は戦争中、京都に赴き戦況の報告を受けているのだ。これは、事実上、天皇が前線視察に赴いたに等しい。こんなことは、戊辰戦争ではなかった。明治政府が、より直接的なかたちで天皇の権威を利用した、ということになるかもしれない。だから、もし西郷軍の抵抗が激しく、政府軍が押される状況にでもなっていたら、ことによると天皇が九州にまでお出ましになる、ということだってあったかもしれない。ちょうど、第41話「義盛、お前に罪はない」で実朝が合戦の最前線に自ら甲冑をまとって赴いたように……。しかし、幸か不幸か、戦況はそのような方向には傾かず、天皇は政府軍の勝利が確実となった7月末には神戸から三菱の社船・広島丸に乗って東京にお戻りになる。この際、天皇が船上で詠まれた御製がある。それは、このようなものだった――

あづまにといそぐ船路の波の上にうれしく見ゆるふじの芝山

 さながら「凱旋将軍」といったところですが――ただ、まだこの時点で西郷は死んでいない。死んでいたら、とてもこんな歌はお詠みにならなかっただろう……。

 ともあれ、西南戦争中、明治政府は可能な限り天皇の権威を利用した。多分、その度合いは戊辰戦争以上だったと言っていいでしょう。これは、要するに、維新の立役者の中にあっても陸軍元帥として格別な重きをなす西郷隆盛と戦うことになった明治政府が自らの正統性の担保として死活的に天皇の後ろ盾を必要としたということ。で、ここに1つ非常に興味深い事実があるのだけれど、実は閣議書に裁可印を捺すなどの天皇の政治への直接関与――いわゆる「親政」――が始まったのがこの西南戦争中のことなんですよ。王政復古によって発足した明治新政府は当初から「天皇親政」を標榜しており、あたかも新政府発足と同時にその目標が達成されたように思い込まれている方も多いのではないかと思うのだけれど、実はその標榜するところの「天皇親政」は当初は有名無実と言ってよかった。実際、政府の決定を伝える太政官正院の決裁書類に天皇の裁可印が捺されたものは、政権発足から約10年間はほとんど確認できないという。それが確認できるようになるのはようやく1877年になってからで、その最初の例は1877年5月22日付七等判事古荘嘉門に九州出張を命じる決定だそうだ(永井和「万機親裁体制の成立―明治天皇はいつから近代の天皇となったのか―」参照)。だから、「天皇親政」ないしは永井教授の言う「万機親裁体制」なるものが確立するのは、西南戦争が起きた1877年(明治10年)になってから、というのが正確な事実。その理由についてはよくよく検討してみる必要がありそうだけれど、世に言う「大西郷」と戦うことになった明治政府が死活的に天皇の後ろ盾を必要とし、その結果としてようやく政権発足以来の金看板だった「万機親裁体制」(これを永井教授は「国政上の重要事項すべてについて天皇が最終的決定権をもち、天皇の決裁によってはじめて国家意思が最終的に確定される、国家意思決定システム」と定義しておられます)が確立した――というのが、まずまず順当な見方ではないでしょうか。もしかしたら、これが、西南戦争なるものの隠れた功(罪)、かもね。そして、これは、和田合戦との大きな違い、でもあると。有り体に言うならば、和田合戦がもたらした政治的風景は全く逆のものだった――。

 和田合戦では、志気で上回る反乱軍が一時は幕府軍を圧倒する勢いを見せるものの、和田勢追討を命ずる御教書(『吾妻鏡』には「相州。大官連署之上。所御判也」とあって何か含みのある書き方のような。ことによると相州(北条義時)と大官(大江広元)が偽造したもの……?)が発せられたことでそれまで様子見を決め込んでいた中間派が雪崩を打って幕府側に靡き、これが勝敗の帰趨を決する決め手となった――というふうにドラマでも描かれるんだろうと思っていたら、なんかあっさりしていたよねえ、この御教書に関る下り。でも、それは、『鎌倉殿の13人』というドラマを貫く一貫した世界観のなせる業――というようなことは、↑にも記したとおり。ともあれ、三谷脚本は三谷脚本として、史実として見るならば、和田勢追討を命ずる実朝御判の御教書が発せられたことが戦況に決定的な影響をもたらしたのは間違いないでしょう。それは、要するに、幕府側が鎌倉殿の権威に縋ることで辛うじて危地を脱したということであり、そこから結果するものは、本来ならば、西南戦争後の政治風景に近いものであるはずだった。つまり、将軍実朝による「万機親裁体制」とも言うべき政治体制――。しかし、和田合戦後に現出したのはそのような世界だったとは言い難い。あるいは、もしかしたら実朝はそのような方向に大きく舵を切ろうとしたのかも知れないけれど、そのことがアダとなって(五味説に従うならば)、和田合戦から6年後の建保7年1月27日、非業の死を遂げることになる。その死の背後に「黒幕」が控えていたのかどうかに関わりなく、これは西南戦争後の政治風景とはあまりにも違いすぎると言わざるを得ないでしょう。そして、なぜこんな違いが生じたかと言えば、それは和田義盛と西郷隆盛という2人の豪傑の「大きさ」の違いに起因する、と言うしかないのでは? 明治政府は、西郷のあまりの「大きさ」に、それに見合うものとしての明治天皇の権威にそれだけ大きく依存した――依存せざるをえなかった。しかし、和田義盛の「大きさ」は、それほどでもなかったのだ。だから、将軍実朝への依存度もそれほどではなかった。そして、和田合戦後も引き続き実権を握り続けようとする北条義時との間で奏でられる不協和音は途切れることなく、遂に建保7年1月27日、悲劇的終章を迎えた――と、第41話「義盛、お前に罪はない」を見た感想としては、こんなこともね……。



 えーと、最後にオチを付けるようなかたちにはなるんだけれど……。『承久記』古活字本にこんなことが書かれている――「越中ト加賀ノ堺ニ砥並山云所有。黑坂・志保トテ二ノ道アリ。砥並山ヘハ仁科次郞・宮崎左衞門(尉)向ケリ、志保ヘハ糟屋有名左衞門・伊王左衞門向ケリ、加賀國ノ住人、林・富樫・井上・津旗、越中國住人野尻・河上・石黑ノ者共、少々都ノ御方人申テ防戰フ、志保ノ軍破ケレバ、京方皆落行ケリ」。なんと、石黒氏は承久の乱の北陸道における合戦である「礪波山の戦い」に京方で参戦しているのだ。そして、「京方皆落行ケリ」。もし本当に巴御前が石黒氏の元に身を寄せていたとしたら、巴御前はまたしても「負け組」に付いたことになる。木曾義仲、和田義盛、石黒光弘(?)、皆巴御前を囲ったばかりに……。えーと、こういうのを指すスラングがあったよな。確か、さ・げ・ま・ん……?