われながら、ここまで『天保水滸伝』にかかずらわることになろうとは。いささか不思議を通り越している。しかも、どうやらその端緒は山上伊太郎の「遊民街の記録――対立する陣営と戦う勢力」ではなかったらしい。自分ではそう思い込んでいたんだけれど、最近の記事を読み返していたところ、「市川雷蔵と回転式拳銃と〜1965年製作の「スキヤキ・ウェスタン」を見て悩んだ件〜」の最後で黒澤明監督の『用心棒』で仲代達矢演じる「新田の卯之助」が持っている回転式拳銃(映画の中では明示されていないものの、スミス&ウェッソンのモデル2であるとされている)をめぐって――「もし『用心棒』が慶応年間の物語ならギリギリでアリということになるんだけれど(よく知られているように、あの坂本龍馬もスミス&ウェッソンのモデル2を所持していた。高杉晋作が上海で入手したものを譲り受けた、という説があるようですが、さて……)、映画を見る限りはそういう雰囲気は感じないんだよなあ。むしろ、天保年間。あの飯岡助五郎と笹川繁蔵が争った『天保水滸伝』の時代」。ここで『天保水滸伝』が出てきている。上州と下総で場所も違うし、なんでここで『天保水滸伝』なんて持ち出したんだろう? と考えていたら……ああ、と。実はBSでやっている『御家人斬九郎』の再放送で近藤正臣が平手造酒を演じた「大利根の月」を見たのがちょうどその頃なんだよね(BSフジの公式サイトで確認したところ、オンエアは3月1日だったそうです)。おそらくはあれがアタマにあったんだろうと思うんだけれど……いやー、サブリミナル効果(違う)ってオソロシイもんだねえ……?
さて、本題。正岡容といえばワタシ的には劇作家志望だった都筑道夫に小説家の道を進ませた人という認識で――「なにかのつごうで、戯曲を書かないで小説書いちゃったんですよ。それを正岡さんに読んでもらったら、お前は戯曲より小説に向いているようだから、なるんなら小説家になれ」(『生島治郎の誘導訊問:眠れる意識を狙撃せよ』所収「失踪⁉ 〝名探偵〟を探索せよ」より)。で、有り体に言うならば、それ以上でもそれ以下でもなかった。早い話が、全然、関心なんてなかったんですよ。当然、作品を読んだということもなく、そもそもどんな作品があるのかも知らない。それほど縁遠い存在だったわけだけれど……なんとなんと、そんなワタシがウィキペディアの「正岡容」の記事に手を入れることに。いいんだろうか、ワタシなんかがこんなことをしても……。ただ、『天保水滸伝』にかかずらわるようになるや、随所でこの人の名前に遭遇することになって。例えば『日本大百科事典』では「天保水滸伝」について「講談。宝井琴凌、五代伊東陵潮作」としつつ「近年では講談よりも、正岡容脚色の浪花節が二代玉川勝太郎の名調子によって著名である」。また「天保15年のコンチネンタル・オプ〜桑山圭助と「大利根河原の決闘」をめぐる謎〜」でテキストとした『歴史への招待⑮』では「やがて昭和の初め劇作家の正岡容が書き、二代目玉川勝太郎の名調子によって浪曲「天保水滸伝」として人口に膾炙することになる」。そう、正岡容はあの「〽利根の川風袂に入れて 月に棹さす高瀬舟」で始まる名文句(外題付け)の生みの親なんだよね。これはねえ、なかなかですよ。なかなかの「へえ」案件。多分、ワタシの世代くらいまでは、浪曲としては聞いたことはなくても、この文句は知っている――、そんな感じだと思う。かつての浪曲の影響力というのはそれほどのもので、他にも「〽旅行けば 駿河の道に茶の香り」(『清水次郎長伝』)とか「〽妻は夫をいたわりつ 夫は妻に慕いつつ」(『壺坂霊験記』)とか。大袈裟でも何でもなく、日本人なら誰もが知っていた。そんな名文句の1つとして『天保水滸伝』のあの外題付けもわが日の本の文化史にシッカリと刻み込まれていると言っていいでしょう。で、その生みの親としてワタシの「正岡容」に対する認識も大幅にアップデートされることになったわけだけれど……そんなワタシからしたらウィキ先生の講義内容はいかにももの足りない。だって、従来、『天保水滸伝』に関連して書かれていたのは「浪曲でも二代目玉川勝太郎に『天保水滸伝』、初代相模太郎に『灰神楽三太郎』の台本を提供したのをはじめ、複数の台本を提供している」という、これだけなんだから(こちらがワタシが手を加える前の版です)。たったこれだけで正岡容と『天保水滸伝』との関わりが片づけられている……。これはねえ、正岡容という人が「関東浪曲の甘美な感傷」を「溺愛」(「続わが寄席青春録」の中の言葉。正岡容は同じような言い回しを他でもしており、『雲右衛門以後』のあとがきでは「所詮は関東節溺愛者の渾身の情熱もて創り上げた年代史」云々。キーワードは「溺愛」)していたことを考えてもおよそ当を失していると言わざるをえない。で、ろくろく読んだこともないワタシではあるけれど、正岡容と『天保水滸伝』との関わりに絞って――ということで手を加えることにしたわけだけれど……
これが、苦労しましてねえ。こんなに苦労するはずじゃなかったんだけれど……。一体、何にそんなに苦労したのか? ズバリ、正岡容が二代目玉川勝太郎に『天保水滸伝』の台本を提供したのはいつなのか――、これです。記事が年譜形式になっている以上、これはどうしても欠かせないのだけれど(ちなみに、ウィキペディアでは人物伝を年譜形式にすることは推奨していない。曰く「人物の伝記は流れのあるまとまった文章で執筆してください。年譜形式は(箇条書きの書式を取っているか否かに関わらず)推奨されません」。しかし、多いよ、年譜形式を取っている人物伝。読む立場からしても、年譜形式はウエルカムじゃないのかなあ。手っ取り早いという意味で、今のコスパ偏重主義にも見合った形式という気がするんだけれど……?)、これがねえ、わからんのですよ。上述の『歴史への招待⑮』では「やがて昭和の初め劇作家の正岡容が書き」としておりますが、そんなアイマイなんじゃなくって、ハッキリと昭和何年と書いてくれている文献はないの? しかし、ないんだ。いろいろ当たったんだけれど、ない(断言)。最初に当たったのは、当の正岡が書いた『日本浪曲史』(南北社)。当人が書いているんだから、これに当たれば一発だろうと思ったんだけれど……。ここは第8章「昭和編」で演者である二代目玉川勝太郎について論じた一節を紹介するならば――
初代勝太郎門下の次郎から、二代目を襲名するに及んで、めきめきと演技に濡れを見せてきた。五月の大利根を見るような洋々たる節調である。かつてこの人はスケールは大きかったけれど、詩がなかった、夢がなかった。大正末年の関東節不流行の結果、合の子節に転向していた時代など、ことにその感が深かった。近年再び関東節に復するにいたって、豪放な中に一抹のセンチメンタリズムが加味されるにいたった。そのとき筆者はこう呟いた。ああ、大利根にもひと雨、来た、と。
「天保水滸傳」を十八番とし、中でも平手造酒の駆付は、今日のところ、この人のほかにはない。
〽江戸は神田於玉が池、千葉の道場で見る月も、今またここで見る月も、月に変りはないけれど、変わり果てたる我が姿、世が世であらば水戸屋敷、殿が月見の宴とやら、心柄とは言いながら、今じゃやくざの群に入り、用心棒とは何ごとぞ……切々と月に哭く造酒が、やがて笹川村の喊声を聴き、すがりつく尼妙齋を突き放して表へ駈け出す。あの一瞬の凄壮感は、なかなかいい。
一心亭辰雄を私淑しているこの人は、辰雄の殺陣の気迫をまたよく摑んだ。外的でなしに、内的に摑んで、自家薬籠のものとしている。辰雄の殺陣は、この人の上に跡を垂れていると言ってよかろう。
ああ、大利根にもひと雨、来た――とは、なんて洒脱な。これぞ、江戸の粋……というようなことはここでは措いといて――二代目玉川勝太郎が十八番とした『天保水滸伝』について取り上げつつ、紹介しているのは外題付けではなく、シリーズ中の一席である「平手の駆け付け」の中のフシ(浪曲では歌う部分を「節」、語る部分を「啖呵」と呼び、これに「声」を加えた3要素を「一声、二節、三啖呵」の順で重要視している)。で、このフシ自体、人口に膾炙したものなので、これを取り上げること自体は不思議ではない。ただ、最も知られた外題付けはスルーという……。もちろんね、その外題付けは自分で書いたものなのだから、それを自著で批評の俎上に乗せるというのはなかなかやりにくいことではあるだろう(ちなみに「平手の駆け付け」は正岡容の作ではなく、畑喜代司という浪曲作家の作とされる。ソースは芦川淳平著『浪曲の神髄:日本人の魂の叫びが聞こえる』)。ただね、これは『日本浪曲史』という本なんですよ(ただし、このタイトルは本人が付けたものではない。『日本浪曲史』は「雲右衛門前後(わが浪曲史)」として未刊のまま遺されていた原稿を正岡の没後10年となる1968年にようやく刊行にこぎ着けたという曰く付きの1冊で、刊行に当り『日本浪曲史』と改題された)。ならば、大袈裟でも何でもなく、日本人なら誰もが知っている外題付けについても一言あって然るべきで……。しかもだ、これが元々は「わが浪曲史」と名付けられていたことを考えるならば、この演目と自身との関わりについても、当然、一言あって然るべきだと思うんだけれど……これが、ないんだよ。一切ない。例えば↑に引いた二代目玉川勝太郎についての下りでは引き続いて『清水次郎長伝』について記した上で――「他に、「國定忠治」山形屋がある。「水滸傳」では曽根村斬込み〔ママ〕と花会がある。「黄門記」の孝子幸助がある」。この内の「蛇園村斬込み」と「笹川の花会」は正岡容の作なんだよ(ソースはやはり『浪曲の神髄:日本人の魂の叫びが聞こえる』)。しかし、そんなことはおくびにも出していない。もっとも『日本浪曲史』の第5章以降は1944年に『雲右衞門以後』というタイトルで刊行されたことがあり、そのあとがきでは「玉川勝太郞のお家藝『天保水滸傳』は全段殆んど私の改訂作詞に據つて語られてゐる」。だから、自分が二代目玉川勝太郎に浪曲台本を提供していること自体は認めているわけですよ。しかし、本文ではそんなことはおくびにも出していないというね。そんな次第だから、正岡容が二代目玉川勝太郎に『天保水滸伝』の台本を提供したのがいつかなんて書いているはずもない。で、それならばということで、こっからは唯二郎著『実録浪曲史』(東峰書房)とか、芝清之編『大衆芸能資料集成第6巻:寄席芸Ⅲ 浪曲』(三一書房)とか。ちなみに唯二郎はNHKで浪曲番組を担当していたとかで、『実録浪曲史』は『月刊浪曲』に「わたしの浪曲史ノートから」と題して連載されたもの。また芝清之はその『月刊浪曲』の編集発行人。ウィキペディアによれば「浪曲界の生き字引的存在であった」。そんな2人の著書だから、参考文献としては申し分がないはずなんだけどねえ……。それから、正岡容をめぐっては『日本浪曲史』の版元である南北社が出していた『大衆文学研究』という雑誌が1971年12月刊行の第21号で正岡容を特集していて相当詳細な年譜も掲載されているのだけれど、ここにも記載がないんですよ。こんなことがねえ、あっていいものやら……。
ただ、これで逆にスイッチが入ったというか。だったらオレが突き止めてやろうじゃないの、と。ま、〝ペーパー・ディテクティヴ〟は得意とするところではあるから(自分で言ってりゃ世話はない……)。でね、いきなり大きな手がかりに遭遇した。二代目玉川勝太郎がこの件について書いているんですよ。そういうことを某所で知りまして。書いているのは1954年6月14日の読売新聞で、題して「名文『天保水滸伝』 正岡容との友情」。ただ、当該記事で紹介されているのはごく一部で、しかも「あるレコード会社で吹き込むことになった際、文芸部長が正岡容の天保水滸伝の台本を持ってきたそうです」――と要約するかたちになっており、それがいつのことなのかという最も肝心な部分はわからず仕舞い。かくなる上は自分で読んで見るしかあるまい――ということで、行ってきましたですよ、富山市立図書館大山分館。実は富山市立図書館では読売新聞社が提供する記事データベース「ヨミダス」を利用できるのだ。しかも、必ずしも本館まで行く必要もない。分館でも利用可能なところがある。大山分館はその1つ。こんなねえ、恐竜の足跡化石が発見されているようなところで……。ともあれ、そんな富山市立図書館大山分館まで行って今から70年近く前の新聞記事を読んできた。すると、それはこんな内容のものだった――
もう三十年にもなるかナ。当時、大阪の住吉にあったニットー・レコードへ吹込むことになって、木村文芸部長が持って来てくれた台本が正岡容の「天保水滸伝」。以来、今日まで数えきれないほど口演し、今では僕のお家芸になってしまった。このネタは僕のものだが歌詞は彼がすっかり変えて、ご存知のような名文になった。〝…荒浜育ち、というてイワシの子ではない〟というところは大漁節なので、先日房州へ行った時に、土地の人に教えてくれといったら『自分が作っておいて何をいってるのか』といわれたが、そのくらい売れているのかと思ってチョイといゝ気持になった。大体、木村、正岡両家は親友で、初吹込みのかえりに小田原の正岡邸を訪ねた。これが彼との初対面。ゾロリとした着流しで安兵衛と忠次を一緒にしたような容姿にまずびっくりしたが、キュウスから茶ワンについでチビチビやっているのがお茶ケなのにはまたびっくり。それから彼は僕のために「西部戦線異常なし」だとか「切られお富」だとかたくさんの台本を書いてくれ、大トランクいっぱいになっている。
そのくせに、いつも水をさす人がいてケンカをしているが会えば手を握り励まし合う仲だ。こゝ二、三年来全然会っていない。蔵が建った(それほどではないが…)現在の僕にしてくれたのは正岡容なのだから、早く仲直りがしたい。アユの塩焼ででも一パイやりながら怒られてみたい。
冒頭、いきなり「もう三十年にもなるかナ」。で、1954年の30年前だと1924年(大正13年)ということになるのだけれど……これは勝太郎の記憶違いと言っていい。なぜそう言いきれるのか? それは「初吹込みのかえりに小田原の正岡邸を訪ねた」と書かれているので。上述の『大衆文学研究』の「正岡容年譜」によれば、正岡が小田原に住むようになったのは昭和4年。しかも、この年、彼はニットーレコードの専属になっている――「ニットーレコード専属となり、小田原在大窪村に住む」。さらに昭和6年には東京市滝野川区西ヶ原に転居していることもわかるので、この吹き込みが行われたのはその間、ということになる。しかも、その時期を具体的に絞り込むことも可能で、実は上述の『雲右衞門以後』の「戦争と浪花節」と題する附章の中で正岡はこう書いているのだ――「昭和四、五年以後、圓盤の普及と共に、漸くに浪曲作家が擡頭して來た。私の初作の發賣も亦、昭和五年だつた」。だから、それは昭和5年のこと、と考えていいでしょう。さらに、その演目が何だったのかも特定可能。実はいろいろ検索していたら「邦楽SP盤レコード総目録」なるオンラインリソースが見つかったのだ。これ、スゴイですよ。「参考資料は当時の各社新譜目録・新聞広告、LP・CDの解説や目録、音楽家の評伝などです」というけれど、早い話が片々たる情報の寄せ集めで、それでこれほど網羅的な目録を作り上げるとは……。まあ、いろいろ見させていただいた限りでは遺漏もかなり多そうで、これをヴィンテージ・ペーパーバックのカタログに当てはめるならばGraham HolroydのPaperback Prices and Checklistには遠く及ばず、せいぜいがJeff CanjaのCollectable Paperback Books: A New Vintage Paperback Price Referenceといったところか? ただ、それでもスゴイですよ。運営されているのはどなたかは存じませんが(個人なのか団体なのかもわからない)、ワタシが出版プロデューサーなら書籍化を働きかけるけどなあ……。ともあれ、そんな「邦楽SP盤レコード総目録」の「ニットーレコード総目録」と睨めっこしたところ、新譜年月は不明ながら曲名は「蛇園村の切込」、歌手・実演家は「玉川次郎」というのが見つかった。実は玉川次郎というのは二代目玉川勝太郎の前名で、上述『大衆芸能資料集成第6巻:寄席芸Ⅲ 浪曲』によれば「大正十五年に他界した初代勝太郎の芸名は、東屋楽燕、寿々木米造の二人が預かっていたが、初代木村重松の力添えで、兄弟子太郎を追い抜いて昭和七年十月に、次郎は二代勝太郎を襲名した」。だから、この玉川次郎とは二代目玉川勝太郎のことであり、この時、吹き込んだ「蛇園村の切込」こそは正岡容が初めて書いた浪曲台本ということになる。ちなみに、このレコード、日文研の「浪曲SPレコードデジタルアーカイブ」に所蔵されている。日文研図書館に行けば視聴可能だそうですが……ここはねえ、2018年12月30日に発効した「TPP整備法」がなんとしてでも悔まれるところで。ご承知のように、かつて著作権の保護期間は著作者の死後50年間だった。で、二代目玉川勝太郎が亡くなったのは1969年8月13日なので、もし旧来の規定のままだったら二代目玉川勝太郎の著作権保護期間は2019年8月12日を以て満了となっていたわけですよ。その場合、日文研図書館まで行かずともオンラインで視聴可能だったんだよね。実際、二代目広沢虎造のSP盤の多くはオンラインで視聴可能になっている(二代目広沢虎造が亡くなったのは1964年12月29日なので、2014年12月28日を以て保護期間は満了となっている)。しかし、2018年12月30日に発効した「TPP整備法」によって著作権の保護期間は著作者の死後70年間に延長。これに伴い、二代目玉川勝太郎の著作権保護期間は2039年8月12日までとなり、それまでは京都市西京区御陵大枝山町にある国際日本文化研究センター図書館まで足を運ばなければならないという……。ま、そんななんともザンネンな(つーか、それを言うなら「間尺に合わない」か? 結果的にはアメリカが参加を見送ることになるTPPに加入するためにアメリカの国内法に合わせた著作権保護期間の延長に同意し、その結果としてもたらされたこの事態なんだから、なんとも「間尺に合わない」)現実にも少しばかり触れておいて――とにかく、正岡容が初めて二代目玉川勝太郎(当時は玉川次郎)のために書いた浪曲台本は「蛇園村の切込」でそれは昭和5年のことだった。ただ、多分――多分だよ、この「蛇園村の切込」には外題付けは含まれていなかった。というのも、当時のSP盤というのは片面3分そこそこで、両面合わせて6分というシロモノ。これじゃあ、〽利根の川風袂に入れて、なんてやっている間がない。それに、玉川次郎がこの「蛇園村の切込」で全国津々浦々にその名前が知れ渡った、なんて事実も伝えられていない。では玉川次郎改め二代目玉川勝太郎がその名を全国に轟かせるようになるのはいつなのか? これについては『大衆芸能資料集成第6巻:寄席芸Ⅲ 浪曲』では「昭和十年前後から、彼は二代虎造と比較され続け、人気を競って生きてきた人だった」とされている。一方、読売新聞夕刊1969年8月13日付け訃報では「十八歳で初代玉川勝太郎に入門、昭和十二年ごろから「天保水滸伝」で人気を博した」としている。で、その昭和12年、二代目玉川勝太郎はキングレコードから今日でも『天保水滸伝』といえばこれ、という感じの演目を相次いでリリースしていることが国立国会図書館オンラインで確認できる(ちなみに、これは「邦楽SP盤レコード総目録」の「キングレコード総目録」では確認できない。だから、総目録という割には相当の遺漏がある、ということになる)。具体的には、2月には「平手造酒の最後」、4月には「笹川の花会」、8月には「笹川の繁蔵」と「蛇園村の斬込み」。すべて正岡容の脚色(国立国会図書館のデータでもそうなっているし、『浪曲の神髄:日本人の魂の叫びが聞こえる』でもそうされている。また「浪曲SPレコードデジタルアーカイブ」に所蔵されてレコードにもそう記されているものがある。例えばコレとか。なお、正岡容が『雲右衛門以後』で「昭和四、五年以後、圓盤の普及と共に、漸くに浪曲作家が擡頭して來た。私の初作の發賣も亦、昭和五年だつた」と書いていることは既に記しましたが、それに続いてこんなことを書いている――「それ迄は浪曲臺本の執筆など文壇にも藝能的にも汚辱そのものだつたから、もし稀にかく人があつても匿名、もしくは全く名をださずにかいてゐる場合が多かつた」。要するに、こうして盤面に「正岡容脚色」と明記されるようになったのは、彼なりの1つの意思表示だったということになる)。で、この「平手造酒の最後」にしろ「笹川の花会」にしろ2枚セットになってるんですよ。つまり、片面3分として12分。これならば、〽利根の川風袂に入れて、は十分に可能。ちなみに、ワタシに読売新聞の記事の存在を教えてくれたブログでは「初期のレコードは片面3分、両面で6分でした。2枚セット(合計12分)の販売が多かったようです。販売するレコードに収まるように一席の構成が変化したそうです。お客さんはレコード店で試聴してからレコードを購入しました。レコードの最初の3分という尺の中でその浪曲の魅力をしっかり伝えるために外題付けは生まれました。正岡容の天保水滸伝の外題付けはきっかり3分に収まっています」。だから、〽利根の川風袂に入れて、の外題付けが初めて収録されたのは昭和12年2月発売の「平手造酒の最後」と考えていいのでは? そして、その名調子はレコードやラジオの浪曲番組を通して全国津々浦々に広まって行った……。
――と、これで、この記事、何字になるのかな? とにかく、相当の字数。つまりは、それだけのことをやったということでありまして(実はもっとやっている。千葉日報にメールで問い合わせたり。この記事、何か裏付けとなる資料があって書いてるの? と。しかし、千葉日報は読者からの質問メールを無視するのが社風のようで……)。これだけの〝ペーパー・ディテクティヴ〟を経てワタシがウィキペディアに書いたのは①「この頃、まだ次郎時代の二代目玉川勝太郎に「蛇園村の切込」(『天保水滸伝』)の台本を提供。以後、勝太郎とは二人会を開くなど、親交を深める」②「1937年(昭和12年)、勝太郎に「平手造酒の最後」「笹川の花会」(『天保水滸伝』)などの台本を提供。「〽利根の川風袂に入れて」で始まる外題付けは勝太郎の名調子もあって全国津々浦々に広まった」。コスパが悪いにもほどがある。まあ、だからこそ、ここでとことん書いて元を取ろうというコンタンでありまして……。
それにしても、正岡容はなぜ自身と『天保水滸伝』との関わりについて(ほとんど)言及しなかったのだろう? 正岡容がこの件に言及したのは本文でも紹介した『雲右衞門以後』のあとがき以外だと市川に住んでいた昭和21年当時の日記「發運居日記抄」(『随筆百花園』所収)の1月3日の条としてラジオで勝太郎の「笹川花會」や虎造の「見受山鎌太郎」を聴いたとして「勝太郞のハわが舊作詞故、本人とき/\心持と云ふ可きを「キモチ/\」と云ふ以外ハ時代錯誤の言葉なけれど、登場人物少しも變らざる、つまらなかりし。終りちかくの政吉の困惑の言葉殊更に小音なりし表現巧みなしりのみ」。もちろん、これ以外にもきっとあるとは思いますが、しかし正岡容が自身と『天保水滸伝』との関わりについて積極的に語ろうとしていなかったのは間違いのないところで、たとえば正岡容はやはり市川時代に正岡版『寄席放浪記』(つーか、色川武大の『寄席放浪記』の方が色川版「わが寄席青春録」なのかな?)とも言うべき「わが寄席青春録」(『艶色落語講談鑑賞』所収)という回顧録を著しているのだけれど、その中では玉川次郎に「蛇園村の切込」の台本を提供した小田原時代についても結構詳しく記している。で、それは見事に玉川勝太郎の証言と一致するもので――
……この滞泊中に、私の専属だつたニットーレコードが上京して、東京側芸能人の吹込みを開始したので、先代春団治と金語楼君以外はてんで落語レコードの売れなかつたその時代、私は一計を案じて同君の十八番「居酒屋」のA面冒頭へさのさ節を配し、B面で夜更けの感じに新内流しを奏でさせて吹込んだ。同じく私の推称した先代木村重松の「慶安太平記」(善達京上り)と共に此が大ヒットして、トン/\拍子に金馬君は旭日昇天の人気者になつた。(重松の善達もこのニットーの節調が一ばん哀しく美しいのに、私はいまバルロフオンのやゝ出来の劣つた方をのみ蔵してゐる)
玉川勝太郎は「当時、大阪の住吉にあったニットー・レコードへ吹込むことになって、木村文芸部長が持って来てくれた台本が正岡容の「天保水滸伝」」と書いて(語って?)いるわけだけれど、大阪のレコード会社だったニットーレコードが東京で吹き込みをすることになった事情みたいなことがこれでわかるし、正岡容がそのアドバイザーみたいなことをやっていたこともこれでわかる。そして、そういう中で「蛇園村の切込」の台本は書かれ、木村文芸部長から当時の玉川次郎に渡り、レコーディングが行われた――ということになる。そういう裏事情みたいなことをこれほど詳しく記しながら(さらには浪曲師・木村重松のことにも言及しながら)なぜか「蛇園村の切込」については一切言及していない――。これは、普通じゃありませんよ。想像するに、正岡容には『天保水滸伝』に対する相当に複雑な思いがわだかまっていたのでは? でないと、こういう〝塩対応〟はありえない。で、そうなるとですね、気になるのは、玉川勝太郎がコラムの最後で「こゝ二、三年来全然会っていない。蔵が建った(それほどではないが…)現在の僕にしてくれたのは正岡容なのだから、早く仲直りがしたい」と述べていること。このコラムが書かれたのは昭和29年なので、「わが寄席青春録」が書かれた昭和27年当時はちょうど両者は絶交状態だったということになる。それがこの〝塩対応〟の理由……というのは、いささかコトを矮小化しすぎか? でも、ちょっとそういうことも考えざるを得ないよなあ……。
ただね、正岡容にとって『天保水滸伝』はやっぱり特別なものだったんですよ。それを裏づける事実がある。それは、市川時代、正岡が『天保水滸伝』の舞台である下総一帯を頻繁に訪れていること。これは本文でも紹介した「正岡容年譜」にも記されているのだけれど、当人が書いたものがあるんだ。かの〝カストリ雑誌〟としてその名も高い『りべらる』1952年5月号に寄稿した「股旅風土記」がそれで、ここは笹川にでかけた下りだけをかい摘んで――
去年は、笹川へよくでかけた。(略)私の文學の後繼たる永井啓夫を介添に、暮春も盛夏も笹川に遊んだ。しづかないかにも人のなさけの深々としてゐさうな水鄕で、川魚料理の美味しい旅館土善の窓から大利根が見え、そこの渡船場が天保の昔、傳馬船で飯岡助五郞一家が漕ぎ上つて來た鹿の津の渡しであらうか。飯岡笹川が亂鬪し、平手造酒が斬死をした須賀明神境內は、一と目でそれと分る殺氣を含んだ鬱蒼たる森林のなかでいかにも果し合いのありさうなところ。昔の講談や浪曲の作者の机上の空想でないことが分つて私は感嘆した。境內に繁藏の建てた野見の宿禰の碑があり繁藏の子孫ものこつてゐる由であるが、程ちかくには十一屋繁藏そばもある。
この笹川行、「藝能風土記」なる大部(なにしろ、関東、東京、東海道の三部作だってんだから)の企画のための取材目的であることが文中では記されているのだけれど、どうだろうな。もしかしたら、口実かもよ。だって、その「藝能風土記」は結局は書かれることはなかったようだし、それよりもなによりも文章のトーンがね。もうほとんどセンチメンタル・ジャーニーですよ。きっとね、この旅の間中、彼の頭の中には勝太郎が唸る『天保水滸伝』のあの外題付けが流れ続けていたはず。それを聴きながらの旅だったんですよ。そう考えざるを得ないような「濡れ」(正岡容が『日本浪曲史』で二代目玉川勝太郎の演技を評するに当たって使った言葉)がこの文章からは感じられる。そして、それほどまでに『天保水滸伝』は正岡容にとって特別のものだった――と考えるにつけても、この不思議な物言いね。つまり――「昔の講談や浪曲の作者の机上の空想でないことが分つて私は感嘆した」。でも、アンタだってその1人なんでしょ……?
こんな『天保水滸伝』に対する不思議な対応の理由を現時点ではワタシは解明できていない。なんでも大西信行によれば、正岡容は「ふしぎな人」だったそうだ――「正岡は奇人だと、ひとはいう。/大酒飲みの困った助平だったという。/いい人だった、もっともっと生かしておきたい人だったといってくれる人もある。/いずれも正岡とのつき合いの長い人たちのことばであり、どれもが当っているのだろうけれども、僕にとってはそれよりなにより不思議な、よくわからない人であった」(大西信行著『正岡容――このふしぎな人――』より)。正岡の弟子を自認する人ですらそうなのだから、ろくに読んだこともないワタシごときに正岡容が「わかる」はずもないわけで……まあ、正岡容が「よくわからない人」であるということがワタシなりに「わかった」と、そういうことにしておきましょうか。しかし、勝太郎は正岡容と「仲直り」できたのかね? 正岡容が亡くなったのは、勝太郎が読売新聞に「名文『天保水滸伝』 正岡容との友情」を寄稿してから4年後のこと。勝太郎が望んだように「アユの塩焼ででも一パイやりながら」、往時を語り明かした一夜があった――と信じたい……。