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きっとアナタが本当に書きたかったのは。
〜井上ひさしの「幻の新選組小説」を読む③〜

 ウィキペディアの「甲州勝沼の戦い」があまりにも新政府側に偏った内容でウィキペディアの基本方針である「中立的な観点」にも反するシロモノとなっていたので、ここはウィキペディアのガイドラインに言うところの「大胆な編集」が必要かなと。で、身辺なにかと思い悩む状況ではありますが(認知症で要介護3。今年に入って既に2度、救急車の出動を要請している。そんな母のために在宅診療に対応している病院を探し、契約したのが今週の水曜日。これで一安心、と思っていたら、その翌日、突然の下痢で介護パンツは履いているものの、それだけでは防波堤にならず、パジャマはおろかシーツまで汚してしまって……。説明では、何かあった時には、365日24時間、対応可能だというのだけれど、こんなことで呼んでいいのかなあ……? まあ、そんなこんなで、本当に思い悩む毎日で……)、だからこそというのかな、何かやって気を紛らさないと。で、「甲州勝沼の戦い」の「大胆な編集」に乗り出したわけだけれど、これが思いのほか大変で。一応、ワタシの意図としては、元記事の活かすべきところは活かした上で、新政府側の動きと旧幕府側の動きを公平に扱う構成に改変すること。で、新政府側の動きについては基本的に元記事の使い回しで、ワタシの役割はもっぱら旧幕府側の動きを新たに書き起こすことになるわけですが、これが膨らんじゃってねえ。「公平に」と言いながら、明らかに旧幕府側の動きの方がボリュームで勝っている。そうなったのは偏にそれだけの論点がいわゆる「甲陽鎮撫隊」をめぐる虚実の中に潜んでいるからですが……まあ、書いちゃったものはしょーがない。もしこれじゃあヨロシクナイというのなら、ぜひとも新政府側の動きに書き足していただければ。それでバランスを取ることにしませんか、板垣退助推しの皆さま……?

 ということで、ここはワタシが手を加える前の版今日時点の版を貼っておきましょう。しかし、近藤勇ってのは良い顔してるよなあ。顔だけならば絶対に板垣退助に勝ってるんだけど。つーか、板垣退助ってこんな顔してたんだね。昔の百円札のイメージがあるから、もっと雄々しい人物だと思っていた。ふーん、この2人が戦って板垣退助が勝ったのかあ……。



 さて、いわゆる「甲陽鎮撫隊」をめぐる論点についてはあらかたウィキペディアの「甲州勝沼の戦い」に書いたとおりなんですが、実はあれですべてではないんだよね。あれ以外にもある。それは、残された手記の類いからは鎮撫隊に弾内記の配下によって編成された銃隊が参加していた実態が全然読みとれないことですよ。その唯一と言ってもいい例外が永倉新八が明治8年頃に記したとされる「浪士文久報国記事」と同じく永倉新八が大正2年に『小樽新聞』のインタビューで語った内容。特に重要なのは『小樽新聞』のインタビューで、これについては「それは下衆の勘ぐりというものです、井上さん。〜井上ひさしの「幻の新選組小説」を読む②〜」でも紹介したし、ウィキペディアの「甲陽鎮撫隊」(一応、こちらも今日時点の版を貼っておきましょう。でも、本当はこの記事、「甲州勝沼の戦い」の「合戦に向けた旧幕府側の動き」あたりにリダイレクトにした方がいいんだよね。どう書いたって重複は避けられないわけだから。という理由で編成についてのみに絞ったわけだけれど……)でも昭和2年刊行の杉村義太郎編『新撰組永倉新八:故杉村義衛の壮年時代』(昭和46年刊行の『新撰組顚末記』はこの杉村義太郎編『新撰組永倉新八:故杉村義衛の壮年時代』を再編集したもの。具体的には旧仮名遣いを現代仮名遣いに改める他、いわゆる「漢字をひらく」という処理が大々的に施されている。実は、ワタシ、この「漢字をひらく」というやつが大嫌いで。プロとアマの違いは漢字を「ひらく」か「とじる」かの違いだ――と言われると、なおさら閉じたくなる。うん、閉じたくなるんですよ。ここは100%偏見で言わせてもらうならば、どんなハードボイルド小説だって漢字をひらいただけでもうハードボイルド小説ではなくなってしまう。どんなふうにそのモノが「在る」かっていうのはとっても重要ですよ。「漢字をひらく」ことはその「在り方」を変えてしまうわけで。軽々にやっていいこっちゃないですよ。いや、まあ、別にこんなに熱くなるようなこっちゃないんだけれど……)から引いたものを紹介しているのでぜひ参照していただきたいと思いますが、もし永倉新八がこの証言をしてくれていなかったら、おそらくは弾内記の配下によって編成された銃隊(永倉新八は「歩兵」と述べていますが、東京大学史料編纂所の維新史料綱要データベースで閲覧できる「弾内記請記」には「今般銃隊取建方之儀相糺處一大隊分人數業前熟練迄を自分入用を以雑費支払非常之節御奉公相勤度段申立」とあって徳川家の扱いとしても「銃隊」だったことがハッキリしているので「銃隊」とします)が甲州勝沼の戦いに参戦していたという事実は今に伝わっていなかっただろう。いや、これもちょっと正確とは言えないかな。永倉新八が証言しているのは弾内記の配下によって編成された銃隊が新選組の付属となったということだけで、その銃隊が甲州勝沼の戦いに参戦したということまでは言っていない。まあ、そもそも永倉は『小樽新聞』のインタビューでは離反する隊士たちをいかになだめ、説得し、原隊に復帰するよう腐心したかということばかり語っており、最終的にはそうした努力にもかかわらず事態の好転を見ることは叶わず、最後は自らも「これまで」と思い切り近藤に「暇乞い」をすることになるわけで、要するに彼自身、戦っていないわけですよ。だから、弾内記の配下によって編成された銃隊の戦いぶりなんて語りようもない、ということになる。だからこそ、永倉以外の人間の手記が重要になってくるわけだけれど……これがねえ、全然で。全然、書かれていない。甲州勝沼の戦いについて記した手記としては「甲陽鎮撫隊」という隊名のネタ元である「柏尾の戦」と合戦当時、勝沼村柏尾に住んでいた野田市右衛門が明治末年頃に著したとされる「柏尾坂戦争記」が知られている(いずれも『新選組史料大全』に収録)。しかし、そのどちらからも弾内記の配下によって編成された銃隊の気配さえ感じられないんだ。これが不思議で。永倉新八は『小樽新聞』のインタビューで「次で同人は乾児百人を選んで仏蘭西式の調練を受けしめた」と語っているわけだから、それはざっと100人規模の銃隊だったわけですよ。100人て結構な数ですよ。明治2年5月11日、土方歳三が弁天台場に孤立・籠城を強いられていた新選組を救出するため五稜郭を出陣した際、付き従ったのは額兵隊2小隊の約50人だったとされる(人数については、いわゆる「通説」です。ただ、大野右仲が「函館戦記」で「額兵二小隊を率ゐて」とハッキリ書いているので。小隊は一般的に25人から50人の兵士によって構成されるとされるので、約50人という通説はそれなりに信用に足る)。その2倍ですから。しかも、鎮撫隊というのは全体でも200人いたかどうかという規模で、その中の100人といえばもう一大勢力ですよ。その一大勢力の影も形も見えないとはどういうことなのか?

 ということで、こっからは少しばかり史料の分析。まず「柏尾の戦」についてだけれど、これは元新選組隊士の結城無二三の体験談を長男の結城禮一郎が筆記したものですが、でも新選組に結城無二三なんて隊士、いた? 結城無二三って、そういうレベルの〝隊士〟なんだけれど、当人曰く「役目は地理嚮導役兼大砲差図役と云ふのでした、だが久し振りで国へ帰るのではあり是れでは貫目が足りないと思ひましたから其後近藤に話して、軍監と云ふ名をも貰いました」。しかし、その「軍監」様は合戦当日、各隊士の戦いぶりをつぶさに見分していたかというと――「私は十五人預って敵情視察のため勝沼へ参り宿の外れへ関門を建てました。それが五日の晩ですが……」「そして六日には農兵を募るために、勝沼在の小佐手と申す村へ参り……」。なんと、自称「軍監」様は合戦当日、現場を離れていたと……。一方、「柏尾坂戦争記」の方なんだけれど、これはなかなかに面白い史料なんですよ。面白い史料なんだけれど、「佐川勘兵衛」というよく知られた会津藩士とそっくりの名前の人物が出てきたり「梶原監物」というこれまたよく知られた会津藩士と同姓の人物が出てきたり。一体、こいつら、ナニモノ? 『新選組史料大全』所収の史料には編纂者(菊地明&伊東成郎)による相当精緻な註解が付されているのだけれど、これらの人物にはなんの註解も付されておらず、さすがのご両所もお手上げ状態か? まあ、そういう感じではあるんだけれど、全体的には信用に足るんじゃないかなあ。で、「柏尾坂戦争記」では合戦当日の陣割をこのように記していて――

三月六日、幕軍鶴瀬ニテ二タ手ニ分隊シ一手ハ日川ヲ南ニ渡リ、岩崎山ノ山腹ヘ出デ土方歳三ノ代理トシテ佐藤俊正ノ春日隊、其勢僅カニ四十人、教導岩ヘ陣ヲ張リ、近藤勢ハ勝沼ノ東端柏尾坂上ニ前ニ深沢川ヲ扣ヘ大砲二門ヲ据ヘ付ケ、川ノ西ニアル野田五良左ヱ門、雨宮市太郎ノ二軒ヲ焼キ払ヒ、要害堅固ニ陣ヲ張ル。

 つまり、佐藤彦五郎(俊正は維新後に名乗った名前)率いる春日隊を別動隊として岩崎山に配置し、本隊は勝沼の東端・柏尾坂上に陣を張ったというんだね。で、弾内記の配下によって編成された銃隊は新選組付属となった経緯からして、当然、近藤勇の指揮下に置かれていたと考えるべき。まかり間違っても佐藤彦五郎の指揮下に入るということはないでしょう。それだと「其勢僅カニ四十人」という描写にも反する。だから、弾内記の配下によって編成された銃隊約100人は近藤勇の指揮下、柏尾坂上に布陣していたと考えるべき。ところが、これ以降の記載をどう読み込んだって近藤の指揮下に100人規模の銃隊がいた実態が浮かび上がってこないんだよ。そもそも、銃隊についての記載がない。記されているのは、砲兵隊や抜刀隊のことばかりで――

柏尾ノ幕軍ハ大砲二門ヲ据エ付ケ置キ、一門ハ川ノ南ヘ向ケ岩崎山ノ官軍ト応戦シ、一門ハ街道ヲ西ニ向ケ、因州勢ト接戦ス。

近藤勇ハ残ル味方ヲ一隊トナシ、因州勢ヘ抜刀ニテ斬リ込ミシニ此ノ人々ハ伏見鳥羽ノ戦争以来、場数ヲ踏タル新撰組ナレバ砲煙弾雨ヲ物トモセズ、群ガル敵中ヘ斬テ入リ……

 これねえ、ホントに不思議で。仮にもフランス式の調練を受けた――ということは、ジュール・ブリュネの指導を受けたということになる、わが愛しのジュール・ブリュネに……――100人もの銃隊は全くいないもののごとく。そして、遂には旧幕府軍は撤退戦を余儀なくされることになるわけだけれど、その描写がねえ、なんとも残酷で――

近藤勇ハ伏見ノ戦争ニ受タル鉄砲疵未ダ癒ヘズ、二尺八寸宗貞ノ銘刀ヲ采ノ代リニ振廻シタリ。是レヨリ近藤勇ハ使者ヲ立テ佐藤俊正ノ春日隊ヲ呼ビ寄セ、駒飼ノ御座石ト言フ所ニテ味方ノ笹子峠ヲ越ユル迄、一時官軍ヲ喰イ止メント残兵僅カ十余人デ陣取タリ。

 なんと、この時点で近藤に付き従っていた兵は「僅カ十余人」。弾内記の配下によって編成された銃隊約100人は近藤勇の指揮下にあったという前提で考えるならば、この「残兵僅カ十余人」というのはなんとも残酷な描写で。その戦いぶりは一切、描かれないまま、いつの間にかその人数は「僅カ十余人」まで減っていた……。

 それにしてもだ、合戦当日、現場にはいなかった結城無二三の体験談である「柏尾の戦」は別として、合戦当時、現地在住で実際に合戦をその目で見たであろう野田市右衛門の〝レポート〟に銃隊の影も形も見えないとはどういうことなのか? ミニエー銃を携行した100人規模の銃隊というのは当時としては相当に目を引く存在だったと思うのだけれど。それが本当に全くいないもののごとく――。この謎を考えあぐねたワタシが最終的にたどりついた結論は――これも一種の「忖度」の結果なのでは? その銃隊は浅草・新町で代々、穢多頭を務めてきた弾左衛門の13代目が編成した部隊なのだ。当然、全員が穢多。四民の外に置かれた被差別民――。もしかしたら、野田市右衛門はこう考えたのでは? 甲州勝沼の戦いに多数の穢多が参加していただなんて外聞が悪い。近藤勇の名誉にも関わることである……。そう、故人の遺志を「忖度」し、100人にも上る穢多部隊をそのレポートから抹殺した……と、これはまた『熱風至る』から始まった思考の逍遥としては誠に相応しい結論というか……。しかし、そう考えるにつけても、井上ひさしには何が何でも甲州勝沼の戦いまで筆を進めてほしかったなあ。八切止夫のペテンにひっかかって近藤勇を被差別部落出身としたばっかりに小説は本来のコースから大きく逸れてしまった(とワタシは思っています)。きっとアナタが本当に書きたかったのは(そして、書くべきだったのは)この甲州勝沼の戦いで被差別民たちが流した血と汗と涙ではなかったのか? と、もうその真意を問い質すことのできない故人の遺志を「忖度」しつつ……。