ちょっと順番を間違えたかな。こっちを先にやって、それから桃井直常をやった方がよかったかも知れない。時系列的にはこっちの方が先なんだから。ただ、桃井直常に縁の地がわが家からそう遠くない所にあって、先に近場から片づけるという意味では、桃井直常を先にする合理性がないわけではなく……。
さて、これまでも何度か書いたことがあるのだけれど、南北朝時代、当地はちょっとした南朝の牙城で、それを裏付けるように南朝第3代長慶天皇の御陵とされるものが3つもある。長慶天皇の御陵とされるものは全国に70以上あるとされており、このことがそもそも異様なのだけれど(南朝にはなにかとこの種の「異様さ」がつきまとう。それにヌマって身動きがとれなくなる、というのが南朝シンパに一般的な病理で……)、これらを南朝の遺臣が事実上の〝ラストエンペラー〟である長慶天皇への追慕の思いをかたちにしたものと考えるなら、それが3つもある越中とは南朝への忠節がきわめて篤い国だったということにはなるでしょう。で、そんな当地の国人の南朝への忠節の篤きを聞き及んで暫しの間、当地に駐駕(という言葉が『越中勤王史』なる書で使われている。意味は「貴人が乗物をとめること。転じて、貴人が滞在すること」。もともとワタシの辞書にはなかった言葉ですが、同書で知って以来、このネタを記す際には決まってこの言葉を使用。この単純さをワタシという人間の善良さの表れであると受けとっていただければ幸甚で……)した宮様がいる。それが後醍醐天皇の第4皇子(あるいは第8皇子。当地では「後醍醐天皇八ノ宮」として知られている)である宗良親王。東京大学史料編纂所の「大日本史料総合データベース」で閲覧できる『大日本史料』の綱文「宗良親王、越中名子に駐り給ふ」(6編7冊107頁)には「越中宮」と記された史料(「閑田耕筆」)も紹介されており、親王と越中の縁は明らか。で、その「駐駕」の期間については興国3年(1342年)から2年ほど、とするのが一般的。また入国ルートについても越後国の寺泊から海路で、とするのが通説となっており、1964年に刊行された『新湊市史』でも――「興国二年(一三四一)の冬には越後の寺泊におられた親王が、ほどなく越中の奈呉に来られた。この年の暮れか、あるいは翌三年の早春のころで、ここへは海上を船で移られたようである。荒天の時期であるが、近い行程であるから、この動座はそれほど困難ではなかったと思われる」。で、こうした当地ではよく知られたストーリーに従ってワタシもこれまでは親王の越中在国期間を「興国3年から2年ばかり」としていたのだけれど……ここに、こうした通説に真っ向から反論する実にチャレンジングが仮説が存在する。宗良親王の越中への入国時期もルートもそして入国目的もすべて違うという、え、そんなに何もかも違っちゃって大丈夫なの? というような、そんな誠にチャレンジングな……。
で、この仮説を紹介するに当たって、まずはここ最近の慣例に従って(?)Googleマップでスポットを1つご紹介しましょう。もうね、最近はホントにこれにハマっていて……
スポット表示されているのは静岡県浜松市北区引佐町井伊谷にある「井伊谷宮」ですが、祭神は他ならぬ宗良親王。また社殿の背後には親王の墓とされる「宗良親王御墓」がある。親王の終焉の地については諸説あるようですが、1873年(明治6年)、宮内省はこの地にある墳墓を親王の陵墓と治定した。以来、他の治定陵墓と同様、一般人の立ち入りが許されない〝聖地〟となって今日に至っているわけですが……ここで1つお願いがあります。マップの右下にあるズームボタンをクリックしてマップを思いっきりズームアウトして下さい。もう思いっきりね。中部地方の全体が俯瞰できるくらいに。そうすると、わかると思うんだけれど、この「井伊谷宮」から真っすぐに北上するとやがてわが富山に達することになる。そして、ワタシがこれから紹介しようとしている仮説では、宗良親王は、興国元年、このルートを踏破して越中国に至ったというのだ。ここはやはり当の文章を読んでいただくのがいいでしょう――
延元三年五月新田義貞は生地上野國西半分や信州東半分、新たに敕恩の地越後の魚沼、高志、蒲原三島等の諸郡の兵士を擧げて都へ攻め上つたが七月越前で斯波高經などの諸軍を迎えて討死し戰況は膠着狀態に入り弟脇屋義助の麾下に屬した。翌延元四年八月十六日後醍醐天皇崩御遊はさるや特に義助に遺敕をなされた。之を奉じた義助上洛に當り大部の兵を美濃の根尾谷の山岸光義が城に待機させ、越前には新田の四天王の隨一畑六郞左衞門時能を鷹の巢丘に殘して上洛した。所が僅か五十日程が間に官軍の城は悉く陷されて若狹から越中まで五ヶ國の間に畑將軍の鷲ヶ丘唯一つとなつた。脇屋義助は御中陰の明けるを待つて再征北上した所、越前から斯波高經、美濃からは土岐賴遠、同賴兼に挾擊され、城陷りて東へ逃げた。急を闻かれて遠州井伊の谷の宗良親王(敕命)新田の敗殘兵と共に北國に兵を募らんとお越しになつた。(白川越えか、荻町に御所という所あり)
羈中によせて立春の心を
急ぎつるひなの長路に年暮れて 都に遠く春も來にける
柱のない、屋根ばかりの天地根元造り的な合掌造り民家が深雪に埋れているのを驚嘆なされ、山雪と題し
越えぬ间は 越の白山 知らざりつ 斯くまで雪の積るものとも
十月十一月井伊の谷にいます時尾張の足助重春がしきりに招ひたが軍務多忙の爲斷られた。然し十二月井伊谷宮へ遺敕の傳達を見れば、剱を按じたなりの御最期、而かも全官軍は新田氏をたよつて足利氏を絕滅せよ、若し命に背き戰を輕んぜば君も継体の君に非ず、臣も忠烈の臣にあらじとの御遺敕をお受けになつて吉野への上洛よりも御孝道を考え遊はしたら北上である。(略)
これ、高桑敬親という方がお書きになった『五箇山史:南北朝期』の一節なんですが、活字化はされていない。当人が手書きされたものが富山県立図書館に寄贈されている他、国立国会図書館にも納本されたようで、利用者IDをお持ちならばデジタルコレクションでも閲覧が可能。手書きなのでなかなか読むのは大変なんだけれど、ま、頑張って読む値打ちはあるかなと。なお、高桑氏のお書きになったものをワタシは以前にも紹介させていただいたことがあります。それがこちらの記事ですが、そこで書いたことを繰り返すなら――高桑敬親氏は南砺市上梨(旧・平村上梨)にある浄土真宗大谷派の寺院・円浄寺の住職で教員でもあった人物という。また五箇山民謡「こきりこ節」の保存に尽力した人物でもあるらしい(ソースはこちら)。しかし、待てよ……。中学1年の夏の林間学校は五箇山で、夜は地元の小学校の教室でごろ寝したのを覚えている。そして「こきりこ節」も教わった。教えてくれたのは年配の男性だったという記憶があるんだけれど、あれってもしかして……? ま、そんな遠い記憶も弄りながらね、こっから本論に入って行こうと思うんだけれど……縷々記されていることの中で最も重要なポイントは、宗良親王の越中入国の目的を「新田の敗殘兵と共に北國に兵を募らんとお越しになつた」としている点。通説では親王の越中入国は南朝方の頽勢が色濃くなる中、当地に一時的に避難したということになっており、『新湊市史』でも――「こうして奥羽と北陸方面の大将がともに討死して南軍振わず、親王は北畠親房らと東国に再挙を計って九月伊勢を船出された。たまたま暴風に遇って兵船は四散し、辛うじて親王は遠江の白羽港に漂着して、また井伊谷城にはいられた。かかる不運の折から延元四年八月、後醍醐天皇崩御の悲報がもたらされた。その翌年の興国元年には、この井伊谷城も落ち、親王は甲斐・信濃・浅間山麓を経て越後方面に潜行された」。高桑説はこうした通説に真っ向から反論するもので、親王の越中入国の目的は南朝の頽勢を挽回するための募兵だったというんだよ。で、そうした行動に親王を突き動かしたのが後醍醐天皇の遺勅だったとしているわけだけれど、これについては『太平記』に記載がある。『太平記』の巻21「任遺勅被成綸旨事付義助攻落黒丸城事」に曰く――「同十二月先北国にある脇屋刑部卿義助朝臣の方へ綸旨を被成。先帝御遺勅異于他上は、不替故義貞之例、官軍恩賞以下の事相計て、可経奏聞之由被宣下。其外筑紫の西征将軍宮、遠江井城に御座ある妙法院、奥州新国司顕信卿の方へも、任旧主遺勅殊に可被致忠戦之由、綸旨をぞ下されける」(注:宮は妙法院門跡であり、宗良親王は還俗後に名乗った名前)。その綸旨の中身までは『太平記』は明かしていないのだけれど、大体のことは想像はつくよね。なお、高桑氏は「然し十二月井伊谷宮へ遺敕の傳達を見れば、剱を按じたなりの御最期、而かも全官軍は新田氏をたよつて足利氏を絕滅せよ、若し命に背き戰を輕んぜば君も継体の君に非ず、臣も忠烈の臣にあらじとの御遺敕をお受けになつて」と書いているのだけれど、この内の「剱を按じたなりの御最期」は『太平記』の表現を援用したもの。巻22「先帝崩御事」に曰く――「委細に綸言を残されて、左の御手に法華経の五巻を持せ給、右の御手には御剣を按て、八月十六日の丑剋に、遂に崩御成にけり」。『日本国語辞典』によれば「剣を按ず」とは「剣の柄に手をかける。まさに抜こうとする様子をいう」。これはねえ、強烈ですよ。その皇子がこの〝デスノート〟に縛られないはずはない……と考えるなら、直ちに立つよね。で、立ったからには『新湊市史』が書いているようなまどろっこしい迂回ルートは取らないよ。真っすぐに北に向かうって。何しろ、延元4年12月の時点では越前では畑時能が必死の籠城戦を繰り広げていた。それを救援に行くってんだから、最短コースを進むはず。しかし、時は真冬である。まるで佐々成政の「さらさら越え」だ。ちょうどその逆を行ったようなもの。よくそんなことを思いついたもんだねえ、宗良親王もそうだけれど、高桑敬親氏も。なお、高桑氏は親王の行軍ルートについて「白川越えか、荻町に御所という所あり」と書いておられますが、これについてはウラが取れました。飛騨郡代の長谷川忠崇という人物が延享年間に著したとされる『飛州志』の巻6「古城部」(はこちらで閲覧可能です)の「荻町城」の項に曰く――「黨城跡ノ麓ニ御所跡壺ノ內馬場跡待屋鋪跡或ハ上町ナントヽ称シ來ル地跡等アリ里人モ昔ハ故アル地ナリト云ヘトモ來由ニ於テハ今世口碑ニモ殘ラス其事實ヲ不知」。実にミステリアスだよね。しかし、高桑説を採用すれば、この謎は簡単に解ける……。
でね、ワタシが高桑説に惹かれるのも、この仮説を採用することによって解ける謎が他にもあるからなんですよ。最初にも書いたように、当地はちょっとした南朝の牙城で、南朝第3代長慶天皇の御陵とされるものが3つもある。で、その内の1つは南砺市下梨にあるんですよ。旧・平村の下梨。また、同じ旧・平村の上梨にある白山宮には宗良親王と新田一族が合祀されている(ソースはこちらです)。このことは宗良親王と新田一族が同地に足跡を残しているという明白な証だと思う。長慶天皇の御陵については、最初にも書いたように、南朝の遺臣が事実上の〝ラストエンペラー〟である長慶天皇への追慕の思いをかたちにしたものと捉えていいと思うので、さすがにこの御陵を以て長慶天皇が同地に足跡を残した証とは言えないと思いますが、宗良親王と新田一族については間違いないと思う。ちなみに、高桑氏は1958年にお書きになった「五箇山誌」(富山県教育委員会編『五箇山総合調査報告書』所収)で「五ケ山に仏教が入つて来たのは一体いつだろう、金剛堂山や人形山に四十八坊とか或は往古五ケ山は天台宗であつたとかという文書を見る。(略)天台座主尊澄法親王(宗良親王)によつて天台宗が入つて来たものだろう」。浄土真宗大谷派の僧侶でもある高桑敬親師がこう言うんだから、間違いないって。しかし、これがですね、一般に言われているように宗良親王は越後の寺泊から海路で放生津に上陸し、木(貴)船城主・石黒重之に奉迎されて、現在の住所で言えば高岡市上牧野に仮宮(黒木の丸柱で造られていたので「黒木の館」と呼ばれていたという。現在、その場所には「八宮樸館塚」と刻まれた碑が建てられている)を構えられた――としたら、なぜその足跡が平村に残されるのか? ということになってしまう。放生津から平村って、とんでもなく離れているので。いや、距離云々よりも、行く理由がね。仮に護良親王が幕府軍に追われて吉野に逃げ込んだのと似たような状況があったんならばそういうストーリーだってありうるだろうけれど、伝えられる限りでは石黒重之というのは頗る尊王の志の篤い人物だったようで、川田順著『宗良親王:吉野朝柱石』(第一書房)によれば――「第十五世石黒重之は、夙に尊王の志篤く、興国年間宗良親王を奉じて、大義を北陸に唱へた」。そういう状況で今でも秘境と言われている五箇山の山の中まで行く必要がありますかねえ……。だから、宗良親王と新田一族の足跡が五箇山に残されているってのは、本当に謎だったんですよ。その謎が高桑説だと簡単に解ける。宗良親王は、遠江の井伊谷から真っすぐに北上し、白川を越えて、まず五箇山に入ったんですよ。そっから平野に下って、砺波の名族・石黒氏に奉迎された――と考えれば、宗良親王と新田一族の足跡が五箇山に残されているのは何の不思議もない。いやー、見事だわ。
もっとも、そんな高桑説にも難点がないわけではない。それは、石黒重之が越前の畑時能に援軍を送ったという史実は伝えられていないこと。もし宗良親王の越中入国の目的が南朝の頽勢を挽回するため――就中、越前の畑時能を救うための募兵だったとしたら、結果的に救援が成功したかどうかは別として、必ずや援軍は派遣されていたはず。何しろ、石黒重之は尊王の志の篤い人物だったというのだから、親王の募兵に応じないはずはない。もし応じないようだったら、「尊王家」の看板は返上ですよ。そして、現に石黒重之は宗良親王の募兵に応じて軍を派遣していたのだ――越前に向けでではなく、常陸に向けて――。実は石黒氏ゆかりの旧福光町(現・南砺市福光。石黒氏は全部で7流に別れているとされるものの、福光石黒氏こそはその本流とされる)が1971年に刊行した『福光町史』を読んでいたらこんなことが記されていたのだ――「石黒重之は、さきに『神皇正統記』を著した北畠親房の軍に従い、小田城合戦に参加していた。尾張国石黒大介家系図、重定(之)の傍記に、「越中守越中奈呉郷貴布袮城主迎宗良親王入城常州小田合戦功有」とあり」云々。ここに出てくる「常州小田合戦」とは常陸国小田の小田城で興国2年に戦われた合戦ですが、なんでそんな遠方の合戦に越中木舟城主である石黒重之が? それは、当時、宗良親王が越中にいて、その募兵に石黒重之が応じたからと考えるしかないでしょう。多分、宗良親王としては、畑時能よりも北畠親房を助けることの方を優先したんだろうなあ。そして、おそらくは自らが先導するかたちで、長駆、小田城に赴いた……。
かくて、宗良親王の越中入国は興国元年であり、そのルートは雪の白川越え、その目的は南朝の頽勢を挽回するための募兵にあった――という高桑敬親説は完全に裏付けられた……?
追記 本文にも記した通り、宗良親王の終焉の地については諸説あるようですが、信州の入野谷郷(現・長野県伊那市長谷市野瀬)とする説がなかなかオモシロイ。もともとここには「御山」と称する墳丘があって、その近くでは十六弁菊花の紋章と宗良親王の法名である尊澄法親王の文字が刻まれた無縫塔も発見されており、もしや「御山」とは宗良親王の墳墓では? と囁かれていたところへ、それを裏付けるような「秘文書」まで発見されて……。ここは昭和15年に刊行された日高瓊々彦著『宗良親王の御遺蹟を溝口に探るの記』より引くならば――「かくて星霜は七年を經過し、昭和十五年五月十二日常福寺棟裏より宗良親王御尊像並に古文書及び觀音像發見したりとの通報に接したり」。なんでもその古文書なるものは「常福寺の棟裏より轉落せる木彫御座像背部の穴に祕藏したりたる祕文書」という。なんとなく発見の経緯がかの『東日流外三郡誌』の発見の経緯(自宅を改築中に「天井裏から落ちてきた」)を連想させるような。あ、あっちがこっちをパクった……? で、同書にはその「秘文書」なるものの文面も紹介されている。ここは原文とワタシが読み下したものを併せてご紹介――
元中二丑秋新田一族者桃井香坂知久等待受來擁護尊澄法親王赴諏訪祝岐邊逢逆賊其一族擁者、二三歸松風峰大德王寺恐顯法親王薨去又新田病死恐逆賊來奉埋神密桃井香坂知久去大河原今尹良親王來當寺築尊墓建立法像寫法華經納尊墓造立法塔亦新田其他爲一族立塔爲菩提納金二枚上酬慈恩報愛族去桃井也
元中八辛未
大德王寺尊仁(花押)
元中二丑年秋、新田一族の者、桃井・香坂・知久等を待ち受けて(従えて?)来たり、尊澄法親王を擁護して諏訪の(大)祝に赴く。(分)岐の辺で逆賊に逢う。其の一族、擁(護)者、二三、松風峰大徳王寺に帰り、恐れ多くも法親王の薨去、又新田の病死を顕す。逆賊の来襲を恐れ、神密に埋葬奉る。桃井・香坂・知久、大河原を去る。今、尹良親王、当寺に来たり、尊墓を築き、法像を建立し、法華経を写し、尊墓に納め、法塔を造立す。亦新田其他一族の為、塔を立て、菩提を為し、金二枚を納め、上酬慈恩報愛(に奉酬して)、族、桃井に去る也。
記された年紀は「元中八辛未」ですが、文書自体はその時代のものとは認めがたいとかで、同書では尊仁自筆の文書を後に(その時期については常福寺が再建された明暦2年頃が有力視されている)「傳冩(伝写)」したものではないかとしている。ただ、書かれていること自体は結構具体的でねえ。「御山」や無縫塔の存在も考え合わせるならば、信憑性は存外、高いような?
で、これだけでもなかなかなんだけれど、もう1つ、ワタシがこの文書をオモシロイと言う理由があって。文中に「桃井」という文字が3度ばかり出てきますよね。最初、これを見た時、結構、動揺したというか。ワタシは「昔、桃井直常という暴れん坊がいた。」で桃井直常の最期は不明であるとしつつも建徳2年/応安4年(1371年)に現在の富山市牧野で亡くなったという説を紹介した上で、その地に残る「伝越中守護桃井直常墓」の写真まで紹介している。しかし、↑の文書には「桃井」という文字が3度も出てきて、これってもしかして桃井直常のこと? と考えるなら、意外や意外、桃井直常は生きていたということになって、こりゃあ、ヘタをすると、桃井直常の身辺を一から洗い直さなきゃいけないぞ、と、そんなふうなことまで考えたわけだけれど……どうやらそれは杞憂だったようだ。↑に出てくる「桃井」とは現在の長野県下伊那郡松川町にある(あった)桃井城の城主・桃井宗継のことらしい。だから、最後の「桃井に去る也」は「桃井城に去る也」だね。で、この人物については『下伊那史』などに記載があるのだけれど、至って簡便な説明で、むしろ素性不明と言ってもいいくらい。ただ、ウィキペディアによれば桃井氏には諏訪土着の「諏訪姓桃井氏」もいたそうなので、その流れだろうなあ。ただね、「昔、桃井直常という暴れん坊がいた。」で紹介した桃井直常(こちらは「源姓桃井氏」に当たる)も宗良親王に仕えた時期があるんだよ。これについては本文でも紹介した高桑敬親著『五箇山史:南北朝期』にも書かれていて――「正平六年高師直や足利直義や尊氏など醜い爭いを起こし、尊氏は十一月一時吉野に降り、弟直義を殺し、一旦將軍職を返上した形となつた。そして第一回の南北朝の和議が成立したのです。所が翌正平七年二月閏十九日折角の和議が決裂した。すると宗良親王が將軍になられ、足利直義の家來になつていた桃井直常が宗良親王の家來になつてお助け申した」。桃井直常というのは足利氏の眷族なので、もともとは北朝。しかし、あの時代は何でもありで、敵の敵は味方とばかりに南朝に鞍替え。その経緯を説明したのがこの下りですが――こういう事情があって↑の「秘文書」を見るとやっぱり桃井直常のことだと思っちゃうよねえ。で、え、桃井直常は生きていたのか、と……。ともあれ、そういう事情で、この文書についても紹介しておこうかなと。歴とした皇胤の最期を伝える(かも知れない)文書――。ただ、自分で読み返してみて、いささか発見の経緯が気にならないでもない。あまりにも『東日流外三郡誌』の発見の経緯に似すぎている。それに「上酬慈恩」(については、こちらを参考にさせていただきました。多謝!)とは浄土宗で使われる言葉のようで。一方で大徳王寺は天台宗の寺院だったとされているようで……あれ?