PW_PLUS


尖山考

 もう1本だけGoogleマップと連動した記事を書いておこう。実はうってつけのネタがあったんだ。

 富山県中新川郡立山町横江にある尖山(読みは公式には「とがりやま」ですが、「とんがりやま」と読んだ方が地元民的にはしっくり来る)は超古代のピラミッドであるとする説がある。いや、そればかりか、神代のUFOとされる「天の浮舟」の基地だったというのだ。この話、その方面の愛好家には相当に知られていて、関連する書籍もいろいろある。もとよりワタシは読んだことはありませんが、地元に関わる話題ではあるし、粗方それがどういう主張であるかということはなんとなくね。ただ、今回、この案件の周辺を洗ってみたところ、この説がかく斯界の注目を集めることになったきっかけが、当時、富山大学人文学部で『万葉集』などを研究されていたさる国文学者の講演であることがわかってびっくり。その講演を受けて当地の主力紙であるところの北日本新聞がどどーんと報じたらしくって、それが全国に波及して行った……らしい。こんなケースって、そうあるもんじゃないよ。もしかしたら、大正7年の米騒動以来じゃないかなあ……? ともあれ、まずはその騒動(?)のきっかけとなった記事を読んでみないことには始まらない。幸いなことに北日の記事なら富山県立図書館の「県内新聞雑誌記事見出し検索」で簡単に探し出せる。しかも新聞雑誌閲覧室まで出向けば専用の端末を使って記事を閲覧できるし、コピーを取ることもできる。そうして取ってきたのがこちらなんだけれど……

 なんと、1984年6月19日付け夕刊の1面トップですよ。タブロイド紙ならぬ一般地方紙の1面トップで「尖山はピラミッド⁉ いや、UFO基地!」。なんとも攻めた見出しですが、北日としても、富山大学人文学部教授のお墨付きがあるから、という安心感があったんだろうな。ただ、それにしたって、よくもまあ、とは思うよ。だって、こう書かれてるんだよ――「茨城県北茨城市磯原町の竹内文書の「神代の万国史」などによると、尖山は神代の大昔、上古第24代・天仁仁杵天皇(アメノニニギノスメラミコト)の神殿「アメトツチヒラミツト」で、天皇はそこから「天の浮舟」(あめのうきふね)に乗り、全世界を飛行したとされている」。そういうことをね、記事には顔写真入りで紹介されている富山大学人文学部教授・山口博氏(なお、現在の肩書きは不明。お年から考えて、もうリタイアされているのかな?)が、この年、突如としてぶち上げて、それがこうして北日本新聞の1面トップを飾ることになったわけだけれど……ここで1つ耳寄りな情報を提供しておくなら、実はこの記事を書いたのは北日の記者じゃないんですよ。この分野の著書を多くお出しになっているオカルト研究家の布施泰和氏が共同通信富山支局の記者だった頃に書いたものであることをご自身のHPで明かしておられるのだ(それが、こちらです。布施氏が件の記事を書くきっかけになった山口教授の講演録「富山サイエンス・フィクションの世界――古代の空想と事実――」も再録されております。これは、一読の価値あり)。要するに北日は共同通信が配信した原稿を夕刊の1面トップに持ってきたわけだけれど……ここは当時の整理部長の英断に拍手を送っておきましょう。ワタシはここに1人の〝みゃあらくもん〟の生きざまを見る思いであります……。でね、この後も北日はこのネタを追いかけていて、1986年1月3日号ではなんと見開き2面を使っての大特集。題して「富山にピラミッド? 尖山の〝なぞ〟を追う」。もちろん、こちらにも山口教授はコメンテーターとして登場しておられます。そりゃあね、この仮説の言い出しっぺなんだから、センセイのコメントは欠かすことはできませんよ。いずれにしても、尖山=ピラミッド=古代宇宙船の基地説は、1984年、富山大学人文学部教授の頭脳から発して、今や全国的に知られるところとなっているわけだね。

 で、はたして真相は如何に? だよね。これについては、ワタシには一定の持論があって。まずね、尖山を古代のピラミッドと見立てること自体には合理性があると。もっとも、そもそもピラミッドが何なのかがわかっておらず(よく王墓と勘違いされがちだけれど、古代エジプトの王家の墓はピラミッドとは別に存在しており、ピラミッドが何であるのかは未だに解明されない謎となっている)、そういう状態で「尖山は超古代のピラミッドだった」もないもんだけれど、ただエジプトのピラミッドにしたって何らかの宗教儀礼に関わりががあることは確実視されている。そりゃ、あの形状が宗教性を帯びないはずはないですよ。で、それと同じように尖山が古の人たちの信仰の対象だったというのは至って真っ当な見立てでね。むしろ、そう見なさない立場の方がよっぽどどうかしている。だから、「尖山は超古代のピラミッドだった」というのは、取り立てて特異な主張ではないんですよ。まあ、問題は、人為的な加工物と見なすかどうかだけれど、仮にその痕跡が認められたとしても(やはりピラミッド説がある秋田県鹿角市の黒又山は学術調査の結果、山の斜面に人工的な構造を示す地中レーダー反応があったことが報告されている。学術調査の結果だってんだから、まあ、そうなんでしょう。しかし、だとしても)、別に驚くことではない。古の人だって、それくらいのことはやりますって。せっかく信仰するならより完璧な円錐形の方がいいもん。だからね、尖山が超古代のピラミッドだというのはさほど驚くべき話ではないんですよ。ただ、だからといって「UFOの着陸基地だった」と言えるのだろうか? これは、UFOを信じるかどうかとは別の話。問題は、他ならぬこの尖山にUFOが飛来していたかどうかなんだから。で、この点についてはワタシは大いなる懐疑論者だったと言っていい。でね、今回、北日の記事や山口教授の講演録を読んでもそれは変ることはなかったのだけれど(山口教授は国文学者だけあってやれ『古事記』だの『日本書紀』だの『武蔵国風土記』だの『西鶴諸国ばなし』だの、果ては『竹内文書』だのとやたらと文献を持ち出してこられるのだけれど、単に煙に巻かれるだけ)……ちょっと待てと。実はね、北日の記事で紹介されている山口教授のこんなコメントが目に留まったのだ――「ピラミッドは空からの着陸目標になるのでは…」。はたして、そうだろうか? あの山また山の中でUFOのパイロットが尖山を探し出すことはそんなに容易だろうか……ということで、Googleマップの出番となる。↓はGoogleマップで尖山のあるエリアを表示したものですが――



 あえて尖山ではなく最寄り駅である富山地方鉄道の横江駅をスポットにしました。見てもらえばわかるように、横江駅の周囲は山また山で、UFOのパイロットはこの山の中から尖山を探し出さなければならないわけだけれど(アナタは探せますか?)、この山また山の中から標高たかだか559メートルの山を探し出すってのは、英語の慣用句で言うところの「干し草の中で縫い針をさがすようなもの(It's like looking for a needle in a haystack.)」で、至難の業と言うべき。ちなみに、ウィキペディアでは尖山を独立峰としていますが(そもそもこれが間違っている。それは↑のマップを見れば一目瞭然でしょう)、本当にUFOの基地とするのなら独立峰であることが絶対条件。それこそ、富士山みたいなね。そうじゃないと、探し出せないですよ。なんでも富山平野はかつては海の底で、尖山の裾の天林(てんばやし。山口教授はこの天林にかつてあったという「石棒を寄せ集めた遺跡」がストーンヘンジではないかと仰っておられます。そして、さらには「ストーンヘンジは古代の天文台説、初歩的なディジタル計算機説、飛行物体誘導装置説などがある」と……)は海に臨んだ台地だったそうですが、だとしても同じですよ。地表から見れば尖山は目立つけれど、上空から見れば周囲の山に紛れてどこにあるかわからんというのは海進時だろうが海退時だろうが変わりようがない。一帯が山地なんだから。こうなると、尖山=ピラミッド=古代宇宙船の基地説を受け容れるのはなかなかムリがあると。繰り返しになりますが、これはUFOを信じるかどうかとは別の話。むしろ、UFOを信じるからこそ(え?)尖山=ピラミッド=古代宇宙船の基地説は受け容れられない、と言ってもいいかも知れない。そして、そういう結論にワタシを至らしめたものこそはGoogleマップの航空写真モードであると。いやー、使えるわ、Googleマップ(笑)。それにしても、なんで山口センセイは尖山=ピラミッドで止めなかったのだろう? そこで止っていれば学説として十分にありなんだよ。それを尖山=ピラミッド=古代宇宙船の基地と風呂敷を広げてしまったがために限りなくトンデモ説に近くなってしまったと言わざるを得ないですよ。そこがいまいちよくわからんというか……。ウィキペディアで山口教授のビブリオグラフィを拝見すると、至って正統派の国文学の研究者であるように見受けられる。しかし、1984年、突如として尖山=ピラミッド=古代宇宙船の基地説をぶち上げ、これが共同通信の配信原稿となって地元富山はもとより全国のオカルトファンの耳目を集めることになった、というのは、はたしてご本人が望んだことだったのだろうか? もっとも、1980年代、山口センセイは『サンデー毎日』が組んだ「大追跡! 日本にピラミッドがあった!」なる連載企画の顧問(他にも松本零士とか小松左京とか古田武彦とか、錚々たるメンバーが名を連ねていた)を務められるなど、この分野のエキスパートとしてなかなかのご活躍だった由。当人としてもまんざでもなかったのかな? ただ、本は出さなかった。当然、オファーはあったはずだなんだけれど、応ずることはなかった(布施氏によれば、ある出版社から『竹内文書』について本を書いてもらえないかと頼まれたことがあったものの、「専門の万葉集などの研究に専念されておられたので、実現しなかった」という)。この事実が山口教授の本心を図らずも明かしているような……?


尖山のある風景(立山町栃津)

付記 もしくは少し長めのキャプション 尖山の撮影ポイントは数多あるけれど、ワタシは立山町栃津地内の県道378号線からのビューがいちばん好き。この道の先にあるものを想像させずにはおかない独特の世界観がある。きっとこの道の先にあるのは尖山を聖なる山と崇める古代人たちの暮らす郷……。なお、尖山の左上に黒いものが見えると思いますが、これはUFO……ではなくて、赤とんぼ。もう群舞といった感じで飛び交っていた。だから、↑の写真に変なものが写っている! と言って騒がないように(笑)。(2024年10月6日撮影)



追記 いささか手前みそで恐縮なんだけれど……Googleで検索すると尖山の写真なるものがたくさん出てくる。でも、オレが撮ったやつがいちばん良いんじゃないかなあ。やっぱり県道378号線を入れ込んだことが効いていて、これによって独特の世界観が生み出されていることは否定しがたい。どうしたって、その道の先にあるものを想像しちゃうもんなあ……ということで、その道の先にあるものなんだけれど、これがなんと座主坊なんですよ。そのことに、今日、気がついた。で、座主坊と言われてもほとんどの人はピンと来ないと思うので、もしその気があるならばこちらを読んで欲しい。今から5年前に書いたものですが、この時点で既にGoogleマップを埋め込むということをやっていたんだね。要するにオレは5年前から全然成長していないということに……? ともあれ、意外にも↑の写真に写り込んでいる県道378号線を進んで行くと「尖山を聖なる山と崇める古代人たちの暮らす郷」……ではなくて、座主坊に出る、ということがわかって、え⤴ こうなると、いろいろ考えなければならないことも出てきて……。

 件の記事にも書いたように、座主坊には刀尾宮という小さな神社がある。いや、あった。もう御神体は麓の雄山神社に移されて、今あるのは刀尾宮跡。ただ、かつてはあったということ。また座主坊とともに旧東谷村を構成していた長倉村にも刀尾神社がある(こちらは今でも存続している模様)。でね、「刀尾」の名を冠した神社はこれ以外にもあって、尖山のある横江とは常願寺川を挟んで対面するかたちとなる富山市岡田にもあるし(刀尾神社)、視界を遮るものがなかった昔は尖山も眺望できたであろう富山市南部(今でも所によってはこうして拝める)の太田にもあれば(刀尾神社)中市にもある(刀尾天神社。ちなみに、わが家からは歩いて行ける距離です)。さらには、富山市岩峅寺の雄山神社の前立社壇の境内にも刀尾社がある。これは境内摂社と呼ばれるもので、この刀尾社について社務所で配布されている「前立社壇略記」では御祭神を「伊佐布魂命(刀尾天神)」とした上で「集落の氏神として祀られてきた」と説明。またジャパンナレッジにも結構詳しい説明が載っていて――「岩峅寺の雄山神社の境内摂社に刀尾神社があって、立山・劔岳一帯の古来の地主神とされる刀尾天神が祀られている」。どうやら刀尾天神というのは岩峅寺集落の「氏神」にして「立山・劔岳一帯の古来の地主神」であるらしい。で、そういう神様を祀った神社が尖山周辺の集落や富山市南部に集中的に点在しているということになるわけだけれど――ここで気になるのは、尖山との関係ですよ。尖山は、古来、信仰の山だった。このことは國學院大学の調査でも裏付けられており、頂上から和鏡や土器類、銅製品など、祭祀に関わる遺物が発掘されている。また尖山は別名を布倉山と言うのだけれど、太古、この山名の由来となった「布倉姫」が住まいされていたとされ、ある伝説も伝えられている。これは江戸時代に書かれた『肯搆泉達録』(閲覧には国立国会図書館の利用者登録とログインが必要)に記されているもので、ここにざっとそのあらましを記すと――新川郡船倉山の姉倉比売と能登の補益山の伊須流伎比古は夫婦だった。しかし、伊須流伎比古は同じ能登の杣木山の能登比咩と不倫関係に陥り、嫉妬に駆られた姉倉比売は「一山の石を盡し礫して、能登比咩を攻め給ふ」。で、そんな姉倉比売に加勢したのが布倉山の布倉媛で「姉倉比売に力を戮せて、布倉山の鉄を打ち砕き給ひければ、能登比咩、姉倉比売の手暴(てごは)きを怒り、颱風(おほかぜ)を起し、海濤を山壑に濺ぎて防ぎ給ふ」。まあ、修羅場もいいところですよ。で、「闘争久しうして止まず、怒気、積陰をなし、渾々沌々として両儀の光を見ず、四序分たず、蒼生育せず」という、今のパレスチナみたいな状況(?)に陥ったと。ここで事態収拾に乗り出したのがバイデン大統領――ならぬ高皇産霊尊で、大己貴命に勅して曰く「闘争を平ぐべし」。で、大己貴命は見事に紛争を収め、姉倉比売は小竹野(今の富山市呉羽)に流刑、その地で「布を織って貢とし、世の婦女にも紡織の業を教へて罪を贖うべし」と説諭。また布倉媛も柿梭の宮(今の上市町柿沢)へ配流、同じく「柿の梭(機織りの道具で「ハタを織るとき、横糸を送り出すもの」とか)を作り、綊(やはり機織りの道具で「ハタを織るとき、縦糸を治めるもの」とか)を編み、姉倉と同じく、布を織り、貢とし、また女功を世に教へて罪を庚ふべし」と訓令を垂れ、かくて越中の古代史を飾る大騒動は一件落着を見た――。

 でね、かねてから不思議に思っていたんだけれど、この伝説に登場する姉倉姫をお祀りする姉倉比売神社というのがあるんですよ。これが実に由緒ある神社で、かの上杉謙信は「越中最古の社」と仰ぎ、天文7年には社領200石を寄進したとされる(同社「御由緒」より)。そういう立派な神社があるわけだけれど……この伝説のもう1人の主役である布倉姫をお祀りする神社は、ないんです。かく伝説にもなっている姫神なのに、それをお祀りする神社が、ない。この、ない、ということがなんとも不思議で、久しく釈然としない思いを抱いていたのだけれど……もしかしたら刀尾神社こそはそうなのでは? なにしろ、尖山(布倉山)のある横江と刀尾宮のある(あった)座主坊は道1本でつながっている。座主坊の民が尖山を信仰の対象としていた可能性は十分過ぎるくらいにあるでしょう。また刀尾神社がお祀りする刀尾天神とは岩峅寺集落の「氏神」にして「立山・劔岳一帯の古来の地主神」とされとされているわけだけれど、その岩峅寺は尖山の目と鼻の先で、集落内からはあの特徴的な山容が至るところから見える(こんな感じです)。こうなると、刀尾天神こそは布倉姫であり、刀尾神社はその布倉姫を祀る事実上の布倉姫神社……と言いたい気持ちがムクムクと。しかも、この仮説を裏付ける傍証も。雄山神社の前立社壇では刀尾社の祭神を「伊佐布魂命(刀尾天神)」と説明しているわけだけれど……この神名の後に括弧で括って別の神名を記すというのが神道には実によくあるパターンで。想像するに「八百万の神」と言われるくらいに大勢いる神様を整理整頓して、この神様とこの神様は同体、というような仕分けがなされた結果なのかなあ、と。それに類することを神様と仏様の間でやったのが本地垂迹説で……ま、これ以上の説明はいささかワタシの手に余るというのが正直なところであります(苦笑)。ともあれ、刀尾社は伊佐布魂命(いさふみたまのみこと)もお祀りしているのだ。で、この伊佐布魂命というのはどういう神様かというと、邇芸速日命(にぎはやひのみこと)が天下った際に随伴した32人の防衛(ふせぎまもり)の1人だそうだ(ウィキペディア情報)。で、その子孫が倭文連(しどりのむらじ)とかで、この倭文連は織物を生産する部民だとか(ウィキペディア情報)。で、布倉姫も織物に関係があるわけですよ。それはね、伝説で物語られている通り。多分、神名に「布」の字が入っているのも伝説を踏まえてでしょう。一方、倭文連は織物を生産する部民で、その祖先である伊佐布魂命にも……そう、「布」の字が入っている。だからね、刀尾神社がお祀りする刀尾天神とは実態としては布倉姫でしょう。かつて神の山として崇められた尖山(布倉山)に坐した姫神……。

 以上、本文とは趣の異る内容とはなりましたが、一応、これも尖山をめぐる「考察」ということで。



追々記 しかしね、なんで布倉姫をお祀りする神社が刀尾神社と呼ばれているのか? 刀尾神社という社名については日本神話の天手力男(雄)命(あめのたぢからおのみこと)に由来するというのが定説で、そのアメノタヂカラオはかの有名な「岩戸隠れ」において岩戸の脇に控えてアマテラスが岩戸から顔をのぞかせると力ずくで引きずり出したとされている。そういう腕力自慢のマッチョな男神と布倉姫という姫神がどう結びつくのか……。

 そんな疑問がノドに絡んだ痰みたいに気になっていたのだけれど……閃いた。まずね、『肯搆泉達録』で物語られている伝説というのは、出雲による高志の国の征服を寓話化したものと見なすべき。これについては似たような話があって、既に一度書いたことがありますが(こちらです)、その話と共通する点がこの話にもあって、それは次の下り――「布倉山の神、布倉媛も姉倉比売に力を戮せて、布倉山の鉄を打ち砕き給ひければ」云々。どうやら布倉山には鉄があったようなんだけれど、これは二上山の悪神を退治したところ、溶けた銑鉄と思われるものが流れ出した(「その傷口から吹きこぼれた血が草木を燃やして麓へと流れ落ち、現在の山道となりました」)とされていることと妙に符合するではないか。だから、布倉族も二上族と同様、「たたら製鉄」に当たっていたんだよ、きっと。しかし、布倉族は出雲族によって滅ぼされた。そして、彼らが持っていた製鉄技術は出雲に伝えられた(その代わり、高志の国には紡織が伝えられた、ということになるかな、『肯搆泉達録』の記載を素直に受けとるなら。さしずめ、軍需から民生への転換。ちょうど戦後の日本がたどったのと同じようなコース。〝敗戦国〟がたどる道……)。一方、布倉族が暮していた土地には慰霊のための神社が建てられた。布倉族が生産していた「鉄」に因んでその神社は「太刀」尾神社と呼ばれた……。



追々々記 そう言えば、『古事記』に描かれた神話では、八俣遠呂智の「中」からは「都牟刈の大刀」が出てきたとされているんだっけ。そして「是は草那藝之大刀也」と……。