自分の気持ちがどんどんエモーショナルになってきている。一体このままこの状態が進んだら……。
昭和15年に出版された『最新實測富山市街地圖』(出版元は北陸出版社。所在地は富山市安野屋と記載がありますが、どうやら既に存続していない模様)を購入した。富山市の古地図なるものはインターネットで閲覧できるものも何点かあって、国際日本文化研究センターの「所蔵地図データベース」では同じ地図の昭和3年版を閲覧できるし、時代はやや下るけれど昭和25年に富山市総曲輪の清明堂書店(これは、懐かしい。ここの2階の洋書コーナーにはペーパーバックを陳列する回転式のラックがあってねえ。田舎の高校生としては胸をときめかせたものですよ。小さいながらも、そこには「アメリカ」があったんだ……)から出版された『最新富山市街圖:戰災より復興へ』というのも閲覧できる。またウィキメディアでも昭和12年に大阪の和楽路屋(わらじや)から出版された「富山市街地図」を閲覧できる。さらにStrolyというサイトでは昭和20年に米軍が作成したという珍しい地図も閲覧できる。なんでもStrolyというのは「位置情報と連動したオンラインマップのプラットフォーム」だとかで、ユーザーは自分が今いる場所がスマホで表示された地図のどこに当たるのかを確認しながら町歩きを楽しめる、ということのようだ。しかし、米軍製作の地図にガイドしてもらいながら富山の町を歩くってか? 確かにそれも1つの「アメリカ」の味わい方ではあるだろうけど……。ともあれ、こんなふうに富山市の古地図なるものはインターネットでも各種公開されており、わざわざ購入する必要もなさそうなんだけれど……実は、そうではないのだ。ワタシにはお目当てのスポットがあって、紹介したいずれの地図にもそのスポットは載っていないのだ。それには理由がある。そのスポットは昭和12年11月に竣工し、昭和20年8月に焼失しているのだ。だから、ウィキメディアで閲覧できる「富山市街地図」でもStrolyで閲覧できる米軍作成の地図でも国際日本文化研究センターの「所蔵地図データベース」で閲覧できる『最新富山市街圖:戰災より復興へ』でも……実は、こちらには地図記号だけは記載されている。ただ、そのことが、その当時、その場所にその建物があったことを表しているとは必ずしも言いがたく……。この件については、後ほどもう少し詳しく。ともあれ、ワタシのお目当てのスポットがワタシが望むようなかたちで載っている地図はインターネットで閲覧できるものの中には1つもないのだ。これはなんとももどかしい限りで。実は、ワタシがこの不条理な(?)状況に遭遇したのは今から5年も前のこと。こちらの記事を書く過程で、そのスポットが載っている地図がないものかとシャカリキになって探したものですよ。しかし、5年前の状況も今と全く同じで。つーか、今の状況が5年前と全く同じなんだよね。5年経っても、全く状況が変わっていない……。ただ、5年前と今では1つ大きく違っている点があって、それはワタシの気持ち。5年前は、まあ、ないならないでいいか――、そんな感じ。しかし、今は違う。インターネットがダメなら、紙媒体に当たればいいじゃないかと。いや、それは全くその通りで。インターネットよりも紙媒体の方がはるかに膨大な情報を蓄積していることは重々承知している。それでいて、なんで紙媒体に当たろうとしないんだ。それは、結局、思いが足りないんだよ……。まあ、そんな感じ。で、いつも利用している「日本の古本屋」で検索してみたところ、『最新實測富山市街地圖』の昭和13年版と15年版が商品登録されていた。値段は、そこそこではあるんだけれど、手が出せないほどでもない。ということで、買いました、昭和15年版。で、これをさらに「谷村ブループリント」という業者さんにスキャニングしてもらった。広げると53cm x 63cmという結構な大きさではありますが、これくらいなら普通にやってもらえる。値段も1,500円と至ってリーズナブルで、ありがたいサービスですよ。で、できあがったのが↓ということになりますが……

さて、この地図の中にワタシがここまでことさら「お目当てのスポット」などとあえてその具体名を明示するのを先延ばししてきたスポットがあるわけだけれど……それは大谷女学校ですよ。5年前に書いた記事もまさに大谷女学校についてのもので。思えば、この大谷女学校に寄せるワタシの思いというものは、当時にしても相当なものだった。しかし、今やその思いはさらに高じてきて、ちょっと自分でも制御しがたいくらいまでに(しかし、なんだな、60過ぎのおっさんが「女学校」に偏執的な関心を寄せている、というのは、相当にヤバいな。そういうヤバいところに、もしかしたらオレは本当に入り込んでいるのかも知れない……)。ワタシがなぜそれほどまでにこの女学校に思いを寄せるかは5年前の記事を読んでもらえばおわかりいただけるとは思うのだけれど、ここで簡単な事実関係だけを記しておくと、ワタシの母がこの女学校の卒業生なのだ。卒業したのは、昭和20年3月。また同校は高等女学校令に基づく4年制の高等女学校だったので、卒業年から逆算すれば、入学は昭和16年4月ということになる。だから、今回、入手した地図が出版された時点では母はまだ在校生ではなかったんだね。その点はやや残念なところではあるんだけれど……ともあれ、大谷女学校は、今年、95歳で亡くなった母が青春の4年間を過ごした女学校、ということになる。で、その大谷女学校が載っている地図はインターネットで閲覧できるものの中には1つもないわけだけれど、今回、ワタシは紙媒体が蓄積してきた膨大な情報の恩恵に浴することで遂にその所在を確認。いやー、メデタイ! アナタは見つけられるかな? もっとも、国際日本文化研究センターの「所蔵地図データベース」で閲覧できる『最新富山市街圖:戰災より復興へ』には大谷女学校は文字情報としては記載がないものの、地図記号としては記載がある。だから、この場所に大谷女学校があったのはこの地図でも確認は可能。ただね、この地図が昭和25年に出版されたものであることを考えるなら、本当にその場所に大谷女学校があったのかどうかはいささか微妙なんだよ。というのも、この年、大谷女学校は、もう1つの浄土真宗系の女学校である藤園女子高等学校(現・龍谷富山高等学校)に併合となり、その歴史に幕を閉じているのだ。しかも、大谷女学校があった一帯は昭和20年8月2日未明の「富山大空襲」により甚大な被害を被っており、大谷女学校も全焼。戦後、復興が図られたものの、この場所で再建が成されたのかは裏付ける文献が見当たらない(多分、大谷女学校について最も詳しい情報を提供してくれているのは『長光寺誌』でしょう。『長光寺誌』というのは大谷女学校の校長・長守覚音師が住職を務めていた富山市五福の長光寺が平成19年に刊行した小冊子。その『長光寺誌』でも大谷女学校が再建されたのかどうかは判然としない。再建されたのなら記載されていないはずはないんだけれど……)。ことによると、再建がままならず、やむなく藤園女子高等学校に併合となった、という想定も十分に可能。で、こういう事情もあるので、ワタシとしてはその場所に間違いなく大谷女学校があった時代の地図でその場所に間違いなく大谷女学校があったことを確認したいと。就中、「大谷女学校」という5文字を地図の上に現認したいと。それは妄執と言っていいものだったかも知れない。
しかし、なぜそんなことにそれほどまでこだわるのか? 母が通っていた女学校であるにしても、なぜそれほどまでに……。それはね、母の女学校時代の写真が1枚も残っていないからなんですよ。母の女学校時代を偲ばせるものは、卒業証書だけ(なぜか、本科と附属看護婦養成所の2枚。もしかしたら附属看護婦養成所の方は「従軍看護婦」を養成するための施設だったのかも知れない。ウィキペディアによれば「太平洋戦争勃発後の1942年(昭和17年)には従来の救護看護婦(高等女学校卒業)を甲種看護婦に格上げし、新たに乙種看護婦(高等小学校卒業の学歴で、2年間の教育)という速成コースを設けるとともに、採用年齢の下限を従来の18歳から16歳にまで引き下げた」。母はこの「乙種看護婦」の条件に当てはまる。でも、こんなこと、全く聞いてないんだよなあ……)。だからね、母に女学生だった時代があったということが、実感できないんですよ。加えて、学校名が載った地図はインターネットで閲覧できるものの中には1つもないわけだから。これじゃあ、イマジネーションを働かせようとしてもなかなか難しい。せめて学校名が載った地図があれば……というのは、切実だよ。なんかさ、「大谷女学校」という文字情報が載った地図を見てはじめてそれを現実のこととして捉えられるというような……。実際、届いた地図を開いて「大谷女学校」という5文字を確認した時は、あった! と口走ったものですよ。で、本当だったんだ、母が大谷女学校の女学生だったというのは……。
地図には父が通っていた富山商業学校も載っている。今とは場所が違っていて、当時は五艘にあった。父はこの富山商業学校を昭和17年に卒業しているので、ちょうど地図が出版された昭和15年当時、同校の在校生だった。冬は上飯野から五艘までスキーで通ったと言っていたっけ……。
今、あなた方が生きた時代の地図を見て、あなた方が生きた時代の空気を感じて、あなた方の息子は涙に暮れているよ。ほわっと・あ・わんだふる・ぺーぱーまっぷ……。
付記 10月17日付けでGoogleマップにクチコミを公開しました。かつて大谷女学校があった磯部町公園に対するクチコミです。10月17日はちょうど1年前に母が富山市中間島の「ゆとりーな」という介護施設に入所した日でした。
何の変哲もない児童公園ですが、私にとっては感情を揺さぶられずにはいないとても大切な場所です。
かつてこの場所には大谷高等女学校という学校がありました。
大正14年、現在も富山市五福にある浄土真宗大谷派の古刹・長光寺の堂内を教室に私立報徳女学校として設立。校長先生は同寺の住職でもある長守覚音師。
その後、大谷女学校と改称し、校舎も富山市総曲輪の真宗大谷派富山別院境内の大谷会館内に移転。さらに昭和12年には富山市磯部町に自前の校舎を建築。それがこの場所に当たります。
今、この地に当時の痕跡は何も残っていません。
それは空襲が原因です。
この一帯は昭和20年8月2日未明の「富山大空襲」により甚大な被害を被りました。
大谷高等女学校も全焼。
戦後、再興が図られたものの、昭和25年になってもうひとつの浄土真宗系の女学校である藤園女子高等学校(現・龍谷富山高等学校)に併合となり、その歴史に幕を閉じています。
そして、校舎があった場所はこうして児童公園に姿を変えたという次第です。
私の母は、この大谷高等女学校に昭和16年4月に入学し、20年3月に卒業しています。
もっとも、戦時中のこととて母を含む女学生らは昭和18年12月からは当時の細入村楡原(現・富山市楡原)にあった軍需工場に「学徒隊」として動員され、卒業後も同工場に留まって今度は「女子挺身隊」として水上飛行機のフロートにリベットを打つ作業に当たっていました。
だから、昭和20年3月卒業と言っても、実際の在校期間はもっと短いんですね。
わが家に母の女学校時代の写真は1枚もありません。
母の女学校時代を偲ばせるものは、卒業証書だけです(なぜか、本科と附属看護婦養成所の2枚。もしかしたら附属看護婦養成所の方は「従軍看護婦」を養成するための施設だったのかも知れません)。
今から5年前、母を連れてこの公園を訪れました。
何か思い出してくれないかと期待しましたが、反応はありませんでした。
当時の痕跡が何も残っていない以上、やむをえないでしょうか。
ただ、ひとつだけ母は覚えていました、それは校長先生が「長守先生」であったこと。
とてもやさしい、良い先生だったそうです。
本年2月に95歳で亡くなった母の思い出に、このクチコミを公開します。
追記 10月25日もクリアして、少ーし気分が落ちついてきたかな。いちばんきつかったのはやはり16、17日で。この両日は、もう……。さて、地図を見ていて気がついたんだけどね、市内電車の護國神社前の1つ前の停留所が桃井町だね。この路線がすでに廃線となっていることもあってこういう町名があること自体、ワタシは初めて知ったんだけれど、この桃井町ってもしかしたらあの(何が「あの」かはぜひこちらの記事をお読みください。「追々記」は今日書いたものです)桃井直常にゆかりの町では? と思って調べたところ、実に意外なことが判明した。桃井町というのは古くからある町名ではないのだ。明治3年までは御坊町という町名だった。それが、この年、桃井町と改められた。しかも、この年、改められた町名は他にもあって、寺町→梅沢町、海岸寺町→八人町、寺内町→餌指町、古寺町→常磐町、長清寺町→相生町――と、ザッとこんな感じ。でね、カンの鋭いアナタのことだからきっと気がついていると思うけれど、旧町名はすべて寺にゆかりがある。そういう町名ばかりが狙い撃ちされたかのように……。
狙い撃ちも狙い撃ち。この町名変更は例の「排仏毀釈」の一環なのだ。そういうことが『富山高岡沿革志』(発行者は「中島龜太郎」。住所は「富山市袋町十番地」。今はもう残っていない町名ですが、地図にはちゃんと載っている。今の北陸銀行本店である十二銀行の対面あたり。今の町名だと「中央通り」となりますが、もはやそう呼ぶのがはばかられるくらいの無残なシャッター通りと化しており、今や焦点は北銀がいつまでこの場所に止まっているかというその一点に絞られていると言っても過言ではなく……)に記されている。しかも、その記されている内容たるや――「十月二十七日封內合寺ノ令ヲ發シ一宗一寺トナシ乃チ曹洞宗臨濟宗ヲ五番町光嚴寺ニ日蓮宗ヲ寺町大法寺ニ淨土宗ヲ目附來迎寺ニ眞宗ヲ京都常樂寺通院持專寺ニ合倂セシメラルヽ等悉ク一宗一寺ニ集メラレタリ是ニ於テ廢寺ヲ毀チ垣墻ヲ破リ墳墓ヲ長岡山ニ移セシ者モ亦多ク廢寺ノ跡ハ處トシテ斷壤缺塊ナラサルハナク人ヲシテ古戰場ヲ過クルノ懷ヲ抱カシメタリキ又士族寺院各々有スル所ノ銅佛鐘磬ヲ擧ケテ一朝之ヲ二ノ丸侍番所邊ニ輸シ送リテ堆積スルコト山ノ如ク其ノ柳町正龍寺ニ鑄造場ヲ設クルニ方リテハ鞴ヲ皷シ火ヲ起シ比鄰喧囂タリ固ヨリ將ニ以テ砲ヲ鑄ントス」云々。「排仏毀釈」ということは知識としては知っていましたが、こういう有り様だったとはこの本ではじめて知ったこと。加えて、ここに「柳町正龍寺」というのが出てきますが、なんとこれがわが家の檀那寺なんですよ。現在、門信徒総代を務めているのも本家の当代の当主で。ただ、今年2月の母の葬儀をめぐってはこの檀那寺との間で一悶着ありまして。詳しくは述べませんが、喪家がお寺さんに気を使わなければならないなんて……。ともあれ、そんなわが家とゆかりのある寺の名前とこんなところで遭遇するとは。しかも、記されている内容がエグイ。寺の境内に鋳造場を設けて仏像や梵鐘を鋳つぶし大砲に作りかえようなんて……新選組でもそこまでの狼藉は働かなかったぜ。薩長てのはなんてやつらなんだ……と、論点が明後日の方向に逸れそうになるのを懸命に堪えて――ともあれ、そんな感じで、桃井町というのは古くからある町名ではないのだ。こうなると、地図に対する印象も若干変わってくる。ワタシは、やれ衣服町だの材木町だの仁右衛門町だのという風情のある町名(これらも今はもう残っていない。ちなみに、仁右衛門町の現在の町名は……白銀町。だからね、当地にもシロガネーゼがおるんですよ。いや、ジョーダンじゃなくって。最近、ゴージャスなマンションも建った。もっとも、ロケーションの説明をめぐってはなかなか苦労しているようで――「“総曲輪都心”隣接」。でも、本当に隣接しているのはかのシャッター通り商店街であるところの中央通り商店街なんですけどねえ……)を見て「古き良き時代」の名残を感じ取っていた次第なんだけれど、とんでもない、すでにそこにあるのは「近代」という巨人によって蹂躙された後の世界だったんだ。そういうことも、この際、書いておいた方がいいかなと。
しかし、梅沢町は本当に「寺町」だな。地図を見ると卍卍卍卍卍卍卍卍卍卍。いや、もっとあるな。別に富山城の鬼門の方角というわけでもないし……なんで?