まったく。この期に及んでもこのオトコはどーしようもないソコツモノで……。一旦アップした記事をキャンセルし、タイトルも「冬井礼二、またの名をブチ犬と言う〜湯豆腐やいのちのはてに読む本は②〜」と改めて再公開します。一応、元の記事も参考資料的に添付はしておきますが、記事のメインはブチ犬です。生島治郎の1996年刊行の連作ハード・サスペンス(とカバーやタイトルページなどには記されている)『暴犬 あばれデカ』(NON NOVEL)の主人公。生島ハードボイルドの読者にとっても決して知名度は高くはないであろうこの異形のヒーロー(文字通り「異形」。左の眉から頰骨にかけて赤黒い痣があり、それゆえ「ブチ犬」と呼ばれている)とワタシも今回が初対面だったのだけれど、その言動の一つ一つが思いがけずワタシの琴線に触れてきて……。このところ続けている未読の生島作品をターゲットとした「センチメンタル・ハードボイルド」を求めてのマイニングが遂に「掘り当てた」というような。いやー、よもやこんな「バイオレンス小説」まがいの本がねえ……。でね、こうなることを全く予想していなかったワタシは生島治郎の1999年の作品『鬼 ゴースト』(カッパ・ノベルス)を読んで(これはこれで面白かった)、だけどこれって「センチメンタル・ハードボイルド」じゃないよなあ……とは思いつつも、一応、書くだけは書いてみようと。実際、書くべきことはあったし。で、書いちゃったら、やっぱりアップしたくなるんだよ、これって「センチメンタル・ハードボイルド」じゃないよなあ……とは思いつつも。で、そうしたわけだけれど、そうした上で既に入手済みだった『暴犬 あばれデカ』を読んだところ、これぞオレが探し求めていたものではないかと。で、そうなると、既にアップした「オールドマン・ミーツ・ゴースト〜湯豆腐やいのちのはてに読む本は②〜」はなんだと。なぜブチ犬を差し置いてこれなんだと。ということで、一旦アップした記事をキャンセルし、タイトルも「冬井礼二、またの名をブチ犬と言う〜湯豆腐やいのちのはてに読む本は②〜」と改めて再公開します。元の記事「オールドマン・ミーツ・ゴースト〜湯豆腐やいのちのはてに読む本は②〜」も添付しておきますので、併せて御高覧を賜れば。
さて、そのブチ犬なんだけどね、いわゆる「悪徳警官」であります。沖浜署の(これは架空の警察署ということになるのかな?)マル暴に所属する巡査部長で、本名は冬井礼二。しかし、この「やや二枚目風の本名」でこの男を呼ぶものはほとんどいない。呼び名は専らブチ犬で、それは単に取り締り対象である暴力団関係者からそう呼ばれているというだけではないのだ。小説の地の文でも冬井礼二は専らブチ犬と表記されているのだ――
「いや、どうも」
軽く頭を下げると、ブチ犬は歩き出した。スーパーの中へ入り、そのままずっと奥へと通る。そこは喫茶店になっていた。
入口に近いテーブルに、初老に近い男が腰を下ろしていた。
「や、お待ちどお」
ブチ犬はその男に声をかけ、向かい側の席に腰かけた。
「なんだか、表がさわがしかったよだな」
と初老の男が、コーヒーを口に運びながら言った。
「おれが見に行ったときは、もうおさまりがついたようだが」
「沢さんが出張るほどのことじゃないですよ」
とブチ犬は言って、近寄ってきたウェイトレスにビールを頼んだ。
こういうのはね、なかなかないですよ。愛称なり蔑称なりというものは会話文の中では使われることはあっても、それが地の文で使われるというのはね。地の文というのは、普通、客観的立場で綴られるものだから。まあ、そういう意味で言えば、ブチ犬というのは、客観的に見ても、ブチ犬以外の何ものでもない、ということになるのかな? それほどキャラが強烈なのは確かで、これだけでもワタシ的には大好物だんだけれど、収録された作品(同書は祥伝社発行の文芸誌『小説NON』に1992年から1996年まで断続的に発表された8編を収めた連作短編集。なお、この「連作短編」という形式こそは生島治郎が最後にたどりついた〝安住の地〟だったと言っていい。学習研究社刊行の月刊女性誌『フェミナ』に1992年から93年にかけて連載した『最も危険な刑事 女極道警部秋吉真美』以降、この形式で発表された作品の数は際立っており、しかも良作揃いというのがワタシの評価で、これを以てこの時代を生島治郎の「ハーベストタイム」だった、という趣旨のことは前にも書いたことがあるのだけれど、この『暴犬 あばれデカ』もその「ハーベストタイム」を彩る1作にはなる。多分ね、生島ファンでもこの時期の作品に注目している人はさほど多くはないと思うんだけれど、ここは声を大にして言っておこう、生島治郎が1990年代に発表した連作短編群はいいぞ。そこには「1980年代」という試練の時を越えて1人の作家がたどりついた「境地」がある……)を頭から読んで行って、第3話「一匹の虫ケラ」(初出は『小説NON』1995年10月号。なお、掲載順で言えばこれが第3話となるのだけれど、発表順では第6話となる。実は刊行本では初出時の時系列に沿った並びとはなっていない。なぜ時系列を崩して並び替えを行なったのかは不明。収録作品を初出時の時系列に沿って読み進めると小説世界が孕む空気が徐々に湿度を変えて行ったのがよーくわかるんですがねえ……)に至って、ええ⤴ ワタシは「林英明研究〜湯豆腐やいのちのはてに読む本は①〜」で林英明シリーズの最終作『国際誘拐』(双葉社)には主人公の林英明が涙を流すシーンがあるとして「生島ハードボイルドで主人公が涙を流すなんて、後にも先にもこの場面が唯一のはず」と書いたのだけれど、「一匹の虫ケラ」では、主人公ではないにしろ、またぞろ涙がハードボイルド小説の紙面を濡らすという、そういうシーンがある――
「ひょっとしたら、あの人はあと二年ぐらいの生命かもしれません」
顔を上げた昌子の眼には涙が光っていた。
「まだ、転移のことははっきりとはせず、検査中なのですが、もし、転移していたら覚悟してほしいとお医者さんに言われたんです」
ブチ犬は言葉もなく、運ばれてきた水割りをすするしかなかった。
「でも、もし二年の生命だとしても、あの人には精一杯生きてもらいたい」
と昌子は涙ながらにつづけた。
「あの人はたしかに極道ですけど、人情味の厚い曲がったことの嫌いな人間です。あたしを裏切ったこともありませんでした。あたしはあの人と結婚して幸せでした。極道だからと言うので親兄弟に反対され、式も挙げなかったけれど、幸せな十年間でした」
「じゃあ、奥さんは彼に生きぬいてもらいたい。そうですね?」
とブチ犬は言った。
ここに出てくる昌子というのは川中裕という極道(タイトルに言う「一匹の虫ケラ」)の女房で「いわゆる小母さんタイプ」とされている。で、「ブチ犬には意外だった。極道の女房と言えば、たいていは険がある。極道という稼業が女房にもそういう荒れた雰囲気を身につけされるのかもしれなかった」。まあ、現代ものなんかはそうかもしれないけれど、時代ものだと意外と小母さんタイプというのも多いですよ。『御家人斬九郎』第4シリーズ第3話「大利根の月」のおふく(演:野呂瀬初美)とかね。この場合もそのパターンを踏襲しているのではないかという印象をワタシは持ったのだけれど……ともあれ、ブチ犬は極道の女房からダンナが癌で余命幾ばくもないと告げられた上で、その残り少ない生命を無駄遣いせず精一杯生きてぬいてほしいと涙ながらに掻き口説かれる。で、ブチ犬は真っ正面から受け止めて――「ご主人はわたしが守る。自分の生命に替えてもね。それだけはお約束しましょう」。そして、その言葉の通りこの夫婦にちっぽけな幸せをプレゼントしてみせるのだ。そして、最後はこんな言葉で締めくくられる――「昌子の話によれば、あと二年ほどの生命だと言う。/それでも、この夫婦は虫ケラではなく、人間らしい生き方をするだろうと思った」。うーん、なんて善良な話なんだ……。
でね、『暴犬 あばれデカ』には他にも登場人物が涙を流すという作品があるんですよ。第4話の「泣くヤクザ」(初出は『小説NON』1994年6月号。発表順では「一匹の虫ケラ」の前ということになる)はタイトルからしてそうだし、第6話の「女に負ける」(初出は『小説NON』1996年3月号。発表順では第7話ということになる。なお、もしワタシが本書の担当編集者だったら、第8話の「裏筋刑事」は割愛して、この「女に負ける」を最終話にしたな。本作のラストにはそれだけの余韻がある)では美人(名前は真山明日香。小母さんタイプの昌子と違ってこちらは「眉が濃くて眼が大きい。まるで宝塚の男役のような美人であった」とスケッチされている)が涙を流す――「明日香の眼から涙が一粒こぼれ落ちた。大きな眼だけに涙も大きい。それがつっと伝わって唇のところへと落ち、彼女はそれを噛みしめるようにきっと唇を結んだ」。それを見てブチ犬は――「美人の泣くところは風情があるわい」。で、ブチ犬はその美人のために一肌脱いで暴力団から5,000万円という大金(別にだまし取られたわけではない。言うならばバブル時代のツケ)を取り返してやるのだけれど、それに対して美人は顔を床の上にこすりつけて――「おかげで助かりました」。もうね、ブチ犬改め関の弥太っぺかってんだ(笑)。
しかしね、こういうモロモロの人情味あふれるシーンもさることながら、ワタシが読んでいて最も驚かされたのはブチ犬の生い立ちが語られること、なんですよ。記憶する限りでは、生島ハードボイルドで主人公の生い立ちが語られる、なんてことは(『国際誘拐』を除けば。なお、『国際誘拐』は『小説推理』1995年2月号〜12月号に連載されたものなので『暴犬 あばれデカ』と執筆時期がほぼ重なる。ワタシは生島治郎は1995年頃から作家としての「終活」に入ったのではと見ていて、そのタイミングで書かれた作品で申し合わせたように主人公の生い立ちについて語っているという事実こそはそれを裏付ける有力な傍証ではないかと)なかったはず。志田司郎がどういう生まれでどういう過去を背負っているかなんて、誰も知らないし、知る必要もない。それは、ハードボイルド小説には必要のないもの――と、そうワタシなりに思い定めてきたりもしたものだ。しかし、その主人公の生い立ちが本作では語られるのだ。それは第7話「おやじの代理」(初出は『小説NON』1996年3月号。発表順では第5話ということになる)において。ブチ犬は、午前零時の人影もまばらな駅前でチンピラ2人にボコボコにされている初老の男を助けるのだが、その男の顔にブチ犬はある人物の面影を見る――
陽に灼けた顔にはきざみつけられたような無数の皺があった。ふつうの勤め人ではなく、自分の腕で生きてきた男の匂いがただよっていた。
その姿を見て、ブチ犬は自分の父親のことを思い出した。
千葉の鴨川で今でも漁師をやっている父親をである。ブチ犬は、三人兄妹の末っ子だが、長男も自分も東京へ出てきてしまった。
姉はもう結婚して、父の近くにいる。
母が五年前に亡くなったので、姉は自分と暮らしたらどうかと父を誘ったが、父は受け入れなかった。
自分独りで暮らした方が気が楽だし、ボケもしないと言うのである。
父はこうして今でも毎日漁に出ている。昔から若い衆として使っている、もう四十になる漁師と一緒だった。
千葉で漁師をやっている年老いた父。娘から同居を誘われても頑なに独り暮らしをつづけている頑固一徹の――。そんなすぐれて日本的湿度を帯びたストーリーが生島ハードボイルドの主人公の生い立ちとして語られることになろうとは……。ワタシはかつて河野典生の『殺意という名の家畜』のある印象的な一節(「その男は、塩田作業用の鍬を使って、まんべんなく海水の塩分を付着させるため、砂地を反転させる作業をくり返していた。しかし、遠くからの目には、肩を落として、何か考えにふけっているような姿勢に見えるのだった」云々)を引用した上で「「推理小説のジャンルの一つである正統派ハードボイルドを、我が国の風土の中に、定着させる試み」とは、こんないかにも「日本的」な情景をモチーフとして取り込むことではない。そんなのは社会派に任せておけばいいんだ」と書いたことがあるのだけれど(詳しくはこちらをご覧下さい。しかし、この頃は元気だったな。『日本ハードボイルド全集』をめぐってこんな長い文章を書いていたんだから。しかも、これと同じくらいのヴォリュームの文章をもう2本書いている。それほど『日本ハードボイルド全集』刊行というイベントに舞い上がっていたということだろうな。あの頃が、懐かしい。ほんの3年前のことなんだけれど……)、この下りを読んで図らずもそのことを思い起こしてしまいました。生島治郎も30年遅れで河野典生と同じ風景――日本的原風景――を視たということかなあ……。でね、こうした従来の生島ハードボイルドには絶対に綴られなかったであろうシーンの数々をワタシがどう受け止めたかなんだけれど……驚きつつもワタシはそれらを受け容れた、というのが正直なところだろうとは思う。いや、正確に言えば、もう少し複雑で、特に最後のブチ犬の生い立ちの件については、なくてもいいのでは? とも。しかし、生島治郎が書きたかったんなら、それはそれで是としよう、と。そこには、何とも言えない、重みがある。28歳の若造が「推理小説のジャンルの一つである正統派ハードボイルドを、我が国の風土の中に、定着させる試み」(宝石社版『殺意という名の家畜』あとがき)と称してお気楽に田園風景を持ち出すのとはわけが違う。そこには、1964年のデビュー以来、ハードボイルドの第一線で積み重ねてきた歳月がある。その上での「日本的原風景」なのだ。むしろ、ワタシは↑の描写には、粛然として打たれるものを感じた、と書いておこう。それが、今のワタシのココロにいちばん正直なコトバ……。
『国際誘拐』に続いて『鬼 ゴースト』を読んだところ(厳密に言えば、その前に『老いぼれ刑事』を読んでいる。で、これがまた永年の生島ハードボイルドの読者にとっては〝チャレンジ〟の連続で。『老いぼれ刑事』は2003年に亡くなった生島治郎にとっては「最後から二番目の本」ということになりますが、一代のハードボイルド作家・生島治郎の「最後から二番目の本」がこんなんでいいのかというような……。七転八倒した揚げ句、ワタシ的にはこんなふうに処理しました。☆☆☆★★は最後に披露した改変措置を前提にしたもの。アマゾンのカスタマーレビューとしては前代未聞、かな?)、これがまた永年の生島ハードボイルドの読者にとっては〝チャレンジ〟の連続で。思えば、晩年、生島治郎はこれでもかとばかりに読者に難題を突きつけた。『上海カサブランカ』なんて、どんだけ受け止めるのに苦労したものか(『上海カサブランカ』についてはぜひこちらをお読みください。ワタシがアマゾンのカスタマーレビューに書いた第1号となります)。で、またしても、ということなるわけだけれど、受け止めるのに苦労した、ということで言えば、もしかしたらこの『鬼 ゴースト』がいちばんかもなあ……。
さて、本作の主人公は前田太一という元刑事で、3年前に警察を定年退職してからは私立探偵を生業として余生を送っている。物語はそんな太一が目黒川で首なし死体を発見するところから始まる。で、その発見の経緯なんだけれど、これがぶっとんでるというか――
上流からはさまざまなものが流れてくる。台風の後だけに樹木の折れたのが多い。葉をつけた枝が数本かたまって、太一の前まで来るとつつと岸へ寄ってきた。
「あれを見ろよ」
と太一の上のゴーストが叫んだ。
ゴーストというのは、人間にくっついている背後霊とも天使ともつかない奇妙な寄生生物である。
(略)
そのゴーストが肩の上で叫んでいる。
「あれだ、あれを見ろ」
その言葉に太一は枝がもつれ合った漂流物の方を見やった。
すると、枝と葉の中に妙なものがあるのがわかった。どうやら、人体のようである。ただし、首と両手はない。
なんと太一は「ゴースト」と呼ばれている「人間にくっついている背後霊とも天使ともつかない奇妙な寄生生物」のサジェスチョンによって首なし死体を発見したのだ。↑の(略)とした部分にはその「ゴースト」との最初の遭遇(「ゴースト」はすべての人間に寄生しているものの、人間はそのことを認識せずに生きている。しかし、ある時、見えるようになる。実はこれが重要で、「太一がはじめてゴーストを目にしたのは、還暦の年の誕生日だった」とされている)とか「ゴースト」の生態(一応、生島治郎は「寄生生物」としているので、生態ということにはなるでしょう)だとかが綴られているのだけれど、そこは、まあ、ご自分でお読みいただくとして、太一はこの奇妙な生きものをいわば「相棒」として私立探偵稼業に勤しんでおり、今しもそのサジェスチョンによって首なし死体を発見した、ということになる。で、このきわめてユニークな設定の小説をワタシは十二分に堪能した、ということをまず最初に書いておこう。とにかく、オモシロイ。ただ、一応、これはミステリー小説だからね(カバーにも「長編推理小説」と明記してある)。で、ミステリー小説として読んだ場合は……これがもう〝チャレンジ〟の連続で。
「ゴースト」はすべての人間に寄生しているので、当然、殺された人間に寄生していた「ゴースト」もいる。で、通常、「ゴースト」は宿主が死ぬと、7日間、仮死状態になり、その後、次の身の振り方が決まる。宿主が自然死で天国に行く場合は「ゴースト」もともにに天国に行くが、宿主が自然死でない場合は成仏できず、「ゴースト」も行き場がない。その場合、「ゴースト」は「幽霊」になることがある。「ゴースト」が「幽霊」になるんです。英訳する場合、困ったことになるだろうなあ……。ともあれ、殺されるなど、恨みを抱いて死んだ人間の「ゴースト」は初七日が明けると「幽霊」となって化けて出ることができる。で、「ゴースト」が見える人間には「幽霊」も見える。だから太一は「幽霊」が見えるわけですね。それどころか、話もできる。だから、「幽霊」に訊けばわかっちゃうわけですよ、犯人が誰かは。実際、件の首なし死体の身元(晴友銀行総務部長代理・高井清)も犯人(江と周というチャイニーズ・マフィアの二人組)も「幽霊」への聞き込み(?)によって判明するわけだけれど、これじゃあミステリー小説にはならない。では、生島治郎はどうしたか? 判明したのは実行犯であって、彼らに殺しを依頼した人物は別にいる、ということにした。で、さらにその人物を顎で使っている真の黒幕もいるという三層構造にしてみせた。まあ、そういうことにでもしないことには、この設定の場合、小説にはならんでしょうから。で、その黒幕のヒントとして「幽霊」はこんなことを言うのだけれど――「それから中山はこう言った。『わかった。わかりましたよ。もう無茶はやりません。あんたの指示通りにします』それだけ言うと、電話を切った。そして、こうつぶやいた。『オシユキのやつ大丈夫かなあ』」。このいかにも曰くがありそうな「オシユキ」こそは事件の謎を解く最大の鍵――と誰もがそう思うところだと思いますが……これがさしたることもなく判明してしまうのだ。それは、殺された高井が勤務する晴友銀行の総務部担当常務取締役・望月英助だというのだ。「オシユキ」と「モチヅキ」、似てますか? こんなさ、判明した時点で脱力してしまうようなトリックをわざわざ仕掛けますかねえ……。
しかし、本作を読んだものが向き合うことになる最大の〝チャレンジ〟は別にある。それは、その「オシユキ」こと望月英助が顎で使っていた人物(総会屋の中山一弘。もともとは晴友銀行を強請っていたが、望月の方が一枚上手で、逆に望月に顎で使われるようになった)を口封じのために殺害した方法。これについては、青酸カリを注入したロマネ・コンティを飲ませた、とされているのだけれど、問題はその注入方法ですよ。現場には年代もののロマネ・コンティのボトルとグラスが1つ残されており、ボトルはその場で封が切られたものであることも現場の状況から明らか。で、これは小説の最後で種明かしよろしく語られることなんだけれど、このロマネ・コンティを持ち込んだのは望月で封を切ったのは中山だとされている。これは中山の「幽霊」の証言なので間違いない――「バブルのときはよく呑んだものだが、今や久しぶりだと言って、いそいそと封をはずし栓を抜いた。そして、グラスになみなみと注いでぐっとあおった」。これがね、仮に望月が封を切ったというのなら、そのタイミングでなんらかのトリックを弄して青酸カリを注入することも可能なんだけれど、その可能性はこの状況だと排除される。要するに『刑事コロンボ』第42話「美食の報酬」のようなトリックは使えないわけですよ。では、一体どうやって望月は青酸カリを注入したのか? ということになるわけだけれど……これについては何ら語られないまま。話がここに及ぶまでには太一と一郎(太一の息子。警視庁捜査一課に所属する警視。国家公務員1種試験を通って警察に入ったキャリア)の間で「多分、犯人は注射器のようなもので、壜の中に青酸カリの溶液を注入したんでしょう」というようなことが話し合われたりするのだけれど、それは単なる推理だから。その推理にしたって、そもそもロマネ・コンティには封がされていたわけだから。それでどっから注射針を差し込むんだ? またコルク栓にそれを裏付けるような痕跡が認められた、というような鑑識からの報告もなし。そんな状態でそんな説明を信じろと? でも、結局、それ以上の話もないまま小説は終わってしまうんですよ。まるで青酸カリの注入方法なんてさほど重要な問題ではないかのような。でもさ、とんでもなく重要でしょ? 実際、『刑事コロンボ』第42話「美食の報酬」はそこに焦点を絞り込んでいたわけだから。いくら『鬼 ゴースト』が奇想にウエイトを置いたファンタジーに近いものだとしても、一方でミステリーとして書かれたものではある以上、そこは元『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』編集長らしくキッチリとやってくださいよ……。
ま、そんな感じでね、正直、これにはほとほと参ったんだ。で、この件を処理する最も手っ取り早い方法は「ベテラン作家の手抜き」として処理することだと思うのだけれど、ワタシとしてはそうはしたくないというか。やっぱりワタシは生島治郎という作家をリスペクトしているので。で、いろいろない知恵も絞って、一時は「信頼できない語り手」というセオリーを本作に当て嵌めることができないかと検討したりもしたんだけれど(中山の「幽霊」を「信頼できない語り手」と見なすということ)、それで小説として成立するかとなると……。で、最終的にね、こう考えることにした――『鬼 ゴースト』は現実に起きた殺人事件を扱ったポリス・プロシーデュアルではなく、レビー小体型認知症を発症した男を取り巻く「奇妙な認知世界」の報告書である。
えー、突然、何を言い出すんだと、そんな感じだと思いますが……実はこれは母の介護体験から出てきた発想なんですよ。ワタシの母はアルツハイマー型認知症と診断されていたのだけれど、症状の一部にレビー小体型認知症を疑わせるところがあって、ひと頃、レビー小体型認知症について、結構、研究した。レビー小体型認知症というのは、もともとはパーキンソン病の病理変化の1つとして知られていたそうですが、1995年にレビー小体型認知症と名付けられ、1996年に診断基準がつくられた比較的新しい認知症。しかし、現在ではアルツハイマー型認知症、血管性認知症とともに「三大認知症」と呼ばれており、認知症の中に占める割合は20%程度とされているので、アルツハイマー型認知症に次いで多いんですね。だから、実際のところ、どうだったんだろうなあ。ワタシの母はアルツハイマー型認知症と診断されていたわけだけれど、症状からはレビー小体型認知症の可能性の方が高かったんじゃ……? で、その症状なんだけどね、これにつてはこちらの記事のこんな一節を紹介することにしましょう――「レビー小体型認知症の特徴的な症状が、幻覚です。/特に幻視の症例が多く、「子どもが天井から顔を出している」「部屋の隅に虫がいる」などと主張したり、その場にいるはずのない人や、小人のような想像上の生き物が見えたりすることもあります」。ワタシの母もよく言ってたんだ、いろんな人が「いる」とか「見える」とか……。でね、ここでこの一文を紹介した理由なんだけれど、この最後の「小人のような想像上の生き物が見えたりすることもあります」というのが本作の主人公・前田太一を取り巻く状況にそっくりなんですよ。実は「ゴースト」は「半透明の子供のような形をしたもの」「身長は一メートルくらい」とされていて、まさに「小人のような想像上の生き物」そのもの。また同記事ではレビー小体型認知症は「65歳以上の方に多く、男女別では、比較的男性に多い傾向があります」とされているのだけれど、これも太一にそっくり当てはまる(作中では「太一がはじめてゴーストを目にしたのは、還暦の年の誕生日だった」とされていることは既に記した通り)。こうなると本作を額面通りのミステリーと見なすのは憚られるような。少なくとも生島治郎はレビー小体型認知症に関わるさまざまな知見を踏まえてこの小説を書いているのは間違いないでしょう(レビー小体型認知症は1996年に診断基準がつくられた比較的新しい認知症とはいえ、本作は『小説宝石』1998年4月号〜8月号に連載されたものなので、その知見を反映させることは十分に可能だった)。そういう認識に立ってワタシは本作を「現実に起きた殺人事件を扱ったポリス・プロシーデュアルではなく、レビー小体型認知症を発症した男を取り巻く「奇妙な認知世界」の報告書」と考えることにしたわけだけれど(なお、最初のアイデアはほとんど「天から降ってきた」ということも書き添えておきましょう。その日は、母をいわゆる「お別れホスピタル」に預けると決断したちょうど1年後だった。1年前のあの日のことを思い出していたら、突然……)、そう考えるならばロマネ・コンティへの青酸カリの注入方法がさほど重要視されないのは十分に納得が行くじゃないか。それどころか、ミステリーなら当然、重要視されるはずの案件がほとんど重要視されていないというこのことこそが『鬼 ゴースト』が現実に起きた殺人事件を扱ったポリス・プロシーデュアルではないという作者・生島治郎が読者に託したメッセージである――と、そこまで言い切りたい誘惑に駆られているのだけれど……はたして世の探小読みの評価や如何?