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ひとりぼっちの街

 それにしても、ケーブルテレビ富山はスゴイことをやっているなあ。風の盆の町流しを生中継しているよ……。

 「先駆者の栄光〜島内透の北村樟一シリーズ3部作〜」を書いたのは2020年10月のこと。島内透とのつきあいは、それ以来ということになる。まあ、長いと言えば長いし、短いと言えば短い。いや、生島治郎や河野典生とのつきあいは十代の頃からなんだから、2020年10月以来なんて、須臾みたいなものかな。ただ、おれはウィキペディアにページも作成しているので。この作家に対するこだわりは人後に落ちないつもり。と言いながら、おれは「ワタシだけの『日本ハードボイルド全集』」から島内透を外しているんだけどね。入れるんならば『白いめまい』だろうと思ってはいたんだが、他のメンツと比べてネームヴァリューで劣るというのが一つ。あと「先駆者の栄光〜島内透の北村樟一シリーズ3部作〜」でも書いたように、北村樟一シリーズはハードボイルドではなくソフトボイルドだろう、というのがあって、まあ、これが決め手にはなったかな。ただ、一口に北村樟一シリーズとは言ったって、最初の2作(『悪との契約』と『白いめまい』)と最後の1作(『白昼の曲がり角』)では全然タッチが違う。最後の1作は十分にハードボイルドと言っていい。しかも、出来も悪くない。まあ、タイトルにも採用された「曲がり角」云々が全く余計で(これについては大井廣介も『紙上殺人現場:からくちミステリ年評』で指摘していて「「曲がり角」「曲がり角」と、「曲がり角」に少々こだわりすぎるよ」)、これさえなかったらもしかしたらわが国ハードボイルドの草創期を代表する傑作になっていたかも知れない……と思わせるような作品で。だったら、(「曲がり角」の件には目を瞑って)『白昼の曲がり角』を押し込む、という選択肢もあった? いや、それはない。だって、最初の2作とタッチが違いすぎるもの。で、最初の2作を差し置いて第3作を押し込むというのは……。だから、どうしたって外すしかなかったかな。

 で、ここで改めて指摘することもないだろうとは思うけれど(こんな記事を読んでくれているのは、島内透の読者には違いないだろう、という前提で)、島内透の作家キャリアには15年ばかりのブランクがある。有り体に言えば、一度、島内透は筆を擱いているのだ。その理由を彼は語っていない。同じようなパターンとしては、高城高のケースがあるが、こちらは当人が理由を語っていて――「私に対した会社のある先輩が何気ない口調で、しかし目は私を見据えながら「君は〈二足の草鞋を穿く〉という言葉を知っているかい?」と訊いてきた。思わず目をそらしてしまい「そうか、分かってやっているんだな」といわれた」(『X橋付近:高城高ハードボイルド傑作選』巻末「〈一期有限〉ということ」より)。で、島内透の場合もそれに類した事情があったのかなあ、という気はするんだが、ただ彼は『血の領収書』でカムバックを遂げた当時、50代だったはずで。それまで勤めていた会社を定年退職して創作活動を再開した、というパターンには当てはまらないような気がする。そうなると、何らかの事情で創作に行き詰まり、一旦、筆を擱いた、という可能性が見えてくる。その場合、北村樟一シリーズの最初の2作と最後の1作ではタッチが違いすぎる、ということが一つの手がかりにはなりそうなんだが……そんな島内透には、北村樟一シリーズ3作以外にも雑誌に掲載されたきりになってしまっている作品があることがわかった。まあ、あっても不思議ではないんだけれど、日本推理作家協会発行の『推理小説年鑑』でこの事実を知ったときには少しばかり残念な感じがしたものだ。おれは、島内透というのは、北村樟一シリーズ3作だけで一度は文壇から消えた男、と思い込んでいたので。そこに島内透という作家の神秘性みたいなものも感じていて……なんだ、普通に『推理ストーリー』とかに書いていたのかよ……。ただ、そうとわかれば、読んでみたいよね。ことに『白昼の曲がり角』の後に書かれた作品があるとなれば、それを手がかりに島内透の断筆の理由を読みとることもできるのでは? ということで、そのリストを示す。


  • ラジオと口紅(『漫画読本』1962年6月号)
  • ババリアの泡(『推理ストーリー』1962年9月号)
  • 曲がり角の男(『漫画天国』1962年11月30日号)
  • 風と木犀の女(『推理ストーリー』1962年12月号)
  • 煙霧の夜(『実話特報』1963年2月号)
  • 死の不協和音(『推理ストーリー』1963年9月号)
  • ひとりぼっちの街(『推理ストーリー』1965年12月号)

 まず、『推理小説年鑑』では『推理ストーリー』1962年9月号に掲載されたのは「ババリアの港」としているのだが、これは間違い。正しくは「ババリアの泡」。「ババリア」とは銀座にあるビヤホール兼レストランの名前で、そこに群がる有象無象がいて、彼らが享受する虚栄を泡のようなものだという意味で「ババリアの泡」という表現を使っている。それから『漫画天国』1962年11月30日号に掲載された「曲がり角の男」は、読んでいないから断言はできないけれど、おそらくは『白昼の曲がり角』の元になった作品だろうね。というのも、『白昼の曲がり角』の第1章の章題が「曲がり角の男」なので。はたして元となった小説も北村樟一が主人公だったのかどうかはわからないけれど、いずれにしたって『白昼の曲がり角』は既発表の短編小説を膨らませる形で長編小説に仕立てたもの――という見立てで間違いないだろう。そこが、なんとなく「木に竹を接いだ」ような感じの原因なんだろうなあ……。ちなみに、おれは一つ前の記事で「このあと、読みたいな、と思っている小説が何篇かあって(それは、生島治郎が書いたものではない。現時点では誰が書いたものかは伏せておきますが、こちらも雑誌に掲載されたきりになってしまっていて、掲載誌も掲載号も確認できているんだが、なかなかねえ……)」と書いたんだけれど、その「掲載誌も掲載号も確認できているんだが、なかなかねえ……」というのがこの「曲がり角の男」。掲載誌である『漫画天国』1962年11月30日号は国立国会図書館にも所蔵がなく、「日本の古本屋」でもヤフオクでも見つからない。相当粘ってはみたんだが、一旦、諦めることにした。まあ、昭和37年に出版された漫画雑誌なんて、なかなかねえ……。あと、もう一つ。『推理ストーリー』1963年9月号に掲載された「死の不協和音」は、これまた読んでいないから断言はできないけれど、おそらくは1979年に15年ぶりの新作として発表された『血の領収書』の元となった作品。というのも、『血の領収書』の第5章の章題が「死の不協和音」なので。まあ、『推理ストーリー』については国立国会図書館に所蔵があるので読もうと思えば読めるんだが……読まなくてもわかることのためにわざわざお金を費やすというのもね(国立国会図書館からコピーを取り寄せるだけで1000円はかかる。年金生活者としては、当然、予算には限りがあるわけで……)。で、結局、おれが読んだのは↑で太字表記した3作、ということになる。

 この内、最も読みたかったのは「ひとりぼっちの街」で、これだけは遠隔複写ではなく掲載誌を手に入れた(こちらです)。幸い、某古本屋(こちらです)の在庫目録にリーズナブルな値段で載っているのが見つかったので。国立国会図書館からコピーを取り寄せるのと値段が変わらないんなら、当然、現物を選ぶよね。しかも、カバーがいいじゃないか。手がけたのは堂昌一で、ちょっとファッション画ふうのところもありますが、この人が装画を手がけた本にはこんなのもあって、まあ、見事なGGA(Good Girl Art)ですよ。これは前にも書いたことがあるんだけれど(こちらです)、アメリカのハードボイルド黄金期にそれはそれは魅力的なGGAでそのアシストをしたアーティストたちがいて、名前を挙げればロバート・マッギニスとかロバート・マグワイアとかになるんだけれど、この人とか大塚清六とか宮永岳彦とかはそれに匹敵する仕事をしたと言っていい。しかし、それに見合うだけの評価を彼らが受けているかと言えば……。まあ、この件については、いずれ改めて書くこととしようか。で、残る2作は遠隔複写ということになるわけだが、偶然にもおれを大いに失望させることになったのがこの2作。よかったよ、現物を手に入れたのが良作でコピーで済ませたのが凡作で。これが逆だったら、ガッカリ感はハンパなかっただろう……ということで、「ババリアの泡」と「風と木犀の女」は本当に凡作でねえ。「ババリアの泡」は、速水敏夫という名前の事件屋が主人公で、一種のピカレスクロマンということになるのかも知れないけれど、いかんせん、事件がぬるい。それに応じて、速水敏夫のキャラもぬるい。城戸禮のアクションものの主人公と大して変らんような? ちょっとキツイ言い方になるけれど、よく『推理ストーリー』の編集部はこんなのを採用したなあ、というような、そんなレベルですよ。「風と木犀の女」は、それほどではないんだけれど、やはり凡作と断じざるを得ない。実は、おれは期待していたんだよ。なんたってタイトルが「風と木犀の女」だから。イメージがふくらむじゃないか。きっと堂昌一の絵のような女なんだろうなあ……と。ところが、その女ってのは、少女なんだよ――「女はまだ稚い樅の幹に身をかくすようにして、私のほうを見つめていた。私は自分の庭を散歩でもしているような足どりで、さりげなく女に近づいた。女は十八、九の若さだった。少女と呼んだほうがいいかもしれない。病的なほどの大きなひとみと透きとおるような白い肌。きゃしゃな肩、細いがしんの強そうなからだ。やわらかそうなウールのワンピースの上にはおっている白いカーデガンが妙に大人っぽかった」。確かに島内ハードボイルドにはよく少女が出てくる。『白いめまい』の磯田久江とか『白昼の曲がり角』の伊藤みゆきとか。だから、「風と木犀の女」の女(太田紀子)が少女でも悪くはないんだけれど。でも、普通、「風と木犀の女」というタイトルから連想するのは大人の女だよね。しかも、悪女。いわゆるファムファタールってやつですが……これはそんな悪女と私立探偵の「大人の恋の物語」……と勝手に想像していたおれがバカだった。なお、「風と木犀の女」には私立探偵も登場しません。主人公は長野法律事務所の調査員・高木二郎で、多分、島内透としてはE・S・ガードナーの「弁護士ペリー・メイスン」シリーズがイメージとしてあったんだろう。高木二郎がポール・ドレイクで法律事務所の所長・長野高臣がペリー・メイスン。ただし、法廷場面はないので、長野高臣の見せ場もない。そういう意味でも物足りない。

 ともあれ、こんな感じで、発表順に「ババリアの泡」→「風と木犀の女」と読み進んだおれとしては、こりゃあ「ひとりぼっちの街」もダメだろうなあ、と。ところが、これは良作だった。しかも、探偵役を務めるのは石川規子という17歳の少女なのだ。「少女」は島内透のお得意のモチーフではあるけれど、探偵役を務めるというのは全く以て想定外。しかも、この少女の人物造形がなかなかでね。ここは書き出し部分を読んでもらおうと思うのだけれど――

 石川規子は消火栓の頭を蹴とばした。蹴とばすといっても、鉄かなにかでできている消火栓の頭はゴツくて堅いし、規子のはいている靴は底のひらたいカッターシューズだ。力まかせに蹴るなんてことはとてもできやしない。やわらかな靴の底で消火栓のゴツい頭をさっとなでてやる、そういったほうがいいだろうか。
 つまり、一種のあいさつなのだ。やっこ凧のように無骨で、腕のない埴輪人形のように可愛らしい消火栓……一日じゅう歩道の角に立っていて、わたしが何回そばを通ってもふりむきもしない。だからわたしのほうで勝手にあいさつをしてやるんだ。
 ついこないだも、わたしがこの消火栓の頭をなでたら、夏子がまねして靴の底をあてたので、なんのつもりかわかる? ときいたら、おませな夏子はうれしそうに笑って、ボーイフレンドを可愛がってるんだ、なんて答えて、靴の底をぐりぐりこすりつけるようにしたが、わたしが、この前を通るたびにきっと蹴とばすことにしてるのよ、と教えたら、急にまじめな顔になって、おもしろいからわたしもこれからそうする、とかいってたけど、移り気な夏子のことだから、そんなことはきれいに忘れてるかもしれない。
 でも、わたしは忘れないし、これからも蹴とばすことはやめやしない、誰かがいっしょにいてもいなくても……。

 さあ、どーよ。おれは一読して綿矢りさの『蹴りたい背中』を思い起こしたんだが……でも、書いたのは男だぜ。しかも、発表されたのは1965年なので、当時、島内透は既に40代だよ。それで、こんな文章が書ける。こんな、少女の体内に入り込んだような文章を……。

 石川規子が消火栓を「可愛がって」いるのは、言うまでもなく、孤独だから。石川規子というのは、いわゆる「みゆき族」ということになるのだけれど(平底のカッターシューズは「みゆき族」の定番で、オードリー・ヘップバーンが『麗しのサブリナ』で履いていたことから「ヘップバーン・シューズ」とか「サブリナ・シューズ」とか呼ばれることもあるらしい)、とはいえ当人は「みゆき族なんてイヤよ」と言ってのけるような勝ち気なところもある。まあ、世の大人に○○族と決めつけられるのがいやなんだろうね。で、常に周りには仲間がいるんだけれど――「わたしはいつも、最後にはきまってひとりぼっちになってしまう。きょうなんかはお昼には七人もでワアワア言いながら歩いていたんだけど……」。そんな少女が件の消火栓の近くで起きた仲間の死亡事故に深入りし、遂にはそれが殺人事件であったことを突き止める、というのがザックリとしたストーリーで(この際、ネタバレを承知で書いておくなら、犯人は夏子です)、言うならば石川規子は17歳の探偵なのだ。彼女の前には東都新報社会部の記者・内野修三という人物が現れて何かと協力はしてくれるのだけれど、物語はほぼ石川規子の視点で綴られており、言うならば「ジュブナイル・ミステリー」ということになる。しかも、興味深いのは、コバルト・ブックスが創刊されたのが「ひとりぼっちの街」が書かれたのと同じ1965年であること。後にこのシリーズからは生島治郎の『ふり返らずに、走れ!』が刊行されるのだが、島内透はこのジャンルでも先駆者だった、ということは是が非でも書いておく必要があるだろう。もっとも、こちらでも「先駆者の栄光を担い損ねた」と書かざるを得ないのだが……。

 さて、今回、おれが島内透の作品で雑誌に掲載されたっきりになっているものをわざわざ国立国会図書館からコピーを取り寄せるなどして読んでみたのは彼の(一度目の)断筆の理由を読みとることができるかも知れない、という思惑からだったわけだが……できた? ような気がするなあ。結局、彼は作家としての方向性に迷いが生じていたんだと思う。『日本ミステリー事典』では島内透の履歴に関して――「一橋大学で社会心理学を学び、石原慎太郎と同じゼミにいたこともあるという。10年余留年して中退したが、在学中より小説を試作しはじめ、松本清張の亜流ではなく社会性を盛り込むため、ハードボイルドに活路を求めた」。で、それは確かにそうなんだろうけれど(それを裏付けることは『白昼の曲がり角』のカバー裏にも記されており、そちらでは「社会派の巨匠、松本清張に刺激され、日本におけるハードボイルドの先駆者たらんと書きはじめたのが推理小説だという」)、きっと島内透はそうして選び取ったハードボイルドという形式にも疑問を持ちはじめていたんだと思う。そう思わざるを得ない理由があって、それこそは北村樟一シリーズが第3作に至って大いにタッチが変化していること。おれは「先駆者の栄光〜島内透の北村樟一シリーズ3部作〜」で北村樟一シリーズをソフトボイルドだとしたのだが、それが当てはまるのは第1作の『悪との契約』と第2作の『白いめまい』だけ。第3作の『白昼の曲がり角』は正真正銘の――というか、型に嵌まったハードボイルドと言っていい。それは、北村樟一の口調に表れている。これが、北村樟一というソフトボイルドガイの特徴で。では、もともと北村樟一はどんな口調だったのか? ここは「先駆者の栄光〜島内透の北村樟一シリーズ3部作〜」で紹介した一節を少しばかり摘んで引用するなら――

「あなたは何という名前なの」と北村はきいた。
「エリー」
 女がかすかな声で言った。
「え?」
「エリーよ」こんどは聞きとれる声で言った。
「そう。エリーさんねというのね。あちらスタイルの芸名みたいね」
 しかし北村はそれ以上きこうとしなかった。
 京橋に突き当る手前まで行って北村は言った。
「僕をどこに案内してくれるの」
 テアトル銀座の裏手に出たとき女が答えた。
「右へ曲って……」
 いわれるままに、北村はハンドルを右へ切った。すぐ昭和通りに出た。
 ブレーキを踏みながらきいた。「どっち? 左?」
「まっすぐ行って」
「この通り越して?」
 女がうなずいた。
 車の切れめを待って、北村は広い昭和通りを突っきり、また暗い横町に入った。
 新富町の都電通りに出たとき、またきいた。
「どっち?」
「まっすぐ」と女が答えた。
 明るい都電通りを突っきって、またせまい横町に乗りいれた。下町らしいゴミゴミした暗い街が両側につづいた。
 ヒルマンはすぐ市場通りに出た。
「まっすぐ?」と北村はきいた。
 女はまたうなずいた。
 北村は思わず微笑を浮かべながら、また暗い裏通りへヒルマンを進めた。暗い街はたしか入船町か湊町だった。すぐ目のまえを隅田川が流れているはずだった。
「まだまっすぐなの」と北村はライトの白くなでる暗い道に目をそそぎながらつぶやいた。「このまま行くと、大川に落っこっちまうけど……」
 エリーはかすかに笑った。ひくい声でいった。「左よ」

 この「〜なの」「〜ね」というのが北村樟一の口調で、これは『白いめまい』でも変らない。それが、『白昼の曲がり角』では一変する。

 女はかすかに微笑を含んで、北村の前に歩いてきた。小柄な二十五、六の女だった。大きく波うたせた黒い髪、小麦色の引き締まった肌、情熱的な黒い瞳が魅惑的だった。尊大というほどではないが、客を一時間待たせてもなんとも思っていない女主人、といった魅力があった。
 女は北村の前の椅子に腰をおろし、白い小さな歯を見せて、うれしそうに笑った。
「腰を上げようともなさらないで、うちのお客さんにはめずらしいですわ」
「ぼくも、あなたのようなすばらしい女性がこの建物のなかにいようとは思わなかった」
 北村は女の着ているベージュ色のスーツをゆっくり眺めた。グレーのユニホームを脱がせても、これだけのスーツを着ている女は、若い店員のなかには何人もいそうにない。女は北村のぶしつけな視線に腹を立てたようすもなく、きれいな声で笑った。
「ご商売柄というわけですね。でも、おもしろいご商売ですわ、自由で、型にはまらなくて。それに、いつもスリルとアバンチュールがおありなんでしょ」
「スリルやアバンチュールがいつもあるわけじゃないですよ。もっとも、きょうはいささかスリルを感じてますが……」
「きょう、なにか楽しいスリルでも経験なさったんですの」
「こうやって、中田千恵さんと向かい合っているだけでも、ぼくには相当なスリルですよ」
「私の名前をもう知ってらっしゃるのね」
 女は情熱的な黒い瞳を動かした。「私と会ってらっしゃることが、どうしてスリルになりますの」
 北村は微笑した。
「ぼくが言うまでもないことでしょう。あなたは現在では、新聞やラジオのニュースに登場してもおかしくないひとになっている」
「私がですか」
「もっとも、こう言いきれるのはぼくひとりだけだから、心配はいらんでしょうがね」
 女はわるびれるようすもなく頷いた。

 あえて同じようなファムファタールとの会話場面をチョイスしましたが、「〜なの」「〜ね」というナイーブな少年みたいな口調ではなくなっている。典型的なハードボイルドガイの口調ですよ。加えて『白昼の曲がり角』には北村樟一シリーズにハードボイルドでありながらコージーミステリーのような味わいをもたらしていた岡田由紀子(北村樟一の大学時代の恩師の娘で『白いめまい』では北村樟一の助手みたいなことをやっている)も登場しない。もうね、どこから見たって完璧な正統ハードボイルドですよ。で、それを悪いとは言わないけれど、ただ主人公である北村樟一のキャラクターがここまで変ってしまってはなあ。ハッキリ言って、『白昼の曲がり角』の北村樟一は北村樟一じゃないよ。島内透が生み出したキャラクターだと『春の口笛は殺しを呼ぶ』の主人公・山城勇介に近いような気がするんだが……ともあれ、北村樟一シリーズは第3作に至ってガラリとそのタッチを変えた。その変化を促した圧力が、島内透の内側から湧いてきたのか、外側から加えられたのかは、わからない。でも、なんとなくおれには「ハードボイルドはかくあらねばならない」という社会的黙契みたいなものに抗しきれなかった結果ではないか、という気がするんだよ。そりゃあねえ、ハードボイルド小説の主人公がナイーブな少年みたいな口調じゃ。で、第3作に至ってガラリとタッチを変えざるを得なかったんだと思う。

 ただ、はたしてそれが、本来、彼が書きたかったものなのだろうか? これは島内ハードボイルドを論じたさまざまな論者が一致して認めていた点で、島内透という表現者が作り出した作品空間には「ミズミズしい情感」(『マンハント』1962年3月号)が充ち満ちていた。そして、そんな島内透の個性は少年少女を描かせたときにひときわ精彩を放っていた。その個性を遺憾なく発揮してみせたのが「ひとりぼっちの街」。その結末は、こうなっている――「石川規子は眼をあげて暗い舗道を見渡した。今夜はこれからどこに行ったらいいのだろうか。やっぱり家に帰るだけだろうか。そしてあしたになったら、またこの銀座に出てきて、この消火栓の前を通って……。でも、ほんとにきょうはお別れよ。さよなら、あしたまで、可愛いわたしの消火栓。石川規子は右足をあげて、靴の底で消火栓のかたい頭をそっとなでた」。これを最後に島内透が15年の沈黙に入ったのは……まあ、避けられない道だったのかなあ、と……。