生島治郎について書いた流れで、先週、泉町にある「源氏鶏太文学碑」を見に行ってきたことを書こうか。なぜ生島治郎について書いた流れで「源氏鶏太文学碑」を見に行ってきたことを書くことになるのか? それについてはおいおい説明するとして……
泉町も――「も」とは、こちらの記事を踏まえたものです――おれが通っていた富山市立東部中学校の校区に含まれており、親しい友人が住んでいたこともあって、それなりの土地勘もおれにはある。そして、その某所(いたち川の畔)に「源氏鶏太文学碑」なるものがあることもかねてより知ってはいた。しかし、訪ねたことはなかったし、訪ねようと思ったこともなかった。そもそも、読んだことがないし。いや、かつてペーパーバック屋をやっていた頃にこの人の書いた「英語屋さん」をネタにブログ記事を書いたことがあって、それは今でもアーカイヴとして残してある(こちらです)。だから、全く読んだことがないわけではないんだが……ただ、なんたってこの人は「サラリーマン小説」の第一人者だから。おれのような無頼漢とは住む世界が違う。だから、読まないのは当然というか、読んでいたとしたら、むしろ、ヘン。ただ、最近になって知ったんだが、この人は作家キャリアの後半にはそれまでとは相当に毛色の異なるものを書きはじめたそうで、これについてはウィキペディアでもこんなふうに記されている――「1970年代頃からは、従来のユーモア物に物足りなさを感じてブラック・ユーモアを志向し、会社内に恨みをもったサラリーマン幽霊が現れる小説など「幽霊もの」「妖怪もの」を多く発表した」。で、ちょっと見る目が変わったというか。おれは生島治郎が書いた、いわゆる「奇妙な味」と呼ばれるものも好きなので、この「会社内に恨みをもったサラリーマン幽霊が現れる小説」というのはソソラレル。まあ、所詮は「サラリーマン小説」のバリエーションには違いないんだろうけど、いつか、(他に読むものがなくなったとき)、読んでみてもいいかな、と。で、実感としては、そのときは、結構、近づいてきているのかな、と。生島治郎が書いた久須見健三シリーズで雑誌に掲載されたきりになってしまっているものを4篇ばかり読んで(とりあえずこの件はこれで一区切り)、さらにこのあと、読みたいな、と思っている小説が何篇かあって(それは、生島治郎が書いたものではない。現時点では誰が書いたものかは伏せておきますが、こちらも雑誌に掲載されたきりになってしまっていて、掲載誌も掲載号も確認できているんだが、なかなかねえ……)。で、こんなふうに、読みたいものがある、というのはシアワセなことなんですよ。つーか、読みたいものがない、というのがフシアワセ。ヘタをすりゃ、ウツになりかねない。それを避けるべく、先手先手で読みたいものを探しているようなところもあって……で、現状、次の次に読む本が決まっていないんだよ。もしこのまま次の次が決まらなければ……源氏鶏太の幽霊小説をチョイスするってのもありかなあ、と。まあ、そんなことをね、アタマの隅っこで考えはじめている、というような次第です。そうなるとね、うまくバスの時間さえ合えば10分で行けるであろう場所に(中学生時代は自転車で行っていたが、もう自転車なんて何十年も乗ってないよ……)「源氏鶏太文学碑」があるということがとても貴重なことのように思えてきて。だってさ、読もうと思っている作家の文学碑がソコにあるわけだから。まずはソコに行ってアイサツしてくる、というのが道義にも適っているだろうし。
ということで、行ってきたわけだよ。行ってみて、驚いたことがあって。おれは「源氏鶏太文学碑」があるのはいたち川の畔ということは知っていたけれど、具体的にどのあたりかまでは知らなかった。ただ、いたち川沿いはプロムナードになっているので、そこを歩いていけば見つかるだろう、と思っていて、案の定、見つかったのだけれど、その場所は(県道6号線といたち川が交差するいたち橋から数えて三番目の橋となる)泉橋の東詰めで、隣には「霊水」として名高い延命地蔵尊の水汲み場がある。そうか、ここだったのか、というのが一つ。そして、もう一つ。この場所から真東に2ブロックばかり歩けば今の住所で言う東町に達するのだが、かつてここは「東新地」と呼ばれる遊廓だった(この件について書いたのが冒頭でリンクを張った記事です)。当時の人が「東新地」に行く場合、路面電車(今はもう走っていない)の雪見橋停留所で降りて、泉橋を通って、「東新地」に行く、というのが一般的だった。もっともおれは『有合亭ストーリーズ』で島地林作をあえてそんな一般的ではないルートで「東新地」に向かわせたのだが……ともあれ、一般的には泉橋を通って「東新地」に行っていた。だからね、この「源氏鶏太文学碑」がある泉橋東詰めっていうのは相当に艶っぽい場所だったんだよ。ウィキペディアでは源氏鶏太の生い立ちについて「父は富山の置き薬売りで、家庭は豊かではなかった」としているんだが、生家の住所は泉町五十七番地であることもわかっており(当人が「一本の電柱」というエッセイの中で明かしている。なお、「源氏鶏太文学碑」に掲げられているのはこのエッセイの一節)、その家はもう残っていないようだがやはり泉橋東詰めで(どうやら、今、駐車場になっているあたりらしい)、そんな場所で生まれ育った、と知れば、源氏鶏太という人物の捉え方も自ずと違ってくるというものだ(ちなみに、おれが類似の人物として思い浮かべたのは、滝田ゆうです)。で、もし本当に次の次で源氏鶏太を読むことになったら、この辺のことも念頭に読むべきだな、と自分に言い聞かせながら帰ってきた次第なのだけれど……
帰ってきて、改めてウィキペディアの「略歴・人物」を読み返したら、こんな一節が目に留まった――「1956年、作家に専念するため、勤続25年目で会社を退職した。1958年より直木賞選考委員を務めた」。で、へえ、と。おれは、源氏鶏太が直木賞を受賞していることは知っていたけれど(かつておれがネタにした「英語屋さん」が受賞作。ちなみに、おれも「英語屋さん」だった、当時はね)、選考委員を務めていたことは知らなかった。しかも、1958年より? ということは、生島治郎が受賞した1967年も? だとしたら、マズイ。すこぶる、マズイ。実は、生島治郎は、受賞はしたけれど、選考委員の評価は至って辛口だった。川口松太郎なんて――「自分は今回は受賞作なしを主張したが、『追いつめる』が僅少差で入賞した。作品審査に当っても人それぞれの好みは否定出来ず、意見の分れる事も已むを得ない。入選者の幸運を喜び、いい作家になってくれる日を待つ」。もうね、とても受賞者に対する「贈る言葉」ではありませんよ。で、おれの直観では、源氏鶏太も似たような評価だったに違いない、と。だって、「サラリーマン小説」の第一人者が「ハードボイルド小説」を評価するなんて、およそ想像できないじゃないか。だからねえ、(生島ファンというおれの立場からすれば)、マズイことになったなあ、と。せっかく好きになりかけた源氏鶏太が嫌いになりかねない……。
ところが――だ、こちらで各選考委員のセンセイ方のコメントを読んで、オドロイタ。なんと、源氏鶏太はこうコメントしているのだ――「文句なしに面白かった。私はこの人の前の候補作「黄土の奔流」につき、その文学性を云々したことを覚えているが、この作品は、そういう必要を感じさせなかった」(この下りは、当の生島治郎が書いた『星になれるか』でもそっくりそのまま引用されている)。これには、へえ、ですよ。よもや「サラリーマン小説」の第一人者が「ハードボイルド小説」を「文句なしに面白かった」と評していようとは……。ただ、なんでだろう? サラリーマンという組織に生きる人間の悲喜劇を描いて支持を得ていた作家が志田司郎という組織からハブられた男(一匹狼)の執念を描いた小説に一票を投じるというのが、どうにも納得できないというか。とにかく、腑に落ちないんだ。で、昨日あたりから、どうにか「腑に落ちる」ストーリーを見つけられないものかと頑張っているんだが……一つ気がついたことがあってね。源氏鶏太の本は新潮社(と生島治郎との因縁については一つ前の記事をお読み下さい。あの記事があっての、この記事です)とかからも出ているんだけれど、桃源社からも出ているんだよ。どういうわけかウィキペディアの「主な作品」には『源氏鶏太青春小説選集』第1-13巻しか載っていないのだけれど、国立国会図書館サーチで検索すると他にも沢山あって、桃源社が1962年に立ち上げたペーパーバックライン「ポピュラー・ブックス」からも出ている。で、そのポピュラー・ブックスからは生島治郎の本も出ていて、こちらは今日届いた本ですが(ヤクオクで入手したものです。かなりの稀覯本なんだけどね、落札価格は、100円……)、巻頭に収められている「危険な女」は『別冊小説新潮』1977年春季号に掲載されたもの。生島治郎は、新潮社発行の雑誌には書いたけれど、(この「危険な女」のように)書いた小説はことごとく他の出版社から本になっており、新潮社からはただ1冊の本を出すこともなかった。この本は、そんな両者の因縁を令和の世に伝えて、なかなかに〝危険〟……。ともあれ、源氏鶏太と生島治郎は同じ出版社の同じペーパーバックラインから本を出していた、ということであって、文壇内にあってこの両者は、「サラリーマン小説」と「ハードボイルド小説」という違いこそあれ、同じような陣取りをしていた、と言えるんじゃないかな、と。
もっとも、これでけではストーリーとしてはいかにも弱い。それに、川口松太郎の本だってポピュラー・ブックスから出ているわけで。その川口松太郎は『追いつめる』を酷評しているわけだから。これじゃあ、ストーリーとしては成立しない。ただ、おれ的には源氏鶏太が桃源社の作家だったというのは驚きで、国立国会図書館サーチで示されるそのリストを見るともなく見ていると、1冊、気になる本が見つかった。それは、1959年に刊行されたもので(その後、何度かリプリントされて、1964年にはポピュラー・ブックスからも出ている)、そのタイトルは――『社員無頼』。え、無頼? 無頼って言うと、あの人斬り五郎の代名詞なんだけれど……。
で、この『社員無頼』を読みたいと思った。おれとしては、当然、デジタルコレクションで読めるだろうと思ったのだが……残念ながら「国立国会図書館内限定」。実は、源氏鶏太の小説でリモートで読めるものは1冊もない。言うまでもなく、著作権がネックとなっているわけだけれど……でも、源氏鶏太とともに〝貸本のベスト・セラー〟として知られた城戸禮(が亡くなったのは1995年なので、当然、著作権は生きている)の本は(国立国会図書館の「登録利用者(本登録)」であるという条件付きながら)送信サービスで閲覧可能となっているものが110冊に上る。この違いって、ナニ? 遺族が著作権管理に頓着していないとか? ともあれ、現状では読むことができない……かと思いきや、できた。実は『社員無頼』は桃園書房発行の『小説倶楽部』に連載されたもので、その『小説倶楽部』は送信サービスで閲覧可能なのだ(え? ナニ、その法の抜け道みたいな方法……)。ということで、『小説倶楽部』1957年8月号〜10月号に連載された日活アクション映画まがい(? なお、『社員無頼』は東宝で映画化されている。源氏鶏太といえば、なんたって「社長シリーズ」だからねえ……)の「サラリーマン小説」を読んでみたんだが……主人公は小牧雄吉という若いサラリーマンで、柿原工業という社員100人規模の中小企業に自ら望んで就職したという人物。その理由は、中小企業の方が自分の実力を発揮できるから、というんだから、その気骨たるや推して知るべし。ただ、そんな気骨のある若手社員を抱えながらも、柿原工業の経営は行き詰まっていた。その証拠に、この数か月は月給の遅配がつづいており、社内は倒産が近いという噂で持ち切り。そして、遂に社長から招集がかかる。社員全員、会議室に集まれというのだ。いよいよ、そのときが来たか。しかし、社員が招集された理由は倒産の報告ではなく、大阪の光和工業から資金援助を受けることになったという報告。光和工業は柿原工業など足元にも及ばない大企業だった。そんな大企業から資金援助を受けることになったというのだから、倒産は回避されるということ。この報告に、安堵の騒めきが広がる。さらには、拍手をするものまで。それは、鬼田という上に対しては卑屈なくせに下に対しては尊大この上ない男だった。従って、小牧は「この鬼田を、サラリーマンとしても、人間としても、最低だとひそかに考えて」いた。しかし、鬼田に釣られて拍手するものが後を絶たず、遂には大半の社員が拍手することに。しかし、小牧は拍手しなかった。柿原社長の心中を思えば、拍手することができなかったのだ。なにしろ、柿原工業は柿原社長が一代で築き上げた会社。その会社を手放すことになった無念を思えば……。しかし、そんな小牧の思いを置き去りにして会議は進んで行く。社長曰く「更に、幸いなことに、光和工業より、最も優秀な社員のお方を、当社に派遣してくださることになつたのであります」。その人物こそは、隈田司郎(なんと、志田司郎と一字違い!)。すると、またもや拍手が起こる。今度も、鬼田だった。鬼田とは、こういう機を見るに敏な男だった。しかし、小牧は隈田に対しても拍手する気になれなかった。「何故か。わからなかつた。わからなかつたけれども、彼は、隈田という男に対して、馴染めないものをかんじていたことはたしかであつた。嫌いなのだ。そして、そのとき、あるいは、本能的に、隈田が、将来、自分の敵となる人物であることを嗅ぎ取つていたのでもあつたろうか」。そんな小牧の予感は当たっていた。次期社長含みで柿原工業に乗り込んできた隈田は社長室を占拠するやまるで敗戦後に日本に乗り込んできたGHQのようにふるまい(このあたりの描写はかなり感情的でね。曰く「本国に帰れば、皿洗いをやる程度の男が、日本では、豪華な邸宅を接収し、家中にペンキを塗り、床の間に便所を設けたりしていた。しかも、日本人を人間扱いにしなかつた連中が、決して、すくなくはなかつた」。まあ、戦中派のルサンチマン、ここに炸裂す、てなところかな?)、その威勢に遂には小牧の恋人・美奈までなびいていく……。いたたまれなくなった小牧は、隈田に辞表を叩きつけ、返す刀で隈田が個人的な遊興費を社用として会社につけ回していることや1000万円という費用を投じて自分が住むための社宅を建てようとしていること(光和工業が柿原工業に融資したのは6000万円なので、その1/6を私消しようとしていることになる)を光和工業に報告すると迫る。これにはさすがの隈田も動揺を隠せず――
『光和工業で、君のいうことなんか、本気で、相手にするものか』
『それでもいいのです。しかし、僕は、やります。絶対に、やつてみせます』
隈田は、蒼白になつていた。小牧を、さも、憎らしげに、睨んでいた。が、そのうちに、しだいに、その眼から、憎悪の光が消えて、卑屈になつて来た。
『わかつたよ。とにかく、この辞表は、返しておく』
『どうしてですか』
『僕は、君を見直したんだ。君が、そんなに気骨のある人間だとは思われなかつた。実をいうと、柿原工業に来て、どいつもこいつも、お世辞ばかりをいんで、ウンザリしていたんだ。僕の相談相手、片腕になれるような、人間を探していたんだよ』
『鬼田さんがいるじやありませんか』
『鬼田? 冗談じやアない。あんなのは、いちばん、愚劣だ。なつとらん。しかし、君ならいい。立派だよ。見直した。僕の片腕になれる。課長にしよう』
『本気ですか』
『勿論。僕は、こんなことで、嘘をいうもんか』
『本当ですね』小牧は、念を押した。
『誓つてもいい』
隈田は、小牧が軟化して来た、と思つたに違いない。ニヤリと笑つてから、手を出して、
『だから、君、仲直りしようじやアないか。いいだろう』
『バカ野郎ツ!』
小牧は、叫ぶと、右の拳が、唸りを上げて、隈田の頬に飛んでいた。
『あツ』隈田は、よろめいて、尻餅をついた。
『何をするんだ!』
『人を見そこなうな、ということだ。俺は、今夜から無頼漢なんだぞ』
そういうと、小牧は、くるりと踵を返して、アパートから出ていつた。
空には、相変わらず、いい月が、無心のように皓々とかがやいていた。小牧は、しばらく、その月を見上げていてから、うなだれて、ゆつくりと歩きはじめた。何処へ行く、というアテはなかつた。ひどく、後味が悪かつた。社長の顔、美奈の顔、隈田の顔が、頭の中で、点滅していた。
明日から、どうしよう。しかし、今は、何も、考えたくなかつた。彼は、今夜中、こうやつて歩いていたいような思いでいた。
この小説が書かれたのは、源氏鶏太が「勤続25年目で会社を退職した」翌年。だから、「俺は、今夜から無頼漢なんだぞ」という高揚感も、いかにも頼りなげな漂流感も当時の源氏鶏太その人の心情が込められているのだろう。いずれにしても、ここに描かれた小牧雄吉の正義漢ぶりには『追いつめる』に描かれた志田司郎のそれと共通するものがあるようにおれには思われる。少なくとも、ああ、これを書いた人なら、『追いつめる』に一票を投じるかなあ、と納得させられるだけのものは、ある……。