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朝松健を読む②

 「朝松健を読む①」を書いた時点では、よもや②がこういう内容になるとは予想だにしていなかった。しかし、『一休暗夜行』を読み『一休闇物語』を読んだ今、ワタシに書けるのはこういうこと……。

 まず、室町時代中期の臨済宗の禅師・一休宗純を主人公とする「ぬばたま一休」シリーズは完璧に「剣と魔法の物語」である、ということを最初に書いておこう。一休は剣の代りに明式杖術の杖を持っている、ということであって、あとはまんま「剣と魔法の物語」であると言っていい。で、実はですね、『一休暗夜行』を読みはじめた時点では②はこういうコンセプトで行こうと。さしずめ「『一休暗夜行』はこう読め〜室町の伝承と「剣と魔法の物語」〜」?

 で、この認識自体は今も変わっていない。「ぬばたま一休」シリーズは紛れもなく「剣と魔法の物語」である。ただ、すんなりとそのことに話を進められない理由があって……。「ぬばたま一休」シリーズには、それが「剣と魔法の物語」である以上、ヴィランが登場するわけだけれど、それは真言立川流ということになっている。これについては『一休暗夜行』に先立って読んだ『東山殿御庭』にそういうことを示唆する作品が収録されていた。「邪笑う闇」(初出は「異形コレクション」第25巻『獣人』。掲載時のタイトルは「邪笑ふ闇」。しかし、なんで現代仮名遣いに改めましたかねえ。「邪笑ふ闇」の方がよりマガマガしさが感じられていいと思うんだけれど……?)というのがそれなんだけれど、その中にこんな下りがあるのだ――

 一休は御堂の中に目を凝らした。
(天女か。違うな。弁財天か。そうではないようだ)
 さらに目を凝らせば、突如、颯っと一陣の風が吹いて明かりを揺らし、本尊仏の全身像をはっきり現わした。
 それは天女のごとき生成の布を身に着けた女神像である。
(や、白山媛命か)
 と息を呑んだが、すぐにその考えを捨てた。肉体の曲線を殊更に強調するため、布を巻いているのだと気づいたのだ。その証拠に女神は布の裾を腹の上までたくし上げている。そして、女神の背には、狐とも山犬とも狼ともつかぬ白い野獣(けもの)がのしかかり、長大な陽物で女神の双臀を刺し貫いているではないか。
(荼吉尼天の裸像……。しかも、その背に乗るべき白狐と媾っているとは)
 一休は過去幾度も妖教立川流と戦い、その内陣にさえ踏み込んだことがあったが、邪淫教の曼荼羅図にも見たことのない人獣交媾のおぞましき姿であった。しかも、その造形は、運慶の雄渾さと、康慶の生々しさ、さらに湛慶の精緻と、康円の奇怪さとを併せ持ち、さらにそれら仏師より格段に凶々しく、淫らであった。

 怪奇・伝奇小説の分野において真言立川流が邪教集団として描かれるというのは決して珍しいことではなく、ワタシが知る限りでも夢枕獏の『魔獣狩り』とか京極夏彦の『狂骨の夢』とか、まあ、あるわけですよ。だから、この時点では特にそれをとがめ立てしようという気は起こらなかった。しかし、『東山殿御庭』に引き続いて「ぬばたま一休」シリーズの第1作に当たる『一休暗夜行』に手をつけたところ、徐々にだけれど話がおかしな方向に進んで行って。一休が足を踏み入れた尾張国の守護代・織田郷広と家臣・柴田郷家の会話として――

「怪しい坊主?」
「はっ。このような品を携行いたしてござった」
 と、柴田は懐に手を入れ、金鉢を取り出して、織田郷広に差し出した。
「これは二つ引両の紋……」
「ははっ。これぞ、坊主めが、幕府の放ちし密偵・細人の類たる証かと」
「ふうむ。まるで刀のごとき材質。話に聞く神代の鉄ヒヒイロカネでもあろうか」
 織田郷広は眉間に皺を寄せて、しばし、足利家の紋の刻まれた金鉢を検分していたが、
「ところで、我が方の密使が先程伝えたところによると、幕府は、どうやらほしみるなる物を必死で探しておるらしい」
「……ほしみる? それは一体、何でございましょうや」
「どうやら、幕府にとっては、南朝の余党にも、現在の朝廷にも、当然、諸国の守護大名の手にも、絶対に渡ってほしくない物らしい」
「……」柴田は首を傾げた。
「それひとつで天下が逆しまになってしまうとか――それほど恐ろしい物だそうだ」
「明国皇帝よりの冊書? あるいは今は亡き北条一族の文書の類でございましょうか」
「さて……な。叡山の僧侶に問うてみたところ、立川流ゆかりの法具や教典ではないか、と、そう応えたそうだ」
「立川流? あの南朝一党の帰依したという邪淫教のことでござるか」

 なんと、「南朝一党の帰依したという邪淫教」なる眼の眩むような(?)フレーズが。一体、朝松健はオレをどんな世界へと誘おうとしているんだ……? そんな疑念とも不安ともつかない感情に駆られつつもさらに読み進めて行くと――

 貴狐神社から北へ向かおうとした一休は、後方より追ってきた吉野の馬に気がついた。
 馬の足を緩めて、
「拙僧一人で行かせて下さい。貴女の父上の安否は必ず確かめます」
 と、大声で呼びかけた。
 だが、吉野は、大きくかぶりを振る。
「嫌だ。絶対にそれだけは嫌。あたしは一休様と共に地獄でもあの世でも行くったら行く!」
「貴女は〈裏世界〉の恐ろしさを御存知ないから、そんなことを言うのです」
「ああ、知らないさ。そんなもの、知りたくもないよ」
 言い切った吉野の表情には、死を覚悟した者の頑なさがあった。
「……わたしはあの金鉢……ヒヒイロカネに教えられたのです。……あれを作った者の名は東院阿闍梨仁寛。もと後三条帝の子輔仁親王の護持僧です。己れの支持する親王を帝にするため陰謀を巡らしました。しかし、それが発覚、仁寛はここ――伊豆大仁に流刑になったのです」
 そこで言葉を切ると、一休は、馬上から天を仰いだ。
 東からやや中天にかかりつつある月は、見事な望月だ。
 六月十五日。
 今夜が満月であった。
 その銀とも黄金(こがね)ともつかぬ満月光の粒子をいっぱいに浴びながら、一休は、言葉を続けた。
「伊豆大仁に流された仁寛は、同じく流刑に処されていた武蔵国立河の陰陽師、見蓮なる者と結んで、この地で、真言密教と陰陽道の融合をはかりました。男女の愛欲を肯定した『理趣経』を歪めて解釈して、二人が創始した宗派の名は、立川流。――すなわち、のちの代になって後醍醐帝はじめ南朝の人々が深く傾倒した淫祠邪教だったのです」

 なんと、今度は「後醍醐帝はじめ南朝の人々が深く傾倒した淫祠邪教」とさらに眼の眩むようなフレーズが。この時点で、えー、なんだよ、これは⁉ と。これじゃまるで南朝自体が邪教集団だったみたいじゃないか。しかもだ、一休が(史実でも本シリーズでも)後小松天皇の落胤とされていることを踏まえるならば、朝松健は「ぬばたま一休」シリーズで北朝を「正」、南朝を「邪」として描こうとしているということ? そんな……。

 で、どうやらそういうワタシの読みはあながち間違ってはいないらしい。実は『一休暗夜行』に次いで刊行された『一休闇物語』には「けふ鳥」という短編が収録されているのだけれど、この作品には小倉宮が出てくることをワタシはかねてから承知していた。いやね、去年、1か月ばかりかけてウィキペディアの後南朝関係の記事に手を入れるというなかなかタフな日々を過ごしたことがあるのだけれど(この件については「後南朝とUMAと「大胆な編集」と〜令和3年夏に記す①〜」に書いたので興味ある方はご一読あれ)、南朝第4代後亀山天皇の皇孫で第2代小倉宮である「小倉宮聖承」の元々の記事に「関連項目」としてこの小説が挙げられており、へえ。で、小倉宮が登場する小説があるのならばということで新たに「関連作品」として澤田ふじ子の「むなしく候 小倉宮挙兵」とともに例示することとしたわけだけれど、ただしこの時点でワタシが読んでいたのは「むなしく候 小倉宮挙兵」だけで、「けふ鳥」については今日の今日まで読まず仕舞い。いや、ね、「けふ鳥」を読むだけならいつでも読めたのだけれど、どうせなら一連の室町ものをまとめて味わってやろうと(これは「雨降りだから神保氏でも勉強しよう②」にも書いたことだけれど、人間の「シン(業)」みたいなものを思い知らせてくれるのは断然、室町時代ですよ。だから、朝松健が室町時代に着目したのは間違っていない。全然、間違っていないんだけれど……)。で、今、その時がやって来たわけだけれど……しかし、『一休暗夜行』がこんな感じだと「けふ鳥」も心配だなあ……。ということで、一旦、『一休暗夜行』を中断して「けふ鳥」を読んでみたところ――

 小倉宮が直々に導いてくれたのは、屋敷の東北に設けられた正倉と思しき建物であった。
 建物は、周囲を梅の木に取り巻かれた校倉造のもので、ちょうど東大寺の正倉院をより小柄にし、さらに漆黒に塗り固めたかたちである。
「……これは」と一休は呻いた。
 扉が開かれるや、内部より、どぎつい緋色の光の粒子が吹き出した。少なくとも、禅僧として大悟に到達している彼には、そのように感じられた。
 光の粒子は生きていた。
 しつこい羽虫のごとく群れ、小倉宮や近習にまとわりついていく。そして、陽光のなかにあってさえ、ぎらぎらした光を明滅させはじめた。
 一休は思わず三尺五寸余の杖を握った。
 すると、そんな彼の反応を警戒と受け取ったか、小倉宮は、
「心配はいらぬ。別に汝を陥れる罠がある訳ではない。怨敵調伏のため、種々の品を蔵っておるまでのことぞ。貴狐倉院へ入るが良い」
 と、低く笑った。
 宮の笑い声が、暗く埃っぽい倉――宮の言う貴狐倉院に谺した。
 一休は息をひそめて、なかに進み入った。
 その片隅には掛軸が山と積まれ、あるいは等身大の奇怪な神像、あるいは密教法具、あるいは教巻がびっしり納められた教櫃、あるいは絵図や鉦、金剛杖や曼荼羅を彫った青銅版などが、所せましと並べられている。
(こちらの陶製の神像は象頭人身の聖天像。しかも男女が互いに抱き合った双身抱擁のかたち。また、あちらの曼荼羅は、男女交合の姿をあらわした歓喜絵図。また……頭蓋骨を漆で塗り固めた髑髏本尊らしきものまである。……やはり……。宮は、邪淫教立川流に深く傾倒あそばされていたか⁉)

 あー、やっぱり……。しかも、これだけならまだしも、さらにこれに続く宮の台詞として――「これらは後醍醐帝の昔に、文観なる高僧より、我が大覚寺統にもたらされし、秘法具の数々。ここ奥吉野に結界を張り、足利の目をくらましておるのも、これら秘法具あればこそ――」。坂本龍馬ならずとも「これはいかんぜよ」……。

 ハッキリ言おう、後醍醐天皇が真言立川流に帰依していたなんて歴史的事実は、ない。試しにウィキペディアの「後醍醐天皇」の記事を読んでみるといい。そんなことは一言も記されていない。むしろ「後醍醐天皇は、両統迭立期(1242年 - 1392年)において最も禅宗を庇護した天皇だった」とあり、さらには後醍醐天皇が行った計12回の国師号授与の内、10回が臨済宗の僧に対してだったことも記されている。また残りの2回も華厳宗と浄土宗。そんな後醍醐帝が真言立川流に帰依していた? ありえんだろう……。

 ただし、『太平記』には「けふ鳥」にも名前が登場する文観僧正が後醍醐天皇に近侍し威勢を誇っていたことが記されており(吉川英治の『私本太平記』では「ちょうどその威勢は、かの孝謙帝の朝における道鏡に似たようなものがある」とされている)、かつこの文観が立川流の「中興の祖」だったという見方が存在する。これは網野善彦が『異形の王権』で強力に展開した文観像なのであるいはご存知の方もいるかも。しかし、こうした見方は近年の研究で否定されているんだよね。そのことはウィキペディアの「文観」の記事に詳しく記されている。つーかね、これはちょっと驚きなんだけれど、そもそも仁寛が創始した真言宗の一法流が髑髏本尊を崇拝する邪淫教だったという永らく信じられてきた通説自体、近年の研究で否定されつつあるんだそうだ。これについてはウィキペディアの「立川流 (密教)」の記事を参照していただくのが手っ取り早いのだけれど、ここでは記事でも典拠にされている彌永信美氏の講演録「いわゆる「立川流」ならびに髑髏本尊儀礼をめぐって」からこんな一節を紹介しよう――「私は「立川流」には二つの別の意味があると考えています。一つは本当の「立川流」で、もう一つは「いわゆる」付きの「立川流」です。本当の「立川流」の方は十二世紀の仁寛以来の真言宗の一法流で、これは他の一般の真言宗の法流と特に大きな違いはない。いわば正当な真言宗と称しても問題がない法流だと考えています。/一方の「いわゆる」付きの「立川流」は、いろいろな事情から「立川流」という間違った名前が付けられていますが、実は真言宗には限らない、当時の密教全体、あるいは宗教全体ともいくらかは関わりながら展開した、極めて特殊な、今日で言うならば一種の新宗教とも言えるような宗教運動を指すもので(略)」。そんな新宗教であるところの「いわゆる立川流」がいつしか本当の立川流と混同され、さらにはその中興の祖として文観の名が取り沙汰されるようになったのには「真言密教界の南北朝内乱」とでも言うべき事情があったとされている。しかし、それをここで詳しく述べることは、正直、ワタシの手に余る。ここはご自身でウィキペディアなり彌永信美氏の講演録に当たっていただくのがいいでしょう。いずれにしても、文観が髑髏本尊を崇拝する邪淫教であるところの「いわゆる立川流」の中興の祖だったというのは近年の研究で否定されているということ。そして、後醍醐天皇と「いわゆる立川流」を結びつけるものは文観以外にはおらず、その文観と「いわゆる立川流」のつながりが見出せない以上、後醍醐天皇と「いわゆる立川流」の関係なんて見出そうにも見出しようがない――ということになる。ね、だから、坂本龍馬ならずとも「これはいかんぜよ」。

 まあ、こうした文観や真言立川流をめぐるパラダイム・シフトが起きたのはここ数年のことらしいので(ただし、この問題に先鞭をつけたドイツ人研究者、シュテファン・ケックのThe Dissemination of the Tachikawa-ryū and the Problem of Orthodox and Heretic Teaching in Shingon Buddhismは『インド哲学仏教学研究』第7号に寄稿されたもので発行は2000年)、朝松健が一連の「ぬばたま一休」シリーズに着手した時点(『一休暗夜行』の刊行は2001年1月。また朝松健がはじめて一休を描いた「紅紫の契」は『小説CLUB』1999年2月号掲載)ではまだ文観を立川流の中興の祖とする見方は揺るぎのないものだったと言っていいんだろう。ただ、そうだとしても、北朝を「正」、南朝を「邪」として描くというのはずいぶん振り切れているというか。それは北畠親房以来の南朝正統論に真っ向から反するもの言わざるをえない。いや、だからダメだというんじゃないよ。南朝正統論と言ったって、所詮はイデオロギーなんだから。作家がそんなものに縛られてどーすんだよ。だから、別に南朝正統論に真っ向から反するものであっても、それはいいわけですよ。ただ、一休宗純をヒーローとする「剣と魔法の物語」を構想し、そのヴィランとして真言立川流を持ってくるだけでは飽き足らず、後醍醐帝と南朝を絡めてくる――というのは、南朝正統論に真っ向から反する、という以外の問題を自ずと抱え込むことになる。というのも、そうした世界構築は「南朝一党の帰依したという邪淫教」や「後醍醐帝はじめ南朝の人々が深く傾倒した淫祠邪教」といったフレーズに見られるように、物語においてヴィランと比定される側を淫祠邪教に帰依した集団だったとすることになるわけだから。それは現下のような分断された世界で横行する〝敵〟を「小児性愛者」だの「同性愛者」だのと言い募る類いの最も低俗なレッテル貼りと選ぶところがないではないか。ワタシはそう思うんだけれど、そうは思いませんか、朝松健サン……?