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映画でココロの空洞を埋める実験②
〜西村潔監督『白昼の襲撃』〜

 それにしても、ハードボイルドといえばジャズなんだよなあ、日本では。「映画でココロの空洞を埋める実験①」で取り上げた井上昭監督の『勝負は夜つけろ』(1964年)で音楽を担当したのはジャズピアニストの菅野邦彦。また蔵原惟繕監督の『黒い太陽』(同)では黛敏郎が音楽を担当する一方、来日中だったマックス・ローチ・カルテットとアビー・リンカーンが映画出演し演奏と歌を披露している。そして本稿で紹介する西村潔監督の『白昼の襲撃』(1970年)では日野皓正が音楽を担当。これまた日野皓正クィンテットを率いて映画にも出演、エネルギッシュな演奏を披露している(演奏している楽曲は「スネイク・ヒップ」)。もう本当にハードボイルドといえばジャズで、まさに「ジャズとハードボイルドは手をつないでゆく」。でね、これは「久須見健三はなぜヘレン・メリルを聴くのか?〜ナマシマ・ジローと「日本ハードボイルド」の原風景〜」でもとっくりと書いたんだけれど、こうした状況は日本特有で、ハードボイルドの母国であるアメリカでは状況は全く違っていたんだよね。レイモンド・チャンドラーの『大いなる眠り』を映画化したハワード・ホークス監督の『三つ数えろ』(1946年)はマックス・スタイナー。ジャック・スマイト監督の『動く標的』(1966年)はジョニー・マンデル。ポール・ボガート監督の『かわいい女』(1969年)はピーター・マッツ。ロバート・アルトマン監督の『ロング・グッドバイ』(1973年)はジョン・ウィリアムズ。ディック・リチャーズ監督の『さらば愛しき女よ』(1975年)はデヴィッド・シャイア。いずれも白人の(ちゃんとした音楽学校を卒業した)音楽家が担当。ハードボイルドを原作とした映画でジャズが音楽として使われることはほとんどないと言っていい。こういうね、ハードボイルドの劇伴をめぐる彼我の状況の違いから見えてくる(聞こえてくる?)ものがきっとあるはずで……アタマのいい人にはぜひその辺のことを考えてもらいたいなと(オマエは考えないのかよ? ハイ、考えません……)。

白昼の襲撃

 ということで、その『白昼の襲撃』なんだけどね、ワタシは今回が初見。これまでも見る機会はあったんだけれど、どういうわけかスルーしてきた。ただ、かつては西村潔監督の別の作品をめぐって一文を草したこともあるし(こちらです)、どういうわけか〝封印マニア〟には異常なくらいに人気の高い『夕映えに明日は消えた』がお蔵入りになった理由についても縷々愚考をめぐらしたことがある(こちらです)。だから、どっちかと言うと近しい監督ではあるんだけれど、どういうわけかこの映画はこれまで見ず仕舞い。うん、だから、アレだな。この映画も見ずにあんなことをしたから、アレはあんなことになったんだな……と、ちょっと意味不明のことも書いておいて……さて、『白昼の襲撃』だ。まずね、映画を見はじめて、ほどなく、なるほどなあ、と。というのは、あのスタイリッシュなタイトルバックの2枚目になるのかな? 3枚目になるのかな? で「原案 菊村到」と出て、その下に「小説新潮収載「真昼の襲撃」より」。実は『白昼の襲撃』に原案となった小説があることはキネマ旬報社が運営するKINENOTEとか東宝が運営する映画資料データベースの作品紹介には記されていない。また『映画芸術』が西村監督の追悼特集として企画した「西村潔作品プロデューサー座談会:ホンを直して早撮りで頑固で優しい、大食いのアクション監督だった。」(『映画芸術』1994年春号)では本作のプロデューサー金子正且氏が「あの脚本はオリジナルだったんですか?」と訊ねられ――「ちょっとしたヒントがあって色々と問題が出たりしたんですけど、白坂君のオリジナルです」。ところが、映画を見るとクレジットの2枚目? 3枚目? で「小説新潮収載「真昼の襲撃」より」。実はこうなった背景には本当に「色々と問題」があったようで、それについてはこちらのブログ記事を参照してもらうのがいいと思うけれど、いずれにしても『白昼の襲撃』は菊村到の短編小説「真昼の襲撃」を原案として作られたものであると。で、実を言うとワタシはこの短編小説を事前に国立国会図書館からコピーを取り寄せ読んでいたんだよね(同作が収録された短編集がないものか調べたのだけれど、どうもそういうものはないようだ)。このあたりがねえ、ワタシという人間の底意地の悪いところで。要するに、このオトコのコンタンとしては、原案小説と比較した上で映画が良くなっているか悪くなっているかを判定してやろうと。で、もし悪くなっていようものなら、徹底的に叩いてやるぞ――と、そういうことで。そのために――そのためだけに、わざわざ国立国会図書館からコピーを取り寄せるというね。嫌な野郎だよねえ……。ただ、『勝負は夜つけろ』が原作小説のファンとしては容認できないレベルで〝改変〟されており、いささかこうした問題に神経質になっているというのはある。ともあれ、そういうことで、ワタシは専ら原案小説との違いということに注目して映画を見て行った次第なのだけれど――

 確かに『白昼の襲撃』は「真昼の襲撃」を原作として作られたとはとても思えないくらいに改変されている。まず、主人公の名前が違う。小説では哲とされている役は映画では修。小説では江美子とされている役は映画ではユリ子。また映画には小説には登場しない人物が何人か登場するのだけれど、その1人が主役の2人と一種の三角関係にあるゲイの少年・佐知夫。修とは少年院以来のダチで、修は佐知夫から拳銃(ブローニング)をプレゼントされたりするのだから、きわめて重要な役柄。多分、小説と映画のいちばんの違いは主役の2人にこのゲイの少年を噛ませたことだろうね。でね、この佐知夫の造形が実にいいんだよ。チビで、ナイーブで、愛嬌があって、淋しげで。多分ね、このキャラクターを発展させると『傷だらけの天使』の乾亨になるんじゃないかな? ただし亨はゲイとしては描かれていなかった。ここは、あのドラマで唯一、攻め切れていなかったと感じられる部分で、既にゲイを登場させた映画が作られていたわけだから。想像するに、テレビならではの制約があったのかなあ……。ともあれ、出情児の芝居も出色だし、この佐知夫という人物の造形は映画の最大の得点と言っていいでしょう。それから、小説には登場しない人物ということで言えば、殿山泰司演じる佐伯もそう。この佐伯が言うならば本編のラスボスということになるのだけれど、ラスボスと言うにはいささか貫目が足りないというか……。ま、あくまでも見た目の印象です。で、小説と映画ではこうしたさまざまな違いがあるのだけれど、一方で一致する部分もあって、小説の哲はやくざに半殺しの目に遭っているところを楊という中国人に助けられて楊がやっているバーでバーテンとして働きはじめる。同じように修は学生相手の喧嘩で手負いとなって逃走中に鳴海(岸田森が演じている役。雰囲気はほとんど辰巳五郎)に助けられて鳴海が佐伯から預っている外国人パブでバーテンとして働きはじめる。また小説の江美子も映画のユリ子もともに炭坑夫の娘。さらに哲は15歳の時に警官を刺して少年院送りとなったという設定で、これは映画の修も同じ。これ以外にも、たとえば小説にも映画にもルースという名前の洋パンが出てきて、このルースがきっかけとなって外人相手に大立ち回りを演じたり。あとは、最後だね。江美子(ユリ子)の裏切りにあって袋の鼠となり、あえない最期を遂げるというね。ま、これは往々にしてあるパターンではるけれど……。ともあれ、こうして一致点もあるわけで、確かに小説「真昼の襲撃」を下敷きにするかたちで映画『白昼の襲撃』は作られている、とは言えるんですよ。ただ、それでいながら製作チームはわざわざ主要登場人物の役名まで改変して元となった小説からの逸脱を果たした――あるいは、自由になろうとした。うん、この方がいいな、自由になろうとした――ということになる。それが何を意図してなのか? そして、結果として映画は小説より良くなったのか悪くなったのか? だよね。で、ここでまず書いておいた方がいいと思うんだけれど、菊村到の「真昼の襲撃」というのは非常によくできたクライム・ノベルなんですよ。ちょっと河野典生ふうのところがあって、オリジナリティとしてはどうか? というようなこともあるんだけれど、完璧なハードボイルドタッチで、読後感は非常にいい。菊村到という人は元は純文畑の作家で、江戸川乱歩に勧められて(というか、「求められて」かな。江戸川乱歩は自身が編集する『宝石』に原稿を書いてもらうべく菊村到の兄・戸川猪佐武に口添えを頼んでいる。そうしてようやく「菊村さんのこの作をいただくことができたのである」)推理小説を書きはじめたという人ですが、数は多くないもののハードボイルドタッチの作品も書いており、1963年に発表した「獣に降る雨」(初出は『小説現代』1963年3月号。同年、桃源社から刊行された同タイトルの作品集に収録)は長谷部史親・縄田一男編『昭和ミステリー大全集 ハードボイルド篇』(新潮文庫)にも収録されている。ただ、どうだかなあ、「獣に降る雨」はよくできたピカレスクロマンだとは思うけれど、ハードボイルドとしては……。これが「真昼の襲撃」なら誰も異論を挟まないだろうけれど。なんで長谷部史親&縄田一男のご両所は「真昼の襲撃」ではなく「獣に降る雨」を選んだのか。まさか「真昼の襲撃」を読んでいなかったとか……? そんな感じで、「真昼の襲撃」は非常によくできたクライム・ノベルであると。で、西村潔と白坂依志夫のコンビはそんな小説から「自由となり」、彼ら独自のものを作ろうとしたと、そう理解して――

 さて、ここで「原案小説と比較した上で映画が良くなっているか悪くなっているかを判定してやろう」というワタシのそもそものコンタンについてのコタエ。良くなっている。もうバツグンに。つーかね、『白昼の襲撃』というのはスゴイ映画ですよ。ワタシは西村潔という人は早撮りだけが取り柄のB級アクション監督だと思い込んでいたのだけれど(なにしろ、追悼を目的として開かれた座談会のタイトルが「ホンを直して早撮りで頑固で優しい、大食いのアクション監督だった。」だから……)、これほど思想性のある映画を撮る人だとは。そう、『白昼の襲撃』というのはきわめて思想性の高いアクション映画なのだ。それはね、主人公・修(フルネームは市岡修。昭和21年3月15日生。横浜山下小学校、山下中学校卒)の造形にまず表れている。実は作中で修がこうオノレの思いを吐露する場面があるのだ――「俺と同じ年ごろの連中が学生生活を楽しんでいる時に俺は少年院のシミだらけの壁の中でゴロ巻いたり脱走のことばっかり考えていたよ。なあ、佐知夫。今でも呑気そうな学生を見ると頭に来るんだ。俺にとっちゃ全学連もおまわりも同じようなもんだ」。修は学生――あるいは、学生という身分――に対して強烈な敵意を抱いており、最初に起す事件も佐知夫たちと遊びに行った海水浴場近くのカフェで高級スポーツカーを乗り回すブルジョア学生(修曰く「すねかじりだよ」)とトラブルとなり、威しのために突きつけたブローニングで誤って撃ち殺してしまうというね。で、このトラブルで自らも重傷を負った修は鳴海に助けられるのだけれど、この鳴海が元学生運動のリーダーで、今は服役中の佐伯に代って伊勢佐木町の清正公通りにある外国人パブ「ライジング・サン」を任されているという設定。修は鳴海に気に入られてこの「ライジング・サン」でバーテンとして働くようになるのだけれど(この際、バーテン経験がないことを理由に渋る修に鳴海はこう言ってのける――「心配するな。ここで売るのは酒じゃない。女だ。ビールの栓が抜ければそれで務まるさ」)、働きはじめてほどなく修はやくざ同士の抗争に巻きこまれることに。佐伯に取って代わろうとする組幹部・林が佐伯暗殺を企て、鳴海にそのヒットマンとして白羽の矢が立つ。鳴海に言われ修もその仕事を手伝うことになるのだが(なお、佐知夫から貰ったブローニングはこのタイミングでお役御免となる。理由は「学生をやった弾丸(たま)の種類はサツに割れている」。代って修は鳴海からワルサーを渡され、以後、ワルサーを使いつづける。こんな細かいことにこだわっているハードボイルド映画ってなかなかないですよ。これは評価していい。B級映画にだってリアリズムは必要デス)、なんと鳴海は佐伯ではなく林を狙撃。こうした事態に至った経緯を鳴海から聞いた佐伯は――「俺は裏切り者は絶対許せん。俺も随分あくどいことをやってきたが、裏切りだけはやっていない。世の中には、てめえの入っている組織ばかりか、てめえの親、兄弟、生まれた国まで裏切る野郎が大勢いる。それは一等薄汚い人間のすることだ。俺は違う。俺は国を裏切らん。戦争前から今日まで変わらずにお国に忠節を尽くしてきた。おらあ、親を裏切らない。ともだちも裏切らない。俺を信じてくれる人間は絶対裏切らん。だから、裏切り者は絶対許せんのだ」。でね、ここでこうしたやりとりが繰り広げられている場面のキャプチャー画像をご紹介しようと思うのだけれど――


南軍旗①

 場所は外国人パブ「ライジング・サン」の店内。注目は、後ろの壁に飾られている旗。これね、南軍旗なんですよ。正確に言えば、アメリカ連合国陸軍の軍旗。そんなものが「ライジング・サン」の店内に掲げられている。いや、店内のディスプレイとして使われているだけではなく、店のネオンサインとしても使われており(こちらです)、南軍旗は言わば「ライジング・サン」のシンボル。そもそも「ライジング・サン」という店名にしてからがアメリカの伝統的なフォークソング「朝日のあたる家」(The House of the Rising Sun)に由来することは明かで、歌のモデルとなった娼館はニューオリンズに実在したとも言われており、アメリカ南部の歴史と深く結びついている。そんな「ライジング・サン」という店名と店のネオンサインにも使われている南軍旗の意匠はアメリカの南部出身者に強くアピールすることは間違いなく、その証拠に店内はいつも白人男性で混みあっている。「ライジング・サン」というのはそんな「保守的」な空気に満ちあふれた外国人パブなのだけれど、そんな空間を統べる南軍旗の前でかくも「保守的」な思想を吐露する佐伯――。映画を見はじめて、大体このあたりで58分くらいかな? いやー、スゴイ映画だな、これは、と。あるいは、これはちょっと容易ならざる映画だな、と。そんな感じですよ。ただね、ここで少しばかりツッコミを入れたい気分でもあるんだけれど(笑)……佐伯はやくざでありながら国士的な心情の持ち主で「忠節」を何よりも大切なものだと考えている。で、裏切りは絶対に許さないと。ことに「国家への裏切り」を憎んでいるわけだけれど、歴史的に言えば南部連合はアメリカ合衆国からの離脱を求めたわけで、その限りでは反逆者(リベリオン)。佐伯の言う「国を裏切る」ということに当たらないのか? 佐伯的立場から言えばむしろ北部(ユニオン)にこそ肩入れすべきなのでは? ところが、なぜか佐伯は自分が経営するバーに南軍旗を掲げているというね。聞いてみたいもんだな、南軍は合衆国からの離脱を求めて戦ったわけだけれど、それは「国家への裏切り」ではないの? と。どう答えるかねえ、あの爺さん……。ともあれ、佐伯というのはそういう人物で、学生に対し激しい敵意を抱く修とも相性はいいはず。事実、修はほどなく「ライジング・サン」の経営を任されることになる。なんと佐伯に代って「ライジング・サン」の経営に当たっていた鳴海は佐伯に消されてしまうのだ。その理由は――「鳴海はおれたちを裏切っていたんだ。前からずっとな。鳴海は店の売り上げの一部をあるグルーブに流していた。鳴海が大学の後輩を中心に密かに作り上げていたグループだ。政治的な暗殺を目的とするアナーキストの集団だ。鳴海は拳銃やライフルやマシンガンまで手に入れて港の近くのボロビルの地下室を改造して秘密の射撃練習場を作り、連中と射撃訓練をやっていた。だからあいつはライフルの使い方があんなに上手かったんだ。鳴海は組に入っててめえのカモフラージュをし、同時に組を利用して暗殺集団の資金をこしらえていたんだ。あいつが裏切ったのは俺や組ばかりじゃない。国を裏切っていた。この日本を裏切っていたんだ。許せん。だからバラした」。裏切り者は絶対許さん――、そんな佐伯の鉄の信条を思えばこの結果は当然か……。

 さて、こうして佐伯から「ライジング・サン」の経営を任されることになった修はどうしたか? 思想的には自分と近い立場にある佐伯の下で水を得た魚のように生き生きと泳ぎはじめた? 実は、違うのだ。修は、なんと、その佐伯を襲撃する――。修は学生殺しの容疑者として警察に目をつけられたことを察知し、サモアへの高飛びを目論む。「ライジング・サン」の客でルースといい仲になったジョニーという白人青年が父親のボートを掻っ払ってサモアへ渡ろうとしており、それに便乗しようという魂胆。で、このジョニーという白人青年、父親はアメリカ海軍の将校で2人の兄も軍人、自分もハイスクールを出たら軍隊に入ることが既定路線となっている。それを拒否して家を飛び出したという設定で、事実上の兵役拒否と言っていい。でね、修、佐知夫、ジョニーというこの3者の取り合わせがなんとも言えずいい。修にも佐伯と同じく相当に「国士」的なところがあると思うんだけれど、一方で修はゲイの佐知夫を最後まで捨てようとしない。佐知夫を捨てたら自分の生きている値打ちがなくなってしまう、とまで言う。これは佐伯との大きな違いのはず。佐伯は自らが経営するパブに南軍旗を掲げるくらいだから、万事、封建的価値観を墨守していると思われ(作中では特に言及はないものの)性的志向の多様性など認めようはずもない。またもう1人の連れであるジョニーも兵役を拒否して家を飛び出した。それは、佐伯流に言えば「自分が生まれた国を裏切る」こと。ゲイと兵役拒否者――、そんな2人を連れて高飛び(これを博徒の世界では「国を売る」という)しようとした修は佐伯とは根本的に「思想」を異にすると言えるのでは? 佐伯というのは実態としては「体制」の一員なんだよね。やくざという反社会的存在でありながら、献金を通して政治と繋がっている(そういう描写が1時間16分くらいにある)。そういうかたちで「体制」の中に居場所を与えられているのだ。しかし、修や佐知夫やジョニーはそうではない。彼らは完全に「体制」からハブられている。いや、修だけはその境界のギリギリのところに止まっていると言っていいか。有り体に言えば、彼は佐伯になることもできたのだ。しかし、それを拒否して高飛びしようとする時、佐伯を襲うことになるというのは、だから、ドラマツルギー上の必然ということになる。そう、修は「国を売る」に当たってその逃走資金とすべく佐伯の事務所を襲撃し、金庫が空と見るや次は佐伯の自宅を襲うのだ。小説では哲は高飛びするに当たって銀行を襲撃するのだけれど、映画ではそのように改変されている。そして、この改変は全く以てドラマツルギー上の必然であると。こういう改変ならば、ワタシは全然ウェルカムなんですよ。それは、決して原案小説を貶めることにはならない。その上で、最後は江美子(ユリ子)の裏切りにあって袋の鼠となり、あえない最期を遂げるという原案小説が用意した結末に見事に着地して見せるというだから……。いやー、スゴイ! 西村潔は決して早撮りだけが取り柄のB級アクション監督ではなかったんだ――と、これは2年前の自分へのダメ出しも込めて……。