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続・人生という無理ゲーを「生きる」

 また小説を書いた。今度は短編。「有合亭ストーリーズ」と同様、既に某文学賞に応募済ですが、こちらの文学賞でも応募規定として「応募者が作品に関する諸権利を有する限り、ブログ等で発表されている作品も応募可能です」としており、拙サイトでも公開することとしました。

 なお、小説に登場する「叔父さん」には裏設定がある。「叔父さん」が言及する女子高校生射殺事件――田中陽造が言うところの「富山〝教室内猟銃殺人〟事件」については「小さい町みつけた③」でも少し書きましたが、この事件の犯人・山本勝次は旧平村の上梨の住人だった。で、「叔父さん」――というか、有り体に言えばおれなんだけど――は上梨にはいささかの思い出がある。小説でも言及しているように、中一の夏休みの林間学校は五箇山だったのだが(これについてはブログでも書いたことがある。こちらとかこちらとか)、五箇山のどこかと言うと、これがなんと上梨だったのだ。当時、上梨には下梨小学校上梨分校というのがあって、こちらの本に校舎の写真が載っていますが、夜はこの木造校舎の教室でごろ寝だよ。夏だっていうのに、寒くてねえ。各自、自宅からタオルケットを持参するよう指示があったんだけれど、中にはバスタオルを持参した生徒もいて、とてもじゃないけれどあの寒さは凌げませんよ。まあ、今ならありえんよね、木造校舎の教室でごろ寝なんて。ともあれ、上梨にはそんな思い出があるわけだけれど、もとより当時のおれは1962年に起きた事件のことなんか知らなかった。事件について知ったのは1974年で、おれは高校一年生。事件のことを教えてくれたのも高校の倫理社会の教師だった。で、これがいかにも1970年代というか……。1974年9月13日、ハーグ事件というのが起きた。日本赤軍のメンバーがオランダのハーグにあるフランス大使館に押し入り、大使ら11人を人質にとってフランス当局に拘束中のメンバーの釈放を要求した。4日間に渡るタフな交渉の末、フランス当局は要求を呑んでメンバーを釈放した。メンバーは「スズキ」という偽名を使っていたが、24日、警察庁の捜査により素性が判明した。本名は山田義昭と言い、なんと平村下梨出身だった。もう富山は大騒ぎだよ。で、倫社の授業でこの事件が話題になった。確か倫社の教師が平村出身だったのかな? そんな記憶がある。そして、こんなことを言った――「平村では10年に1度、大きな事件が起きる」。その10年前に起きた大きな事件というのが女子高校生射殺事件だった。確かにスゴイ事件だと思った。卒業生が授業中の学校に侵入して生徒を黒板の前に一列に並ばせ、その中の一人を猟銃で射殺したのだ。当時、「進歩的知識人」も巻き込んだ形で社会現象化していた数多の事件と比較しても引けを取らないというか、なんなら勝っている? そんな印象を受けたものだ。しかも、事件の犯人が上梨の住人だということもわかって、え、だったら下梨小学校上梨分校の卒業生だったんじゃ……? で、以来、この事件はおれの――というか、「叔父さん」の心の一隅を占拠しつづけているような次第なのだけれど……そんな「叔父さん」がもしオノレの半生を振り返るとしたらこんなふうになる――。こんな裏設定を持つ物語は、「人間は変わる」ということの標本のようでもあり、「人間は変わらない」ということの標本のようでもあり……。

 おれは、悩んでいた。高校を卒業して、皆と同じように大学に進学するか? それとも、そんな規定のルートからドロップアウトするか?
 高三の夏が終わろうとする頃、おれはその懊悩に決着をつけた。おれは「砂漠の商人」になろうと決めたのだ。そのために、富山を出る。しかも、平村を経由して。
 ルートは、こうだ。まず富山から高岡まで電車で行く。高岡からはバスで国道156号線を南進、東中江、篭渡、大島を通過、平橋を渡って下梨に入り、上梨で一泊。翌日、再びバスに乗って国道156号線を西進、葎島、小原、菅沼を通過して岐阜県内に入る。そのまま道なりに行けばいずれは本州を突っ切ることになるだろう。
 今にして思えば、高桑敬親氏が提唱している宗良親王の越中入国ルートを逆に行く形にはなるのだけれど……それもまた一興というものか。とにかく、山本勝次、山田義昭を生み、成り立ちからして反逆のエトスが漲る〝山岳ベース〟を経由して富山を出るのだ。それは、1976年8月のことだった――。
 その後、各地でバイトしながら最終的に東京にたどりついたおれは歌舞伎町でバーテンダーとして働きはじめた。アルチュール・ランボーになることを夢見ていたおれはバーテンダーとして働きながら詩も書いた。書いた詩はパンフレットにまとめて働いていたバーのカウンターに置いてもらった。酔っぱらい連中は見向きもしてくれなかったが、おれの方も連中を相手にしていないんだからお互いさまだ。
 そんな生活を7、8年もつづけた頃、店で起きた客とヤクザの喧嘩に巻き混まれてビール瓶で頭を殴られ、瀕死の重傷を負った。気がつくとおれは病院のベッドに寝ており、ベッドの傍らには兄がいた。やがて富山から両親もやって来た。このとき、母に泣かれたのには参ったよ……。
 富山に連れ戻されたおれは、父が紹介してくれた就職口を断って、職安で見つけてきた鉄工所で働き始めた。仕事はそれなりにこなせたし、職場の人間関係にもなじんだのだが、ほどなく不景気が日本列島を襲い、鉄工所はすべての工員を養って行くだけの仕事量を確保できなくなった。苦慮する社長を見かねたおれは自ら退職を申し出た。社長は口では引き止めてくれたが、内心は違っていたはずだ。
 鉄工所を辞めたおれは新しい勤め口を探すでもなく家でぼーっとしていた。父も母も何も言わなかった。何か言うとまた家を出て行くかも知れない――、そんな怖れが両親を臆病にしているように思えた。それをいいことにおれは無職を決め込んだ。
 ほどなく日本列島をバブル景気というやつが襲った。くだらないと思った。おれは無職を貫いた。そのバブル景気が去ると今度はITブームというやつがやってきた。これは、おもしろいと思った。そして、何かやれそうだという気になった。アメリカでeBayが創業したのは1995年だが、日本で知られるようになったのは2000年代になってからだ。おれもその頃にはeBayで古いペーパーバックを見つけては、ときにはエアメールで、ときにはサーフェスメール(船便のことを英語でこう言う)で取り寄せるようになっていた。ペーパーバックは東京にいた頃から読んでいたのだが、東京泰文社あたりでもなかなか見かけることのない本が簡単に見つかるのは驚きだった。しかも、安かった。そして、こうして取り寄せたヴィンテージ・ペーパーバックを日本で転売すれば結構な稼ぎになるのでは? というアイデアが思い浮かんだ。そして、そのための自前のサイトを立ち上げることとし、そのためのプログラミングを独習で身につけた。プログラミングと言ったところで、サイトの構築に必要なのはphpとjavascriptくらいで、これくらいなら独習でマスターできた。そして、自らプログラミングして作ったサイトでヴィンテージ・ペーパーバックの取り引きを開始したのだ。
 その頃のおれは得意満面だった。何よりも、自らプログラミングしてサイトを作ったことに満足感を覚えていた。当時、既に40代になっていたが、こんなこと、普通の40代にはできないだろう。おれは自分が「他の誰にも似ていない」ことに満足感を覚えていた。
 ただ、家庭内は不幸続きだった。まず、父が脳卒中で倒れ、右半身に重い障害が残った。その父を懸命に介護していた母が心臓を悪くし、ペースメーカーを埋め込む手術を受けたのは2009年のことだった。手術は成功したものの、父は前途に強い不安を覚えたようで、もう妻に頼れないとなったとき、自分はどうすればいいのか? そんなことでふさぎ込むことが多くなった。そして、見る間に痩せて行った。
 しかし、痩せるのには理由があった。ガンを発症していたのだ。それがわかったのは、クリスマスイブのことだった。この時点でおれは覚悟を固めた。翌年の正月を家族全員で過ごすと、父はそのことに満足したように1月6日には早々に旅立った。
 そして、おれと母の二人きりの生活が始った。この時点でおれは50代となっており、これまで母を泣かせてきたことの穴埋めをしたいという思いが強かった。だから、よく二人で出かけた。母と二人だけのドライブは楽しかった。何よりも母が楽しそうにしてくれていることが嬉しかった。
 その母も昨年の2月5日に旅立った。父も発症しなかった認知症を発症した上での旅立ちだった……。

◉麦屋節考◉

 築四十年の家はあちらこちらガタが来ていた。廊下の床はここと言わずかしこと言わず抜けかかっていたし、トイレの引き戸はピタリと閉めたはずなのにいつの間にか隙間が空いてしまう。しかし、そんなことはどうでもよかった。この家はおれにとっても思い出がいっぱいなんだ。
 まだ幼稚園に上がる前のことだったと思うけれど、二階に上がる階段の途中からころがり落ちたことがあった。そんなおれを受け止めてくれたのは、叔父さんだった。後年、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を読んで、「とにかくね、僕にはね、広いライ麦の畑やなんかがあってさ、そこで小さな子供たちが、みんなでなんかのゲームをしているとこが目に見えるんだよ。何千っていう子供たちがいるんだ。そしてあたりには誰もいない――誰もって大人はだよ――僕のほかにはね。で、僕はあぶない崖のふちに立ってるんだ。僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ――つまり、子供たちは走ってるときにどこを通ってるかなんて見やしないだろう。そんなときに僕は、どっかから、さっととび出して行って、その子をつかまえてやらなきゃならないんだ。一日じゅう、それだけをやればいいんだな。ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ」というホールデン・コールフィールドの台詞を読んで、ああ、叔父さんこそはおれにとっての「ライ麦畑のつかまえ役」だったんだ――とかね。とにかく、そんなふうな思い出がいっぱい詰まった家なんだ。
 今、そんな家に叔父さんは一人で住んでいる。
 おれはバスタオルで髪を拭いながら、いささかの感慨に耽っていた。
 おれが座っているのは、部屋の真ん中に置かれた座卓のテレビを背にする側で、ここがこの家におけるおれの指定席だった。
 ほどなく叔父さんが両手に缶ビールを持って入ってきた。
 一本はおれの前に。そして、もう一本は自分で持ったまま、おれ――というか、テレビと対面する側に腰を下ろした。そこがかねてからの叔父さんの指定席だった。
 以前は、祖父の指定席もあったし、祖母の指定席もあったのだが、今はもうない。
 今、祖父と祖母は、長押の上からおれと叔父さんを見守っている。
「じゃあ、とりあえず乾杯と行こうじゃないか」
 そう言って叔父さんは缶の栓を開けた。
 おれも、続いた。
 二つの、プシュッ、という音が、何でもない時刻(とき)を黄金(こがね)の時刻に変える……。
 おれがコップにビールを注ごうとすると、叔父さんが待て待てとばかりに(叔父さんたちの時代の流儀に従って)注いでくれた。で、おれもお返しに叔父さんに注いで……乾杯!
 今日はよく歩いたので、身体は水分を欲しており、おれは一息にビールを飲み干した。そして、二杯目は手酌で。それを半分くらい空けた頃――
「五箇山の取材だって?」
 叔父さんがそう聞いてきた、いつも通りのやや伝法な口調で。その口調のお陰で、久々の再会だというのに、昨日会ったばかりのような感じで会話に入って行けた。
「うん、今年は世界文化遺産登録三十周年に当たるので」
「じゃあ、取材対象は相倉と菅沼か?」
「いや、今回は上梨や下梨も入っています。ていうか、そうするよう提案したんです、ぼくが」
「ほお」
「世界遺産たって、相倉の合掌家屋は二十棟、菅沼は九棟。それに対し、白川郷は五十九棟。スケールが違う。そもそも五箇山というのは小さな集落の総称ですからね。確か四十だったかな、主に庄川沿いに小さな集落が散在している。その中で合掌家屋が残る相倉と菅沼が世界遺産に登録されたわけだけれど、菅沼なんて、何時間もかけて行って、一時間もあれば見終わってしまう。そういう意味で、白川郷よりも見劣りする。でも、五箇山には五箇山の魅力があって、それは小さな集落を一つ一つ辿って山奥に分け入って行く探検性だとぼくは思う。そして、その探検性に南朝の隠れ里というストーリー性が加味されればほとんど鬼に金棒だろう――とぼくは思っていて、編集長にそういう提案をしたんです。すると、編集長は採用してくれたんです……前半部分だけを」
「うん?」
「だから、五箇山の魅力は小さな集落を一つ一つ辿って山奥に分け入って行く探検性だという部分」
「うん」
「でも、その探検性に南朝の隠れ里というストーリー性が加味されれば鬼に金棒、という後半部分は却下されました」
「なぜ」
「まあ、なんていうか、ほとんどアレルギー反応に等しいというか」
「ふふ」
 これには、叔父さん、苦笑するしかない、というテイだった。
「一応、リクツは言っていましたよ、麦屋節の歌詞は五箇山が平家の落人集落であることを強く示唆している、とか。それに対し、ぼくが、あれは一種の騙しで、南朝の隠れ里という真相をカモフラージュするためのものと言うと、編集長は南朝の隠れ里であることを隠蔽しなければならないのはせいぜい十六世紀までだと言うんですよ。で、何でもいいから、言われた通りに取材しろと、力ずくで押さえ込まれてしまった」
「そうか。それは残念だったな」
「ただ、五箇山の魅力は小さな集落を一つ一つ辿って山奥に分け入って行く探検性だという部分については採用してくれて、世界遺産には含まれていない上梨集落や下梨集落も取り上げることになったという次第です。で、今日は特に下梨集落を念入りに取材してきました。五箇山麦屋まつりが行われる地主神社を見て、越中五箇山麦屋節保存会の関係者に話を聞いて、あと平高校の郷土芸能部が夏合宿中で、部員たちにも話を聞けました」
「ほお、平高校の郷土芸能部か……」
 そう言うと、叔父さんは視線を斜め上に向けて、ちょっと息を呑んだ後、呑んだ息をふーっと吐き出して、言葉を続けた。
「じゃあ、平橋も渡ったわけだな」
「平橋? あの庄川に架かった橋のこと?」
「うん」
「渡ったけど……それが、何か?」
「いや、ただの古い事件さ」
「古い事件?」
「ああ、殺人事件」
「殺人事件? 平村で?」
「富山〝教室内猟銃殺人〟事件。田中陽造ふうに言えばな」
「田中陽造? 田中陽造って脚本家だけど、そんな映画あったかなあ」
「いや、映画じゃなくて記事。田中陽造が週刊誌の事件記者をやっていた頃に書いた」
「へえ、そうなんだ」
「古い事件でな。昭和三十七年だから、おれがまだ四つ。おまえのお父(とう)で十。だから、本当に古い」
「で、どんな事件だったの?」
「うーんと、平高校――当時は福野高校平分校と言ったんだが――の卒業生が下級生に恋をして一方的に思いを募らせて行った。しかし、下級生は見向きもしてくれない。で、絶望感に駆られた卒業生は下級生を殺して自分も死のうとした。得物は、猟銃。これは、親戚の家から盗み出したんだったかな。で、授業中の学校に侵入して生徒らを黒板の前に一列に並ばせた。そして、左から四番目に立っていた下級生に向けて躊躇なく銃弾を放った。銃弾は下級生の左胸を貫通して、後ろの黒板にめり込んでいたそうだ。その後、卒業生は学校を飛び出し、平橋の中ほどまで行って飛び降りようとしたものの、橋の上から河原を覗き込んで怖じ気ずいたらしい。そうこうする内に警察が駆けつけてきて、懸命の説得が始まった。で、最終的に卒業生は説得に応じ、武装解除すると、その場で逮捕された。卒業生は事前に『平橋の惨劇を期待せよ』という決意表明のような犯行声明のような文章を書いて部屋に貼っていたそうだが、その『平橋の惨劇』は腰砕けに終わったということだな」
「ふーん。あの場所で、そんなことが……」
 あの場所で、そんなことがあったなら。そして、事前にそのことを知っていたなら。せっかくその場所まで行ったんだ。おれも橋の上から河原を覗き込んでみるんだったが……。
「でも、下級生は躊躇なく撃ったんだよね。それでいて、なんで飛び降りるのは躊躇したんだろう?」
「考えられるのは、射殺=射精のようなもので、射殺した瞬間、卒業生の狂気=性欲は萎えてしまった……」
「……」
 まあ、こんなときは、笑ってやりすごすに如くはなく。
 でも、叔父さんとはいつもこんな感じで。おれの父は、既に現役はリタイアしているものの、大学で宗教学を講ずる教授だった。アカデミシャンならではの生真面目さが際立つ父とは違って、叔父さんには相当に風変わりなところがあった。富山弁で言うところのみゃあらくもん(身が楽な者)。その典型のような。ここまで独身を貫いているのには何か理由があるのかどうか。それを聞いたことはないし、聞いたところで素直に答える人とも思えない。甥であるおれに対しさえ本音はどこか深いところに隠しているというか。しかし、おれは好きだった。なんでもよく見るテレビはナショナルジオグラフィックで、しかも音声は副音声にして見るらしい。多分、外国には行ったことがないはずだが、なぜか英語が堪能で、海外のミステリー小説は原書で読んでいた。そんな捕らえ所のないところがおれは好きだった。で、取材で富山を訪れたときは決まってこの家に泊る。今回もそうしたわけだが……今回に限ってはちょっと別の意図もあった。
 去年、祖母が亡くなっていた。言うまでもなく、叔父さんにとっては母。おれが見るところ、叔父さんにはちょっとマザコンぽいところがあって、もしかしたらここまで独身を貫いているのだってそれが関係しているのかも……。で、去年、叔父さんはそんな〝最愛の母〟を亡くしたわけで、はたして精神状態は大丈夫だろうか? というのが、おれの心配としてあった。そうじゃなくても、高齢者の一人暮らしだ。いろいろな問題が発生しがちなもの。で、おれとしてはそれとなく家の様子に気を配っているのだが……別段、ゴミ屋敷化の徴候はうかがえない。しかし、布団は敷きっ放しだった。掃除も……していないらしい。
 で、ここは単刀直入に聞いたんだ――「叔父さん、掃除は?」
 すると、叔父さんはこう答えたもんだ――「掃除は月に一回。月忌法要の前の日と決めている。決めた通りにきちんきちんとやっているのだから大したものだろう」
 そう言われれば、返す言葉もない。ともあれ、表面上は元気そうではあった。
 一安心したおれはここで座卓の真ん中の握り寿司に手を伸ばした。トラベルライターという職業柄、このところ富山県が「寿司といえば、富山」なる観光キャンペーンを繰り広げていることは知っている。その富山の寿司の旨さはおれも子どものころから実地で体験していて、寿司屋で食べる寿司が旨いだけではなく、スーパーで売っている寿司が普通に旨いのだ。季節柄、今はサワラやシロギスなどあっさりとした味の魚が多めだが、それでも旨さには変わりない。おれは久しぶりの富山寿司を貪り食った。
「ところで、今日の取材では麦屋節は聴いたのかい?」
「聴きました。平高校の郷土芸能部の生徒らが披露してくれました」
「そうか」
「ただ、平高校郷土芸能部の生徒らには申し訳ないけれど、現地に行って、実際に聴いて、改めて、麦屋節の歌詞はおかしい、と確信しましたよ」
 ここでおれは部屋の隅に放り出してあったバッグからこの取材のために持ってきた『五箇三村の民俗:越中五箇山民俗資料調査中間報告書』を出して、付箋を貼ったページを開いて叔父さんに渡した。そこには、麦屋節の歌詞が記されていた。

麦や菜種は二年で刈るが、麻が刈らりよか半土用に。
浪の屋島をとくのがれて来て、薪樵るちよう深山辺に。
心淋しや落行くみちは、川の鳴る瀬に鹿の声。
烏帽子狩衣脱ぎうちすてて、今は越路の杣家かな。
川の鳴る瀬に絹機たてて、波に織らせて岩に着しよ。
此処を雲井とたのみし空を、落ちて越路の雁の群。
鮎は瀬につく鳥は木に泊る、人は情の中に住む。
むぎやむぎやは七軒八軒、中のむぎやに市がたつ。
わしの若いとき五尺の袖で、道の草木をなびかせた。
国の栄のその暁を、告ぐる弥栄の鶏の声。

 叔父さんは、しばらくページに目を落としていたが、特に何の反応を示すこともなく本を返してよこした。
 おれは、何も叔父さん相手にムキになることもないのだが、この歌詞が孕む〝騙しの構造〟について編集長と相対したときと同じように熱弁せざるを得なかった――「もし本当に麦屋節が平家の落人である自分たちの境遇を唄ったものだとしたら、なんで「浪の屋島をとくのがれて来て」なんでしょうか? 地理的にも倶利伽羅合戦に敗れて五箇山に逃げ込んだと考えるのが適当で、それで「波の屋島を遠くのがれ来て」はないでしょう。それに、彼らが本当に平家の落人だとしたら、彼らは五箇山に隠れ住んでいたことになるわけで、言うならば五箇山に潜伏していたわけですよ。その場合、自分たちが平家の落人であることは徹底的に隠そうとするはず。だって、彼らは逃亡者みたいなものなんだから。だったら、こんなふうに自分たちが平家の落人であることを自白するような歌を唄うだろうか?」
「まあ、お説ご尤もですな。でも、編集長は受け付けなかったわけだな。なんだっけ、南朝の隠れ里であることを隠蔽しなければならないのはせいぜい十六世紀まで、だったっけ?」
「そうです。足利義昭が京都を追われて、事実上、室町幕府が崩壊したのは元亀四年(一五七三年)。それ以降は南朝の隠れ里であることを隠蔽しなければならない理由はなかったはずだと言うんですよ」
「で、おまえはそれに納得なのか?」
「納得というか。一理あるかな、とは思いますが……でも、下梨には南朝第三代・長慶天皇の御陵とされるものが現存しているし、上梨の白山宮には、宗良親王や新田一族の霊が合祀されている。何の裏付けもない平家の落人説とは違って、南朝の隠れ里説には確固たる裏付けがある。五箇山を隠れ家としていたのは、平家の落人などではなく、藤島の戦いで敗れた新田義貞の遺臣とする高桑敬親説で間違いないと思っています。それでいながら麦屋節はことさらに平家の落人説を強調してみせているわけで、あれは騙しです」
「でも、足利義昭が京都を追われた元亀四年以降は南朝の隠れ里であることを隠蔽しなければならない理由はなかったという編集長氏におまえは反論できないわけだな」
「まあ、そういうことです。はなはだ遺憾ではありますが」
 で、おれとしては、この話はこれでおしまい、というつもりだった。久々に会った叔父と甥としては、話すべきことは他にあった。叔父さんにとっては姪っ子となるおれの子どもの話とか、おれが心の中で密かに温めているIターンの計画とか。
 ところが、叔父さんはコップのビールをぐいっと呷るとこんなことを言った――「南北朝時代は、本質的には、江戸幕府の崩壊まで続いていたと言っていい」
「え?」
「新田の残党が平家の落人と偽装しなければならなかったのは、江戸時代も室町時代と変わらず北朝の世だったからだ」
「江戸時代が北朝の世? えーと……」
 おれのアタマが、せわしなく回転した。これでも歴史通として業界では評判で、トラベルライターでありながら歴史関係の著書だってある。まあ、共著だけどね。だから、こんな判じ物めいたことを言われて、わかりません、では格好がつかない。で――「まあ、幕府というのは武家政権のことだから、鎌倉幕府であれ室町幕府であれ江戸幕府であれ、程度の差はあっても朝廷を軽んじているという意味では違いはない。だから、室町幕府が潰えても江戸幕府が続いている以上、北朝の世が続いている、とは言えるわけで……つまり、叔父さんが言っているのは、そういうことですか?」
「ほう、さすがだな、伊達に歴史通の評判を取っているわけではないようだ」
「でも、江戸時代ともなると、南朝の残党が奉ずべき皇胤なんて残っていなかったはずで、それで南北朝時代が続いていたと言われても。いわゆる後南朝というのも奉ずべき皇胤がいたからこそで、ぼくが知る限りだと、文明十一年(一四七九年)、小倉宮の末裔とされる通称「西陣南帝」が越後・越中を経て越前に到着した、という趣旨の記載が『晴富宿禰記』にある。で、これを最後に「西陣南帝」は歴史の闇に消えた――というのが真っ当な歴史学が教えるところです。それ以後は、南朝の残党が奉ずべき皇胤はいなかったはずです」
「いや、南朝の残党が奉ずべき皇胤はいたさ」
「そうなんですか?」
「いいか、いわゆる「譲国の儀」によって三種の神器は南朝から北朝に引き渡された。南朝が正統だったのは三種の神器が彼らの手元にあったからで、それが北朝の手に渡った以上、北朝、言い換えれば持明院統が正統な皇統ということになる。ならば、南朝の残党が奉ずべきも持明院統に連なる皇胤だ。そして、そういう皇胤ならどれだけでもいた。実際、幕末には新田氏の末裔を名乗る人物が日光で輪王寺宮公現法親王に謁見し、倒幕の先頭に立つよう働きかけたことがある」
「ああ、輪王寺宮……」
 輪王寺宮公現法親王は、日光山輪王寺の門跡にして東叡山寛永寺の貫首でもあった人物で、皇親としては伏見宮邦家親王の第九王子という身分ながら輪王寺門跡を相続するに当たって仁孝天皇の猶子となっており、明治天皇とは叔父・甥の関係となる。その輪王寺宮を倒幕のための〝錦の御旗〟にしようとしたのが叔父さんが言った「新田氏の末裔」――その名は新田満次郎と言うのだけれど――であり、逆に佐幕のための〝錦の御旗〟にしようとしたのが彰義隊であり奥羽越列藩同盟。一説には輪王寺宮は会津で「東武皇帝」に即位したとされるのだが……実は、叔父さんはこの件については少しばかりうるさい。かつて「東武皇帝」即位説をめぐって一文を草したこともある。とは言え、叔父さんは歴史の専門家ではない。そもそもナショナルジオグラフィックを副音声で見ているような人なんだから。それが、どうして? なんでも「東武皇帝」即位説についてはアメリカのヒストリック・ニュースペーパーのデジタル・アーカイブでカリフォルニア州発行の古い新聞を読んでいてたまたま知ったそうだ。で、みゃあらくもんの血が騒いだというわけか、三年ばかりかけてその真相を追った。その成果物が件の一文。しかし、日の目を見ることはなかった。このあたりのことを叔父さんが語ることはあまりないのだが、おれは父から聞いて知っている。父としては、叔父さんがこの仕事をきっかけに独り立ちしてくれることを願っていたそうだが……。
「話を戻そう。南朝というのはな、「天皇親政」というイデーを奉ずる勢力のことだ。それに対し、武家政権の傀儡として作られたのが北朝だ。そして、その対立が最終的に江戸幕府を滅ぼすことになる。だから、本質的には南北朝時代は江戸幕府の崩壊まで続いていたと言っていい」
「へえ、そんな考え方ができるのか。でも、そうなると、南朝の残党が身を隠す理由はまだまだあったということになるな。で、新田の残党は五箇山に隠れつづけた、自らを平家の落人と偽装しつつ……」
 全く、考えてもみなかったことだった。多分、歴史の知識に関しては叔父さんよりおれの方があると思うんだけれど、叔父さんはときにおれが考えてもみなかったことを言って驚かせる。しかも、ただの思いつきではなく、ちゃんとロジックとして組み立てられている。で、無双状態となる。この日の叔父さんもそんな気配を漂わせていた。ここは、探りを入れる意味で、いろんな質問をぶつけてみよう――。
「ところで、これはかねてからぼくが不思議に思っていたことなんだけど、富山には長慶天皇の御陵とされるものが三つもありますよね。その一つは下梨にあって、これについては五箇山が南朝の隠れ里だったのなら、納得が行く。でも、長慶天皇の御陵とされるものは、南砺市安居にもあれば砺波市隠尾にもある。これはどういうことなんでしょう? なんでも長慶天皇の御陵とされるものは日本各地にあるそうですが……」
「長慶天皇の御陵は、御陵とはされているけれど、実際には追悼のために作られた模擬墳墓で、南朝の遺臣が事実上の南朝の〝ラストエンペラー〟である長慶天皇への追慕の念を形にしたものだろう」
「ということは、そんなものが三つもある越中というのは南朝の勢力が非常に強い、言うならば南朝の金城湯池のような土地だったということでしょうか?」
「南朝の金城湯池? 面白い表現だな。浄土真宗の金城湯池はよく聞くが、南朝の金城湯池は聞いたことがない。しかし、そう見て間違いないだろう」
「でも、なんでそうなったんでしょうか。新田の残党が五箇山に隠れ住んでいたとしても、五箇山なんて山奥だし、人数だって高が知れているでしょう。彼らの存在を以て越中が南朝の金城湯池となった理由とするのはムリがあるような気がするな」
「それについては、佐伯有若が関係している可能性がある」
「え、佐伯有若が?」
 佐伯有若は越中の国司を務めていた人物で、富山では立山開山として普く知られている佐伯有頼は佐伯有若の子とされている。ただし、佐伯有若の実在をめぐっては久しく疑念が持たれていた。ただの伝説上の存在ではないのかと。しかし、昭和初年に富山県東砺波郡五鹿屋村生まれの郷土史家・木倉豊信によって裏付けとなる史料が発見された。京都市山科区にある真言宗善通寺派の大本山・随心院が所蔵する文書の中に「越中守従五位下佐伯宿禰有若」と自署のある文書が発見されたのだ。ただし、だからと言って佐伯有若ないしは有頼を立山開山と決めつけることはできない。というのも、天台系の恵尋という僧が著した『師資相承次第』に滋賀県大津市園城寺町にある天台寺門宗の総本山・園城寺の四世・康済律師に関する記述として「越前国人、紀氏、越中立山建立」とあり、「越中立山建立」をどう読みとるかにもよるが、立山信仰に天台宗の影響が認められることからも康済律師が立山開山に何らかの形で関わっているのは間違いないだろう。とするなら、その時期は九世紀中ということになる、康済律師は昌泰二年(八九九年)に入滅したとされるので。一方、随心院文書に記された年紀は延喜五年(九〇五年)。わずかとはいえ、こちらの方が後。ということで、立山町職員・一ノ越山荘主人などを務めた佐伯立光氏は『立山芦峅寺史考』において「而して立山開山についての考証は、師資相承に見られる様な天台系の康済律師及びその流派の僧が立山を開き、それが後世に至つて佐伯有頼か、その一族の者が大檀那として資財を寄進して伽藍を建立し、かくてこれが後世国司有若を祖とする一族によつて伝わつたものであろうと考えられるのである」。おれもこれが最も筋の通った見立てではないかという気がする。ただ、今の論点は佐伯有若が越中が南朝の金城湯池となったことに「関係している可能性がある」という点で……。
「注目は、佐伯有若が越中の国司を務めたのが延喜年間だということだ。延喜年間は醍醐天皇の治世だ。後世、世人は醍醐天皇が行った政治を「延喜の治」と呼んだ。その「延喜の治」を範としたのが後醍醐天皇だ。だから、越中が南朝の金城湯池となったのは佐伯有若が醍醐天皇の臣であり、その子孫が越中に土着してこの地方の有力氏族となったことも何かしら関係しているとおれは見ている」
「なるほど……」
 これは、おれにとってはまた違った意味でのサプライズだった。実は、おれも叔父さんも佐伯の血を引いているのだ。と言っても、佐伯有若の血を引いているわけではない。父方のルーツを溯って行くと佐伯という家に行きつくというだけの話。ただし、富山で佐伯と言えばなんたって佐伯有若で、その子孫が越中に土着してこの地方の有力氏族となったのも紛れもない事実。そうなると、どうしたって自分をその子孫と見なしたい心理が働くわけで……。
 そんなおれの白想を断ち切って、叔父さんがこう言った――「ただ、直接的には、宗良親王の越中入国がきっかけだろうな」
「宗良親王の越中入国? ああ……」
 宗良親王は、後醍醐天皇の第四皇子(あるいは第八皇子。富山では「後醍醐天皇八ノ宮宗良親王」として知られている)で、興国三年(一三四二年)、寺泊から海路、越中に入国した。もっとも、宗良親王の越中入国は五箇山経由の陸路だったという説もある。しかも、入国は定説よりも早い興国元年。実は、この説を提唱したのは、他でもない、高桑敬親。上梨にある浄土真宗大谷派の寺院・円浄寺の住職で教員でもあった人物。五箇山が南朝の隠れ里だったという説の嚆矢となる「五箇山の吉野朝史考」を著したのは戦前で、戦後も南北朝時代の五箇山に関する著作を多く世に送り出した(ただし、ほとんどは謄写版による自費出版)。で、昭和四十七年に上梓した『五箇山史:南北朝期』では従来の海路入国説に果敢にチャレンジする五箇山経由の陸路入国説を唱えた。実際、この説を採用すると、上梨の白山宮に宗良親王と新田一族の霊が合祀されている理由も簡単に説明がつくのだ。ちなみに『五箇山史:南北朝期』をおれに勧めてくれたのは叔父さんだ。なんでも叔父さんは高桑敬親氏に会ったことがあるらしい。中学一年の林間学校が五箇山で、この際、こきりこ節を教わったのが高桑敬親氏らしいと言うのだ。実は高桑敬親氏はこきりこ節の保存に尽力したことでも知られる。ともあれ、興国元年ないしは三年、宗良親王は越中に入国した。そして、木船城主・石黒重之の庇護を受けながら、興国五年まで越中に滞陣した。その間、興国二年には常陸国筑波郡小田村で繰り広げられた小田城合戦に参陣していた可能性もある。というのも、石黒重之がこの合戦に参陣していたらしいので。これは『福光町史』に記されている事実で――「石黒重之は、さきに『神皇正統記』を著した北畠親房の軍に従い、小田城合戦に参加していた。尾張国石黒大介家系図、重定(之)の傍記に、「越中守越中奈呉郷貴布袮城主迎宗良親王入城常州小田合戦功有」とあり」。そもそも、宗良親王の越中入国は募兵を目的としたものだったとすれば(これも高桑説)、その募兵に石黒重之が応じた結果としてこの参陣があったと考えることができる。いずれにしても、越中が南朝の金城湯池となったのは、直接的には宗良親王の越中入国がきっかけだったという理解でまず間違いないだろう。
 しかし、これだけならばどうということはない。叔父さんが本領を発揮したのはここからで。叔父さんが、本当の意味で無双状態となったのは……。
「ところで、お前は田屋川原の戦いは知っているか?」
「田屋川原の戦い? 確か加賀一向一揆のきっかけとなった戦いだったかと。えーと、加賀国守護・富樫政親に弾圧された加賀の一向宗徒が越中に逃げ込んで瑞泉寺に助けを求めた。その瑞泉寺に富樫政親の依頼を受けた福光城主の石黒光義が攻撃を仕掛けた。ところが、瑞泉寺側が門徒衆を動員してこれを迎え撃ち、結果は瑞泉寺の大勝。敗れた石黒勢は菩提寺だった安居寺で主従十六人が揃って腹を切るというまさかの結末に。一方、勝った一向衆徒はこれですっかり自信をつけて長享二年(一四八八年)には遂に富樫政親を討ち果たし、ここに百年に垂んとする「百姓ノ持タル國」が現出することになる――と、粗々こんな感じでいいでしょうか?」
「さすがは歴史通のトラベルライターだ、よくわかっている。しかし、ちょっと変だと思わないか? 富樫政親は加賀の国の守護であり、石黒光義は越中の国の国人。だから、両者の間に指揮命令系統はない。にもかかわらず石黒光義は富樫政親の依頼に応じ、瑞泉寺に攻撃を仕掛け、思わぬ反撃に遭って主従十六人が揃って腹を切るに至るというとんだ結末を迎えた。ちょっと変だろう。そうは思わないか?」
「言われてみれば、そうですが……」
 ここで叔父さんは、ニヤリと笑って、こう続けた――「実は田屋川原の戦いは南朝と北朝の戦いだったんだよ」
「え?」
 突然のことで、おれは叔父さんが何を言っているのか理解できなかった。
 そんなおれの様子を確かめると、叔父さんはこう話を続けた――「越中に入国した宗良親王を奉戴したのは木船城主の石黒重之だ。後に瑞泉寺と戦うことになる福光城主・石黒光義とは同族。一応、福光石黒氏が本家で木船石黒氏は分家ということになるようだ。で、宗良親王の越中入国に当たって本家である福光石黒氏がどのようにふるまったのかはうかがい知れない。しかし、ここは素直に越中国の石黒一党を挙げて宗良親王に勤王の誠を捧げたと考えよう。その結果として越中はおまえが言うところの南朝の金城湯池になったと。ここまではいいな?」
「はい」
「そんな南朝の金城湯池に打ち込まれた北朝の楔がある。それが、瑞泉寺だ」
「瑞泉寺?」
「お前は瑞泉寺が後小松天皇の勅願寺として建立されたことは知っているな」
「はい、確か本願寺の第五世宗主・綽如が明から送られてきた難解な国書を解読してみせたとかで、その褒美に後小松天皇から一寺建立のための勧進状の作成を認められ、そのための料紙も授けられた。そうして建立されたのが瑞泉寺であると」
「うん、その後小松天皇は明徳の和約により南北朝が統合された際の北朝の天皇だ」
「あ!」
「実は、綽如が越中に下向したのも後小松天皇の意を受けたもの、という説もある」
「そう言えば、高桑敬親氏が「五箇山の吉野朝史考」でそういう趣旨のことを書いていましたね。確か綽如上人に内意を含め五箇山の南朝の残党が暴発するのを「宗敎の力によりて思ひ止まるやう敎化せしめられた」とかなんとか。綽如の越中下向にそのような意図があったとするなら、瑞泉寺を南朝の金城湯池に打ち込まれた北朝の楔であるとするのも十分に説得力があるな」
「そういうことだ。その上で、石黒光義の話に戻ろう。石黒光義はなんで富樫政親の依頼を受けて瑞泉寺に攻撃を仕掛けたのか?」
「それは、ぼくにも説明できます。瑞泉寺は南朝側である石黒氏の庭先に打ち込まれた北朝の楔。石黒氏からするならば、目障りこの上もなかっただろう。そんな石黒氏にとって富樫政親からの依頼は渡りに舟と言ってもいいものだったかも知れない。それこそ、これで瑞泉寺を討つ大義名分ができたという……」
 この時点で、おれは、何かとてつもないものを捕まえかけているという予感を覚えていた。ただ……
「ただ、田屋川原の戦いは瑞泉寺側の大勝利だったわけですよね。なんで瑞泉寺はそんなに強かったんでしょう?」
「良い質問だ。それに答えるには、綽如の最期にまつわるある伝承について知ってもらう必要がある。ここで、面白いものを見せてやろう。ちょっと待ってろ」
 そう言うと叔父さんはひょいと立ち上がると居間とつづき間になっている仏間へ行って何やらごちゃごちゃやっていた。そして、ほどなく一冊の小冊子を手に戻ってきた。
「これだ。浄土真宗本願寺派富山教区が発行する教区報『ともしび』二〇二一年一〇月号。表紙に写っているのは、誰だかわかるか?」
「えーと……ああ、中山楓奈ですね」
「そうだ。東京オリンピック当時、彼女は龍谷富山高校の一年生だった。そのため、こんなふうに浄土真宗本願寺派富山教区の広報に駆り出されたわけだな。しかし、そのために撮った写真でも笑っていない。とにかく、媚びない子だ。今どき、こんな子はなかなかいない……。まあ、中山楓奈のことはこの辺にして――この小冊子の中程に掲載された連載コラム「真宗物語」を読んでみろ。なかなか香ばしいことが書かれているから」
 そう言われておれは素直に従ったのだが――

 嚴照寺の大杉

 砺波市福岡、庄川右岸の芹谷野段丘上に浄土真宗本願寺派嚴照寺がある。本願寺第五代宗主綽如上人が、井波瑞泉寺とともに開創された寺である。本堂の前に樹齢六百年は優に超える二本の杉の巨木がそびえている。
 ところで、増補改訂版本願寺史によれば、綽如宗主は二十五歳にして第四代善如宗主から継職され、それからわずか九年後の至徳元年(一三八四年)、当時まだ九歳の光太麿(のちの功如宗主)に譲状を書き北陸に向かわれた。その理由は、「今、老少不定の身を以て、遼遠の境に赴くの間」とあるのみである。その後、善如宗主が亡くなられた年(一三八九年)に二度目の譲状を書かれ、さらに明徳四年(一三九三年)綽如上人が亡くなる二日前に三度目の譲状が書かれたのである。時は南北朝動乱の末期、京都では南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を渡し、南北朝が合体した直後であった。
 さて、綽如上人の最期については、嚴照寺とその門徒衆に伝承されてきた物語がある。現住職の西脇順祐師からお聞きしたことをかいつまんで紹介する。
 綽如上人は、氷見市論田を経由して砺波の地に入られ、嶋村で迎えられ元福岡(現在は庄川河川)に庵を設け、担いでこられた阿弥陀三尊像を安置された。これが嚴照寺の発祥である。そして、瑞泉寺建立のために近国を勧進して回られた。瑞泉寺勧進状には明徳初暦(一三九〇年)とある。綽如上人には、このように浄土真宗の教線を拡大する目的のほかに、南北合体の後も続いた南朝側の不満分子を慰撫する目的もあったのではないかと伝承から西脇師は推測する。ために、綽如上人を京から派遣された北朝側の回し者だと曲解したこの地の南朝支持者に、井栗谷において惨殺され、遺体が谷内川に流された。それを御門徒衆がすくいあげ、現在嚴照寺本堂が建てられている字大谷(後に称するようになった)に埋葬した。そして、その埋葬場所に二本の杉を供華樹として植えた。それが三度目の譲状を書いた二日後のことであったとは…。
 こうした伝承というものは、学問的には史実と認めることができなくても、内容が衝撃的な出来事の場合は十分史料的価値を有すると思うのである。綽如上人に自分の死期を知らしめる動きがすでにあったのだろうか。二本の大杉は、事の真相を秘めたままじって立っているのである。
(敏)

 こ、これは……。
 仕事柄、越中の歴史についてはそれなりに精通しているつもりだったが、「綽如上人を京から派遣された北朝側の回し者だと曲解したこの地の南朝支持者に、井栗谷において惨殺され、遺体が谷内川に流された」なんて話、聞いたことがなかった。しかし、書かれているのは浄土真宗本願寺派富山教区が発行する教区報であり、書いているのは浄土真宗本願寺派富山教区に所属する僧侶。だから、いい加減な話が書かれているはずがない。伝承にしたって、相当にしっかりした伝承であると考えていいだろう。
「実は、これに類した話は『越中五箇山平村史』にも書かれていて、そこでは『口承によると、南朝方の凶刃に倒れ、簀巻きにして庄川に投入されたともいう』とされている」
「そうなんですか……」
 いやー、いろいろ知ってるつもりになっていたが、知らないことも多い。ここは素直に反省が必要だな。
「ともあれ、そういう伝承なり口承なりがあるというのは、事実としては相当に重い。真相がどうであるかは別として、人々はそう考えていた、ということなんだから。こりゃあ、瑞泉寺の門徒としても燃えないはずはないな」
「ああ。一説によれば、田屋川原の戦いに参じた瑞泉寺側の総勢は五〇〇〇人に上るとか。なぜ瑞泉寺がこれほどの数の〝善男善女〟の動員に成功したのか? それは、綽如上人の無念を晴らすのは今だ――と、瑞泉寺が門徒らに呼びかけたからではないか」
「ええ、十分に考えられる可能性です。そうなると、確かに田屋川原の戦いは南朝対北朝の戦いだったということになるな。で、田屋川原の戦いで石黒氏が敗れ、以後、越中は今も続く浄土真宗の金城湯池になったと」
「うん」
「ただ、五箇山は?」
「五箇山にも一向宗の教線は及んださ。そして、一向宗の教化を受け容れた」
「うーん。でも、田屋川原の戦いが、事実上、南朝と北朝の戦いだったとすると、石黒氏=南朝を破った一向宗徒は新田勢からすれば怨敵ということになるのでは? それで五箇山が一向宗の教化を受け容れるということがありうるんでしょうか? また一向宗側からしても五箇山は綽如を殺した怨敵のはず。だから、両者は絶対に相容れない不倶戴天の敵。しかし、史実では五箇山は本願寺火薬の製造基地だったとされる。一体これについてはどう説明するんですか?」
「生き延びるために、教化を受け容れた、ということだろう。落人にとっては「生き延びる」ことが最大のミッション。石黒氏のように主従十六人が揃って腹を切るという潔い最期もあるが、「落人」という生き方を選んだ時点で彼らは武士を捨てた。武士ならぬ身となって「生き延びる」ことを選んだ彼らからするならば一向宗の教化を受け容れることは比較的容易だっただろう。もちろん、意見の対立はあっただろうと思われる。しかし、結論としては、一向宗の教化を受け容れて「生き延びる」という選択に至った。五箇山が塩硝の生産に適していることがわかってからは、積極的に生産技術を学んだ。これも「生き延びる」という目的に沿ったもの」
 そう言うと叔父さんはゆっくりとコップに残っていたビールを飲み干した。そして、話を続けた。
「しかし、百年に垂んとする「百姓ノ持タル國」は遂に亡びる。滅ぼしたのは、織田信長。そして、紆余曲折を経て越中は前田利家の領国となる。この際、前田家は五箇山が南朝の隠れ里であることを知ったはず。知りつつも、黙認した。彼らは、五箇山が持っていた塩硝の生産技術に着目した。前田家は五箇山の存続を認めた上で自らの秘密火薬庫とすることを選んだ……」
 そう言って、叔父さんはおれの眼を真っすぐに見た。普段の、ちょっとふざけたような表情は消えていた。滅多に見せることのない、真剣そのものの表情だった。
 そして、その表情のまま、こう言った――「こうした筋書を想定した場合、麦屋節とは誰に向けて唄ったものという解釈が成り立つだろう? 自らを平家の落人に偽装する、その歌詞は誰を欺くためのものだったのか?」
「それは、幕府でしょう。幕府の隠密を欺くためのもの……」
 黙って首肯く叔父さん。そして、こんなふうに話を続けた――「前田家は、五箇山を流刑地とすることで、禁忌の場所とした。しかし、隠すことによって逆に猜疑心を呼び起こす。当然、幕府はその実態を知ろうとするだろう。この際、五箇山が真に隠さなければならなかったのは前田家の秘密火薬庫であるという事実ではなく、南朝の隠れ里であるという事実の方だった。武家政権である江戸幕府にとって「天皇親政」というのは危険極まりない思想。その使徒とも言うべき南朝の遺臣を放置しておくことはできない。見つけ次第、根絶やしにかかってくるのは明らか。だから、新田の遺臣という彼らの出自は何としてでも隠し通さなければならない。そのために考え出されたのが、自分たちは平家の落人であるとするニセの伝説の拡散。そのためのPRソングが麦屋節」
 おれは、圧倒されていた。歴史考証として、見事だと思ったのだ。これで編集長を論破できそうだ……。
 そんなおれの心の声が聞こえたのかどうかは知らない。しかし、叔父さんはおれの昂奮を鎮めようとするかのようにこう言った――「まあ、あまり妙なことは考えないことだな。それよりも、戦前から高桑敬親氏による説得力のあるプレゼンテーションがなされながら、なぜ五箇山にまつわる伝承は書き換えられることがなかったのか? それを考えるべきだ」
「というと?」
「戦前はさて置き、高桑敬親氏が謄写版による自著を盛んに世に問うた昭和三十年代、四十年代は戦前的価値観を否定することに躍起となっており、楠木正成や新田義貞が忠臣として持て囃された過去は唾棄すべきものと見なされていた。そんな時代に「五箇山は南朝の隠れ里だった」というストーリーはいかにも筋が悪い。だから、高桑敬親氏によるプレゼンテーションは説得力のあるものではあったが、無視された、ということではないかな? そして、その状況は今でも基本的に変わっていない。かつてのように戦前的価値観が全否定される状況ではないとはいえ、依然、南朝というのは軽々に取り扱うのが躊躇われる生きた政治的イシューなんだよ。奈良の川上村なんて未だに他所者を受け付けないところがある。南朝というのは、ガチなんだよ。とことん、ガチなんだよ。そんなガチな主題とは、できることならば関わりたくない、というのが大方の受け止め方だろう。吉野は、桜では有名だが、今、吉野を南朝と結びつけて捉えているものがどれほどいるだろう? 吉野でさえそうなんだ。人は南朝のことなんて忘れたいんだ。大河ドラマが南北朝時代を避けつづけているのもそういう理由。皇統が二つ――あるいは、三つ。新田義貞が金ヶ崎で奉じた恒良親王は「白鹿二年」という年紀を記した〝綸旨〟を発しており、史料の上では事実上の「北陸朝」が存在したことになる――に分裂した南北朝時代というのは今以て生々しい政治的イシューなんだよ」
「確かに……」
 おれは南朝の隠れ里の話を持ち出したときに編集長が示した反応を思い出していた。あれじゃ、仮に叔父さんと話し合ったようなことを整理して編集長にぶつけたとしても、到底、ポジティヴな反応は得られそうもない。
 しかし、ボツにするのは惜しい。で、とりあえずこういう形で備忘録的に書き留めておこうと思うのだが……これが日の目を見る日は来るだろうか? おれとしては「トラベルライターの甥とみゃあらくもんの叔父」シリーズなんてのもありじゃないかと思っているんだけど。もしそんなのが実現したら、誰よりも喜んでくれるのは叔父さんのはず。きっと叔父さんの老後だって張りのあるものになるだろう。
 そうだな。そういう日が来ることを信じて、叔父さんのことは少しだけ盛って書いておこう。なんたって、おれにとっての「ライ麦畑のつかまえ役」なんだから。



 自分が生み出したキャラクターでありながら(であるからこそ?)、気になって仕方がない――「叔父さん」のことが。甥っ子の前では元気そうには装っているが、甥っ子が帰ってしまえばまた一人っきりなのだ。一体、何をして日々を過ごしているのだろう? 実は、そこまでは考えていなくて……。
 裏設定に書いたヴィンテージ・ペーパーバックの取り引きはもうやっていない。そのための自前のサイトもとっくに閉鎖した。その1年ほど前、「叔父さん」はカリフォルニア・デジタル・ニュースペーパー・コレクションで「東武皇帝」即位説について知り、「みゃあらくもんの血が騒いだというわけか」、三年ばかりかけてその真相を追った。そして、その経緯を一文にまとめた。そして、あちこちの出版社に持ち込んだり、「企画のたまご屋さん」なるサイトに登録したり、いろいろやったのだけれど、遂に興味を持ってくれる出版社は現れず。以来、「叔父さん」は何もしていない。
 いや、2020年あたりから「叔父さん」の母が認知症の症状を見せ始め、ほどなく介護が必要な状態になった。介護は、生易しい仕事ではない。「介護は魂と魂のぶつかりあいだ」――と、そう「叔父さん」は振り返っている。ときには激しい言葉が飛び交うこともあった。しかし、それだけ「魂」を込めていた、ということでもある。そして、そんな日々には「生きている」という実感も伴っていた。それは、「死」も選択肢とせざるを得ないからこその実感だったかも知れない。現に「死」を願望したこともあった。ハッキリとそう言葉にしたこともある。それだけに「生きている」と実感できる日々でもあった。だから「叔父さん」は2020年以降は介護に「魂」を燃焼させてきたと言っていい。
 そんな日々が、2024年2月5日に終わった。そして、「叔父さん」は「真っ白な灰」になった。今、「叔父さん」は何をヨスガにして生きているのだろう……。
 ヒマを持て余した老人がネトウヨ化するというのは今やありふれたパターン。ネットでは高齢者がリベラルなことを言うと「老害」と詰られる一方、愛国的なことを言うと「いいね」が貰えてフォロワーも増えるというフォーマットができ上がっていて、このワナに多くの高齢者がハマっている。しかし、おれとしては「叔父さん」をそんな哀れな存在にはしたくない。第一、あの「叔父さん」が衆愚に交わることをヨシとするはずがない。なにしろ、自分が「他の誰にも似ていない」ことに満足感を覚えていたような人なんだから。だから「麦屋節考」の作者であるおれとしては、そんな「叔父さん」に自分らしい日々のやり過ごし方を用意してやる必要があるのだが……。
 たとえば、西村賢太が藤澤清造を世に知らしめたように知られざる誰かを世に知らしめる仕事に情熱を注いでいるとか? その誰かとは、たとえばデイヴィッド・グーディスとか? デイヴィッド・グーディスの個人全訳に取り組んでいる……。
 ただ、今や「叔父さん」は南朝とか「彼の法集団」(よくエンタメ作品などにヴィランとして登場する「真言立川流」の最近の呼び名。実は髑髏本尊儀礼などのesotericな教義を売りとする邪教集団を「真言立川流」と呼ぶのは間違いだそうで、最近はこの問題の基本文献とされる『受法用心集』における表現を踏まえて「彼の法集団」と呼ぶことが提唱されている。ちなみに、立川流という名の真言宗の一法流も実在したそうで、南砺市細野にも結構な規模の寺があったことが知られている。気の毒なことに、邪教集団である「真言立川流」の寺と誤解されているようだが……)とかに興味のある人なんだよ。それでデイヴィッド・グーディスの個人全訳はないだろう。
 だったら、結局、富山から出て行けなかった人なので、かくなる上は徹底的に富山にこだわろうと思っていて、富山の歴史とか、最近は自分が生まれ育った町内のことを調べている? 好きなテレビはナショナルジオグラフィック。しかし、リアルではサンダル履きで近所を歩き回っている……。まあ、それでもいいけれど、「叔父さん」は調べたことを発表しようとは思っていないんだよ。「東武皇帝」即位説に関する一文が世に出ることがなかったので、もうその目はないと割り切っている? そこは、おれと違うところ、かも知れない。しかし、そうなると、実質的には何もしていないのと同じで。人間、何かしないことにはとても生きて行けるものではなく……。
 いや、そうとも言い切れないか。もしかしたら「何もしない」という生き方だってあるのかも知れない。あえてそういう形で意地を通している――。ネトウヨ化するわけでもなく、「終活」と称して自分史の執筆に没頭するわけでもなく(これまた、最近、ありがちなパターン)、あえて「何もしない」という形で(静かに)世間に抗っている……、そういう反逆のスタイルもあり得るのでは?
 そう言えば、高校生の頃に読んだ永島慎二の『そのばしのぎの犯罪』にこんな台詞がある――「ただ純粋に生きるということが……仕事ではいけませんか」。
そのばしのぎの犯罪
 「叔父さん」も高校生の頃にこのマンガを読んでおり、今、この永島慎二その人のオルターエゴでもあるかのようキャラクター(丸井太郎)が掲げる〝理想〟を実践している、というのはどうか? うん、確かに「叔父さん」には似合っているような。
 もっとも、『そのばしのぎの犯罪』というのは支離滅裂な作品でね。執筆当時の永島慎二のメンタルヘルスを疑わざるを得ないような。でも、それも含めてこの作品はなにかと印象に残っている……「叔父さん」の心にね。
 しかし、あれから50年だよ。
 50年経って、当時、読んだマンガの一シーンに現在の自分が置かれた境遇を重ね合わせている。
 「叔父さん」も。このおれも……。