このブログを今のURLで運用するようになってからかれこれ5か月になるんだが、なんともナサケナイなことになっていて。新しい記事を書いて、Googleのサーチコンソールからインデックス登録をリクエストしても、登録がされない。クロールはされるんだが、インデックス登録がされない。「楽園、発見。」もそうだし「どうしようもない私が「生きている」」もそうだし「布施に有縁の地あり〜おれはひとりぼっちじゃない、〈彼ら〉がいる限り〜」もそうだし。「楽園、発見。」なんて、書いたのは1月の第1週だよ。それが、未だにインデックス登録がされない。なぜこういう仕打ちを受けなければならないのかについては、ググればいろいろ情報が出てくる。出てくるんだが、書かれていることはみな一緒で。要するに、Googleによって「低品質でオリジナリティのないコンテンツ」と評価されているということ。では、「低品質でオリジナリティのないコンテンツ」とは、具体的にはどんなコンテンツかというと――
でも、「楽園、発見。」にしろ「どうしようもない私が「生きている」」にしろ「布施に有縁の地あり〜おれはひとりぼっちじゃない、〈彼ら〉がいる限り〜」にしろ、↑のいずれの条件にも当てはまらんと思うんだけど。文字量なんて、むしろ多過ぎるくらいで……。
でね、なんでこんなことになっているのかについて、おれなりに分析するならば……被リンクが0だからだろうな。そう、現時点でPW_PLUSは被リンク0。サーバーの移転に伴って、そういうことになってしまった。もともと被リンクなんて数えるほどしかなかったサイトではあるけれど、それでも運用期間が長くなるのにつれて人様の目に触れる機会も増え、リンクを頂戴することもあった。実は、さる著名な作家のXからリンクを張られたこともある(今日、探したが見つかりませんでした。ザンネン)。で、Googleは被リンクを「コンテンツの品質を判断する要素のひとつ」(Google によるランキング結果の決定方法)としているわけだから、かつてのURLで運用していた当時のPW_PLUSはそれなりにGoogleに評価されていた、ということになる。実際、新しい記事を書いて、サーチコンソールからインデックス登録をリクエストすると、数日中にはインデックス登録されていた。しかし、現状、PW_PLUSは被リンク0。言うならば、ぼっちサイト。そんなサイトはGoogleには相手にしてもらえない――ということではないのか、と。で、多分、この記事も、インデックス登録されることは、当分、ない、と思いつつ……。
さて、「ぼっちは語る」だ。おれの中には東人の血が流れているとわかって(いや、わかったというか、そんなふうにこじつけることも可能というだけの話だけど)、今、心中には、なんとも奇妙な感情が渦巻いていて……できることならば蝦夷征伐の大武功を立てるのは坂上田村麻呂ではなく、佐伯氏であってほしかったと。だって、史実を掘り返すならば、大和朝廷の東北経営において矢面に立ってきたのは佐伯氏(ないしは、佐伯氏と大伴氏。両氏はともに天押日命を祖とする同族)なんだ。ここは、その主なプレイヤーと事跡を書き出すなら――
これを見れば、大和朝廷の東北経営において矢面に立ってきたのは佐伯氏と大伴氏であるのは明かだろう。しかし、大和朝廷の東北経営においてハイライトとなるのは坂上田村麻呂による3度の征夷、特にアテルイ(大墓公阿弖流為)とモレ(盤具公母禮)を従えて凱旋を果たした延暦21年の征夷であることは論を俟たないだろう(なお、アテルイもモレも大和朝廷側の文献には「公」という姓付きで記載されており、これが事実なら、アテルイもモレも大和朝廷の支配体制に組み込まれていたことになる。これは、磐井の乱で知られる筑紫君磐井と同じ。早い話が、いわゆる「アテルイの乱」とは地方官吏の反乱だったということ。まあ、大塩平八郎の乱みたいなものかな?)。しかも、坂上田村麻呂は、その「征した」相手であるアテルイとモレの助命(陸奥国への送還)を嘆願したのだ。曰く「此度任願返入、招其賊類(此の度は願に任せて返入せしめ、其の賊類を招かむ)」(『日本紀略』延暦21年8月13日条)。このね、死力を尽くして戦ったもの同士だからこそ通いあうエンパシーというのかな。ちょっと黒田清隆と榎本武揚の関係を彷彿させるものがある。とにかく、立派。で、それは重々認めた上で、ただ坂上田村麻呂が担った役割は本来ならば佐伯氏ないしは大伴氏が担うべきものだったのではないか? というか、おれとしては、佐伯氏にぜひその役割を担って欲しかったという気持ちなのだ。おれはね、坂上田村麻呂とアテルイの間に通いあうものがあったように、佐伯氏と蝦夷の間にも通いあうものがあったと思うんだよ。その証拠に、佐伯氏の中には佐伯今毛人と名乗っているものがいた(実は、佐伯毛人と名乗っているものもいた。今毛人よりも少し年長で、淳仁天皇が皇太子時代に春宮大夫を務めるなど、藤原仲麻呂が権勢を振るった時代に重用された人らしい。一方の佐伯今毛人は造東大寺長官を務めるなど、建築のエキスパートとして重きをなし、佐伯氏としては、唯一、参議まで昇った人だけれど、藤原仲麻呂の暗殺未遂事件に連座するなど、政治的立ち位置は毛人とは異なるものだったようだ。まあ、歴史においては兄弟でさえ政治的立場を違えるってのはよくあることだから。ちなみに、今毛人と毛人が、系譜上、どういう関係にあるのかは不明。古代の氏族の系譜をまとめた『古代氏族系譜集成』には今毛人は載っているけれど毛人は載っていない。こんなとき、歴史作家はどうするんだろうなあ……? ともあれ、佐伯氏には毛人と名乗っているものもいた)。今毛人にしろ、毛人にしろ、彼らの中に毛人(蝦夷)をリスペクトする気持ちがなければそんな名前を名乗るはずがないわけで。だから、佐伯氏と蝦夷の間には間違いなく通いあうものがあったんだよ。そうであるならば、他ならぬ佐伯氏にこそ、蝦夷征伐という大武功を立てさせてやりたかった――と、東人の末裔を自認する立場としては。
でも、冷静に見つめるならば、佐伯氏にはそれだけの人物がいなかったのかな? 惜しいのは、佐伯三野だな。この人は、佐伯今毛人の子とされていて(ただし『古代氏族系譜集成』では弟とされている。編者の宝賀寿男が典拠としているのは『諸系譜』第八冊所収「佐伯宿祢」。それが、こちらです。これに対し、子としているのは角田文衛著『佐伯今毛人』で、こちらでは典拠として『平安遺文』を挙げている。『平安遺文』というのは東京大学史料編纂所の所長などを務めた竹内理三が平安時代の古文書を集成したものだそうだけれど、おれは読んでいないので自分ではなんとも判定しがたい。ただ、ここでは、一応、子として話を進めます)、父の地位が高かったため昇進も早く、宝亀2年に陸奥守兼鎮守将軍に任官した時点で従四位下。これは、坂上田村麻呂が同じ職に就いたときと同じ。だから、陸奥守兼鎮守将軍としてそれなりの手柄を立てていれば、彼が征夷大将軍になっていた可能性だってあるのだ。しかし、陸奥守兼鎮守将軍として着任した三野が大規模な軍事行動を起こすことはなかった。そして、宝亀3年には陸奥守兼鎮守将軍の任を解かれ、京官(右京大夫)に復している。どうも、体調がすぐれなかったらしい。ここは角田文衛が(こまやかな想像力を働かせて?)記すところを引くならば――「当時、政府は蝦夷に対して懐柔政策をとっていたし、また蝦夷たちは、嵐の前の静けさを保っていた。そのためもあって、鎮守府の武官たちは消極的であり、兵士の志気は沈滞していた。若い鎮守将軍佐伯宿禰三野がそこでなにを考え、いかなる方法を講じようとしたかは、もとより知るべくもないが、彼はなにかしら重要な政策を考え出したに違いない。しかし着任ののち間もなく彼は健康を害したらしく、翌年には都に戻っている」。もしこのとき、三野の体調が万全であれば……。ただ、その後も佐伯葛城が征東大将軍・紀古佐美の下で征東副将軍を務め、延暦8年の征夷を指揮。3月28日、2~3万人の軍勢を率いて衣川を渡河、北岸に宿営した。紀古佐美が4月6日付で都へ送った奏状によれば、朝廷軍は北上川東岸に集結した蝦夷軍を征し、その後、(「賊奴の奥区」に)深入する計画だった。ところが、朝廷軍は衣川北岸に宿営したまま、動く気配がない。しびれを切らした桓武天皇は、5月12日、征東使へ勅を下し、直ちに出撃するよう強く促した。しかし、朝廷軍には動けない理由があった。なんと、宿営中に佐伯葛城が病没していたのだ。その日付も病没に至る経緯も不明。わかっているのは、佐伯葛城が宿営中に病没したということだけ(『続日本紀』延暦8年5月26日条にその旨の記載がある)。その後、桓武天皇の督戦を受けた朝廷軍は闇雲に打って出て……巣伏の戦いで大敗を喫することになる。ここは、佐伯葛城の病没が朝廷軍の志気に影響を及ぼした可能性も考えねばらなないところだし……それよりも何よりも、副将軍たるものが、戦陣で病没するなんて、あっていいことだろうか? 三野といい、葛城といい、彼らの〝将器〟に問題があったと言うしかなく……。
で、佐伯氏頼むに足らず、ということなったのかどうかは知らないけれど、桓武天皇は延暦10年に大伴弟麻呂を征夷大使に任ずると副使には同じく武門の家柄として知られる坂上氏(先代の坂上苅田麻呂は鎮守将軍や右衛士督などを歴任した人物)の次男(ないしは三男。史料によりゆらぎが見られ、定説は定まっていない)、坂上田村麻呂を抜擢。同13年、征夷大使が征夷大将軍に改められると坂上田村麻呂も横滑りで征夷副将軍に就任。具体的な経過や状況は不明であるものの、『日本紀略』延暦12年6月13日条には「副将軍坂上大宿禰田村麿已下蝦夷を征す」とあって、田村麻呂がかなりの武功を立てたことは間違いないだろう。実際、翌年には従四位上に進んでいるし。で、朝廷の信任を得た田村麻呂は、延暦15年には陸奥守兼鎮守将軍に任じられ、翌年には遂に征夷大将軍の大命が下ることになる。延暦10年に征東副使になってから、もうとんとん拍子と言っていい。で、こんな足早の出世はえてして躓きの元となるのだが……坂上田村麻呂にはそんなジンクスは通用しなかった。征夷大将軍となった彼は延暦20年の征夷において大武功を立てるわけだよね(もっとも、『日本紀略』に記されているのは「征夷大將軍坂上宿禰田村麿等言。臣聞。云々。討伏夷賊(征夷大将軍坂上宿禰田村麿等言ふ。臣聞く、云々、夷賊を討伏す」ということのみ。本来、典拠となるべき『日本後紀』は応仁の乱の影響で散逸しており、その抜粋版である『日本紀略』によって辛うじてその一端を知ることができるのみとなっている)。そして、翌年には敵の首領であるアテルイとモレの〝生け捕り〟にも成功する。ここに、和銅年間以来、続けられてきた大和朝廷の東北経営は一つの到達点に達したと言っていい。その功で坂上田村麻呂は弘仁元年には大納言にまで上り詰めた。もう大変な出世ですよ。
一方、佐伯氏は、ということになるわけだけれど……その後も大和朝廷は力による東北経営を推し進め、弘仁4年には文室綿麻呂を征夷将軍に任じる。そして、文室綿麻呂の下で征夷副将軍を務めることになったのが佐伯耳麻呂。これね、佐伯一門にとっては失地回復のチャンスがめぐってきたということであり、彼の働きに一門の浮沈がかかっていたと言ってもいいかも知れない。多分、佐伯耳麻呂としても、期すものがあっただろう。そして、やはりその働きは判然としないものの、戦後、従五位下から正五位下へと二階級特進を果たしているので、彼なりにがんばったとは言えるんだろう。ただ、大納言正三位まで上り詰めた坂上田村麻呂との格差はあまりにも大きいと言わざるを得ない。はたして佐伯耳麻呂にさらなる武功によってその格差を埋めようという気概があったかどうかは知らないけれど……あったとしても、それは叶わぬこととなる。弘仁5年、嵯峨天皇は「帰降夷俘、前後有數、仍量便宜安置、官司百姓、不稱彼姓名、而常號夷俘、旣馴皇化、深以爲耻、宜早告知、莫號夷俘(帰降の夷俘前後数あり。仍て便宜を量て安置す。然るに官司百姓彼の姓名を称せずして夷俘と号す。既に皇化に馴て深く耻を以て為す。宜しく早く告知して夷俘と号すること莫かるべし)」(『日本後紀』弘仁5年12月1日条)と言うならば「夷俘」の解放を打ち出し(さしずめ、リンカーンの「奴隷解放宣言」に匹敵?)、ここに大和朝廷の東北経営は新しいフェーズに移ることになる。それは「征夷の時代」は終ったということであり、喜ばしいことではあっただろうけれど、一方でもう佐伯氏が失われた名声を回復する機会が永遠になくなったということでもあった……。
そして、事実、佐伯氏は、これ以降、中央貴族としてはフェードアウトして行くことになるのだ。これは、ウィキペディアで調べられる限りでの情報でしかないのだけれど、佐伯耳麻呂以降、佐伯氏で歴史に名を留めた人物は平安時代中期に伊予守などを務めた佐伯公行くらいじゃないかなあ。なんと、越中守だった佐伯有若でさえウィキペディアにはページがない。それも無理からぬ話で、佐伯有若が越中守だったことは『公卿補任』などの官員録や『日本紀略』などの史書では確認できないのだ。だからこそ、その実在は永らく疑問の対象となっていたわけで……まあ、有り体に言えば、立山縁起だけに出てくる架空の人物ではないのかと。ところが、意外や意外、佐伯有若は実在した。昭和初年、富山県東砺波郡五鹿屋村生まれの歴史家・木倉豊信によって「越中守従五位下佐伯宿禰有若」と自署がある文書が発見されて……というのは「布施に有縁の地あり〜おれはひとりぼっちじゃない、〈彼ら〉がいる限り〜」で書いたのでここでは繰り返しません。ともあれ、佐伯有若が越中守だったことは『公卿補任』などでは確認できないということであって、それほど佐伯氏のプレゼンスは希薄なものとなってしまっていたのだ。
で、これが、当時の佐伯氏をめぐる状況だったと理解するならば、なるほど、と思うことがあって。実は、おれは佐伯有頼は都の貴族社会からドロップアウトしたんだと思っているんだよ。今日、伝わっている各種の立山縁起では、佐伯有頼は佐伯有若の嫡男だったとされているのだけれど、とするならば彼には家を継ぐべき務めがあった。にもかかわらず、彼は父の越中守としての任期が終わっても都には帰らず(これに関連して付言しておくならば、佐伯有若は遥任だったのではないかとする説がある。これは、芦峅寺の宿坊・大仙坊の出身で、戦後、雄山神社の宮司も務めた佐伯幸長が昭和48年に著した『立山信仰の源流と変遷』で書いていることなんだけれど、実際、木倉豊信が発見した「随心院文書」には有若が「越中守従五位下佐伯宿禰有若」と自署しているわけだから、少なくとも当該文書が記された延喜5年7月11日の時点では、都にいた、ということになる。で、その目代として越中に派遣されたのが有頼だった、という仮説が導き出されることになる……)、越中に留まってあろうことか「立山開山」となった。これ、明らかにドロップアウトですよ。父・有若の従五位下という位階は、さほど高いとは言えないけれど、一応、従五位下以上を貴族とするというのが当時の習わしだったようなので、少なくとも中級貴族という身分ではあったでしょう。しかも、落ち目だったとはいえ、佐伯氏は歴とした神別に類別される名門(これに対し、坂上氏は諸蕃に類別される)。そんな名門の嫡男がすべてを抛って「立山開山」となったのだ。だから、おれは、彼は都の貴族社会からドロップアウトしたんだと思っているんだけど……もしかしたら、一門の中に漂う斜陽貴族ならではの陰気さみたいなものにほとほと嫌気がさしていたのかも知れない。しかし、そんな気分が越中に来て一気に晴れた。そして、もう都には戻りたくない、と。
そんな彼の眼には、立山はさぞや神々しく見えただろう。彼に従っていた、東人らの眼にも。
そして、この地をわれらの楽土にせんと。
そう、誓い合った。
以上、坂上田村麻呂の出世と佐伯有頼の出家をめぐる(あまりあてにならない)仮説……。
