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求む、貸本屋のスタンプが捺された『マンハント』

 もう少し貸本に関係したことを書く。これは一つ前の記事でも書いたことではあるんだけれど、日本における貸本文化の全盛期(それは、1950年代後半から60年代前半にかけて、ということになる)は奇しくも日本におけるハードボイルドの草創期と重なる。日本におけるハードボイルドの草創をめぐってはいろいろ言われているけれど、おれとしてはその「嚆矢」は鷲尾三郎が『探偵倶楽部』1954年4月号に寄稿した「俺が法律だ」だと思っている。で、これが一の矢だとしたら、二の矢を放ったのは高城高で、江戸川乱歩が責任編集を務める『宝石』1955年1月増刊号に寄稿した「X橋附近」こそはその作品(ちなみに、池上冬樹は『X橋付近 高城高ハードボイルド傑作選』(荒蝦夷)の巻末解説「原石の輝き」で「X橋附近」を「国産ハードボイルドの嚆矢と考えることも可能だろう」と書いている。同解説では大藪春彦や河野典生への言及はあるものの、鷲尾三郎への言及はない。あえて高城高を上げるために鷲尾三郎を無視した――とするならば、とてもじゃないがフェアとは言えないよなあ……)。さらに三の矢を放ったのは大藪春彦で、早稲田大学教育学部の同人誌『青炎』創刊号(1958年3月刊行)に「野獣死すべし」を寄稿。これがワセダミステリクラブの会長である千代有三の手を経て名誉顧問の江戸川乱歩に紹介され、『宝石』7月号に転載、センセーションを巻き起こす――と、概ねこんな流れだと思っている。だから、この1954年から58年にかけての4年間ほどが日本におけるハードボイルドの草創期、という捉え方で間違いないと思う。

『マンハント』創刊号

 で、1958年8月、この流れを受け継ぐ形である雑誌が呱々の声を上げた。それが、→。久保書店刊行の『マンハント』。帯(これは、貴重だよ。「眠狂四郎や机竜之介の現代版はこれだ‼」というコピーも、当時、「ハードボイルド」なるものがどのようにプロモーションされていたかを知る上で得がたい情報ではあるし。われながら、よくこの帯付きのものを持っているもんだと感心するところで……)に「版権独占」と書かれていることからもわかるように、当時、早川書房から刊行されていた『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』と同じような翻訳雑誌で、本国アメリカではMANHUNTという誌名でFlying Eagle Publicationsから刊行されていた(ここはアメリカ版の書影も紹介しておきましょう。たとえばこれとかこれとかなんだけど、これらにひきかえ日本版はずいぶんお上品というか。多分、『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』を意識したんだろうな。でも、所詮、ハードボイルド専門誌なんだから「お里は知れている」。日本の読者だって見たかったのはアメリカ版のような表紙だろう……)。で、この表紙で「世界最高のハードボイルド専門誌」と高らかに謳い上げている日本版『マンハント』の創刊こそは1954年から始まったわが国における「ハードボイルド創世記」の総仕上げとなる事業だったとおれは思っているんだが……ここでおれのようなものからすればどうしたって向き合わざるを得ない問があって、それは、はたして『マンハント』は、当時、全盛期を迎えていた貸本文化の中でどのような位置を占めていたのだろうか? ということ。もっと簡単に言うならば、『マンハント』は貸本屋で貸し出されていたのだろうか?

 これについては、参照し得る証言は見当たらない。ただ、貸本屋では雑誌も貸し出されていた。それは、かつて(戦前)だと『講談倶楽部』『キング』『富士』(以上、大日本雄弁会講談社刊行で創刊順。実は、こういうことには結構こだわるタチで……)『オール読物』『新青年』とかになるのだが、この時代も『講談倶楽部』『オール読物』あたりはまだ続いていたし、さらに『面白倶楽部』(1948年創刊。1958年11月号には藤原審爾が「殺し屋」を寄稿している。かの宍戸錠主演の傑作ハードボイルドムービー『拳銃(コルト)は俺のパスポート』の原作となった小説ですが……この事実を発見したのはおれでね。エヘン。その経緯についてはこちらの記事をご参照あれ)とか『小説倶楽部』(1948年創刊。若き日の色川武大=阿佐田哲也が編集者をしていたことが知られており、退職後には井上志摩夫名義で時代小説も寄稿している。また1959年6月号には大藪春彦が「次は誰だ」を、10月号にも「けものの棲む夜」を寄稿している)とか(なお、鷲尾三郎が「俺が法律だ」を寄稿した『探偵倶楽部』は1959年2月号を以て休刊となっている模様。当時のハードボイルドブームの反作用、かな?)。で、それらと並んでこの「世界一の成人むき娯楽誌」が貸し出されていたとしても少しもおかしくはないと思うんだが……残念ながら、そういう証言にはこれまでお目にかかったことがない。

 そもそもだ、一つ前の記事でも紹介した『週刊朝日』の「貸本屋のベスト・セラー作家 ユーモア熱血小説であてた城戸禮」では貸本屋で人気だったのは「ユーモア小説、痛快小説、明朗小説」だったとしている。そうすると、『マンハント』はいかにも毛色が違いすぎる、とは言えるかな(もっとも、リチャード・S・プラザーの「シェル・スコット」シリーズやヘンリー・ケインの「ピーター・チェンバーズ」シリーズあたりは十分にその要件を備えている――とは思うけどね。これについては、こちらの記事を読んでいただければ大体のところはわかっていただけるかと)。でも、もしかしたら前提が間違っているのかも知れない。前提――とは、貸本屋で人気だったのは「ユーモア小説、痛快小説、明朗小説」である、という『週刊朝日』の記事が伝える消息。だって、貸本屋ってイメージとしては相当に暗いですよ。その辺のニュアンスは『週刊朝日』の記事からは全く読みとれないのだが、漫画評論家の梶井純が著わした『戦後の貸本文化』(東考社)を読むとよくわかる(梶井純は1941年生まれなので貸本全盛期に少年時代を過したことになる)。たとえば梶井純はこんなことを書いているのだけれど――

(略)マンガと大衆読物を主体とした、いわゆる「戦後型貸本店」のイメージは、客観的にみてもたしかに明るいものではなかった。そうしたどこか陰気で暗いイメージは、戦後のある時期の民衆にとって手軽な娯楽機関としての意味を貸本店がになっていたことと密接につながっている。
 公式的ないい方になるけれども、「戦後は終った」と経済白書に書かしめた状況のもつ本質的な暗い現実に戦後型貸本店の「隆盛」があったことは、いかにも象徴的であるといえる。「高度経済成長」の狭間に生活しながら、夢を貸本店に密着させていった人びとの怒りと痛みのレヴェルが陽気で明るいイメージであるはずもなかった。
 そのような貸本店とその読者のありようが戦後型貸本店のイメージを固定化する重要な側面であったことは疑えない。同時に貸本店をめぐる世界にくわえられた抑圧の歴史もまた、戦後型貸本店の、どこかいじけた暗湿さを醸成するおおきなみなもとであったと思われる。

 最後に出てくる「貸本店をめぐる世界にくわえられた抑圧の歴史」とは、第一義的には貸本店が扱う「低級なマンガ」や「くだらない通俗読物」をターゲットとした「悪書追放運動」のことを指しているのだが、そればかりではなく、古本業界が貸本業界に示した「あらわな敵意や優越感」も含んでいる。『東京古書組合五十年史』によれば、1958年12月、警視庁は貸本組合の代表者を呼んで3項目からなる警告を発したそうだが、これに関連して――「古書組合としては政治的に手を打っていたのである。警視庁も古書組合を信頼していたのである」。これを踏まえ、梶井純は――「権力にたいする阿諛がつねに弱者がさらなる弱者をつくっていく擬制の強者の保守意識のあらわれであるならば、戦後の貸本業界はその点でも痛ましいほどに弱者であった」。まあ、古本屋が貸本屋に対して(権力とも結託した上で)ことさら優越的にふるまってみせる、なんてのは、それこそ、絵に描いたような「差別の構造」(被差別者が差別者になり、その被差別者がまた差別者になる)というやつで……。ともあれ、こんなのを読むと、梶井純が言う「戦後型貸本店」の中心にあったのが「ユーモア小説、痛快小説、明朗小説」だったというのはちょっと信じられないんだよ。それよりも、黒々とした怨念が渦巻く大藪ハードボイルドの方がよっぽどケミストリーが合っているだろう(実際、貸本屋のスタンプが捺された『無法街の死』が、現在、ヤフオクに出品されている。これは、ソソル……)。であるならば、当時のハードボイルドブームを象徴する雑誌でもあった『マンハント』が貸本屋の人気アイテムだったとしても少しもおかしくないだろう、と思うわけだよ。なにしろ「スリル! スピード! セックス!」というあの時代の「夢を貸本店に密着させていった人びと」が渇望したであろうものが完備していたわけだから。しかし、これまでのところ、それを裏付ける証言に遭遇したことはないし、それを裏付ける物証にも遭遇したことがない。で、拙ブログの読者にお願いです、どなたか貸本屋のスタンプが捺された『マンハント』を所蔵されてはいませんか? もしいらっしゃればこちらまでご一報ください。それは、わが国における貸本文化とハードボイルドとの密接な関係を裏付ける貴重な標本となるのは間違いないので……。



無法街の死

 本文で言及した「貸本屋のスタンプが捺された『無法街の死』」を入手しました。それが、→。箱入りの立派な本ですが(なお、これが初版本となります。そう、「大藪春彦の初版本」……)、一つ前の記事で紹介した城戸禮の『日本拳銃無宿』と同じように裏見返しの遊び紙に貸本屋のスタンプが捺されていて、それは「山口市 河崎文庫 後河原」と読める。沖本貸本店と違って、こちらはググってもこれといった情報は見当たらず(てゆーか、最近、Googleで検索すると決まって「AIによる概要」というのが示されるのだが、「山口市後河原 河崎文庫」でググったところ、「山口市後河原にある「河崎家」に伝わる古文書群は、「河崎家文書」として山口県文書館に所蔵・公開されています。江戸時代の土地経営や酒造業、北ノ江開作に関する歴史資料です」と来たもんだ。なんと、『無法街の死』は「江戸時代の土地経営や酒造業、北ノ江開作に関する歴史資料」だそうだ……)、残念ながらこの貸本屋について書けることは特にない。ただ、スタンプが捺してあることと綴じ部を糸で補強してあることから(こんな感じです)この本が「貸本上がり」であることは間違いなく、そうなると「大藪春彦の初版本」でもこういうことになるのか……なんと、落札価格は1000円。まあ、ありがたいっちゃありがたい。しかも、これは貴重な1冊ですよ。これによって「戦後型貸本店」で読まれていたのは「ユーモア小説、痛快小説、明朗小説」ばかりではないことが立証されるわけだから。大体、昭和30年代が右肩上がりの明るい時代だったってのは嘘だからね。むしろ、大藪春彦が熱狂的に支持されたことからもうかがえるように、黒々とした怨念が社会の底辺に渦巻いていた時代、ですよ。なお、「大藪春彦が熱狂的に支持されたこと」を裏付ける事実としてお示しするなら、この『無法街の死』は1960年7月に浪速書房から刊行されたものだけれど、大藪春彦の著書としてはこれが7冊目となる(『問題小説増刊 蘇える野獣 大藪春彦の世界』所収「大藪春彦著書リスト」より)。これね、トンデモナイって。だってさ、1958年10月に最初の本(『野獣死すべし』)が出て、1960年7月にもう7冊目が出てるんだから。いや、この年8月には『鉛の腕』(荒地出版社)、10月には『殺す者殺される者』(浪速書房)とさらに2冊が刊行されており、大藪春彦はデビューからわずか2年で9冊の著書(=分身)を世に送り出したことになる。それは、いかに大藪春彦が読者から支持されていたかという証であって(じゃなきゃ、出版社だって動かんよ。きっと各社の編集者が大藪春彦のアパートにおしかけて、ぜひ我が社からも先生の本を出したいので、何卒よろしくお願いします――と叩頭したんだろう)……そんな大藪ハードボイルドが、当時、全盛期を迎えていた貸本店で、奪い合うように読まれていた、というのが、おれなんかが思い浮かべる〝絵〟ではありますよ。

 なお、こうして『マンハント』に関する記事で大藪春彦について書いたからにはどうしでも触れざるを得ないんだけれど……『マンハント』と大藪春彦の関係はいささか微妙だった。というのも、誌面に現れたものから判断する限り、『マンハント』は大藪春彦に批判的だった。たとえば1962年3月号の「ミステリア・ジャポニカ」では「例によって例のごとく、拳銃の種類やら操作法やらで行数をかせぎ、ぶっぱなせば〝頭蓋骨がぶっ飛び〟、ゲンコでなぐれば〝胃袋が裂け〟たり〝顎の骨が砕け〟たりする式の描写がいっぱい」「警官とか殺し屋とか、そんな連中を冷然とぶっ殺すタフ・ガイさえ出しとけばまちがいない――という、春彦氏一流のハードボイルド論。これを支えるものはもはや〈小説〉ではなくて〈勇気〉である」。一方、大藪春彦は大藪春彦で『マンハント』に対しては批判的だったようで(ただし、ここでエビデンスとしてお示しできるものはありません。手元の文献をあさってみたんだが、見つけられなかった。ただ、大藪春彦が『マンハント』に対して批判的だったことは伝聞情報として聞いている)、その証拠に、一切、『マンハント』には関わっていない。で、それが何に由来するかなんだけど……多分、これは、大藪春彦のファンならばご存知だろうけれど、大藪春彦は、1960年、相次いでスキャンダルに見舞われた。最初は、今で言う〝文春砲〟というやつで、『週刊文春』8月22日号が「野獣恥ずべし」と題して大藪春彦が『講談倶楽部』1958年11月号に寄稿した「街が眠るとき」が『マンハント』1960年7月号に掲載されたフランク・ケーンの「特ダネは俺に任せろ」の〝盗作〟だと指弾したのだ。ここは伊藤信男著『著作権事件100話:側面からみた著作権発達史』(著作権資料協会)からことの経緯がわかる下りを書き出すと――

 さて、「マンハント」という推理小説誌があります。これは、アメリカで出されている同名の雑誌の日本版で、原版の〝版権〟を久保書店がタトル商会から買い、「版権独占、全篇初訳」と銘打って発行しているものとのことですが、その雑誌の三十五年七月号が五月二十二日に発売されると、読者からの電話や手紙による抗議が久保書店に殺到したのです。
 というのは、この雑誌に掲載されたフランク・ケーンの「特ダネは俺に任せろ」という小説が、大藪の「街が眠る時」〔ママ〕によく似ていたので、「大藪が二年も前に講談倶楽部に書いているから初訳ではない。」・「マンハントが大藪作品を焼き直したのか?」というわけでした。
 しかし、「特ダネは俺に任せろ」は、米国版「マンハント」一九五四年三月号掲載、五六年に単行本になっており、大藪より早い。誰が盗作したかといえば、当然大藪ということにならざるをえない。
 週刊文春(三十五年八月二十二日号)に掲載された「街が眠る時」と「特ダネは俺に任せろ」の各「冒頭の一節」・「結末の一節」の対照表をみると、どうやら〝盗作〟(または盗用)である疑いが濃厚で、週刊文春記事にも「当の御本人も潔ぎよく〝盗作〟の事実は認めた」とある。彼を世に送り出した江戸川乱歩も、「これ位似ていると、云い逃れもできないようだね」と音を上げたとのことです。

 これに対し、大藪春彦は『週刊アサヒ芸能』8月28日号に「野獣は死なず――〝盗作者〟という中傷について――」と題する直筆署名入りの反論文を寄稿(なお、現在、ウィキペディアの「大藪春彦」で紹介されている写真はこの記事に掲載されているもの)、その中で「ボクはケーンから〝盗作〟した覚えはない。/「街が眠るとき」を書く前に、ケーンの「特ダネ」を読んだことはない。読んだのは去年の春だ。そのとき、確かに似ているとは思った。しかしボクは、ケーンを読んで、書いたのではないから、別に気にもしなかった。/ボクが「街が眠るとき」を書いたのは、数人の友人と下宿で雑談していて、ある友人からアイディアをもらったものだ。このように、アイディアの貸し借りは、「みんなやっている」といったのを、〝盗作〟ととりちがえているのだから、話にならない」。おれとしてはその言を信用しようと思うんだけれど……問題は『マンハント』側の対応だよ。『著作権事件100話:側面からみた著作権発達史』によれば「さて、「マンハント」の編集部では、「われわれとしては、大藪さんさえ謝ってくれれば、不問にしてもよいと考えています。」と語り」云々。「不問にしてもよい」――とは、つまり、大藪春彦が盗作したことを前提にしているわけで……多分、このあたりが『マンハント』と大藪春彦のいささか微妙な関係の淵源、だと思う。で、1962年3月号の「ミステリア・ジャポニカ」を読む限り、大藪春彦は、一切、詫びを入れなかったんだろう。で、『マンハント』としても、引くに引けなくなった……。

 ま、いずれにしたって、ザンネンな出来事ではあった。でも、もう60年も前なんだから。ここらで水に流してもいいだろう。ということで、本稿でも『マンハント』に続いて大藪春彦について書いたわけだけれど、これが決して「混ぜるな危険」ではないことを願いつつ。