わが家の近所にも店舗がある食品スーパーのアルビスがライフコーポレーションのTOBを受けることになったということで、なにかとね。きっと社内ではさまざまな思惑が交錯していることでしょうが、サラリーマン生活とは縁のないおれにはいまいちそこがピンと来ないところで……。
いつか、(他に読むものがなくなったとき)、読んでみてもいいかな、と思っていた源氏鶏太の幽霊ものを読んだ(でいる)。源氏鶏太と言えば、いわゆる「サラリーマン小説」の第一人者で、おれなんかとは、本当に縁遠い作家ではあるんだが、ウィキペディアにも書かれているように「1970年頃からは、従来のユーモア物に物足りなさを感じてブラック・ユーモアを志向し、会社内に恨みをもったサラリーマン幽霊が現れる小説など「幽霊もの」「妖怪もの」を多く発表した」。これが、オモシロイと思ってね。というのも、幽霊というのは、言うならば敗者なんですよ。勝者が幽霊になるということは、まあ、ない。幽霊になるのは、決まって敗者。で、源氏鶏太という人は、ずーっと勝者を描いてきたわけですよね。なにしろ、ペンネームからして源氏だから。ウィキペディアによれば「平家より源氏が好きなこと」が源氏という風変わりなペンネームの由来だそうですが、平家についてまわるあの陰々滅々としたところが嫌いなのかな? あるいは、もっと単純に、歴史の敗者である平家よりも勝者である源氏にあやかりたかった? ところが、そんな源氏鶏太が「幽霊もの」「妖怪もの」にシフトした、ということは、敗者を描き始めた、ということであり、言うならば彼なりの『平家物語』を奏で始めた、ということになる。これは、オモシロイ。「サラリーマン小説」は、事実上、源氏鶏太が創始したと言っていいと思うけれど(ただし、おれは読んだことがないんだけれど、日本におけるユーモア小説の先駆けとされる佐々木邦という作家がいて、「佐々木邦の小説は、サラリーマンの幸福をねらったものが多い」とした上で、「源氏鶏太が佐々木邦の後継者ということになろうか」とする評価もある。詳しくは、こちらをお読み下さい)、「会社内に恨みをもったサラリーマン幽霊が現れる」というのも怪奇小説としては前例がないはずで、この点でも源氏鶏太は新ジャンルを創始した、と言っていいのではないか? でも、出ておかしくないよなあ、会社に、幽霊が。そう言えば、アルビスでは、先年、ちょっとしたお家騒動があってね。前社長が取締役会で解任され、現社長がその後任となった、というね。で、前社長は解任決議を無効であるとして裁判を起こした(調べたところ、2019年4月、棄却となったそうです)。どういう理由があったにせよ、前社長の立場からすれば、承服はしがたいでしょう(なんでも、緊急動議には社長を除く6人の取締役の内、4人が賛成し、2人が反対したとか。この票差からしたって、とても承服できるものではないでしょう)。はたして、その後、どうお過ごしなのかは知る由もありませんが、客観的に見て、死後、幽霊になる資格は十分というか……。
さて、「社員無頼」でも書いたように、源氏鶏太の本は国立国会図書館によってデジタル化されているものの、デジコレでリモートで読めるものは1冊もない(ただし、ちょっとした抜け道があって、駿河書房刊『現代ユーモア文学全集』とか角川書店刊『現代国民文学全集』とかの全集本ならばリモートで閲覧可能で、源氏鶏太を収めた巻もある。また日本文芸家協会編『現代小説』『ザ・エンターテインメント』もリモートで閲覧可能で、源氏鶏太の短編も多く収録されている。『ザ・エンターテインメント』1982年版に収録された「運がよかった」は前社長が現社長を呪い殺す話で……アルビスの現社長は絶対に読まない方がいいと思います、ハイ)。で、ここは本を買おう、ということで、モロモロ検討した上で、まずは1980年に実業之日本社から刊行された『鬼』。これは、ハードカバーで買った(→。ちなみに、源氏鶏太とは浅からぬ因縁がある生島治郎も『鬼』という本を出していて、以前、一文を草したこともあるのだが(こちらです)、その中でおれは同書を「レビー小体型認知症を発症した男を取り巻く「奇妙な認知世界」の報告書である」。で、もしかしたら源氏鶏太も……という思いに駆られたことがこの本を選んだ理由でもあるんだが、案に相違して鬼とは「鬼課長」の鬼でした……)。これに加えて1981年に新潮文庫から刊行された『レモン色の月』と1985年に同文庫から刊行された『招かれざる仲間たち』の2冊も。源氏鶏太の幽霊ものを収めた短編集は全部で11冊刊行されているようですが、その内、文庫になっているものは2冊だけ。『鬼』も文庫化されていない。もしかしたら、ハードカバーの売れ行きがいまいちだったのかな? ただ、吉川英治文学賞の授賞対象となった『幽霊になった男』も文庫になっていないというのは解せんのだが……。ともあれ、そういう事情なので、予算が限られている中ではこれが精一杯ですよ。で、この3冊に収録されいる短編を合計すると27編となる。これに加えてデジコレで閲覧可能な短編が4編(「やさしいOL」「課長の幽霊」「運がよかった」「死者の見た夢」)あるので、読んだ数としては全部で31編。多分、源氏鶏太が書いた幽霊ものは80編を超えるはずなので、これでもごく一部には違いないけれど、でも、一応、源氏鶏太の幽霊ものについて云々する資格は得られたかな?
で、その源氏鶏太の幽霊ものなんだけどね、実はかなりの幅(変異)がある。↑でも引いたように、ウィキペディアでは「会社内に恨みをもったサラリーマン幽霊が現れる小説など」としているんだが、これは本当で、「会社内に恨みをもったサラリーマン幽霊が現れる小説」には当たらないものもかなりある。たとえば「レモン色の月」なんかがそうで、この小説にはそもそもサラリーマンは出てこない。主人公は森田昌代という50代の女性で、全身癌で死の床に臥している。当然、彼女には夫がいたのだが、5年前に亡くなっており、今や自分もその後を追う身……ではあるんだが、実は彼女には秘めた思いがあった。といっても、別に夫の他に思いを寄せた男がいた、ということではない。夫との関係は至って良好だった。ただ、夜の営みではどうしても奔放になりきれない自分がいた。そのため、夫からは「お前って、どっか情が薄いんだな」と言われたことも。しかし、決して彼女は不感症ではなかった。生涯、たった一度ではあるけれど、エクスタシーに達した(「五彩の雲」を見た)こともある。それは、初体験のときで、しかも一人で留守番をしているときに押し入ってきた強盗にむりやり犯された、そのときなのだ(これをフェミニズム界隈では「レイプ・ファンタジー」と呼んでおります。ただし、かつては「ヒップスター」と持て囃された某女流がこれをモチーフとした小説を書いていて、おれが批判したこともある。詳しくはこちらをお読み下さい)。この経験が彼女をして夜の営みではどうしても奔放になりきれない石のような女にしてしまったのだが……死を目前にして、もう一度、女としての歓びに浸りたい、あの五彩の雲を見るような無上の歓びを噛みしめたい――との思いを高じさせた彼女は、ある「レモン色の月」の夜(実は強盗にむりやり犯されたときも「レモン色の月」の夜だった)、女の一念でその男(今は立派な会社の専務取締役になっている)を呼び寄せ、さるラブホテルで人生最後のエクスタシーに達する、というストーリーで……もうね、サラリーマン小説の形骸すら認められない(ただし、男が今は立派な会社の専務取締役になっているところに着目すれば、本作にもサラリーマン小説としての形骸が認められないこともない。事件があったのは終戦直後で、男は復員兵だった。みんな、生きるのに必死だった時代に起きた出来事で、小説ではこれ以上のことは語られることはないのだけれど、男が体現した物語というのも、当然、あるわけですよ。そこんところに想像力を及ばせるならば、本作にもサラリーマン小説の形骸が認められないこともないかなと)。で、本作を極北として、かなりの幅がある源氏ホラー(以降、こう呼ぶことにしたい。語呂も悪くないよね?)ではあるけれど、おれはね、大きく3つに分けられると思っている。①は源氏鶏太が永年に亘って書いてきたサラリーマン小説のバリエーションとしてのホラー小説。「鬼」なんかがこれに当たる。②はサラリーマン小説としての形式を維持しない純然たるホラー小説。「レモン色の月」がこれに当たる。③はこの両方を兼ね備えたもので、おれとしてはこれが源氏ホラーの完成形ではないかと思っている。これに当たるのは……ということで、おれなりに31編を分類したので、まずはそれを見てもらおう(ただし、2編だけ分類不能なものがあるので、便宜上、④としておきます。1編は一種の落し話のようなもの、もう1編は私小説ふう……というか、舞台は大阪南のT遊廓なんだが、ウィキペディアの「大阪の花街」を見る限り、南にはTという遊廓はなかったよう。一方、源氏鶏太の生家の近くには東新地という遊廓があって、一般的には「東廓(とうかく)」と呼ばれていた。もしかしたら、このT遊廓とは……?)。
③に分類したのは8編。いずれも秀作で、特に「靴音を聞いた」(は『鬼』に収録されている8編の内の1編)は傑作と言っていいと思う。この小説、「S私鉄K駅から歩いて二十分ぐらいのところ」にあるアパートで暮らす田島正治という男が「主の姿の見えない靴音」を聞くようになったことから始まるのだが、実は田島の暮らすアパートの近くには霊冥寺という寺があった。ある日、興味本位から霊冥寺を訪れた田島はまたしても靴音を聞く。しかも、一人の靴音ではない。何人もの靴音。それは、整然と霊冥寺を目ざしているようだった。どうやら靴音は霊冥寺をめざす亡者のもののよう。靴音に取り囲まれた田島は、このままでは自分も霊冥寺=冥界に連れていかれる。で、「おーい、救けてくれえ。誰でもいいから救けてくれえ」。すると、振り向いた顔があった(このときは靴音の主は見えている)。若い女の顔だった――
(頼む。救けてくれえ)
若い女は、ひょいと掌を伸ばして来た。田島は、その掌をしっかりと摑んだ。それはぞっとする冷たさであったが、そんなことをいっていられる場合ではなかった。しかも、その間にも靴音は、次次と暗い洞の中へ吸い込まれて行った。その瞬間、田島の軀は、あたかも亡者どもの行列の外へ放り出されるよう宙を飛んだ。
で、田島はこの女と寝るのだ、ある雨の夜に。間断なく雨が降り続く夜の11時過ぎ、女は田島の暮らすアパートを訪ねてくるのだが……まあ、ね、女の幽霊が訪ねてくるのは絶対に雨の夜であるべきですよ。それは『雨月物語』以来の伝統と言ってよい。源氏鶏太はシッカリとその基本を押さえている……。その上で、この女の幽霊の行動にはワケがあって、女の幽霊には復讐をしたい男がいるのだ。しかし、復讐を遂げるためには、その男を自分が眠る墓に連れてくる必要がある。それを頼むために(その見返りとして)女の幽霊は主人公と寝るんだよ。そのことを主人公もわかっていて、「あッ、あッ、あッ」という絶頂に達した女の幽霊の喜悦の声に重ねて――「ひょっとしたらそれは死者と生者との和合の貴重な瞬間であると同時に、最も厳粛な契約の儀式のクライマックスであるかも知れなかった」。これが、スゴイ。「死者と生者との和合」だよ。「最も厳粛な契約の儀式のクライマックス」だよ。そんなフレーズがさ、永年に亘って「明朗ユーモア小説」を書いてきた作家の筆から……。この際だ、結末部分も読んでもらおう。言うならば、「靴音を聞いた」というホラー小説のクライマックス――
「見ろよ、釈尼雪怨、俗名春名ユキ。」
「何。」
「俗名春名ユキ。昭和五十X年二月没。行年二十六歳。」
「……。」
「勿論、思い当たるだろう。知らぬとはいわせないよ。」
恐らく顔面蒼白の前原は、それだけで一目散に逃げ出したかったのであろう。しかし、すでに呪詛はいっそう強くなっていたらしく、逆に墓の方へ引き寄せられて刻み込まれた文字を覗き込むようにしていた。にわかに風が出て来てぼうぼうの草をなびかせ墓場の中が無気味な音を立て始めた。そのとき田島はユキの墓の下に黒黒とした洞がぽっかり開いたのを見たと思った。遠くにあの地獄の阿鼻叫喚の声が聞えてくるかと思った。その黒黒とした洞から白い手がぬうっと伸びて来て、前原の胸を摑んだと思った。前原は、さっきから声にならぬ声を発し続けていた。恐らく最後の抵抗をこころみているに違いなかった。田島とユキとの場合は、あくまでも死者と生者との貴重な和合であり、厳粛な契約の儀式であった。しかし、今、田島の眼の前で演じられているのは死者と生者との必死の凄まじい闘争であった。その間、いちめんの草は、激しく揺れ続けていた。前原の軀は、次第に黒黒とした洞の中に引きずり込まれて行った。
「救けてくれえ。」
それが田島の聞いた前原の最後のあがきの声であった。前原の姿が洞の中に消えると、洞もまたすうっと見えなくなった。風はぴたっとやんだ。たしかに前原の姿は消えたが、しかし、その軀はそこに残っていた。その苦悶の表情は、明らかに永遠の死を物語っていた。田島は、ただ一切を冷たく見ていただけであった。なんにもしなかった。ユキの姿を見ることがなかったが、ユキを感じたような気がしていた。
このあと、3行ばかりありますが、まあ、そこは割愛ということで。なお、これが①と②の両方を兼ね備えているというのは、主人公の田島正治が会社員で、春名ユキの仇敵である前原はその会社の取引先のセールスマンにしてかつ田島の恋人を寝取った相手という設定であるため。この点でこの小説にはサラリーマン小説としての形式が維持されている。しかし、実態としては純然たるホラー小説だよね。あるいは、その2つの要素が融合した源氏ホラーの完成形――、そんなおれの言い分にも賛同していただけるんじゃないかな?
で、おれが思うには、源氏鶏太はずーっと試行錯誤を続けてきたんだと思う。実際、『レモン色の月』のあとがきではこんなことを書いている――「私は、この齢になって、この世の中に摩訶不思議の多いことは事実ですし、そのことを描いてみたくなったことが、こういう小説に走った一つの原因です。この世の中の摩訶不思議は偶然によることが多いでしょうが、人間の心の深層に棲んでいる魔こそが問題ではないかと思っております。したがって、その魔を考えると、どうしてもこういう小説の形式にならざるを得ないのです。そういう意味でこういう小説は、一般にいわれている妖怪小説というよりも摩訶不思議小説といいたい気持ちです。ただ理想には遠く、こんど読み直してみて、相変らず試行錯誤を繰り返していることを痛感しました」。源氏鶏太が初めて書いたホラー小説は『小説新潮』1970年6月号に寄稿した「幽霊になった男」だそうですが(そういう趣旨のことを当人があちらこちらで書いている。ただし、それ以前にも超自然的要素を含んだ小説を書いていたらしい。今回、参考にさせていただいたこちらのページでは「(『幽霊になった男』収録の10編中)昭和45年3月以降の作品5編は1編を除いて全て超自然的要素を含んだ小説である」としている)、とはいえ永年に亘って「明朗ユーモア小説」を書いてきたわけだから、いかに年齢を重ね、「この世の中に摩訶不思議の多いことは事実です」と悟ったにしても、急にはムリだよ。長い長い試行錯誤の期間は絶対に必要。その間には凡作も書いたろう。ホラー小説でありながら、旧来の「明朗ユーモア小説」とさほど違いのないような。実は源氏鶏太は『わが文壇的自叙伝』という本でこんなことを書いているのだが――「私の幽霊の出てくる小説は、たいてい怨みを晴らすことがテーマとなっている。生前の怨みを死んでから晴らすのである。卑怯のようだが弱者にとっては他に方法がないのだ。といって、私の小説の中の妖怪変化は、いつも恐ろしいとは決っていない。弱い幽霊、おかしな幽霊、哀れな幽霊、といろいろある。が、結局は、怨めしや、といって出てくる。こう書いてくると私は、いぜんとして昔の勧善懲悪のテーマを捨てていないことになる。昔とすこしも変っていないのである。かつての正義の味方であった快男児が、今や、妖怪変化に変っただけということになりそうだ」。おれが↑で①に分類した作品はホントにそんな感じですよ。しかし、それじゃあホラー小説に転向(?)した意味がない。で、頑張った。頑張ることにかけては人後に落ちない富山県人らしく、頑張った。そして、遂にブレイクスルーを果たした。多分、それは1977年のことで、そのメルクマールとなった作品は「手鏡」と「眼」ではないか? 実際、これ以降に発表された作品は「末期に見た夢」にしろ「レモン色の月」にしろ「鏡のある酒場」にしろ「硝子窓の中に見た」にしろ「赤いライター」にしろ、秀作ぞろいですよ。そして、1979年に至って遂に「靴音を聞いた」という傑作をものにした、ということではないか?
ただし、源氏鶏太はホラー作家として覚醒した後も従来型のサラリーマン小説のバリエーションとしてのホラー小説も書き続けた。それは彼なりに「サラリーマン小説」の第一人者としての矜持を持っていたということだろう。それは、決して悪いことではない。なにも自分の過去を全否定する必要はないのだから。ただ、秀作と言えるのは②や③に集中していた。特に③は秀作ぞろいで……これだけで1書を編んでもおもしろいと思うな。タイトルは、当然、『靴音を聞いた』。どうです? ちくま文庫あたりで。もし本屋の本棚で生島治郎の『悪意のきれっぱし』と隣り合わせになっていたら、それは実に興をそそる眺めであるはずで……。
本文で書きそびれたことがあるので、少しだけ追記的に――。「靴音を聞いた」の最後に出てくる「その苦悶の表情は、明らかに永遠の死を物語っていた。田島は、ただ一切を冷たく見ていただけであった。なんにもしなかった」。実は、この情景、生島治郎の志田司郎ものの短編「謀殺」(『脅喝者』所収)の最後とよーく似ているんだよ。ちょっと読んでもらおうか――
私はひざまずいて、彼をあおむけにしてみた。弾丸は腹部を貫通している。放っておけば、出血多量で死んでしまうにちがいない。
立ちあがると、デスクの上の受話器をとった。警察に事件のあらましを手早く説明して、救急車の手配もたのんだ。
あとは、なにもすることはない。ただ待つだけだ。
その間に、沢野が死んでいくとしても、私にはどんな手当てをしてやることもできなかった。
こういうふうに死んでいく男を見守っているのははじめての経験ではなかった。刑事時代、親しくしていた同僚が死んでいくのを見守っていたこともある。たとえ、同僚でも、死んでしまえば、ただの屍体にすぎない。ましてや沢野のような小汚い悪党の死に感傷をそそられるはずがない。
私はまだ苦しげにうめいている沢野を無関心に見下ろしながら、煙草に火を点けた。
1967年、生島治郎が『追いつめる』で第57回直木賞を受賞した際、並み居る選考委員が軒並み辛口だった中、源氏鶏太は「文句なしに面白かった。私はこの人の前の候補作「黄土の奔流」につき、その文学性を云々したことを覚えているが、この作品は、そういう必要を感じさせなかった」と手放しの賛辞を贈っていたことは「社員無頼」でも書きましたが、この両者には確かに相通ずるものがあったのかも知れない。「社員無頼」ではおれはそれを正義漢ぶりに見出そうとしたのだけれど、いやいやどうして、もっと肝心な「非情」という一点においてこの両者には相通ずるものがあったということでは? それくらいに「田島は、ただ一切を冷たく見ていただけであった。なんにもしなかった」という情景は「非情」である……。