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祝『日本ハードボイルド全集』完結
(と言いつつこんなことを書いてしまう。許せ)

 遂に刊行なった『日本ハードボイルド全集』第7巻「傑作集」。第5巻「結城昌治集」から1年以上のインターバルを置いての刊行となったのはやはり北上次郎の早すぎる死が影響しているんだろうなあ。結果として本全集が北上次郎が携わった最後の仕事ということにもなるわけで、その掉尾を飾ることになるこの第7巻「傑作集」はそういう意味でも味読する必要はあるよなあ……。

 と、まずは殊勝なことを書いておいてね(苦笑)。でも、どうもワタシはこの全集とは相性が良くないようで。第1回配本の第1巻「生島治郎集」が刊行された際もこんな記事を書いているし。そして、今度もまたスナオになれない自分がいて……。「一作家一作品」という編集方針の下、選び抜かれた全16作品。そのラインナップを見てまず思うのは、なるほど、巻頭を飾るのは黒林騎士の「失恋第五番」ではなく、大坪砂男の「私刑」なんだな、ということ。これは、ある程度、予想されたことではあるんだけれど、こうして現実になってみるとね、ワタシが「千田二郎は外套の衿を立てる。〜「国産ハードボイルドの嚆矢」をめぐる一考察第二番〜」の「追記」で書いたことはあながち下衆の勘ぐりでもないのかな? と。あと、ワタシが「失恋第五番」に先立って推していた城戸禮の〝カストリ小説〟も入っていない。ただ、まあ、こちらはこれまでいかなるアンソロジーにも収録されたことがなく、言うならばワタシが一人で勝手に言い張っているだけだから(大衆文学研究家で『城戸禮 人と作品』という著書もある末永昭二氏も、多分、城戸禮を「国産ハードボイルドの嚆矢」という文脈では捉えていないはず→いや、そうでもないようだ。末永氏の著書『電光石火の男 赤木圭一郎と日活アクション映画』を読んだところ、城戸の〝カストリ小説〟を評して「その解釈には疑問が残るものの、日本ではもっとも早い時期にハードボイルドを作品に生かした例といえよう」。もっとも、「その解釈には疑問が残るものの」と但し書きが付されているところがミソとでも言うか……)。だから、落選しても当然ちゃあ当然。とはいえ、大坪砂男の「昭和人情話」(「私刑」が『宝石』1949年6月号に掲載された際に冠せられた角書き)が入るのなら城戸禮の「現代仁侠小説」(「愛慾の弾痕」が『青春タイムス』1950年8月号に掲載された際に冠せられた角書き)が入ったって全然おかしくないよなあ……と、正直、そういう思いは禁じ得ず。それと、藤原審爾は「前夜」でも「殺し屋」でもなく「新宿その血の渇き」なんだねえ……。あのさ、「新宿警察」シリーズなら普通に読めるじゃないですか。それこそ、杉江松恋監修のアドレナライズ版『新宿警察全集』とかでね。でも、「前夜」や「殺し屋」はそうはいかない。「殺し屋」なんておいそれと読めるモノではないばっかりに『拳銃は俺のパスポート』の原作であることが永らく認識されずにいた(この件についてはぜひ「〈殺し屋〉について考える①」をお読み下さい。わが国の文化シーンに「殺し屋」が初登場したのは意外にも……というようなことも書いております)。そんな作品を手軽に読めるようにする、というのは『日本ハードボイルド全集』第7巻「傑作集」が果たすべきミッションの1つだったと個人的には思うんですがねえ……。ただ、とりあえずは大坪砂男の「私刑」だ。そもそもワタシはこの小説が『日本ハードボイルド全集』と銘打たれたアンソロジーに収められること自体、どうなのかと。もちろん、「ハードボイルド」ってのは相当に幅の広いジャンルなので、ぶっ込もうと思えばいろんなモノをぶっ込むことができる。だから、あまり偏狭なことは言うべきではないとは思うんだけれど、ただ日下三蔵は本作を評して「海外の新ジャンル「ハードボイルド」の日本版を明確に企図して書かれた最初期の作品である」(著者紹介)。また、これと同様のことを日下三蔵は創元推理文庫版『大坪砂男全集』第3巻「私刑」の「編者解題」でも書いていて(だから『日本ハードボイルド全集』第7巻「傑作集」の巻頭を飾るのは、多分、「私刑」なんだろうなあ、と予想がついた)、それにはそれなりの理由があるわけだけれど……でも、ミステリーを読み慣れるとこっちもそれなりのカンが働くようになるもので。で、これはどうなんだろう、と。まずは日下三蔵が『大坪砂男全集』の「編者解題」や『日本ハードボイルド全集』の「日本ハードボイルド史」で紹介している大坪砂男による「あとがき」なるものを紹介しよう――

 戦後の人心の荒廃は、瓦礫と化した街を背景にして、いわゆるアプレ派の無頼漢時代となった、モラルの喪失、これこそ亡国だ、と心ある人々の眉をひそめさせたものである。しかし、それが現実であるかぎり、私はそこに一切の希望をつなぐよりないと信じていた。
 将来の日本を背負って立上る一人の怪傑は、必ずや彼等数千万無頼漢の中に、きびしく鍛練されているに違いないのだ、と。
 昭和二十三年に処女作〝天狗〟を発表してから、一年後、従来のやや高踏的な立場を離れ、突然この作に昭和人情話と題して大衆小説を書きはじめた第一作である。
 メリケン風のハードボイルドを、私は荒廃たるセンチメンタリズムと評しているのだが、この〝私刑〟はそのハードボイルドの日本版として、東洋的なバックボーンにセンチメンタルな肉づけを試みたつもりなのである。

 で、これを踏まえるかたちで日下三蔵は『大坪砂男全集』の「編者解題」でこう書いているわけだけれど――

 戦後、いち早く紹介されたアメリカの新スタイル「ハードボイルド」の本質を捉え、それを日本に移植しようとした作品であることが分かる。わが国のハードボイルド小説は、高城高「X橋付近」(五五年)、大藪春彦「野獣死すべし」(五八年)、河野典生「ゴウイング・マイウェイ」(五九年)あたりが嚆矢とされているから、「私刑」はジャンルに自覚的に書かれた国産ハードボイルドのもっとも早い作例といえるだろう。

 実に理に適った「解題」、だよね? でも、ここにはちょっとしたトリックがあるんですよ。実は最初に紹介した大坪砂男による「あとがき」なるものは1955年に刊行された『軽文学新書:推理小説集1』(鱒書房)に収録されているもので、つまりは1955年に書かれたものなんですよ。でも「私刑」は『宝石』1949年6月号が初出で、大坪砂男がこの作品に自らコメントしたのも1950年2月刊行の『私刑』(岩谷選書)が最初。その「後書」で彼は「私刑」についてどう書いているかというと――

「天狗」「赤痣の女」が幸に好評を得。昭和二十三年度の新人として「探偵作家クラブ」に迎へられた作者も、翌年正月號からの連載短篇は「黒子」「立春大吉」「涅槃雪」を以て打切りとなり、次いで、思ひきつた大衆物を、との註文に應じて書いたのが、この無頼漢小説である。
 昭和人情話と題して仇討物を書き始めた態度は全く無定見のやうな誹を受けるであらうけれど、作者に多少の用意がなくもない。敗戦後の日本は青少年をあげて無頼漢時代となり、心ある人々の眉をひそめさせてゐる。國の前途を甚だ憂へるからである。併し、作者はそこに一切の希望を繋がうとしてゐるのだ。將來の日本を背負つて立上る一人の怪傑は、必ずや彼等一千萬無頼漢の中に鍛練されてゐるに相違ないと。(誤解されては困る。民主主義も亦偉人の出現によつて完成される)
 作者はこの泥中の蓮を心に描きつつ、今後も無頼漢小説を書續けるであらう。

 ね、「メリケン風のハードボイルドを」なんてことは一切書いていない。彼が「私刑」という小説で書こうとしたのは、当時、流行語にもなった「アプレゲール」と呼ばれる新種の無頼漢たちを題材とした「無頼漢小説」なんですよ。その上でミステリー小説らしく1人の娘の素性をめぐるどんでん返しを仕掛けることで殺伐とした世情の中に確かに息づく「純情」をクローズアップしてみせた、という感じかな? だから、その限りでは「荒涼たるセンチメンタリズム」の具象化ではあるでしょう。でもね、それを敷延して「ハードボイルドの日本版として、東洋的なバックボーンにセンチメンタルな肉づけを試みた」と書いてみせるというのは、1955年だからできたことでは? 実際、1950年にはそんなことは一切書いていないわけだから。でね、その1950年というのは、わが国のハードボイルドについて考える上で絶対に落してはいけない年でもあるんだよね。というのも、この年、『別冊宝石』第11号「R・チャンドラア傑作特集」が刊行されているのだ。これがレイモンド・チャンドラーの日本初訳であり、大坪砂男が言うところの「メリケン風のハードボイルド」が日本に本格的に紹介されることになるのはこれ以降なんですよ。もちろん、これ以前にも『ウインドミル』1948年7月号に掲載されたダシール・ハメット作「死の商会」(正しくは「死の會社」。晴れて掲載誌を入手し、誌面で確認しました。こちらが表紙です)とか、翻訳されたものはあるにはあるのだけれど、そもそも翻訳権の問題があって大々的にはできなかった。しかし、1950年、「翻訳権の帝王」ことジョージ・トマス・フォルスターが翻訳権の仲介事業を始め、ようやく日本側が望むようなかたちでの翻訳が可能になった(こうした経緯についてはぜひ旧ブログの2011年11月1日付け記事をお読み下さい)。要するに、1950年というのは、海外小説の翻訳が戦中・戦後に渡る長い中断期間を経て晴れて再開された年であり、必然的に「メリケン風のハードボイルド」が日本に本格的に紹介されるようになるのもこれ以降ということになる(だから、日下三蔵が「戦後、いち早く紹介されたアメリカの新スタイル「ハードボイルド」」と書いているのもどうなのか。微妙に読者をミスリードしている気配がなきにしもあらず……?)。そして、その「メリケン風のハードボイルド」に影響された和製ハードボイルドが書かれるようになるのもね。ただし、それ以前に既に米兵が持ち込んだペーパーバックなどを通して「メリケン風のハードボイルド」に接していたツワモノがいて、それに触発されて逸早くハードボイルドふうの文体で書かれた作品を世に送り出していた。それこそは黒林騎士という仮面で正体を晦ましていた山本周五郎だったわけだけれど……もし大坪砂男が本当に「私刑」を「ハードボイルドの日本版」として書いたというのなら、彼はどうやって本家本元である「メリケン風のハードボイルド」に接したんだろう? これに関して、例えば『宝石』1951年10月増刊号のアンケート「愛読する海外探偵小説」では「最近チャンドラーを二、三読んで受けた感じは……」などと述べているんだけれど、1951年ならね、そんなことも普通にあり得た。しかし、1950年以前はそうはいかない。事実上、原書に依る以外には方法がなかったわけですよ。でね、山本周五郎という人は質屋の徒弟時代に正則英語学校に通うなど英語は堪能だった。また朝日新聞の元担当記者で山本周五郎研究の第一人者として知られる木村久邇典によればノーマン・メイラーあたりは原書で読んでいたという。さすがにペーパーバックを読んでいたということまでは裏付けられないんだけれど。でもノーマン・メイラーあたりは原書で読んでいたわけだから。一方、大坪砂男は? 大坪砂男の一番弟子で薔薇十字社版の編者も務めた都筑道夫(実は大坪砂男と都筑道夫の〝関係〟はこうした外形的な事実だけでは語り尽くせないものがある。都筑は大坪が新宿歌舞伎町に三畳の部屋を借りると足繁く通い、その数々の奇行に彩られた暮しぶりをつぶさに目撃。大坪が大岡山に引っ越すと、大坪が住んでいた同じ家に引っ越した。この辺は手塚治虫と藤子不二雄の関係にちょっと似ているかな? また都筑は大坪の一部作品の第一稿も書いたことを明かしている。実は大坪作品をめぐっては「すべて代作者がいた」という噂もあったとかで、この〝告白〟は一面ではその噂を裏付けるものではあるものの、一方で「活字になった雑誌を見て、二度ともあきれかえった」「私が懸命に文体模写をしたつもりのところは、ひとかけらも見あたらないのだ」と記すなど、むしろ弟子として師匠の名誉を守るための弁論に努めていると見るのが正解か? いずれにしても、大坪砂男と都筑道夫の〝関係〟はそういう特別なものだった)が同全集のために書いた「解説――大坪砂男ノート」を読んでも大坪砂男がアメリカ製のペーパーバックを読みあさっていたというようなことは書かれていない。書かれていないから読んでいないとは言い切れないのだけれど、どうもね、最初は谷崎潤一郎に師事し、次に佐藤春夫に師事したというその文学遍歴とアメリカ製ペーパーバックが結びつかないというか。そもそも彼は「私刑」を書いた時点でもまだ疎開先の長野にいたはずで(大坪砂男の長男で俳優の和田周が2013年に行われたインタビューで「私刑」が中川信夫監督によって映画化されていることに話が及び――「記憶ははっきりしないのですが、多分皆で長野で観たのではないでしょうか」。ちなみに、この記事を書くためにウィキペディアで確認したところ、和田周は「2020年4月23日、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のため死去」。なんと……。そういえば、昔、吉田日出子主演の『ねじ式映画 私は女優?』という風変わりな映画を見たことがあるんだけれど、確か和田周も出ていたような。ただ、ウィキペディアのフィルモグラフィには載っていないんだよなあ。あと和田周って「わだ・あまね」じゃないの? ワタシはそう記憶しているんですが……)、それでどーやってアメリカ製のペーパーバックにアクセスできたの? まあ、大藪春彦は早稲田大学に入学する前に8か月ばかり通った四国クリスチャン・カレッジの図書館でハメットやチャンドラーのペーパーバックに出会い、夢中で読み耽ったと伝えられているし(出典は『問題小説増刊号 大藪春彦の世界:蘇える野獣』所収「大藪春彦年譜」)、高城高も東北学院高校在学中には既にハメットやチャンドラーをペーパーバックで読んでいた。なんでも英語の教師をしている父親が通訳として進駐軍に出入りし、酒や本を家に持ち帰ってきたのだとか(出典は『X橋付近:高城高ハードボイルド傑作選』所収「解説 原石の輝き」。池上冬樹の手によるもので、かの有名な(?)「国産ハードボイルドの嚆矢」なるフレーズはこの中に登場する)。だから、地方にいてもアメリカ製のペーパーバックにアクセスできた幸運なケースもあるにはあるわけだけれど、どちらのケースも相当、条件に恵まれていたと言わざるをえない。普通、田舎でアメリカ製ペーパーバックなんてね(と、かつて田舎でペーパーバック屋をやっていた男が)。もっとも、大坪砂男は英語はできたらしい。というのも『マンハント』1958年10月号に大坪砂男の名前が翻訳スタッフとして載っているので(こちらはMYSDASの当該ページ。担当作品は不明ですが、日下氏は訳文を検討してフレドリック・ブラウンの「いとしのラムよ帰れ」が大坪の担当だろうとしております)。これは結構なサプライズでね。大坪砂男が翻訳をしていたというのもそうだけれど、それが『マンハント』だったというのもね。多分、都筑道夫の口利きなんじゃないのかな? とするならば、これは弟子が師匠に仕事を紹介したというケースで、なかなか珍しい。もっとも、翻訳は決して師のやる気を起こさせるものではなかったということか、載っているのはこの1回きり。1958年というと「大坪砂男」という名前が文芸誌の誌面を飾ることもほぼほぼなくなりかけていた頃で、弟子の懸命の努力も空しく……と、ついそんな人情話めいたストーリーを思い浮かべてしまうんだけれど……ともあれ、大坪砂男は英語はできたらしい。だから、まだ本格的な翻訳・紹介が始まる前に「メリケン風のハードボイルド」に接していた可能性もあるにはあるんだよ。で、自分なりにハードボイルドとは「荒涼たるセンチメンタリズム」の謂であると読み解き、その日本版として世に送り出したのが「私刑」である――というのならば、なぜ1950年刊行の岩谷選書版の「後書」でそのことを書かなかったのか? その時は書かず、1955年になってから書く、というのは、あまりフェアな態度とは言えないような。そして、この1955年の発言を捉えて「私刑」を「ジャンルに自覚的に書かれた国産ハードボイルドのもっとも早い作例といえるだろう」と言い張るのもね。ワタシはそう思うんですが……どんなもんでしょう、日下三蔵サン……?



 本文でも少しばかり触れた、大坪砂男の作品にはすべて代作者がいたという「噂」について。これね、ちょっとどうしようかと悩んだんだけれど(書くべきか書かざるべきか)。でも、自分が思ったことを書けないようじゃ自前のウェブサイトをやっている意味がないわけだし……。でね、さすがに「すべて代作者がいた」というのはありえないと思うんだけれど、一方でそう疑われるのもムベナルカナと思わせる作品が散見されるのも事実。もうね、大坪砂男ってこんなん書く作家と違うだろうよ、と。特にワタシがそういう印象を強く持つのは「電話はお話し中」。何よりも文章が若すぎるんだよ。「電話はお話し中」は読切出版発行の読物雑誌『読切小説集』1957年10月号に掲載されたものだそうですが、大坪砂男は1904年2月1日生まれなので、この時、53歳ということになる。しかし、はたしてこれが53歳の書いた文章なのか――

 五月の風に広場のアスファルトは白く輝いていた。
 タバコの火をつけようとして、彼は向う側のアパートから、ちょっと視線をそらしたがすぐまたきびしい眼をあげて監視をつづける。ふとい眉にうすい唇、そして肩巾の広いこの男のタフな印象は、私立探偵として、依頼者に信用を与える表看板なのだった。
 だが、現世の商法というものは、ことごとく羊頭をかかげて狗肉を売らねばならぬものらしい。
 従って、ここに登場した私立探偵は、いわゆる名探偵のごとく白星しか知らないスーパーマンというわけにはいかないのである。
 いや、実のところ、仲間のうちでは、彼のことを蔭口して〝名探偵ソリー〟と呼んでいるぐらいだ。
 依頼された事件が黒星となったとき、彼は無表情に広い肩巾をゆすり「アイ・アム・ソリー」と呟やくのが癖だった。しかし、だからといって彼を甘く見るのは間違いであろう? ともかく、警視庁に十年。そして私立探偵を開業してから五年の経歴はたとえ奇智縦横の才はなくとも、堅忍不抜の精神を与えているのだ。いかに黒星がつづこうとも、その最後はかならず白星にして事件を解決してみせるぞとの自信はあった。

 なんかさ、軽やかだよね。戦後も12年が経過していよいよこんな風が吹き始めたかと、そんな感じ。正直、これが、もうほどなく業界からリタイアすることになる人物の手になるものとはとてもじゃないけれど……。もっとも、この「電話はお話し中」は、↑にも記されているように、事件が黒星(探偵の負け)となったとき、悪びれることもなくただ無表情に「アイ・アム・ソリー」と呟くことから仲間内で「名探偵ソリー」と呼ばれている私立探偵を主人公とするシリーズの第2作で、第1作の「ショウだけは続けろ!」はジャパンタイムズ社が学生向けに発行していたThe Student Timesの1957年6月21日号から8月2日号まで全7回に渡って連載された。だから、疑うならばこの「ショウだけは続けろ!」についても疑うべきなんだけれど、実はこちらについては2013年に行われたインタビューで和田周が創作経緯を明かしているんだよね――「翻訳家の宇野利泰さんと、都筑さん、親父と僕とで銀座の洋食屋に集まったことがあります。親父にthe student timesという新聞からミステリの依頼があったんです。親父は嬉しかったんでしょうね、自力でプロットは考えられるのに、どんな話を作れるか、ここでディスカッションしようと言い出しまして。宇野さんも海外ミステリの筋立ての応用を提案されたりしていました。あの時は親父も嬉しそうで、都筑さんも楽しくアイデアを出していらっしゃいました」。で、実は「ショウだけは続けろ!」は薔薇十字社版全集に収録されている「大坪砂男作品目録」にはリストアップされていない。当然、同全集にも収録されておらず、2013年に刊行された創元推理文庫版全集に初めて収録された。創元推理文庫版全集は「私刑」の劇画版(画・井坂克二)まで収録しているくらいで、とにかく大坪砂男に関わるものならすべて収録しようということなのか、「ショウだけは続けろ!」も捜し出して収録した。自ら「ポー文学の伝承者」を標榜していた詩美性は微塵も感じられないし、その創作経緯からも他の大坪作品とは分けて考えるべきではないかという気もするんだけれど、ただ和田周の証言がある以上は一応は「大坪砂男の作品」には違いないんでしょう。で、この「ショウだけは続けろ!」に登場した「名探偵ソリー」が再び名(迷)推理を披露するのが「電話はお話し中」ということになる。これが53歳の作家が書いたにしては文章が若すぎるわけだけれど、それは「ショウだけは続けろ!」にも言えることで。その「ショウだけは続けろ!」は「大坪砂男の作品」と認める(あるいは、認めざるを得ない)のならば「電話はお話し中」だって同じでは? と、そういう声がどこかからともなく聞こえてくるようなこないような……? しかし、この「電話はお話し中」に限っては「大坪砂男の作品」と認めるのを留保すべき至当な理由があるのだ。それは、「ショウだけは続けろ!」とは違って、「電話はお話し中」は薔薇十字社版全集に収録されている「大坪砂男作品目録」にリストアップされているのだ。つーか、リストアップされながら、こう但し書きが付されているのだ――「本全集に収録せず」。「大坪砂男作品目録」にリストアップされながら、このような但し書きが付されているのは「電話はお話し中」以外にはない。「電話はお話し中」だけがどういうわけか(そのわけは説明されていない)全集に収録するのを見合わせるという異例の措置が取られている――ということになる。その説明されざる理由をセンサクするならば……この「電話はお話し中」は大坪砂男名義で発表されたものではあるけれど、実際には大坪砂男が書いたものではないことを薔薇十字社版全集の編者が知っていたからでは? そして、なんで薔薇十字社版全集の編者がそんなことを知っていたかといえば、その薔薇十字社版全集の編者こそは「電話はお話し中」の真の作者だったから……?